記事を開いてくださって、ありがとうございます! 私が生きてきた中で感じたこと、思ったことを言葉にして紡ごうと思います。 今回は「気にしない」ことについて✍️ -------------------- 「気にするな」と私は最近よく言われる。 私の場合、この言葉は自分にかけることもあるけど、人からかけられる方が多いと思う。自分にかける時は、人からかけられて、自分に言い聞かせるとか、自分を客観視して自分に言い聞かせるとかが多いんじゃないか、と思う。 そのうち、今回は人からかけられる場合のことについて考えたいと思う。「気にするな」と声をかけてくれる人は当たり前だが自分では無いので当事者ではない。自分でも「気にしない」ことが一番だとは思っていても、どうにもならないこともあるものだ。どうして「気にして」しまうのかと言えば、それは沢山理由があると思う。例えば、自分の倫理や理想、正義感に許容できないなど。 そもそも人は自分に余裕が無いと人のことに構っていられないんだから、気にできてるってことを良しとするべきなのだろうか?でも、気にしないようにしようとしているのに気にしてしまうのはやっぱり辛いものである。 「気にしない」ことは最適解なのだろうか。もちろん状況にもよるから、一重には言えないことが多いだろう。そもそも、「気にしない」ってなんだろう。私は「気にしない」ということは、相手に関心を持たないということであると思う。それはつまり、必要以上に関わらない、極端に言えば相手の存在を自分の意識化から排除するなどの行動になる。 無関心であることは自分の精神を壊さないためにとても大切な行為だとは思うが、特に学校や会社、家族など人と関わっていく上で、全てにおいて無関心であるのは無理がある。嫌なところだけ無関心になると言うのも難しいものだ。やっぱりどうしても目に入ってしまうし、嫌なものは敏感になりやすい。人間は少なからず誰しも「嫌われたくない」と思っているだろうから、自分から嫌われるような行為は好まない時もあるだろう。目に入ってしまうものを「気にするな」と言うのは、中々難しいことではないだろうか。 全く無関心になり、「気にしない」ということは自分にとってはとてつもなく難易度が高いので、私は最近、「今は諦める」という方法をとる。私にとって「今は」というのが大切なところで、「今はこの人のここが許容できない」「今は許せない」等と今に限定して相手に期待することをやめる、つまり諦める。「今は」ダメなだけで、「未来は」違うかもしれない。今後も永続的に許せない、諦めるとなると貫き通す私自身の負担も大きい上に、人の価値観は変わるし人も変わるものなので、変わった時にはまたその時の自分が考えればいいのである。些細なことかもしれかいが、私の中で「今は」という言葉は魔法の言葉のようになっている。 追記 「今は」の方法を私に初めて教えてくれた私の大好きな尊敬する方へ。私の中で確かに息づいて根付いて大切な考えの根幹になっています。本当にありがとう。 -------------------- ここまで読んで頂き、ありがとうございました! これは私の考えですので、こんな考えもあるんやなぁと思って頂けたなら幸いです。 良かったら皆様の考えもお聞かせください✍️!
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