ここで言うこどもは2歳児あたりを前提としています。
親はこどもがいう事を聞かなかった場合だったり、親がのぞむ都合にまっっっったくの正反対な事を永遠にし続けると、我慢の限界を超えて叱ります。私もそうです。
ふと思うと、こどもを叱るってことは、自分なりに深堀すると、こどもに対して何かしら強制的な外力により事態を収束させることと同義なんじゃないかと。それは自分に対する強制でもあるんじゃないかと。
何が言いたいかと言うと、親がこどもを叱った時点で、叱った親は親としての実力不足であるということです。親がこどもを叱る時、叱る行為そのものが親として満たさなければいけない何かの条件の不足であったことを示す結果なのだと思います。
現状の親の実力、いうならば指導力ではどうにもならない、しかし、こどもが親から見て間違ったこと(風呂に入ったあとで着替えもせずに走り回ったり、もうご飯なのに永遠とパズルやらブロックやらをやっている等)をやっている、何とかしないといけないが、どうにもならない。しかし、事態は進めないといけない。そのジレンマに耐え切れず自分の感情が爆発して叱るという選択するのだと思います。
本来ならば、こどもが我儘をいったりしたりする前に、親が何かしらの手本を何度も何度も根気よく見せてやらせて”未然に”上記のような事態を防ぐべきです。
無理なんですけどね。親は聖人君子でもありませんし。
月並みですが、親はこどもが生まれた時から親となり、親としてはこどもと同じく何もかもが初めてな経験となるわけです。もちろん自分の素質と育った環境で育児に対するトータル的な難易度は若干変化すると思いますが、すべてがうまくいくとは到底言えないわけです。
なので、別に叱ったって良いと思うわけです。ただ、叱ったことで「あー今俺(私)は叱りつけなきゃいけないくらい上手くこどもに上手く教えられんかったんだ」と自覚することで、こどもが叱られたことを”ほんの少しだけ”理解することと同じく、親として実力不足と反省を”ほんの少しだけ”理解したことになるんじゃないかなぁと。
そういった意味では、親も本質的にはこどもと一緒なのかもしれませんね。
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