世界は、おおよそ二色で構成されている。 紅と、黒だ。 山に掛かる太陽は高いところにいた時と打って変わって、世界中を紅に染めんと強烈な光を放っている。 強い光は強い影を生み出す。まるで底のない穴のように、光の当たらない場所は黒い。 「世界はシンプルだ」 紅と黒の鮮やかなコントラストで出来た世界は、僕ら矮小な人間にそう静かに、力強く語りかけてくる。 詩的な事を考えつつ、僕はそんな世界へと歩み出す。 夕日が校舎を照らし出す。高い建物のないこの町で、一際大きく無機質な校舎。普段は白を基調としているが、今は紅に染まって暖かみを持っている。 僕は、そこへと向かっている。足取りは重い。 「おっす、木下」 後ろから声を掛けられる。すぐに分かる特徴のある声だ。 「おう、山田」 振り返ると、想像通りの顔があった。級友は小走りで僕に追いつき、隣を歩き出す。 「今日の授業、お前当てられそうじゃね?」 「あ、そういやそんな日だったっけ?」 「お前さ……あの先生、答えられないとしつこいぞ?」 「あと学校着いたらちょっと予習やっとくさ」 夕日を受けた山田は苦笑いを浮かべる。 何事もない、日常の光景である。 夕日が差し込む教室に着いて、予習に取りかかる。幸い大した量じゃない。パパッと終わらせる。 その内先生が来て、朝礼が始まる。授業が始まる。昼休み、午後の眠たい授業。学校が終われば帰途につき、西日差し込む部屋で寝る。 一日中夕日を浴びながら、何事もない一日が今日も終わる。 目が覚めると、西日が眩しい。世界は相変わらず紅だ。 こんな生活が始まって、もう一週間ほどになる。 夕日は、いつまで経っても沈まなかった。 今日も夕日が照らし出す世界は動き出す。当初人々はきっかけのない一日の始まりに戸惑っていたが、それでも三日もすれば「夕日が沈まないだけ」だと気付いて、なんて事はなくなってしまったのだ。いや、十分に異常な事態なんだけども、誰も彼もその事実には気付かない振りをしているようだ。これだから大人って奴は…… この現象は日本にのみ起こっている特異的な現象らしく、世界中でニュースになっていた。世界は今日も朝日が昇り、夕日が沈む。なのに、日本だけは夕日が残り続けている。 一体光源がどうなっているのか?何故こうなっているのか?その真相は誰にも分かりそうもなかった。 「今日も夕日が眩しいなぁ……」 「あぁ。だが俺たちはこれから学校に行くんだ……」 夕日を浴びながらの登校。大概慣れてきたものだが、違和感は消えない。 これだけ明るい時間が続くと、寝不足になってくる連中も出てくる。生物の授業で丁度出てきたが、人間の体内時間というのは24時間ではなく25時間程度なのだとか。だから、少しずつ時間がずれていってしまうのだという。 本来であれば、朝日がそれをリセットしてくれる。が、今は夕日が出っぱなし。果たして何日経ったのかなんて分かりやしない。 「まるで野菜の促成栽培だな」 「俺らも急成長出来ればいいんだけどな」 「……無理だろうな」 山田との下らないやりとりは、先生の耳にも届いたらしく、「オラー! くっちゃべってんじゃねーぞ! 夏休みボケか!?」と怒鳴られた。 今日も夕日を浴びながら帰途につく。いや、夕日を浴びて帰途につくのは当たり前の事か。 夏休みが終わって一週間。ただし、最初の数日は日本中が混乱していたため、登校日ではなかった。 その分宿題をやる時間は延長していたのだが、既に一度完遂を諦めてしまった気持ちはどうにも温まる事はなかった。8月31日から1ページもこなしていない。机の上に広がったままの宿題を見るたび憂鬱な気持ちになってお終いである。 今日も夕日が眩しい。今が何時なのかも分からない。いつになったら夕日は沈むのか。誰かが止めてるのだとしたら、早く何とかしてくれ!僕は夜に寝たいんだ! 「夏休み、実はまだ続いてたって事はないかなー」 「現実を見ろ。夏休みは終わったんだ」 「夏休み、またこねーかなー」 「あぁ、また来るさ。来年にな」 山田は冷たい男だ。 「いつからこんなんなってんだっけ?」 「あ~……確か8月31日だな。あの日から日が沈まなくなった」 「じゃあ実質今も8月31日って事でいいんじゃね?」 「だとすると、今は~……8月31日176時16分ってな感じか?」 「そうそう」 「ややこしすぎるぜ」 自宅に戻って机の上の宿題を見つめる。 あれから1文字だって進んでいない。 今は混乱の最中。何となく先生達の中でも夏休みが終わったようではないらしく、回収がどうのと言われてはいない。 締め切りが無くなると、途端にやる気がなくなるのが人間の性である。「やらなくてはならないもの」が、「やらなくたっていいもの」に認識が変わってしまっているのだ。ついでに言えば、元々「やりたくないもの」でもある。 「あ~あ、夏休みが終わらなければ、宿題が終わらなくても良いのに」 誰もが思う、下らない妄言である。神様でも仏様でも誰でもいいから、叶えてくれないかなぁ。そうすれば楽しいばかりだというのに。そんな事を、この夏休みの間ずっとぼやいていた気がする。 しかし現実は非常だ。これだけ異常事態でも、日が沈まなくても、日常は続いていくのだ。 現実に逆らっても仕方がないので机に向かう。机に向かうと、丁度西日が目に入って眩しい。やる気が削がれる。項垂れる。毎日この繰り返しだ。 うだうだとしながら、先程の自分の言葉に下らない妄言を追加してみる。 「逆に宿題が終わらないと夏休みが終わらなかったりしてね」 まあそんなバカな事があるはずない。宿題と夏休み、何の因果関係があろうか。 だが、妙に心に引っかかった。 夏休み……宿題……終わらない……宿題を進めなくなったのはいつだっけ?太陽が止まったのは、いつだっけ? もしかして。 はたと思い立って、手近にあったプラスチックの下敷きに線を引き、下敷き越しに夕日を見る。太陽の形がはっきりと見える。 先程引いた線を山のてっぺんに合わせ、太陽の大きさを測る。うん、この大きさだ。 次に溜まっていた宿題を頑張って1ページ終わらせる。それからもう一度、太陽を眺める。 ほんの少し。ほんの少しだけども太陽は沈んでいた。 そう言う事だったのか。 更に確信を掴むために、宿題を進めていく。3ページ、5ページ……進める程に、太陽は沈んでいった。 神様か仏様か知らないけども、この状況を作りだした存在ってのは、こんな僕の下らない妄言を取り上げてくれるくらいには暇らしい。 この日本から夜を、朝を奪っていたのは、僕だったんだ。 僕は、必死になった。 必死になって、溜まっていた宿題をこなした。 こなせばこなす程、太陽はみるみる沈んでいった。 徐々に暗くなる。町中が騒がしい。この世の終わりなんじゃないかって悲鳴まで上がっている。 携帯も鳴りっぱなしだ。だが、それに構ってる暇はない。僕は一刻も早く宿題を終わらせて、世界に平穏をもたらすんだ! ……終わった! どうだ!? 机の上の宿題を全て終わらせて、窓の外を見る! 「……何で……何でだ!?」 夕日は、ほとんど沈んでいた。が、沈みきってはいなかった。ほんの少し、紙一枚ほどの残光が見える。 宿題のページを捲る。捲る、捲る! 全部埋まっている! なのに日が沈まない! 一体何故なんだ! 思考を必死に巡らせる。そして気付いた。 ……一個、既に提出してた。それも、未完成で。 その事に思考が行き着いた瞬間、僕は走り出していた。どこに? 当然、先生の自宅に! 「先生! 先生! 開けてくれ!」 ドンドンと扉を叩く。一度だけ何かの用事にここに来て、道順を覚えていた自分を誉めてやりたい。 しばらく騒いでいると、鍵の開く音。 「うるせーぞ。ん? 木下?」 だらしない格好をした先生が現れる。そしてここに僕がいる事に疑問を覚えているようで、首を傾げている。だがそんな事に構っている場合じゃない。 「先生! この前提出した夏休みの課題! 返してください!」 「ど、どうした? お前らしくもない」 「やり残した所があるんです! 全部ちゃんと終わらせたいんです! お願いします!」 僕の言葉に先生は目をひん剥き、その言葉の意味を理解し、泣き出した。 「そうか! お前がなぁ……! ついにやる気になってくれたか! ちょっと待ってろ!」 どたばたと家の中を走り出す先生。何か誤解を与えたような気もするが、気にもしていられない。早く、僕の宿題を終わらせなきゃ! 「これだな!?」 先生が奥から持ってきたのは、間違いなく僕の、未完結の宿題。 「はい! ありがとうございます!」 先生の手からひったくるように奪い取り、そして自宅へと急ぐ! 先生は驚いていたようだが、僕の真剣な姿に静かにうんうんと頷くのであった。 「……! 終わったぁ!」 書き終わった瞬間、外を見る。あの残光は完全に山に隠れ、世界は闇に包まれた。 これでようやく、日本中の夏休みが終わったのである。 翌朝。 世界は眩しい朝日に包まれていた。 「おっす、木下」 「おう、山田」 「今日は良い朝だな」 「おう。何せ1週間以上ぶりの朝だからな」 「しかしまた、なんで急に夕方が終わって、夜が来て、朝がきたんだろうな? いや、元通りなんだから良い事なんだけどさ」 僕は、逡巡した。 『僕が太陽を止めていたらしい』。そんな事を言ったら、山田は、世間は何と言うだろう? バカの妄言? それとも、真に受けて糾弾?どちらにしても、良い事は無さそうだ。 「さあ。太陽のきまぐれだろ? 大昔にはかくれんぼとかしたらしいし」 「なんだそれ」 「何せ太陽のやる事だからな。誰かが夏休みの宿題を終わらせるまで待っていてくれたとか、色んな事考えられるぜ」 「いや、それはない。太陽ってそういうんじゃないだろ」 「んだな」 真実は、僕の胸にだけしまっていればいい。そう決めて、話をはぐらかした。 その日の夕方。 とても美しい夕日だった。 光ある所は紅に染まり、人も建物も、何もかもが暖かみを持っていた。 影ある所は黒に潰され、人も建物も、何もかも底が抜けたようだった。 風は温ぬるく、少しだけ冷たさを含んでいる。 いつもより少し長い夏が終わって、1週間遅れの秋が訪れる。 (了)
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