精密すぎる幻覚のマリちゃんは、この間十六歳になったわたしよりも小さい。十五歳で止まってしまった時間のことをどうしても考えてしまう。もう足のサイズだって抜いてしまったに違いない──。あの時もらった靴は履き潰してしまったけれど、まだ屋根裏部屋にとっておいてある。
「バジルくん、目が覚めるといいね」
木製のベンチに並んで腰掛けたマリちゃんが最初に口を開いた。おそらく、ここに入院した人たちが機械に囲まれた潔癖で閉塞的な環境から一時的にでも逃れるために、この中庭は造られたのだろう。木の葉のざわめきくらいしか物音はしない。それがありがたい。
「うん」
「オーブリーちゃん、いつもバジルくんのことを心配してたでしょう。私たちのところに連れてきた時も……そうだよね」
「放っておいたら、こいつは壊されちゃうって思ってたのは本当。そうなってほしくなかったのも本当。でも」
一旦言葉に詰まる。ずっと見ないようにしていた本当のことと向き合って、棘だらけのそれを飲み込もうとする時はいつだって苦しい。
「わたしが寂しかったから……。自分のことを考えなくて済むように、あいつの悩みを都合よく使ってたのも、マリちゃんたちと仲良くなりたくて、ダシに使ったのも本当……」
わたしはひどいやつで、横暴で、自己中心的だったし結局ずっと変わっていない。なんなら生まれつきそうなんだとすら思っている。あんな親から生まれてきたんだから。
だから、ああやって、全て悪いのはお前だと決めつけて、何もかもの責任を勝手に押し付けることができたのだ。せっかく手を差し伸べて地獄みたいな場所から救ってやったのに、と自分を正当化までして。あれは悪い子なんだから相応の罰を受けていいんだと、神様でもないのにでしゃばったのだ。
わたしが黒く塗りつぶされたアルバムを見て害虫野郎《Creep》と呼び始めたころから、もっとひどいいじめが始まったということは噂で聞いている。そういうことを楽しむような輩には真実なんてどうでもよくて、たった一回、誰かが引き金を引けば十分なのだ。花畑に塩を撒くのと同じようなことで、一度害を受けた土は、長い間荒れたままになる。人の心もきっとそうなのだろう。
あの時にバジルを助けなければ、こんな思いはしなくて済んだのかもしれない。
でもわたしは、自分で選んでそうした。彼を拒絶した時だって同じだ。わたしがした。
最後までヒロの優しい言葉や、ケルのおせっかいを素直に受け入れられなかったわたし。正真正銘のクズだ。こんなことになるんだったら、一回だけでも昔みたいに喜んでおけばよかったのに。
昔みたいに、癇癪を起こしたわたしにバジルが言いかけたことを、ちゃんと聞いてあげればよかったのに。
「バジルはどうするつもりだったんだろう。やっぱアタシのせいでずっと……死にたかったのかな。自分が死ねば、アルバムのことも……それから……」
嫌だ。自分の声で、塞げない耳にそんなことを流し込まれるのは、嫌だ。
「……マリちゃんを、こ…………ころ、し、たのが、………………さ…………サニー、だっ、たって、しっ…………知って……たのが、自分、だけ、だった、から。……誰にも言わないで、し、死んじゃえば、みんな……………ヒロとか、ケルも、……アタシも、また……バジル抜きで、っ、サニーと、仲良くやれる、って、そんなふうに……バカ、みたいなこと……を、考えてたのかな、ずっと、」
どうして。どうして。どうして。
なんでこんなこと、聞かされなきゃいけなかったの?
「そんなわけ、ないのにぃぃぃ」
なんなんだよ。わかってたのに。誰も欠けたらダメだったって、いつもどこかでは感じていたのに。勝手に舞い上がって勝手にイラついて勝手に被害者ヅラして、やってたことはただのチンピラになって、バジルを殺しかけただけ。実際、おばあちゃんも失ってあいつは自殺しようとして、それから……それから…………。
サニーが。サニーがバジルを止めて、代わりに刺された。
そしてふたりとも、命だけは助かった。
それだけならまだ、ハッピーとは言えないまでも、グッドエンドって呼べたのかもしれない。
「なんでぇ……」
サニーは不必要なことを絶対に言わない。四年前からそういう人だった。わたしがどんなに要領を得ない支離滅裂な話を何時間しても、顔色すら変えずに全部聞いてくれた。
だから、意識が戻るまでの間、目を覚ましてほしい、マリちゃんに天国から追い返されて、またいつものように音もなくわたしの前に現れて、あの時の話の続きを聞いてほしい。それで、できれば──今度は自分の話も、わたしに聞かせてほしい──そう強く願っていたのに、それがあっけなく叶ってしまって、しかもわたしの望む形でのエンディングには、ならなかった。
「マリちゃん………なんで、死んじゃったのぉ………」
そして、どうして、わたしは生きているの? こんなに苦しいのに、いつまでこの地獄は続くの。
置いていかないで。
☆
「オーブリーちゃん、すごく頑張ったよね。私はずっと見てたよ。あなたの内側から」
「一緒に髪を染める約束、守ってくれたでしょ。私のリボンも大切に使ってくれてる。バットの振り方とか、フォークとナイフの使い方とか、手を出しそうになったら、一瞬でいいからそうしたらその日をいい気分で過ごせそうか考えるとか……私がお節介で教えたことだって、ひとつひとつ、きちんと覚えてる」
「バジルくんのアルバムだって、あんなに綺麗にしてくれたじゃない。大事なものを守りたいと思っても、それをきちんとやり遂げられらない人もたくさんいるの。だけどあなたは、取り戻そうと努力し続けてきたことの、端っこをもう掴んだんだよ。思っていたのとは違うかもしれなくても」
「それにね、もしも今までやってきたことの中に、心ではよくないと感じる考えだったり、やらなければよかったって思うことが混じっていたとしても、そんなに悪いことじゃないんじゃないかなあ? だって、その時はそうするのが正しかったのかもしれないじゃない?」
「まだ生きているのなら、もう一度挑めばいいの。準備にいくら時間がかかっても、またよくない結果になるかもしれなくても、続ければいいの。あなたには、それができる」
ねえ、マリちゃん、これからも一緒にいてくれる?
「もちろんだよ。だってもう、私が遺したものを、あなたは自分のものにしているから」
「もう靴をあげたりはできないけれど、一緒に選んであげることはできるからね」
そうだったんだ。
「だからオーブリーちゃんは大丈夫。私の自慢の妹だもん」
☆
「…………おい。おい!」
乱暴に肩を揺すられて飛び起きる。気付かないうちにベンチに座ったまま、眠ってしまっていたようだった。
周りはすっかり暗くなっていて、明るい星がもう瞬き始めていた。少し寒さを感じて身震いする。
デカすぎる両手と声。目の前にいるのはケルだった。あの気色の悪い媚びた笑顔は被っていない。
「よかったあ……変なこと、考えてはなかったんだ……どこいっちまったんだと思ってた……」
まさか、ずっとわたしを探してた? へなへなとその場に脱力する大男は、よく見れば疲れ切っている。
もしかするとわたしよりも傷ついていたかもしれないのに、いや、それをわかっていたから夢中で走って感じないようにしたのか。こいつにはそういう、自分を後回しにすることで自我を保とうとするところがある。わたしはそんな甘いところが気に入らなくて、必要以上にキツい言葉をぶつけてしまうことが多かった。
それまで暗い洞窟で過ごしていたわたしには、ケルの曇りのない善意が眩しすぎてずっと怯えていたのだ。
「こんな時でも、他人の心配してたの? ヤバすぎ」
「俺もそう思う」
ああ、わたしに反論できないってことは、相当参っているな。当たり前だけど。
本当にこいつは、と言いかけたところで重要なことに思い当たる。きっと今、一番難しい状況のはず……。
「そうだ、ヒロは……」
「あいつは先に帰るってだけ言って、お前の後に出てったぜ。さっき母さんに電話して確認もしたから、とりあえずは……」
ケルはそこまで言って、両手で顔を覆った。自分があの後どうしたかは多分、言わないだろう。それがケルという男だ。どうしようもないお人よしのバカだから、わたしを不安にさせることができない。茶化せないことを表現するのを極端に嫌うのだ。
ケルがそういうことを話せる相手は、この世にひとりしかいないはずだ。そして、今やもう、いなくなってしまった。
その気持ちだけはよくわかる。癪だけど。
静かなケルを横目にしばらく夜風を受けながら、さっきまで見ていた、──おそらくは夢、のことを考える。
マリちゃんは、わたしに何を望んでいるの?
今、わたしがケルにできること……。
「ねえ、アタシたち、帰った方がよさそうだね」
ケルが弱々しくこちらに顔を向ける。ベンチのそばに建てられている街灯の灯りで、彼の目元が光っていたことに気がつく。
こいつの泣き顔については、わたしに殴られて泣き叫んでいる姿ばかりしか記憶になかったから、想定外に完成度の高い輪郭を見て、少し驚いてしまった。黙っていればいくらでもモテるだろうに……それができないところがらしいとも言えるんだけど。
「そう……だよな。俺たちがここに居ても、何にもならねえもんな……」
うわごとのように呟き、風に揺られる葦のようにふらふらと歩き出す姿は、おおよそ昨日までと同一人物とは思えないくらい、痛々しくて、か弱かった。チビで非力だった子供の頃にも見せたことがないような、完全に心が折れてしまった姿だった。
「ちょっと、待ちなよ……一緒に帰ろう」
今にも倒れそうなケルの腕を捕まえて、言うべきだと直感した言葉を投げかけた。誰かをひとりにさせて後悔するのはもうたくさんだ。せめてわたしの見ている前では、こいつにはバカでいてほしい。
ケルの場合、これからもヒロとの生活が待っている。マリちゃんの時とは状況が違うのだ。ただ悲しむことができる方がずっとマシだと思う日が来るなんて。
わたしに兄弟は居ないけど、血の繋がった相手に対して常に緊張状態で暮らす、という辛さならよく知っている。そういう時の己との付き合い方は、きっとわたしや、わたしの新しい友達の方が詳しいだろう。
四年前の罪滅ぼし、とまではいかないかもしれなくても。
「なんつうか…………ありがとな」
「どういたしまして」
そのあとは大した会話はしていない。
気がつくと痩せ細った月明かりの下、ゴミ屋敷の前にいて、いつも通り廃人同然の母親を無視して屋根裏部屋に入った。帰りを待ってくれていたうさぴょんを抱き上げ、その暖かさをじっくり感じた後で、マットレスが完全にダメになっているベッドに転がった。
また新しい日々が来る。わたしたちの心を置き去りにして。
☆
ほとんど記憶がない数日を過ごして、やっと目の前に横たわっている現実へとピントが合い始めた日だった。
キムにまだ顔色が悪い、と言われて溜まり場からゴミ屋敷に戻ってくると、誰かがいる。女……ポリーだ。確か、バジルのケアテイカーの。
誰も返事なんかしないガタガタのドアの前で途方に暮れていたらしく、わたしに気がつくと安心したようににっこりして、歩み寄ってくる。
「会えてよかった。バジルからあなたに、伝えてほしいって頼まれたことがあって」
「あいつ、意識戻ったの⁉」
自分でも嬉しいのか、焦りなのか区別できない感情が大声になってしまった。後ろでゴミ箱を狙っていたらしい野良猫が飛び退いて、草むらに消えていった。
「ええ……あなたたちが帰ったあと、その日のうちに意識は回復したみたいで。それで、今も私がご両親と連絡をとって代理で通ってるんだけど。昨日バジルが、サニーの退院日が決まったからみんなに伝えてあげて、って……サニー本人が教えてくれたみたい」
「……そう」
退院日が決まり、それによって延期になっていた引越しもようやく進むわけだ。都会へ向かう前に一度、マリちゃんの墓参りも兼ねて、忘れ物を取りにくるらしい。
バジルは一体、わたしたちに何を期待したのだろう。彼の考えを汲み取るのは、付き合いが長くても難しい。
そして当然、気になることもある。
「ケルとヒロには伝えたの?」
「ここに来る前に。元気ではなかったけど聞いてくれたわ。ヒロは出てこなかったけど……」
「そっか……ありがとう、ポリー。バジルのお願い聞いてくれて」
わたしの言葉を聞いたポリーは少し涙ぐんだ。
「あなたたちって、昔は本当に仲が良かったんだってね。バジルがやっと話してくれるようになったの……やってしまったことの代償は大きいけれど、きっとあの子の中では……オーブリー、あなたはまだ大切な友達なんだね」
バジルはわたしなんかよりも、ずっと強かった。
強かったから、普通の人が助けを求め、怯むような場面でも自分ができることがあればやれてしまう。できるできないの話ではなく、もっと根本的に彼の中には強大なルールがあって、それを守ることを第一にしている、それだけのことだったのだ。
「わたしからもバジルに伝えてほしい……お大事に、って」
「ありがとう。きっと喜ぶと思う」
ポリーとは笑って別れた。
あいつが出てきたら、今度こそ直接謝ろう。
今日、サニーが本当にこの町を出ていく。全ての悲しみをここに残して。
結局私は会わないことにした。
あの日告白を受けた瞬間に全身を支配した、「殺してやる」という感情。反射的に胸ぐらを掴んで引きずり倒したサニーと目が合った時、まだわたしの中に生きていた、彼に嫌われたくないという別の想いに気付いてしまったから、本当にギリギリのところで逃げ出すことができたのだ。
まだ、何をしでかすかわからない自分のことが恐ろしい。
マリちゃんが居なくなったことを認めるまでに四年もかかったのに、その上で犯人と向き合うには──わからない。もしかしたら、途方もない年月がかかっても、無理かもしれない。
今日はひとりになりたいことをキムに伝えると、「任せな」とわたしの背中を思い切り叩いて、取り巻きたちを連れてどこかへ行ってくれた。
考えたくはないが、もし彼女が居なかったとしたら、今頃どうなっていたのだろう。
マリちゃんと家の外での居場所を失いますます不安定になったわたしと、それに感化されてもはや制御不能になった母親を支えられるほどの力は父には無かったらしい。
何の意味もない謝罪。それが、父からわたしへ最後にかけられた言葉だった。
失うものがひとつも無くなったことで、わたしはバジルと出会う前よりもひどく荒れた。同レベルのクズが周りに集まってきて、腕っぷしの強さを利用されることもあった。全てがどうでもよくて、敵だった。
キムは、そんな状態でもわたしのことを恐れなかったのだ。こんな小さな町だから面識自体は前からあったのだけど、髪の脱色に失敗した日に声をかけられたのが今の付き合いの始まりだった。本人曰く「チャンスを待ってた」らしいが、今やわたしの命綱のような存在にまでなってしまった。感謝してもしきれない。
だからこそ過去の友達の話なんてしない方がいいと考えていたのだけど、これも独りよがりだったのかもしれない、そんなふうに思い始めてもいる。
いや、今じゃなくても、いつかは。
こういう時に行きたい場所はほとんど決まっている。
四年前と同じように、全く整備されていない獣道の向こうに、それはある。町の中にあって、どこでもない場所と言ってよかった。
その湖の桟橋に、見覚えのある後ろ姿の先客がいた。
「……それでさあ。あいつ、平気で道路飛び出したり、なんもないところジーッと見たりしてさ。結構ヤバいなとは思ってたんだけど」
誰かと話している。少しずつ近付くと、その相手が猫であることがわかった。
「……ひでえよなあ、ちょっとワルくなってたって、友達は友達じゃんか……俺だって、見て見ぬふりしてたから、人のこと言えねえんだけどさ。何も……ナイフは……ダメだよな。マジで焦った。俺が知ってるサニーじゃない気がして怖かった」
あの日の傷はまだ完全には癒えていない。ショックが大きすぎて、その日は何も食べられなかったくらいだった。
ナイフをわたしに向けて迷いなく振った時のサニーは、確かにただ痩せているとか血色が悪いとかそういうのを越えて、すでに人間ではなくなってしまったような不気味さを放っていて──開ききった瞳孔の中に広がっていた闇を思い出すと寒気がする。
だけど次の日、また次の日と顔を合わせるたびに、〝彼〟は記憶の中のサニーと一致していった。わたしがまた勘違いをして、無駄な期待をしてしまうくらいには、サニーだった。
そしておそらく、サニーをあの果てのない暗闇から取り戻してくれたのはケルだった、と思う。
猫はオレンジ色の毛並みで虎柄だった。ガリガリに痩せていて、あまり猫の社会でやっていけている様子ではないように思った。
みんなと仲直りした日、マリちゃんのお墓の前でピクニックをしていた時、サニーが魚を投げてやっていた猫かもしれない。野良のはずだが、ケルが食べ物を持っている様子がなくても離れない。ただじっと、耳をケルの方に向けて、視線は湖面に投げ出していた。
☆
「でもさ、俺、あいつの顔見れて、本当に嬉しかったんだ。……いろいろあって練習してなかった時期もあったし、正直バスケ続けるなら腹括んなきゃ、ってレベルなんだけども……俺がバスケやりたいって言い出した時さ、兄貴にも母さんにもどうせ長続きしないでしょ! って冗談かまされちゃって……ちょっとだけキツかったんだけどさ……うわー俺信用ねー! まあでもそうだよな、って。前科、死ぬほどあるからな。あ、ここ笑うところな? で、そんなだから人に言いたくなくなるわけよ。ガキだったし意地になっちゃったんだろうな。でもサニーはなんか……どこ行くにも一緒だったし、あんまり考えないでシュート練付き合わせてた。興味ないならないで、勝手に別のことやっててくれたらいいし。でもさー。あいつ、ずっと見てるんだ。ちっこい俺が無理してスリーポイント決めようとしてるの。それって結構、嬉しかったんだよな。こいつは俺のファン、味方になってくれるんだなって。だからサニーが見ててくれる間は絶対続けなきゃ、ってそう思ってたんだよね。でも──」
「にゃあ」
オレンジの猫が突然振り返り、わたしを見て鳴いた。言葉に詰まりかけていたケルも、猫の視線の先を追って、しまったという顔をする。それはイタズラを見られた時の反応そのままだったから、つい懐かしくなってしまった。
「オーブリー、いつからいたの⁉」
「んー、結構前から。ちょっと散歩したくて」
「マジかよ……」
本当に知られたくないことだったのか、ケルは頭を抱えた。多分わたしと同じ理由でここに来て、ちょうど話を聞いてくれる相手と出会ってしまったのだろう。
ここで踊った日のことを知られたとしたら、多分わたしも同じ反応をする。秘密というのはそういうものだ。
「……その子、似てるよね。誰かに」
「ああ……骨と皮しかねえしな……」
「そこかよ」
思わず笑ってしまうと、ケルがしてやったりな顔をする。猫は嫌がるそぶりも見せず、大きな手で、その半分以下しかないサイズの頭を撫でられていた。
「サニーが出てきてからさ、いつも行き先に居たんだ。こいつが。……メシ持ってなくてごめんな、わざわざ魚買ってきてくれるやつが今、居なくってさ」
風が吹いてきていた。湖が煌めいている。
きっと今頃、サニーはあの空っぽの家に戻っている。忘れ物、とは何だったのだろう。マリちゃんのお墓には、どんな気持ちで向かったのだろう。
また、今しかない、と思った。
わたしができないことでも、ケルならやれる──かもしれない。
「あんたはさ、サニーに会わないの」
ケルは黙ってしまった。それを考えないためにここに来ていたのに、よりによってわたしがやって来て、その穏やかな逃避行をぶっ壊してしまったのだ。混乱しているのか、それともある程度の覚悟があったのか、は読み取れなかった。猫がじっとケルの顔を見ている。
「お前はどうなんだよ、オーブリー」
返事が苛立ちを含んでいる。いいよ。その挑発には乗ってやる。
「今、このままの気持ちで会ったら……きっとサニーを殺す。殺しちゃう」
嘘も偽りもないわたしの感情。
ケルはあの日、サニーの告白を受けた直後と同じ顔をした。それは恐れ、の顔だ。こいつは今まで逃げおおせることに成功してきたそれと、とうとう向かい合わなければいけない時が来たことを、おそらく感じ取っている。
「何……言ってんだ? お前もちょっと冷静になれよ。そんなことしたって、マリは──」
「わかってるんだよ。頭では。でもアタシはあんたと違ってお利口さんじゃないから。あの日のアタシのこと、見たでしょ……相手がもしもサニーじゃなかったら、自分の指が砕けたとしても死ぬまで殴り続けてたよ。ここでバジルを突き落とした時だってそうだった。アタシはそういう人間なの。まだこの気持ちをコントロールできない。方法を見つけていないから」
ケルが苦しそうに唸って口を真一文字に結んだ。理解しろとは思わない。あんたみたいな優しい人には、こんなケダモノじみた衝動は解ってほしくない。
「だからアタシは会えないよ……今は無理。会いたくない……サニーまで死ぬのは、嫌だから」
これは真実だ。殺したいのも、生きていてほしいのも、両方本物のわたしの想いだ。
さあ、ケル。あんたは?
優しいあんたなら、四年間を待てた人間なら──どうするの。教えてほしい。
これまでと同じように。わたしたちがこれから、暗闇だと分かりきっている道を歩いていくための道標を。
「だってさあ! どうすりゃいいんだ⁉ 俺だって……時間が欲しいよ、まだ何も……自分が何したらいいのか、どうしたいのかもぜんっぜんわかんねえ……わかんねえんだよ……」
──ケルは標準のはるか上と言っていい顔面をぐしゃりと歪めていて、涙でいっぱいになった目を狭めて、絶叫した。大きな息継ぎで咽せながら、小さな子供のように喚き続ける。
「俺、やっぱバカだ。バカすぎる。何にもわかってないのに……なんとかなるって……またあの頃みたいに……みんなでバカやれるようになるって、そんなの……」
自分が一番言いたいことがうまく出てこなくて苦しそうにするところも、あの頃のままだ。
「サニーのことだったら、なんでもわかってやれるつもりだったのに、俺、」
ああ、やっぱりそうなんだね──あんたは、今でもわかってやりたいんだ。サニーがどうしてそんなことをして、誰にも言い出せなかったことをずっと抱え続けて、何を考えていたのかを。
安心した。ケルがケルのままでいてくれて、良かった。まだ希望を持てるかもしれない。
「はあ」
世話が焼けるな、と思うとため息が出た。ケルがどうしたいのか、はもう明確だ。
こいつにわたしができること? そんなの、ずっと前から決まってる。いつもと同じように、火を焚べてやるだけでいい。
「単純な頭で無駄にこねくり回してメソメソしたところで、時間は待ってくれない。アンタの方がよっぽどわかってると思ってたけど」
「……何が言いたいんだよ」
もう少しだ。わたしは、あんたには甘くならない。そんなポジションじゃない。昔のように、心が吐き出したことをそのまま吹き付ける。
「その足の速さ、そろそろ逃げ以外に使ったらどうなんだよ? ってこと。バスケのことはよく知らないけど、そもそもボールを追いかけなきゃ自分のものにできないでしょ? 自分のものにして、ゴールにぶち込まなきゃ試合に勝つチャンスすらない。違う?」
ケルの顔にみるみる闘志が戻ってくる。
ムカつく? 悔しい? 何でもいいでしょ。ホームベースに走る理由なんて。
「バカにしかできないことだってあるって、感心してたこともあったんだけど──これ以上ガッカリさせるんじゃねーよ、モヤシ野郎」
行けよ。あんたの〝相棒《Buddy》〟でしょ——
錆びついたエンジンをかけるコツは、癖を忘れないこと、だ。
次の瞬間、ケルは凄まじい速さで走り去った。何故か、やたらおとなしいオレンジの猫を脇に抱えて。
わたしは湖畔に座り込む。まだこっちのターンじゃない。
ケルがやることはいつも突拍子がないし、毎回のように石頭なわたしをイラつかせるけれど、彼なりに考えてのことがほとんどだから──本人が気が付いていないとしても──大逆転の一手になり得るのかもしれない。
静かになった湖の向こう側に、いつかみんなで作って遊んだ風車がまだ残っていることに気がついた。長い間日に晒されて色褪せた、たぶんもともと鮮やかなオレンジだったと思われるひとつが、勢いよく回っていた。
その後、バスケには引き分けがないことを知った。どちらかが勝つまで、五分の延長戦を繰り返すのだそうだ。
「あのさぁ」
わたしのアルバイトが終わるまで待っていてくれたキムが、アップルジュースのストローを弄びながら、いつになく真剣な口調で切り出した。
「家、出ようかと思ってんだよね。ちょっとアート系に興味あって」
「ああ、いいんじゃない? あんた、センスめちゃくちゃいいし」
キムは古着を組み合わせたお洒落がとても上手かったし、ワンデイカラーのヘアアレンジなんかも得意でよくお世話になっていた。エンジェルが「最近よくキムが家に来て、姉ちゃんと話してる。おかげでやらかしても怒鳴られる回数が減って助かってる」とか言ってたな。アートスクールの受け方でも調べてたのか。
「そんでさ、親は何とか説得したわけ。ちょっと大変だったけど、ヴァンスがめっちゃ機嫌とってくれて、ギリ行けたわ」
「結構お母さんきついもんなあ、そっち系だと」
キムの両親は、彼女が赤ん坊の頃に離婚している。兄のヴァンスともども彼女の親権を得た母親はザ・教育ママという感じの気位の高い美人でお金にも困っていない様子だったが、一般的な〝母親〟と比べても、もう少しヒステリックだった。
対照的に典型的アメリカ人男性であるおおらかな父親は、わたしと同じ通りに家があった。つまり、貧乏人。一体どうやってふたりが出会ったのか、いつか聞いてみたいと思っていたんだった。それはともかく。
「お父さんは味方してくれてるんでしょ?」
「まあね。あの人、ヴァンスと私にはゲロ甘だもん。金も発言権もないからかわいそうだけど」
それは事実ではあるのだが、見るからに人が良くて、子供たちへの愛を隠さないあの父親のことを思うと若干不憫になる言い方だ。それはわたしがそういうものに飢えているせいかもしれないが。
「応援してくれる人がいるかいないかって結構重要だよ」
「それはそう。んーー、で、ここからが本題なんだけど、」
キムはアップルジュースのグラスに視線を落としてそう始めると、よく似合っているメガネの真っ赤なフレームの隙間から、裸眼でわたしに上目遣いを送り、続きをいつもの軽い早口で吐き出した。
「一緒に住まない? ルームシェア。ここを出て、さ。あんた、今日で十八歳だしもう大人ってことで」
キムには、全てを話した。サニーに何かを吹き込まれたらしいケルがバスケに本気になって、奇跡みたいな試合結果が地元の新聞を飾ったり、一方でわたしが退院してきたバジルの秘密を知って、一発殴ってしまった頃に。わたしたち六人の始まりから、そして、あの終わりまで。知っているべきだと思ったから。
だからこの提案は、わたしのためにやっているのがわかる。キムは善い人なのだ。
嬉しい。でも。
「あのー……本当に、泣いちゃいそうなくらい、マジでクソ嬉しいんだけどさ……」
わたしの家、つまり、忌々しいゴミ屋敷には、弱りきっているとはいえ血縁上の母親がまだ居るのだ。わたしをこの呪われた片田舎に縛りつける錘は、結局まだ存在し続けている。
「逃げちゃえよ」
キムはそう吐き捨てて、追加注文したヒーローサンドを思い切り頬張った。
「ずっとここにいて、母親とおんなじようになって終わるのもあんたの自由。だけど私としてはさ、あんたにそうなってほしくないわけ。できることはするからさ」
「いいのかな、それって」
思わず弱気なことを口走った瞬間、キムがバチン! と手を打って、汚れたダイナーの床に置いていた、大きなプレゼント包装の荷物を押し付けてきた。少し空いた隙間から見えたのは、まあまあいい作りで、ピンクのカゴ編みのペットキャリーバッグだった。
「これ、今年の誕プレね。フーリガンズの全員から」
☆
今日は早めに上がれたし、初夏を迎えて日が長くなっているから外はまだ明るい。
どんよりとした曇り空の下を、うさぴょん用のキャリーを持ったまま歩く。ゴミ屋敷の前を通り過ぎる。
今日も教会の周りは静かで、余計なものがないから落ち着ける。わたしの非行がかなり落ち着き、真面目にアルバイトを掛け持ちして貯金をしだしたことを、馴染みの牧師はとても喜んでくれた。そういえば彼もハルバルにやって来てから長い時間を過ごしているのだなあ、と思う。
教会の奥、墓地に入るとさらに一段と空気が澄んでいくような気がする。さっき買った白いカーネーションを持って、通い慣れた墓石の前に立つ。少しだけ話をして、すぐに帰ろうと思っていた。足元に目をやって──思わず二度見する。
新鮮なスズランの生花が供えてある。
スズランは五月の下旬では遅いくらいの花だ。何より、わたし以外の誰かが今日、つまり五月二十三日にここに来る理由がない。そんなことをする人間には──数人しか心当たりがない。
にわかに雨粒がいくつか落ちて来た。手がかりを探してスズランを拾い上げ、調べる。と言っても、わたしの中ではほとんど目星がついていて、正直そうであってほしい、と期待してしまっている……。
外れて落ちていたメッセージカードを見つけ、胸騒ぎを押さえつけて読む。
“ I still know the way back home《まだ帰り道は分かってる》 “
見間違うわけがない。決して上手くはない、わたしがかわいいって笑ったら耳を赤くして照れていた、震えるように歪んだ書き文字。
間違いない。今、この町に帰ってきている。そしておそらくはあの場所に、いる。
大切なキャリーをマリちゃんに預け、にわか雨の中を、北の湖に向かって全力で走った。
わたしの番が来た、かもしれないから。
☆
およそ二年という時間は確かにわたしたちを多少は癒した。でも、起こってしまった事実が絶対に変わらないように、内面に受けた衝撃は心をひしゃげさせてしまって、元の形には戻らなかった。
みんなそれぞれあの日のことを記憶していて、そのことで傷付いたり、悩んだり、怒ったりした。
それらは全て、どこかに消えてなくなったりなんかしない。ずっとわたしたちの中にあって、薄れたり遠くなったりしながら存在し続けている。
そして、きっとあの人の場合はその全てが鮮明すぎるままなのだろう。
あの時言われた言葉の意味を、わたしは勘違いしていた。
彼の脅威的な記憶力は、そのまま鋭すぎる刃として自分を傷つけ続けるのだ。いつまでも鈍ることのない凶器が自分の中にあるというのは、とても恐ろしいことだと思う。わたしならきっと耐えられない。
もっと早く気付いていれば良かった。わたしは自分自身の愚かな恋に酔っていて、それが勘違いだったことを認められなかったのだ。
公園の先の道は、未だ整備されず放棄されている。最近再開発が進んでいるから、もしかしたらそのうちここも埋め立てられて無くなってしまうのかもしれない。息を切らしながら伸び放題の木立をくぐる。前に来た時よりも窮屈な気がしたけれど、わたしと木のどちらが育ったのだろうか。今は考えている暇はない。
本降りになってきた雨の中で、湖面が雨粒を受けて跳ね回っている。
そして老朽化が進んだ桟橋に、黒い人影が座っていた。心がざわめくのがわかる。あの日わたしから理性を奪った二つの感情が、再び燃え上がるのを感じる。
稲妻。
轟音の後、空が真っ白に光って思わず声を出してしまった。近くに落ちたらしかった。
その真っ黒な髪、華奢な背筋、白すぎる肌色も、全てがひとつの答えを示している。相変わらず服装まで黒っぽくて、彼だけが現実という背景から浮いているように見える。
たったひとつ記憶と違っていたのは、振り返ったその顔に、本人の印象に合わせたオーダーメイドだろうと思われる、つるが細いサングラスが乗っかっていることだった。それでもスモークグレーのレンズの奥に、マリちゃんと同じ形の目が透けている。
右目に残ったはずの傷は、ここからだとよくわからない。
「何で今日なの」
「覚えてたから」
雨音の間を縫って、距離をとったまま奇妙な大声のキャッチボールを続ける。
「意味わかんないよ」
「意味は……考えてなかった」
「ねえ、アンタってこういう意味のないことでも、ずっと覚えてるの?」
「後で思い出そうと思えば。あんまり興味がないことは、はっきり見えないこともあるけど」
そう言いながら立ち上がった彼が、一歩を踏み出した。わたしに向かって。
反射的に、思わず咆哮する。
「待って!」
ずっとこの時を待っていたような気がする。でも、手が届くほど近くには……来ないでほしい。
怖い。自分がどうなるか全く予想がつかないし、今周りにわたしを止めてくれる人間はいないのだ。
「それ以上近付かないで。アタシに殺されたくなかったら……またバジルの時みたいに……病院の時みたいになるかもしれない。ヒロもケルも居ないんだよ、ここには」
「オーブリー、相変わらず真面目だね。変わってなくて良かった」
「そうだよ。あの日の、バカで乱暴な女のままなんだよ、だから……」
久しぶりの土砂降りがすぐそこまで迫ってきているのがわかる。もう全身がずぶ濡れだから、自分の涙と雨の区別ができない。
──どうしよう。あの人は、サニーは、精一杯の威嚇では止まってくれなかった。
もう、目の前に立っている。あの時にわたしよりも低かった身長が少し伸びたようで、お互いの視線のバランスが十二歳の頃と同じように戻っていることに、この時気がついた。そうだ、血色も良くなっている。
「何、デカくなってんの……」
「……君に言われた通りにしたからかも」
「健康になってんじゃねえよ……」
急にバカバカしくなってきた。第一、大雨の中で見つめあっているこの状況がバカすぎる。もはやシリアスとは呼べなくなった湿度百パーセントの空気を、先に言葉に変えたのはサニーの方だった。
「今からすごくバカみたいなこと言うよ」
「……勝手にしろよ」
「オーブリー、今も踊れる?」
覚えている。稚拙で下手くそなステップも、それまでは知らなかった種類の幸福というものの感触も。ガラスのショウケースの向こう側に一瞬でも踏み入れたあの時のことを、決して誰にも話さず、何度夢に見たかわからないくらい大事にしていたから。
だけど、もう二度と触れることはないだろうと思っていたものが魔法のように目の前に現れたことを素直に喜べるほど、わたしは単純でいられなくなって久しい。
「ねえ、マジで殴っていい?」
「今日は雨だから、君が殺したがってる人はここに居ないよ」
《 “Now it’s rainy, not sunny here.”》
彼はイタズラっぽくふざけた後、得意げに口角を上げて笑った。そんな顔もできるんだと、この時初めて知った。
ああ、またそうやって、無防備に、ぎりぎり届きそうなところで、思わず手を伸ばしたくなるようなことをする——壊さないように上手く捕まえていられるか、不安で仕方なくなる。
わたしは彼のベストにはなり得ない。お互いにそれは分かっているはずだ。それなのに何故、胸が高鳴ってしまうのだろう。
「本っ当にバカみたい……」
どうやらこの喧嘩は買うしかなさそうだ。長い戦いになるだろう。
お互いの人生をかけて、延長が何回あるのか、引き分けがあるかどうかも一切わからない、不毛な試合をするのだ。わたしたちは不器用すぎる。
それでも挑むことをやめなければ、もしかすると、いつか──。
「アタシのことを待つつもりなら、相当な覚悟しとけよ。雨があがったらすぐに帰って」
「待つよ。君が僕を見ても大丈夫になるまで。今日のことは、いつでも思い出せるから」
お辞儀をされて、仕方なく頷く。差し出された手はあの頃よりも骨っぽくなっていて、暖かかった。
今日まで生きていて良かった。
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