私は加藤武、ではない。だが、もう自分の名前も忘れてしまった。終わらない地下通路を何度抜けたというのだろうか。私は抜けられずにいるが、私を置いて多くの者が抜けていった。そういった中でも、通路で起こる数々の可笑しなことではなく「私」へ関心を持つ者がいた。彼女もその一人である。
「おじさんって彼女いるん?」
「嬉之ほまれ、23歳、元気で可愛いです! パパ活とかではないです。愛があります。お金をせびりません」
「おじさんの名前教えて」
「これは運命、おじさんの名前はかとうたけし。テレパシーで受信した」
何人も私と共に8番出口に辿りつけずに彷徨い、そしてその何人もが私を置いて8番出口から出て行った。だが、彼女は可笑しなことを見つけるのではなく、「私」の顔を覗き込み笑っていた。何度も話しかけ、何度も私の隣に並び、何度も私を口説いた。時には照れながらも、私へ質問する姿に疑問を抱いた。もっと良い人がいるだろうに、家事はできないけど居たら多分楽しい❕ と思う……等と自信なさげに私を見上げて述べる彼女も8番出口を見つけて私を残した。
「ねえ、おじさんも一緒に出ようよ」
「ここから出たらな、婚姻届市役所に出しに行こうや」
「ここは京都市営地下鉄烏丸線……京都市役所にバスで行けるっけな……」
本当はとうに気づいている。私は8番から出ることはできず、この場所と一体化しているのだ。彼女に「もしかして奥さんとかおる?」「不倫はあかんから諦め……」「やっぱおらんやろ」等と問いかけられても答えられず、画面を映さないスマホを見つめるしかないことが良い例だ。
🚃 🚃 🚃
……やれやれ、朦朧としていたようだ。いつかのときのことを思い出していた。
退勤して電車に乗っているというのに、疲れているのだろうか。私以外誰も乗っておらず貸切状態というのは、思索に耽るのにちょうど良い。
「あ、おじさん!」
聞き覚えのある声に顔を上げることが出来ないことに気づく。
「久しぶりに見ると、やっぱ好き」
嬉しそうに私の隣に座った彼女が「ねえ、やっぱ既婚者なん? ほまれ的には既婚者で内に秘めて片想い……がアツいけど、独身で年の差恋愛もアリ」と話すたびに、私は自覚する。私は私のことがわからないということに。退勤などと思っていたが、それは何だ? そもそも私の帰る場所とは? いつからこの電車に乗っているんだ……?
彼女が何度も私の前を歩いたり走ったりと繰り返すのを、私はただスマホ越しに見ていることしか出来ない。スマホの画面は真っ暗で、本来の機能は失われている。だが、そのことを可笑しいとも思えなかった。
ガタンと電車の扉が開く。眩しい白の光に、彼女は「これって出てええのかな」と戸惑いがちに私を振り返る。電子掲示板も可怪しなことはない。彼女はここから降りて、日常に戻るべきだ。
「……おじさんも降りへんの?」
その言葉に私は心のなかで頭を振る。私はこの8番から出られない。出来るのは、そう。彼女やまたここに迷い込むであろう多くの人々が無事に日常へ戻ることを願うだけだ。
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