「もしもし、朝早くにごめんなさい」
随分久しぶりに聞いた声だった。一昔前にはよく子供たちを預かってもらっていて、それなりにお喋りだってしていた。あの頃の溌剌として活力に満ちていたのとは全く違う調子で——いいや。一時、こんな風になっていたことはあった。
二度と思い出したくもない、私たち家族の全てが壊れてしまった日……あれからしばらくは、この人もこうだった。ひどい混乱と焦りが元々高い声を震えさせ、異常事態が起きていることをそれだけで伝えてくる。
「私も全然、よくわかっていないんだけど……ヒロからついさっき連絡があって。お泊まり中にサニーが大怪我したから救急車呼んで、ケルと一緒に付き添いで病院行くって……」
言われている言葉が、何も頭に入ってこない。
夜が明けたら迎えに行くはずだった。私に残された、ただひとつの代えの効かない財産だった。
「どうして」
どうして。それ以外には、何もなかった。
「……どうしてなんだろうね、本当に……神様……ああ、ごめんね、私が泣いてちゃいけないよね……」
携帯電話の向こう側で涙が流されている。
どうして、私はこちら側に居るのだろう。
「……そういうことだから、今日は直接、搬送先に行ってあげて」
☆
信号で止められる度、アクセルから足を離さなければならないのがこんなに辛いなんてことがあるのか、と思った。どうしてまた、あの子を家にひとりにしてしまったのだろう。せめて無理矢理にでもついて来させていればよかった。
もしかするとこの三日間、何度電話をかけても出てくれなかったのは何らかの予兆だったのではないか。
〝あの時〟もそうじゃなかったか、と不意に思う。レッスンを再開させてからというもの、朝の出勤前に話しかけても返事をされない日が多かったような気がするし、大好きなはずの献立を残してしまっていたと何度もマリから相談されていたのだ。病院に連れていっても異常はなしだったけど、帰り道の車内でミラー越しに、何もなくてよかったね、と話しかけても目を合わせてくれなかったな——。
後悔ばかりが溢れてくる。ようやく市街地を抜けたことで長い公道に出られた。アクセルを思い切り踏んで、可能な限り飛ばした。
速く——早く。
☆
「居合わせた方が適切に応急処置をしてくれていたので、出血は最小限で済みました。他に軽度の打撲や擦り傷も見られましたが、命に別状はありません。呼吸・脈拍は今のところ安定しています」
「ありがとう……ございます」
「……ただ、右目蓋の刺し傷が眼球まで到達していました。失明まではわかりませんが、視力低下や外傷性の白内障が起こり得ることは覚悟なさってください」
医師の説明を聞いてもほとんど現実味がない。きっとあのまま家に篭っていてくれれば、こうはならなかったのだろう。
あの子のためにと思ったから、最後にケルと会うように諭したけれど。そのせいでこんな目に遭わせてしまったのだとしたら。
私は一体、いつになったら良い母親になれるのだろう。今や十六歳になった子供が、いつまで親を親だと思ってくれるのか。これから先、そんなチャンスなんてもう二度と与えてもらえないかもしれないのに……。
まだ目が覚めていないと聞いて、せめてその瞬間に立ち会うことができればいいと思った。あの子が今更帰ってきた私を見てどう感じたとしても、私はあなたのことが大切なのだと知ってもらえるだけでいい。
そうでなければ、ずっと黙っていることなんか到底できなかった。
あなたまで失うのは、絶対にだめ。
☆
案内された病室は二人部屋だったけれど、手前側のベッドは空だった。
もしももう起きていたとしたらとなるべく明るいことを考える。どんなふうに喜んだらいいのだろう。あまり大袈裟に振る舞ったら傷口に響いてしまって、また口を聞いてもらえなくなるかもしれない。いきなりいろいろと聞いても本人が混乱しているかもしれない。母親としての正解がわからない自分が、あまりにも頼りなくて悔しい。だったら眠っていてくれた方がいいのかもしれない、いや、でも……。
どうしようもなく迷ったまま仕切りの向こうを覗き込み、そこで、息を呑んでしまった。
ゲームやアニメでしか見たことがないような、そうだ、一昔前に子供たちがよく玩具をねだっていたスイートハートというキャラクターのような、明るすぎるピンク色に頭を染めた子が、ベッドのすぐ側に居たのだ。ところどころ擦り切れて穴が空いた、一部に至っては切り裂かれたようになったスポーツジャンパーを羽織っている。
明らかに、関わりたくない、関わるなと教わってきた類の人間だった。目の刺し傷のことを考えれば、暴力を振るった犯人も存在しているということになる——一瞬、まさかと身構えた。近頃は近所に釘バットなんて物騒なものを持ち歩いている不良が出る、とも聞いていたから。
慎重に、ヒールの音をなるべく立てないように、ベッドを回り込むことにした。
私の、たったひとり遺された息子——サニーは、家でいつも見ているのと同じように、穏やかな表情で眠っている。うっすらと呼吸で上下するブランケットが見えると、一瞬のうちにどっと安堵感が溢れてきて涙ぐんでしまう。生きてさえいてくれれば、あとはもう、何も。
そして近付いたことで、ピンクの子もパイプ椅子に座ったまま俯いていて、うたた寝をしているのだとわかった。髪の毛が長いので顔が隠れていてよく見えない。その両手はベッドの上でサニーの片方の手を包み、まるで祈っているかのように組まれていて——
「……あ、」
その子の頭ががくんと大きく下がり、同時に小さく声が漏れたのが聞こえた。目を覚ましたのだ。
一旦立ち去るべきなのかどうか迷う。こういう人たちのことはずっと避け続けてきたから、どんな話をすればいいのかすらわからなかった。
「こ、こんにちは」
きっと挨拶くらいなら大丈夫でしょう。そう思って声をかけたのだけど、
「……えっ、ヤバっ……わたし、あの、ごめんなさい!」
私の顔を見るなりガタンと椅子にぶつかりながら立ち上がった彼女は、サニーよりも背が高かった。
上着で隠れていた、太腿が見えそうな丈のスカートや露出の激しいインナーが目の前に現れる。そして何度も強く重ねて引かれたきついアイライン、濃すぎるアイシャドウ……〝そういう子〟のイメージそのままだった。でも、目を見開いた時の顔つきには何故か懐かしさがある。
「失礼します!」
慌てて出て行こうとした彼女とすれ違う瞬間、カチューシャ代わりに髪を抑えている水色のリボンが至近距離で揺れた。
これにも見覚えがあった。
「それ、マリの」
私の声で足が止まった後ろ姿にも面影を感じる。確信がある。
「……あなた、オーブリーちゃん、よね?」
「……」
「……久しぶり。大きくなったね……サニーのこと、まだ気にしてくれてたのね。……ありがとう」
「……そんなんじゃ、ない、です」
背を向けたままでも、声の詰まり方で泣きそうになっているのだと悟った。マリの話では、真面目すぎるから何もかもに一生懸命で、気持ちが全て外から見えてしまう子なのだと。サニーとは真逆だね、なんて笑っていたっけ。
「わたしの……せい……だから」
この子が刺した訳ではないのだろう。それでもここまで強く責任を感じるような出来事が起こってしまったのだ——私が留守にしている三日の間に、決定的な何かが。
「あの、少しだけ話せないかしら……時間があったら、だけど」
彼女が振り返る。乱れたピンク色の長髪から覗く、その充血した目から涙が溢れた。
「そんな資格、わたしには、ないです。わたしがバカなことしなかったら、サニーは自分の家に帰って寝てた。刺されたりなんか、しなくてよかった……でも…………」
背が伸びても、不良と呼ばれるようになったとしても十代なんてまだまだ子供なのだ、そんな泣き方だった。咄嗟に駆け寄って抱きしめてしまう。
「いいの、私がお喋りしたいだけ。あなたはただ座ってるだけでもいいから、ちょっとだけお茶しましょう。ね?」
サニーはきっと大丈夫。でも、まだ起きる時間じゃない——。
虫の知らせのような不思議な感覚に背中を押されるようにして、病室を後にした。
☆
病院に併設されたカフェにやってきて、窓際の席に着く。人はそこそこ、といった混み具合だ。時折りすれ違う人が、オーブリーちゃんを頭から爪先まで一瞥する。おそらく私と同じような価値観の層なのだろう。無理もない。
「私はコーヒーだけど、あなたは?」
「い、いいです。こんな……」
「お代は出すから、好きなもの頼んで」
やんちゃな格好に見合わず、すっかり萎縮してしまった彼女はちょっと可愛らしくも見える。人生なんて笑っちゃうくらい長いのだから、若いうちにしたい格好をしておくことも悪くないんじゃないかしらと、お腹が見えているファッションについては考え直した。もしマリが生きて十六歳になっていたら、こういうことで喧嘩するなんて未来もあったのかもしれない。
マリのことを考えていて、ひとつ思い出した。
「……確か、紅茶の方が好きじゃなくって? もしも好みが変わっていなければ、だけど」
「え? はい……」
「よかった、マリがそう言っていたのを思い出したから。ヒロが淹れてくれたポットひとつ分、ひとりで全部飲んじゃったって!」
「ちょっ、やだ……! マリちゃん……」
張り詰めていた空気が、ふっと軽くなったように思った。この子はずっとマリのお気に入りだったのだ。その思い出が架け橋になってくれるかもしれない。
慌てて素の表情に戻ったところを見て、執拗に塗り重ねられたアイメイクの理由がわかった気がした。彼女が属する場所では、随分と可愛らしい、小動物を思わせる大きな丸い目を隠す必要があったのだろう——大人として、その憶測を掘り下げることはしない。まずは喋りすぎてしまった分のフォローをしなくては。
「ふふ、仕方ないよね! 彼、何でも上手にやっちゃうんだもの。コーヒーもすごく上手だったな、何回やっても敵わなかった。今でも全然」
「はは……ヒロが作ってくれるのは全部特別でした。あんなの、うちじゃ出てこないから」
「それじゃあ、あなたにはアールグレイでいいかしら」
頷いてくれた。注文のために一旦席を立つ。
「どこまで聞いてるんですか、わたしのこと」
その一瞬、互いの視線が外れて初めて口にできたのだろう囁きが、俯いた彼女の口から聞こえた。様々な違和感の答え合わせを急ぎながら、なるべく誰も、これ以上は傷付かなくて済むような言葉を探した。
「あなたの名前を聞くのは、いつも楽しかったってお話の中でだった。マリも、サニーも、私があなたを避ける理由になるようなことは、一言も言っていないわ。それは信じて頂戴」
「……そっか……」
話しながら、私が捨てられずにいたサイズアウトの洋服や、靴や、アクセサリーを彼女にあげてもいいか、と聞いてくるマリの顔を思い出してしまう。サニーに着せるわけにもいかないでしょ? すぐに身長抜かされちゃうだろうし、なんて冗談を混ぜながら、詮索をしないでほしいと暗に訴えていたあの子は、聡い子だった。
「本当に、あのふたりのお母さんなんだ」
顔を上げたオーブリーちゃんは、微かに笑っていた。
「サニー……くんに何があったのか、知りたいですよね。……お母さんだもん。わたしが知ってる限りのことなら、話せます」
☆
「……だから、アタシが……わたしが、バジルのこと、ちゃんと分かろうとしてたら、こうならなかったんです」
並んで完全に冷めた紅茶とコーヒーのカップを、ただ眺めることしかできない。
「ごめんなさい」
私なんかに謝らないでほしい。
それは全部、私のせい。
あの子を追い詰めて、やりたくなかったことをさせてしまったのは、私なの。
「バジルが目を覚まさなかったら、どうしよう。わたし、どうやったら赦してもらえるだろう」
わからない。私もあの子に赦してもらいたかったけど、何もわからなかったの。
せめて隠し通すことで、普通に生きていける可能性を残してあげられたらと思っていた。でも、
「せっかくサニーは、間に合った、のに。マリ、ちゃんの……時と、違って……サニーまで……巻き込むべきじゃ、なかった」
違うの、マリは、
「……あれ、サニーの」
決して口にしてはいけないことを叫びそうになった瞬間、よく知っている声を聞いた。目元が黒く滲んだオーブリーちゃんと、同時にその方へ目を向けた。口を半分開けたまま止まっている、長身の少年——ケルがいる。小さな頃は私の在宅も留守も関係なく、いつもうちの子たちと遊んでくれていた。彼と会う度に、また少し背が伸びているように感じてしまう。
「ああ……お久しぶりです」
その後ろから、すっかり大人の顔つきになったケルの兄、ヒロが現れる。マリが亡くなった後から長い間姿を見なくなり、鬱になってしまったと聞かされた時は、お隣の家族と顔を合わせることすら苦痛の元になってしまった。こちらに向けられる気遣いの数々ひとつひとつを感じる度、家に火を付けてしまおうかと悩んだものだった。ヒロは肩にかけていた大きな鞄を足元に降ろし、真っ直ぐに私の方へ近付いてきた。
「俺が付いていたのに、本当にすいません。その場でできることはしたつもりです、でも……もっと早く…………」
この子は優しすぎる。マリが心配していた通りに。
ヒロはそれ以上言葉を続けられなかった。私も、何もできなかった。もう遅い。何もかもが。私は間違えたのだ。子供たちではなく、私の間違いだった。どうすれば? どうすれば良かったのだろう?
「……あのぉ、すんません。兄貴、まずはバジルんとこに荷物運んどこうぜ。おばさんだって今、大変だろ。ただでさえパニクってんだからさ……。みんなで頭突き合わせてうんうん言ってるより手を動かしてた方がマシに思えるぜ、俺には」
膠着していた空気を動かしてくれたのは、あのケルだった。いつの間にか随分と大人な考え方をするようになっていたのだな、と場違いに感心してしまう。
私が見ていなかったところで、四年分の時間をそれぞれが過ごしていたということを思い知らされた。ならば、私と、サニーは……。
「……アンタのそういうところ、マジでムカつくけど……」
オーブリーちゃんの方へ視線を戻した途端、彼女は冷めきったアールグレイティーのカップを上側から乱暴に掴み、一気に飲み干した。ソーサーが割れてしまうのではないか、と思うほどの勢いで空になったカップが戻ってくる。まだ手をつけられていないブラックコーヒーの水面が跳ねるのが見えた。驚いているヒロと私の前で、彼女はもう一度口を開いた。
「今はその通りだね。過ぎたこと悔やんでたって時間は経つんだ……だったら、今できることしよう。また間違っちゃわないように」
——ねえ、お母さん。誰かのために頑張れるってすごいことだよね。
——どうしたの? 急に。
——へへ。今思ったから、言っておこうかなって。いつも遅くまでさ、ありがとう。
——いつもいろいろ任せちゃってごめんね。
——私だって頑張りたいんだもん。お母さんみたいになれるといいな。
どうして今なのだろう。こんなことを思い出してしまうのは何故なのだろう。
私が残業から帰ってきて伸びているキッチンカウンターに、皿洗いをしていたマリが笑顔で振り返る。水色のリボンが長く伸ばした髪に結ばれていた。
同じものが今、目の前にある。
「……お茶、ありがとうございました。わたしのことはどう思ってもらっても構わないです。どうしたってクズだから……だけどケジメだけは、つけさせてください」
可愛らしい、だなんて思ったことを撤回せざるを得ない眼差しから目を背けられない。この子がいつか、本当になりたいものになれることを願わずにはいられなかった。マリも同じだったのかな。
「サニーのお見舞いは、続けさせてほしいんです……わたし、いつも聞いてもらってばっかりだった。でも、それじゃダメだなって。サニーの話が聞きたい。それで結果がどうなってもいいから」
彼女が病室でサニーの手を握っていたことを想う。私がどんなに手を尽くして秘密ごとあの子を守ろうとしても、いつかは大人になってしまう。未来があればこそ、そのことは考えなくちゃいけない。私ではない誰かと生きていくことも。
「……俺からも頼んます。こいつ、やり過ぎるところはあるけど見た目ほどじゃないんで」
「……ケル、今のは余計かも……俺からしたら良い子ですよ、彼女。俺たちもできる限り来ようと思ってますし」
ケルもヒロも、それどころか彼らの家族も、何も知らない限りはあの子の味方をするのだろう。あまりにも出来過ぎたお隣さんだった。
「どうして……」
どうして——そう思わずにはいられない。私たちが吐き続けた嘘が、この子たちから善良さを奪い去ってしまうのかもしれない。そうだとしても、時計の針を止める術はないのだ。
「友達だからですよ」
ヒロが、マリが生きていた頃のように笑って言った。
「…………そうね、ありがとう。こんなに幸せなことってないと思うわ」
だったら、私もずっとあの子の母親でいよう。この先で何が起きたとしても。
冷たくて重い苦味が胃に突き刺さる。覚悟の味がしたコーヒーを飲み干して前を向くと、私とオーブリーちゃんは顔を見合わせて、にっこりと笑い合った。
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