過去からの手紙 筆名 出雲 隼凱 ひしめき合う乾いた薄茶色の枯れ葉が校庭のあちらこちらに植えられた桜の木の枝を覆い隠していた。広々と枝を広げ我が物顔で縄張りを主張するその桜の老木は自らの足元に重厚な陰を落としていた。子供達は素肌を切る冷たくなり始めた風を物ともせずに校庭で授業開始前のひと時を楽しんでいた。その冷たい風が校庭を吹き抜けていく度にざわざわと枝々は鳴り、振り落とされた薄茶色の葉はゆっくりと不規則な動きをしながら茶褐色の地面へと舞い踊り落ちていった。乾き切った風は校庭の土埃を巻きあげ、そこで遊ぶ全ての生徒をうっすらと薄茶色のベールで包み込んでいた。手の届きそうにない遠く高い空には白い雲ひとつ浮かんではいなかった。 白く塗られた校舎のベランダに、肩を並べて話す2人の女の子の姿があった。 「明日香、もう手紙書き終わったの」 姉の美咲の問いに妹の明日香は首を横に振りながら答えた。 「ううん…、まだ。美咲はもう書き終わったの」 美咲は自信満々の表情を顔に浮かべた。 「当たり前でしょ。あんなの簡単じゃない。明日香も早く書いちゃいなさいよ」 自画自賛の生々しい臭いが美咲の体全体を包み漂っていた。明日香は何も言わずにゆっくりと俯いた。明日香は姉の自信に満ちた言葉に自分を卑下しうなづいた訳ではなかった。校庭を囲む緑色の金網の向こう側にランドセルを背負って歩く小さな小学生の男の子の姿が眼に映ったからだった。遅刻して親に叱られたのか、男の子はうつむき加減でひとり寂しく歩いていた。明日香の胸の中に寂しく嫌な思い出がゆっくりと蘇ってきた。 夏の終わりを告げる遥か上空の冷たい風が台風を遠くに押しやっていた。その台風の余韻が送り出す強く混沌とした風が木々をざわめかせ耳に届く筈の様々な音を遮断していた。鳥も虫も全て鳴くのを止め木々の枝深く身を潜めていた。空間を切り裂く高く鋭い風の音だけがただひたすら耳に鳴り響いていた。 床に這いつくばった重い空気の塊が全ての音をその内面に吸引するかのように家の中は静まり返っていた。外の強い風の音でさえまったくと言っていいほど聞こえなかった。その重い空気がそこに存在する全ての物に重圧をかけていた。魂でさえも縛り付けられ自由を奪われてしまうようなずっしりと重い世界が家全体に余す所無く広がっていた。家の内部には二つの部屋しか作られていなかった。一つは寝室に使われもう一つは居間兼寝室に使われていた。それらに小さな浴室とトイレ、台所を付け加えられた暗く小さなその家は親子4人が生活していくための機能を十分に備えていた。 母親は買い物に出かけていた。3人の兄妹は遊び疲れて居間の畳の上で眠っていた。ふと何か異様な雰囲気を感じ取ったのか、姉の隣で眠っていた妹が眼を覚ました。妹は腕を突っ張り上体を床から離し、首を精一杯伸ばして隣で寝ている姉の体の向こう側を覗いてみた。そこに妹の探している大切なものは見つからなかった。妹は右手の甲で眼を2,3度擦るとゆっくりと立ち上がり台所へ歩いて行った。台所にも妹の探し物は見つからなかった。妹は小さく狭い玄関に並べられた自分の靴にその小さな足を中途半端に差し込んだ。ドアを開けて外には出ずに頭だけを覗かせ外の路地を見回してみた。路地には数人の子供が強い風にもめげず遊び回っていた。聞こえてくる筈の子供達の奇声は強風にもぎ取られ何処へともなく吸い取られていった。その遊び回る子供達の中にもやはり妹の探しているものは見つからなかった。妹は居間に戻ると寝室と居間を仕切っている襖をほんの少し開いてみた。襖が敷居を滑る短く低い音が部屋の重い空気に吸い込まれていった。そのできた隙間に小さな頭を差し込み中を覗いてみた。やはりそれは見つからなかった。妹は小さく首を傾げた。襖をゆっくりと元の位置に戻すとしばらくの間考えていた。嫌な臭いを纏う歪んだ空気が全身を包んだような気がした。妹は再び台所へ歩いていった。台所から浴室の方に視線を移した。いつもは閉まっている筈のそのドアはまるで何かを手招きするかのようにほんの少しだけ開いていた。妹はその中途半端に開いたドアへと恐る恐る近付いていった。 「一隆…」 妹のその小さな声も部屋の重い空気に吸引されていった。返事は無かった。妹は仕方なくそのドアをゆっくりと開いた。洗い場にはその影は見当たらなかった。濡れた洗い場の床が窓から差し込む薄暗い光を反射していた。視線を浴槽に移してみると、いつもは水の溜められていない浴槽の縁から水がゆっくりと零れ落ちていた。妹は濡れた洗い場に足を踏み入れると、冷たい水で満たされた浴槽の中を覗いてみた。妹の無心で汚れのない健気な視線と浴槽の水の底で口を薄っすらと開きながら仰向けになっている一隆の視点の定まらない視線が一直線に重なった。妹の首は無意識に右へ左へ傾いていた。妹は驚きもせずにしばらくの間それを凝視していた。そしてそれが大切な弟の一隆の身体だとやっと判断できた時、妹はそこから無意識のうちに立ち去っていた。濡れた小さな素足が台所の床でぺたぺたと音を立てた。板で張られた冷たい台所の床には妹の濡れた足跡が残った。再び姉の横に静かに寝転がると次第に意識は遠退いていった。 「明日香、何考えてるのよ。授業のチャイム鳴ったよ」 明日香は美咲と廊下で別れると慌てることも無く自分の教室へと戻っていった。 教室にはまだ教師は来ていなかった。他の生徒達はそれぞれの席には座っていたものの、隣同士でおしゃべりをしたり、冗談を言い合ったりして教室の中は騒々しかった。明日香は教室の後の壁に貼り付けられた大きな黒板に眼をやった。『未来の自分に手紙を書こう』という大きな文字が生徒達の小さな落書きに混じって書かれていた。その下に小さく日付が付け加えられていた。締め切りの期日が迫っていた。その黒板の手前の鞄を入れるための長い棚の上には大き目の段ボール箱が無造作に置かれていた。段ボールはまるで豆鉄砲を喰らって呆気に取られる鳩のようにぽっかりと細長い長方形の口を開いていた。 自分の席に座った明日香は隣に座っている仲良しの同級生の女の子と話し始めた。明日香は他の同級生とは殆ど口を利こうとはしなかった。その女の子とは幼稚園の頃からいつも一緒だったこともあって、中学校に入学しても同じクラスに編入されたことを喜んでいた。 「もう手紙書いた…、ゆか…」 明日香がそう問いかけようとした時、丁度数学の教師が教室の前の引き戸を開けるガラガラという音が教室に響いた。それと同時に形を持つ筈のない凝縮された静寂が教室の床を覆い尽くした。全ての生徒の口は瞬時に硬く閉ざされていた。 第一章 ー 紐 ー へ https://ofuse.me/e/16537
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