前回の般若心経の現代語訳を読んで理解できた方はいますか。何が何だか分からなかったのではないでしょうか。実は、般若心経こそ聖典が「オマジナイ化」することで、存在価値を失った最も極端な例です。
般若心経は、決して唱えれば効力のある「オマジナイ」ではありません。観音が、どのように瞑想すれば般若波羅蜜多(マインドフルネス)に至ることができたかを舎利子(仏弟子のシャーリープトラ)に語る形で説明した瞑想のためのマニュアルだったのです。
マインドフルネスの解説書を読んでから、般若心経をもう一度読んでください。マインドフルネスに至る方法として記載されている瞑想法と般若心経に書かれた内容が驚くほど一致していることに気付きませんか。マインドフルネスに至るマニュアルとして、般若心経を翻訳しなおしてみます。
観音は、般若波羅蜜(瞑想=マインドフルネスに入る修行)を行って覚醒に至り、般若波羅蜜多に至る方法を見極めました。
人には五蘊(五つの人の持つ感覚や思考)がありますが、人の持つ感覚や思考が「空」であることを理解し、すべての感覚を「空」にすることにより、すべての苦しみを無くすことができます。
シャーリープトラよ、私達が経験できることはすべては実態がない「空」です。心を「空」にすることが私達が経験できるすべてのことです。(瞑想する中では)すべてが「空」であることを悟り、経験できるすべてのことを「空」と理解して、囚われずに自由でなければなりません。
私達の感じたり考えたりといった行動(受想行識)も、同じ様に「空」であるので、「空」であることを理解し囚われないようにしなければなりません。
シャーリープトラよ、世の中のことはすべて空なのだから、生じたり滅したりすることに囚われる必要がなく、汚れていたり清らかであったりすることに囚われる必要もありません。増えたり減ったりとすることにも囚われてなりません。(すべての物欲から離れる必要があります。)
すべてに実態がなく空であるので、感じたり考えたりといった行動も無として囚われてはいけません。聞いたり味わったりする感覚も、聞こえたり匂ったり触ったりすることも、すべての感覚に囚われてはなりません。
(すべての感覚から離れる必要があります。)
私達が認識していることも、私達が認識している対象も、認識している私達の存在自体も実態がない「無」なので、囚われてはなりません。
(瞑想している自分からも離れ、無我の境地になる必要があります。)
仏教では、煩悩に囚われている状態(無明)を離れて煩悩の束縛から自由になることを教えていますが、(瞑想する中では)そのことにも囚われてはいけません。老いたり死んだりという人が避けることができない苦しみにも囚われてはいけません。すべてが因縁によって生じるという教えについても、囚われてはいけません。四諦(苦しみの原因と結果、幸せの原因と結果)という因果の教えについても囚われてはいけません。
(瞑想を行う上では、仏教の根本的な教えにも囚われてはいけません。)
悟りを開いた者(菩提薩埵)は、瞑想によってマインドフルネス(般若波羅蜜)の状態になるので、心に一切の煩悩がなくなります。煩悩が無くなるので、恐怖がなくなります。すべての某脳や頭に浮かぶ考えからも自由になって究極の涅槃の状態に至ります。
過去、現在、未来の一切の覚醒者(三世諸仏)は、このようにして悟りを開き覚醒者になられたのです。
それゆえに知るべきです。この般若心経は、悟りに至る真の方法です。明らかな悟りに至る方法です。この上のない悟りに至る方法です。並ぶことのない悟りに至る方法です。この方法を実践することで、すべての苦しみを除くことができます。
ゆえに、ここに宣言します。
「(般若心経を実践することにより)行こう、さあ行こう、迷いのない涅槃に行こう。」
※般若心経は、大乗仏教のお経とされていますが、内容を見ると人が心の雑念を払い、無我の境地に至ることで「悟り」に至る方法を分かりやすく説明した小乗仏教の教え(マニュアル)であることがわかります。人が仏になる方法が忘れ去られ仏が偶像化された後に、仏になるためのマニュアルであったことが忘れられ単なる「オマジナイの言葉」になってしまったのでしょう。
コメントするにはログインが必要です