息も白む冬の寒い朝。俺の首元は温かい。 何故って言ったら、彼女のお手製マフラーを巻いているからさ。 高校に入って付き合い始めた彼女が、先日の俺の誕生日に手編みのマフラーを作ってくれたんだ。 ちょっとよれよれで不格好ではあったけど、何より気持ちが嬉しくて、毎日巻いている。彼女はそれを見るたびにっこり笑う。可愛い。 「どう? どう? 温かい?」 「うん、温かい」 何度も繰り返す問答。毎回の事だが彼女は俺の答えに、にこぉっと笑う。可愛い。 心も首も温かい。何の不満があろうものか。 春。温かくなってマフラーもそろそろ要らなくなってきたね、と話していると、彼女は真剣な顔で俺にこう言った。 「マフラー、返して」 驚いた。今の会話の流れの中で、別段ケンカをしていた訳でもないし、マフラーに対して何か不満を言った記憶はない。 ……あ、一度だけ言った事があった。 そういえばこのよれよれのマフラーを笑った事があったのだ。「不格好だね」って。そうしたら彼女は言い返しはしなかったけども、むうっと膨れていたのだ。自分の失言にすぐに気付いたけども、謝るタイミングを逸してしまったのだ。 あれから彼女は何も言わないし、俺自身も言わないように気を付けていたからすっかり忘れていた。 「ごめん、あの時笑ったのは悪かったよ」 俺は素直に謝った。それに彼女はキョトンとして、ハッと気付いてパタパタと手を振った。 「あぁ、違う違う。違わないけど違うの。 それはそれで怒ったんだけど、実際私、下手くそだったし。それで怒ったら私の方が変だよ。だから、そのマフラーに今年の分を継ぎ足したいの」 は? 継ぎ足し? 言葉の意味が分からずキョトンとしている間に、彼女は俺の首からスルリとマフラーを抜き取った。 「待ってて、今年の秋までにはもうちょっと練習してマシになってるはずだから」 春の日差しを浴びる彼女のはにかんだ笑顔は、いつもより輝いていた。俺は何も言い返せなかった。 次の誕生日。予告通りマフラーがプレゼントされた。 見覚えのあるよれよれで不格好なマフラー。に、それよりはちょっとだけ整ったマフラーが繋げてあった。 思っていたのとは違っていた。 「……どゆ事?」 「私の成長の証!」 これまで見た事もないくらいのドヤ顔である。 「新しいのを作ってくれた方が良かったんじゃない?」 「え、そしたら古いのはどうしたらいいの? 使ってくれないじゃない?」 さも当然のように言葉を返す彼女。その真っ直ぐな瞳に、「いや、それはおかしい」とは言い張れず、俺は通常の倍の長さになったマフラーを愛用させられる羽目になった。 想像に難くない事だと思うのだが、倍の長さになったマフラーは何とも扱いにくい。 首の太さは変わらないのに、巻く長さは倍になっちゃうと当然巻くスペースの確保が大変である。 「ずんぐりむっくで、変」 自分で作っておいてケタケタと指差して笑う彼女。さすがに苦笑いを浮かべて文句の一つでも言いたいところだが、向けられた屈託のない笑顔に何か言える訳がなかった。 「ま、笑ってくれるなら多少の不便なんて良いか」 実際問題温かいし、彼女が笑ってくれるならそれがいい。 俺は黙って笑われる事にした。 高校三年の春にも、マフラーは没収され、誕生日になると魔改造されて帰ってきた。 通常の150センチメートルの三倍である。450センチメートルである。更に長くなったマフラーはいよいよ巻きづらく、しかし断る事は出来そうになかった。 延び延びになったマフラーを持て余していると、その端っこを彼女が握って自分の首に巻き付けた。 「これで暖かいね」 えへへと照れくさそうに笑う彼女。天使か。 いつも見ている笑顔が近い近い。眩しくて、嬉しくて、落ち着かない。 そうして終えた高校生活。 同じ大学へ進学し、その後も生活と共にマフラーは伸びていった。 一人で巻くにはしんどいが、二人で並んで一緒に巻いて歩くには丁度良い。もしやこれを狙っていたのだろうか。そんな事も考えたが、彼女の様子から察するにそんな事はなかった。 超長いマフラーを着けて歩く二人は構内でもとても目立つ。すっかり有名人になってしまった。は、恥ずかしい…… 肝心のマフラーは、最初の頃から数年、彼女の編み物の腕もすっかり上達して、よれよれで不格好の部分が目立たなくなる程マフラーは立派なものになっていた。 「この最初の端の部分、もう解いたら?」 心配になって声を掛ける。ただでさえよれよれだったというのに、長い間使っているせいでくたくたになってきている。 「ううん、これも記録だから」 半ば意地になっているようだったが、それもそうだとそのままにした。 一般的なマフラーの長さは大体150センチ。そこに毎年同じだけの長さが追加されていく。 600センチ、900センチ……大学卒業の頃には10メートルを優に超えていた。 冬になる度、名物とばかりに引っ張り出して、友達とワイワイ騒ぎながらマフラーにくるまって写真を撮るのが定番になっていった。 そんな時でも、一番端のよれよれの部分は俺だけの物だったが。絶対譲らない。 7年ずっと一緒だったが、就職は別々な会社となった。 1年目なんてのは、まあ覚える事ばかりで大変だ。お互い時間なんて作る余裕もなく、時々のメールだけで済ませてしまう。冬になってもマフラーを引っ張り出す余裕もない。 就職して二年目の春。 どれだけの間、彼女の顔を見ていないだろう。彼女の声を聞いていないだろう。分からなくなる程、会っていない。 メールだけは辛うじて続けているが、それでも週に何回かだ。内容も仕事の愚痴が主で、それ以上の会話はない。 ……もう関係なんて続ける必要があるだろうか。 疲れ切っていた俺は、彼女との関係を終わらせる事を決意した。 沈黙。重苦しい空気。俺が作った物だ。俺が、八年にも亘ったこの関係を終わらせないと。 「もうしょっちゅうは会えないし、君を縛りたくない。……別れよう」 久々に会う彼女の言いたい事はこんな事じゃないはずだ。だが、けじめを付けないと、彼女はいつまでも俺を待ち続けてしまう。 絞り出すように言う俺に、彼女はしばらくの無言の後、答えた。 「……分かった。その代わり、マフラーは返して。手渡しで」 手渡しで、という条件に首を傾げたが、了承し、日を改めて渡す事となった。 その晩、家に帰ってマフラーを探し出す。 「……あった」 去年出さなかったから、タンスの奥の、段ボールの中にぎっしりと詰まっていた。 当初150センチメートルだったマフラーは、今や13メートルを越える大作となり、重量も1kgを越えていた。 箱は1kgしかないはずなのに、ずしりと重たい。 このまま渡すのも忍びない。箱から引っ張り出して……と手に取った瞬間、脳に電撃が走った。 流れ込んでくるのは、懐かしい思い出たち。 ――大学の卒業式の日、クラスのみんなで巻いて撮った記念写真。 ――人目にも慣れてきて、すっかり大学の名物になった頃。 ――先輩や同窓生達に冷やかされる日々。 ――高校の懐かしい日々。 ――友達の顔。 ――伸び始めたマフラー。 手に取ったマフラーを少しずつ、上手な方から辿っていく。そのマフラーの出来映えは段々と下手くそになっていく。 そして初めてマフラーをもらった日。 受け取った瞬間、とても嬉しかったんだ。 最初のよれよれの部分は使い込んだ分、更によれよれで、くたくたになっていた。その先の、段々と成長していった部分も、一つ一つに思い出がある。 俺は今、この思い出を切り捨てて良いのか? この胸にある気持ちを、無視して良いのか? 暗い部屋で一人、考えを巡らし続ける。 マフラーを携えて、再び彼女に会う。 心は決まっていた。 神妙な面もちの彼女に、俺は心の内を素直に伝えた。 「ごめん、やっぱり別れたくない。一緒にいよう」 自然と言葉に出た。彼女は少し驚いていたけど、ぱあっと笑顔を咲かせてみせた。 「うん」 あぁ、やっぱりこの人を手放してはいけないんだ。 根拠はないけど、確かにそう強く感じた。 それから僕らはすぐに仕事を見直して、一緒に住むように手筈し、そしてすぐさま結婚した。 結婚式には懐かしい面々。その全員が、「あのマフラー、どうなった!?」と聞いてきた。もちろん用意して、一笑いを取ってやった。 やがて子供が生まれ、忙しいけども充実した日々を過ごした。 その間にも、マフラーは毎年伸び続けた。 子供と一緒に巻きながら記念撮影をしたり、あちこち出掛けたりした。 人並みに反抗期やトラブルも乗り越えて、独り立ちしていった。 マフラーはどこまでも伸びていった。 やがて孫を連れて帰ってきて、気がついたらお祖父ちゃんになっていた。 お婆ちゃんになった彼女は、それでもせっせとマフラーを編み続けた。 「もう伸びすぎて、巻けないよ。マフラーの重さじゃないし」 「あら、そう思って最近じゃ軽い素材を使ってるのよ。気がつかなかった?」 おっと藪蛇。これをネタにしばらく彼女にはいじくり回される事になってしまった。 子供達の里帰りの度に、マフラーを巻いて記念撮影。 それからすぐに結婚し、子供が生まれた。 苦労ばかり続いたが、それでも彼女は欠かさずマフラーを伸ばした。 その子が育ち、家を出た。 孫を連れて帰ってきて、あっという間にお祖父ちゃんになった。その間中、妻はマフラーを伸ばし続けた。 「もう重たくて付けられないよ」 「あら、最近は軽めの素材を使ってるから大丈夫よ」 子供の里帰りの度に、みんなですっかり長くなったマフラーを巻いて写真を撮るのが定番になっていた。 マフラーは伸び続けた。定年退職後は、暇さえあれば伸ばしている。結果としてマフラーは100メートルを超え、重さはおよそマフラーの範疇に収まる物ではなかった。 「これはもうマフラーって呼べないんじゃないのか?」 「あら、じゃあもう巻いてくれないんですか?」 しゅん、としょげたようにする妻。これは彼女の必殺技である。こんなの見たら、断る事なんて出来ないじゃないか! 同い年でもうしわくちゃの顔ではあるけども、いつまで経っても惚れた弱みは変わらないのである。 年々衰える筋肉に、10kgのマフラーは大変厳しい。が、これも家庭円満の為である。俺は巻き続けた。首だけでは当然足りないので、体中に巻き付けた。マフラー人間としてすっかり有名になったが、トイレには困った。 ひいひい言いながら、それでも幸せな気持ちは昔と少しも変わらない。 幸せだ。俺は、幸せだ。 幸せは、いつまでもは続かない。 彼女は呆気なく病気で逝ってしまった。 もう伸びる事のないマフラー。彼女の気配を、息遣いを、そこからは感じる事が出来る。 握りしめると温もりと共に思い出が蘇る。手から体に、心に伝わってくる。 俺は―― なあ。 俺もきっと、もうすぐ逝くぞ。 寂しいだろう。俺がずっと一緒だったから。 俺は……俺は寂しいぞ。隣りに君がいないなんて。 マフラーをもっと伸ばしておくれよ。 君の愛の長さを感じたいんだ。 同じ時間を生きていたいんだ。 ……もう、それは叶わないんだね? ……そっちは寒くないかい? そうだ、俺がそっちに行く時に、持っていく事にしよう。 この身を焼かれて、骨だけになって、寒々しくなったなら、お墓に入れてもらおう。 それならきっと、ずっと一緒に温かいだろうから。 思い出と共に、愛と共に。 永遠に。 一緒に。 そうした幸せな日々は、いつまでも続く物ではない。 彼女は病気で呆気なく逝ってしまった。 悲しかった。 マフラーがもう伸びる事はない。 彼女の気配はそこから感じる。 思い出が手に、腕に、心に流れる。 なあ。 俺ももうすぐ逝くぞ。 なあに、二人なら寂しくないだろう。 そうだ、墓にマフラーを入れてもらおう。 骨だけになっても、それならきっと温かいから。
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