私が伝えている真実は宗教ではなく客観的な事実であり、必要なのは信じることではなく、理性的に知識として理解して自分で経験して確かめることだと繰り返し説明してきました。少し分かりにくい点があったかもしれないので、もう少し踏み込んで説明します。
宇宙の成り立ちや、地球環境と生命の成り立ちなど、今日の科学は宇宙が偶然に出来上がったにしては、あまりにも生命と私達人類に都合がよくできていることを明らかにしています。
今日の宇宙と生命を生み出した不可思議な現象には、大いなる意思が働いているとしか考えられません。生命を生み出し発展させ、人類を生み・育てた意思です。この意思は人類が誕生する遥か以前から存在して、宇宙を今日の形にしてきました。
この大いなる意思は宇宙のあらゆる物に働き、生きとし生きるものすべてを使って今日も世界を築き続けています。私達一人ひとりも、この意思によって生み出された創造物であり、創造物の一部、いわば細胞として、世界を創造するために働いているのです。
人類は、文明の初期からこの生命を授け生み出した大いなる意思を感じ取り、「神」として怖れ・信仰してきました。人類は文明の発達に伴い、この意思が自然崇拝の対象としてきた自然物や、父母や祖先の霊に由来する祖霊ではなく、大いなる意思であることを理解するようになり、「唯一の絶対神」として認識できるようになりました。
ユダヤ教を始祖に持つキリスト教やイスラム教も、ユダヤ教の「有ってある神」を信仰しており、同じ存在を「絶対神」として信仰の対象としています。仏教には「神」の概念はありませんが、この大いなる意思に心を同調させて一体になることを涅槃として、涅槃に至ることを修行の目標としていました。
神の存在は、「預言者」や偉大な宗教指導者を通して、その次代の民衆に伝えられてきました。大いなる存在は言葉で説明するのが難しい概念であり現象であるため、預言者等は、その次代の社会や文化に依る言葉で、神について説明してきました。人類が信仰の対象としていた様々な神は、基本的に同じ現象を、歴史や文化の違いによって異なる言語や表現で表してきたものです。
預言者や偉大な宗教指導者が信仰する者に求めているのは「敬虔な祈り」です。敬虔な祈りとは、自分自身の欲望からなる雑念を心から追い出して、一心に「大いなる存在」に心を澄ますことです。
私達自身が創造主による創造物であるため、心の奥底で「大いなる存在」に繋がっています。そのため自分の欲望からくる雑念を払って、内なる「大いなる存在」に心を澄ますことで、創造主に心の波長を合わせることができます。
瞑想とは、「敬虔な祈り」から宗教的・儀式的な側面を取り払って、雑念を払い、「大いなる存在」に波長を合わせる技術です。瞑想は技術であり、テクニックであるため、誰でも「敬虔な祈り」を行うことができ、「大いなる存在」を心の中に実感する体験を持てます。
今日の宗教は理性的に理解すべき知識となり、信仰は瞑想という技術となって、自らが体験して確かめるべきものとなったのです。私達は宗教対立というくびきから卒業しなければなりません。
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