一・耳垢 どこかで小さな音がする。かすかな川の音。 ぼくは耳の奥に指をおしいれて、爪の先端で鼓膜の手前をこすり、灰色の耳垢が爪の隙間に挟まってやってくる。滞りのなくなった外耳道を通り抜ける音。水流が絶えず神経を震わせる。幻のような音。霧のように掴めない音。海の、なまぬるい場所をただよっているようでもある。指先の垢をはじく、宙を飛んだ。なめらかな速度で。着地する行方は見えなかった。落ちたかもしれない場所を見つめる。 そこにはかつて地雷が埋まっていた。その地雷を踏んで死んだ兵士がいた。その兵士には恋人がいた。恋人は兵士の死を知らないままで、市街戦に巻き込まれ燃え盛る炎の中を逃げて、頭を打たれ死んだ。二人の遺体がそれぞれの場所で火に包まれた。灰になった肉体は、やがて風に乗って廃墟が並ぶ地上を音もなく撫でた。そして土に還り、層を重ね、瞼を閉じている。心臓だった灰は鳥と共に空を飛んだ。やがて最果ての砂漠の一部になった。 あるいは、森の中に立つ一本の樹が根を伸ばしていた。枝には鳥が立ち止まり、幹を蟻がつたった。木肌を削って巣の材料にしたり、木の実を食べに訪れる生き物たちがいた。樹の背後に隠れて獲物を窺っているものもいた。雨が降れば水を受けとめた。秋になれば衣を替え、やがて朽ち果てた葉が足下に敷き詰められた。葉が地に溶ける前に雪が積もり、冷たくくるまれながら、種は芽吹くべき時を待った。 ここで誰かが、もしかしたらあなたが、日暮れを眺めていた。 あるいは、眠り、目覚めた。 そんなことがわが浮かぶか浮かばないかの瀬戸際で、ふらふらと耳垢を踏んだ。 ここに人の気配はない。ぼくは、ぼく以外の誰かに会いに行かなければならない。水の声が聞こえる方角へ向かわなければならない。 二・犬 ぼくは無人の集落に立っている。 ぼくの隣には犬がいる。ぼくに対しておびえるそぶりを見せず、出会ってすぐにしっぽを振っていたので恐らくは誰かの飼い犬だった。巨大な犬で、長く鬱蒼とした毛に全身が覆い尽くされていた。瞳も毛に埋もれていて何も見えていないように思われたけれども、ぼくに迷わず顔を向け、はっきりと認識していた。音やにおい、空気の流れや気配がぼくをぼくと識別したのかもしれない。 犬はぼくの胸あたりまで迫る体躯で、後肢で立ち上がるとぼくを悠々と凌駕した。全身の毛が土で汚れていたけれど、ぼくも土まみれだったので、お互いに土の子どものようだった。 けれども犬に注目すれば、萎んだ筋肉、頼りない足取り、遠景を眺める静かな横顔、しばしば気怠げに横たわる姿には、既に十分長く生きてきた老犬である証を漂わせていた。 なによりも印象的なのは、顔にぶあつく覆い被さっている長毛をかきわけて現れた瞳の奥の白濁だった。濁った煙を眼球に閉じ込めたような灰色の瞳だった。左右で白の濃度は異なっており、左眼の方が濃霧を秘めていた。犬の前に手を翳し、左右へ揺らしてみる。犬の瞳はその動きをほとんど追わなかった。影が目の前を通過すると、右眼が僅かに反応した。その間長い舌を力無く垂らしたまま浅い呼吸を繰り返し、尻尾を振り続けている。 警戒心のない犬に相棒がいるとして、付近にいるのかもしれない。ぼくは顔を上げ、崩れ落ちたまま放置されている町の残骸を見渡した。静かだった。川の音はかすかに聞こえているが、まだ距離がありそうだった。音を遮断する物体も、騒ぎ超えや秘密の耳打ちの類ですら、ここにはないのだった。あるのは、犬の呼吸、犬が瓦礫を踏み抜いていく音だけだった。 三・灰色 行方の知らない青いまどろみに包まれてぼくは息をし、犬の白濁と混ざり合う。ここは褪せた町だ。すっかり灰色の町だ。犬の視界は果たして白いのだろうか、灰色だろうか、黒一色だろうか。もっと複雑な色彩を帯びているだろうか。光の中にいるだろうか。影のもとに蹲っているだろうか。空の中に何を見出すのか。見えているのか。感じ取るものはなんなのか。ぼくは犬の濁った白に青が溶けるのを想像する。青空と雲が直接交わり変形する光景を想像する。青が濁りうすい紫を帯びたようにも黄色がかかって鈍いようでもあるかもしれない。犬のとらえる色彩とは人と比べて鮮やかだろうか、それとも褪せているだろうか。ぼくは知らない。知る術がない。ぼくはなぜ犬の視界に興味を抱いているのだろうか。この犬の瞳の白い霧に惹かれるのだろうか。白い霧は美しく瞳に宿るが、寒々とした廃墟もその足下に転がる瓦礫も、砂に埋もれた硝子も遮るだろう。 視界の晴れているぼくだが、今日は硝子を踏み抜いた。足の裏に突き刺さった。鋭利な硝子は容易に肌を貫く。けれど肌が膨れ上がり厚くなっていくうちに、痛みに対して鈍くなっていた。足をひっくり返せば突き刺さった箇所から血が滲んでいるが、不思議と痛みが感じられない。黒く変色した肌を見て、初めて血を流していたと知る。 ぼくは犬の掌をぼくの掌と合わせ、覗きこんだ。肉球の弾力が失われ、萎みきったゴムのようだ。先端にあるはずの爪は毛深い森の中に隠れており、瞳と同じようにかきわけてみると、慎ましく居座っている。目の白濁と動揺に力のない爪を撫でてみる。犬は喉を鳴らした。堂々とした巨体と裏腹の、粒のような爪に犬の魂が宿っているのかもしれない。指先に意識を集めると、血の通わない爪にも温もりを錯覚する。ぼくはこの触感に覚えがあった。石だ。川原に敷き詰められていた石。湿り気。まるみを帯びた小石たち。水面に投げて走りゆく小石たち、そしていずれ水の中へ吸いこまれる。魚たちと同じように。この記憶はどこにあったものだろう。思い出せなくても、犬の爪と石の繋がりには親しみがある。再び毛の内側になるように整えてやった。相変わらず犬は尾を振っている。 沈黙。 かすかにせせらぎの音。 まのびした雑音のようでもある。 雑音に蓋をするように瞼を伏せて、代わりに忙しない犬の吐息にふれる。あけたままの口から深い霧のような息がこぼれてはそよかぜに流れて消えていく。ぼくは犬の頭を撫でてやる。毛の奥に温度が感じられなかった。ぼくは自分の両手をぴたりと合わせる。温かくもなければ冷たくもない。ぼくの口からも白い息がこぼれる。ほんとうはぼくの視界にも白いもやがかかっているのかもしれない。草木のほとんど生えていない乾いた大地で、遠くやまなみは黒く稜線を描き、不自然に浮き上がっている。その山を隠すように途切れた雲が流れ、山頂を掠めている。水に墨を溶かした刹那の揺らぎに似る。そうだ、山の茂みが黒々としている。まぶたをこすり、再び目を凝らしても白黒の映像に没入したようだ。色彩を認識できない。それとも、廃墟たちと同様、色彩も喪失した? ぼくは歩きだした。水流の聞こえる方角へ向けて。とうに廃れた町に人の姿はなく、長居の必要はなかった。 犬は、のろく引きずるような足取りでぼくを追いかけた。ぼくの足は犬に合わせて退屈な速度になった。やがて、犬の歩行をぼくの足が真似て、ふたりして地面に線を描いていった。その引かれた線も、いつか、風雨が地面を溶かし、跡形もなく消えていくさまを想像した。 ぼくはなにごとかを呟いた。誰へ向けるわけでもない、けれど、不意についてでた言葉には、語りかける意が含まれていた。ここにいるのは犬だけだった。だからぼくはきっと犬に語りかけた。 犬が吠えた。短く、さりげなく。吠えたとはとうてい言い難いほどに力を振り絞った弱々しさだったが、おそらく犬は吠えたのだった。何に向けて吠えたのか、ぼくにはわからなかった。ぼくへの返事だったのかもしれない。ぼくに話しかけたようにも、そうでないようにも思う。虚空へと放たれて瞬きの間に消えていった。 果てしなく。 『白昼夢と犬たちのダンス』B5/24P/100円 2022年1月16日文学フリマ京都にて【う-42 hass books】にて頒布します。
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