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黒井羊太

2022/06/05 13:00

鮭の大河を渡る(短編小説)

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雪の朝 独り干鮭を 噛み得たり                           松尾芭蕉  男は長い道程を歩いていた。  道は見えない。どうやって歩いているかも判然としない。ただ、足を出せばそこに道があるという確証だけがある。  男に見えるのは夜空に浮かぶ二つの球。  青く輝く出発地と、白く輝く目的地だけだ。 「この調子ならば、一体いつ到着する事やら」  男は誰にともなく呟いた。  男は一人、深い山中に住んでいた。  戦乱が続き、権謀術数が飛び交う俗世の全てに嫌気が差し、何もかもを捨てて独りで生きることを決めたのだ。  僅かな面積の畑と、ボロボロのあばら家、その周辺は山また山である。  朝起きて、すぐ脇の川で顔を洗う。その後は畑の草むしり、それが終われば山野を駆け回り、有用な植物を採取する。時に罠を仕掛け動物を捕る。飽きた時には川で漁り、魚を食していた。暗くなる頃にはあばら家に戻り、僅かな食糧を貪り、藁の寝床で体を休める。それが男の一日であった。  ボロを着て、ヒゲは伸び放題。みすぼらしい以外の言葉が見あたらない生活であったが、男は不満など無かった。 「孤独で良い。ここには私の命しかない」  楽しみなど要らない。悲しみなど要らない。感情を大きく揺さぶられるような、大きな出来事など要らない。男の信念であった。    そんな男にとって年に一度、大きな出来事がある。  秋の満月の日に、川で鮭の遡上があるのだ。小さな川ではあるが、それを埋め尽くさんと鮭が遡ってくる。  それが美しいだとか何だとか、そんなことを言っている場合ではない。それをすぐに掻き集め、秋の内に干物にして保存食としなければ、冬を越すことができない。男にとって年を越す生命線なのだ。  山の深くまで来るような鮭だ。産卵を終えもはや体はボロボロ、今にも事切れそうな魚ばかりである。  栄養状態など考えれば、こんなものを捕ったところで大した事はないだろう。だがこんなに簡単にこの量の肉を確保できる機会はそうはない。急ぎ集め、燻したり天日干しで干鮭とするのだ。それを冬の間に囓り、貧しく過ごすのが毎年のことである。  この日の他に、男に忙しくしなければならない日はない。ただただ、貧しくも静かな日々が流れていた。  この日を迎えるたび、男は思い出すことがある。  子どもの頃に、毎年この時期の満月の日に、決まって鮭が遡ってくる事が不思議で仕方なかった。そして親に尋ねたことがある。 「ねえねえ、鮭はお月様から来ているの?」  両親は爆笑し、そして鮭は海から来るのだと言った。幼い自分には、笑われた屈辱と、海などという見たこともない場所から来ているというおよそ信じがたいごまかしをされた不信感だけが残る出来事であった。  今ならば自然に言葉を受け取れるが、しかしこうも偏屈に育ってしまった孤独好きの自分の原点かもしれないなと、苦笑混じりに思い出すのだ。  さて、いつ頃からか、どこからか人の声が聞こえてくるようになった。  そんなはずはない、こんな山奥まで人が来るなど。男はそう思っていたが、森の中をいつも通り歩いている中で、遂に人と出会った。  男にしてみれば何十年ぶりかの人である。そして相手にしてみれば、よもやこんな場所に人がいるなんて、である。 「ひ、人?」 「何故こんな所にいる」  お互いに驚きつつも、辿々しくやり取りをする。男は人と話すことなど無かったからすっかり話し方など忘れてしまっていた為苦労したが、どうもこういう事らしい。 「最近町の方では人が増えてきており、食糧事情が逼迫してきている。そこで森を切り開き、木材を余所へ売りながら生活圏を拡大しようとしている。その為に川沿いに人が増えてきているのだ」  冗談ではない。人と関わりたくないからこの山奥まで来たのだ。それが今、脅かされようとしている!  木材を川で運搬するようになれば、その分鮭も遡って来にくくなるだろう。そうすれば俺は冬を越せなくなる。 「俺がここに住んで暮らしているのに、それでは生きていけないではないか」 「いやぁ、私に言われましても……」 「では誰に言えばいい?」 「さぁ……?」  男は溜息が止まらなかった。  今年の冬はまあいい。来年以降、人はじわじわと押し寄せてくるだろう。そうなれば、自分はここに住んでいられるだろうか。  いや、元々生きている理由など大してない。生きられるから生きている。それが終わるのならば、それもまたいいのかもしれない。 「ここに執着するつもりなどない。ただただ、人のいない場所へ。孤独が良い。生きるだけで良い」  それだけが男の願いだった。  溜息を吐いて、ふと空を見上げると月があった。 「そうだ、月だ。あそこならきっと誰も来まい」  男の心は下らない妄想に埋め尽くされていく。  それからの男の口癖は「月に行きたい」だった。  その年の満月の日。例年通り鮭は遡上してくる。  その数はいつもより少なかった。恐らく下流の方で余所の人間共に獲られているからだろう。その事実は、男の月への渇望をより強くした。 「月に行きたい」  作業の合間に呟く。誰にも聞こえない声であるはずだった。 「それなら、行きませんか?」  ぎょっとした。幾ら人が近くまで来ているとはいえ、姿は見えない。きょろきょろと見渡していると、それは言葉を続けた。 「私は故郷へ帰りたいのです。どうか連れて行ってくれませんか」 「どこだ、誰だ」 「ここです、あなたが今携えている鮭です」  手にした鮭を改めてみると、確かに身じろぎしながら言葉と合わせて口をパクパクと動かしている。  驚いた。これまで多くの鮭を捕まえてきたが、喋る鮭など初めてだ。 「あー……」 「聞きたいことは山程あるでしょう。だが時間はないのです。私の故郷へ、私の魂を。魂の循環は、行われねばならないのです」 「……まず、故郷とはどこだ?」  男の唯一の質問に、鮭は胸びれをそっと持ち上げ、指差して(?)呟いた。 「月」  結局男は鮭に口説き落とされるがまま、月へと向かうことにした。どうせこの山中にもいられまい。願いが叶うのであれば、と男が納得したのだ。  鮭に導かれ川を遡り、どこまでも歩いていくと川の始まりへと辿り着いた。 「ここからどうするのだ?」 「見えるでしょう、階段が。私達はここを通って月へと帰るのです」  言われてから改めて見てみると、そこにはどこまでも空高く続く階段があった。こんなもの、見たことがない。 「登ればいいのだな?」 「はい、道々私達について説明致しましょう」  男は鮭を小脇に携えたまま、階段を登り始める。長い長い、階段を。  地表は遙か下。眼下に男のあばら家も故郷も、何もかもが小さく見える。  既に雲も掴める程の高さまで来た。風もない。寒さもない。ただ淡々とどこまでも続く階段を登っていく。 「まだ着かないのか?」 「まだまだです。ここなぞまだ空の内です」 「空の果てに月があるのではないのか?」 「空など入り口に過ぎません。更に更に上、暗き夜空を越えた先にあるのです。私達はそこから毎年あの川へ流れ着くのです」  男には想像もつかなかった。だが、今見えているこの景色、決してこのパクパクと口を動かす鮭が出鱈目を吹聴している訳ではないと分かった。 「お前達が階段を上れるのか?」 「私にはなだらかな川に見えるのです。そして肉体をあの川に捨て、魂のみにて月へと帰るのです」 「そうすることに何の意味がある」 「さあ。私達はただ、そう生きているだけです。そう生きる他ないのです。それが魂の循環なのです」  鮭は事も無げに返答した。  空も雲も越え、辺りは暗がりになってきた。足下には何もない。ただ、男はそこに階段があると確信し歩き続けることができていた。 「ここはどの辺りだ」 「ここは空の上。ようやくこの青い星を出たくらいなもんです」  振り返れば最早足下とも呼べない距離に、巨大で美しい星があった。人の姿はおろか、建物ももう何も認識することができない。 「これが俺の住んでいた場所か」  自分の認識していた世界の小ささに驚くと共に、これから向かうべき方を見遣って、その距離に少しうんざりとした。 「月とは斯様に遠いものか」 「はい、しかしこれから先は大河の流れの中。私が背に乗せて進みましょう」  言うなり鮭は男の手から滑り落ち、ぽちゃんと音を立てて着水した。それほど大きな体ではなかったはずだが、気付けば俺が乗っても問題ない程に巨大になっていた。 「さあ、背に乗って。遠い道のりですが、何とか快適に月までお届け致しましょう!」  魚の背に乗るなど考えたこともなかったが、そうするより他にあるまい。実は足もくたくただった男は、黙って鮭の誘いに乗ることにした。  何もない空間を凄まじい速さでスイスイと鮭は泳ぎ進んでいく。風も対象物も無いから、どれほどの速度かは分からないが、グングンと元いた星から離れていく事に、男はただただ圧倒されていた。 「鮭よ、お前はいつもこうして月までを一匹で泳いでいくのか?」  男は訊ねた。周囲に何も影はない。魂の循環だとは言うが、この鮭の他に循環する事などないのだろうか?  鮭は答えた。 「何を仰います。ほら、周りをご覧なさい。幾つもの鮭が私と同様に泳いでいる」  何をバカな、と思いつつ男が周囲を見渡すと、それまで見えなかった鮭たちの影が確かにあった。見渡す限り鮭の大河、視界の届く全てに埋め尽くされており、最早数えることがバカバカしくなる程の数であった。 「いつの間に」 「最初からいましたよ。皆同様に肉体から魂だけとなり月へと帰る者です。魂は月へ帰り、また肉を得てあの星へ戻るのです」 「何故そうするのだ」 「先程も答えましたよ。そういうものだからです。魂は肉を現世へ運び、消費され、そして魂はあるべき所へ帰る。その循環を、淡々と繰り返すだけなのです。そこに意味や不幸や信念などありません。」 「孤独もか」 「えぇ。……あぁ、いや、少しばかり孤独感はありました。正直。 あの旅立ちの時、肉体を失う僅かな瞬間、孤独になるのです。死は個を強く意識させる。だからその立ち会いにいたあなたを誘ったのです。 あなたが丁度月へ行きたいなどと申しますから、思いがけず声を掛けてしまったのです」  鮭は少し、照れくさそうに話した。  男は鮭の素直な言葉が羨ましく、そして温かく感じた。本当の意味での会話など久しぶりで、こんなに心の内を素直に打ち明けてくれる存在が嬉しくなったのだ。 「孤独さえもお前は受け入れるのだな。大きな循環の中で、それでも確かに在り続けていく。人の流れから外れ、望んで孤独で在り続けた俺には到底真似出来そうもない」  言いながら、男は自分が孤独で寂しかったのだと気付いた。干鮭を囓りながら、生きていくしかないと思いこみ、だらだらと続けていた生き様が恥ずかしく思えた。  しかし鮭は頭を振って答えた。 「いいえ、あなたもこの循環の一部。私達の肌肉は食らわれる事で失われ、魂のみが帰ってこれるのです。多くの生命を食べて生きるあなたは私達にとって必要な存在なのです。どれが欠けても成立しない。これは逃れられない運命であり、その輪から外れて誰かが孤独である事などありません。生きている限り絶対に」  男の心には静かに熱いものが込み上げていた。  徐々に近づく月の大きさに、男は言葉を失いそうになるが、それでも鮭との会話は弾み続けた。  そうしてあっという間に月へ到着した。 「さあ、到着です。道中本当に楽しかった。ありがとうございます」  月の地表にそっと降ろされ、男はその景色に戸惑った。辺り一面、何もない。 「お前達はどうするのだ?」 「私達はこれからこの地に魂を返します。地表に溶け込み、地中にて一度一つとなり、分化し、また肌肉を得てあの星の、あの川へ戻るのです」  鮭の言葉の通り、周囲の鮭たちは既に地表へ落ち、まるで雨粒が地面に吸われるように消えていく。 「ここでお別れですが、あなたはどうされますか? しばらくここであの星を眺める事もできますが……」  正直に言えば、男はこの景色を大層気に入っていた。鮭たちの循環をここで眺めてみたかった気持ちもある。 「ここに残るよ。しばらくお前達の循環とやらを眺めてみるさ」  そうですか、と返事をし、鮭はあっさりと地面へ溶けて消えた。  月の地表に残ったのは、男と星空と、青い星だけであった。    月の石の上でぼんやりと一人考える。  月でさえ、孤独ではないのだ。それはあの青い星を眺めていると強く感じる。まして私の感じていた孤独など、些細な物であった。  そんな事を考えていると、地表がもこもこと沸き上がり、そこから鮭の大群が吹き出した。勢いそのままに月と青い星の間を流れる大河に乗り、やがてあの川へ到達する。男は何度もその様を見ていた。  干鮭を囓って生きた虚しい雪の朝を思い返し、それでも生きる事は無価値ではないと今ならば思える。  鮭は月から渡り、月へ帰る。多くの生命が、その循環の中に組み込まれている。もちろん、男も含めて。  その真理に得も言われぬ喜びが胸に溢れる。そしてそれ以外にもう一つ、どうしても男が叫びたい事があった。 「鮭は月から来ていた!」  子どもの頃からの妄想が本当であったことを、誰かに伝えたい。心からそう思えた。 「そろそろ起きなさい」  母の言葉に、僕は目を覚ます。ぼうっとした頭で、今がどんな時であったかをゆっくり思い出す。  そうだ、そろそろ満月の時分だ。俺は村の子どもとして、手伝わねばならないんだった。  長い長い夢を見ていた。僕が世捨て人になって、長い長い人生の先に鮭に誘われ、月へと向かう夢。その話を母にしようとするが、上手くまとめることができず断片的な話を繰り返し、母は苦笑いをしていた。 「母さん、やっぱり鮭は満月から来ているんだよ」  誰も信じてはくれなかったが、俺だけは確信している。あの鮭が心にいる限り、俺は孤独ではないのだ。 雪の朝 独り干鮭を 噛み得たり    されど我が身は 孤独にあらじ                        詠み人知らず

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    久々活動です。

    2022/06/04
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