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2022/07/22 05:32

過去からの手紙 ー 第一章 ー 紐

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 桜の花びらが虚しく枝から離れひらひらと路面に落ちていった。散った花びらは歩道の殆どを覆い隠そうとしていた。今まで眼を楽しませてくれていた無数の小さな薄いピンク色の花びらが織り成す麗美な絨毯を、道行く人々は私には関係ないとでも言うかのようにいとも容易く踏みにじっていった。それはまるで苦しみもがき死に行く者達に止めを刺しているかのようにも見えた。空は低く薄い灰色の光が地上を覆い尽くしていた。  古い家並みの中にその一軒の家はあった。一見何の変哲も無い普通の一軒屋だった。中は薄暗くひっそりと静まり返っていた。仄かな闇が家の隅々までをも蝕んでいた。カーテンは全て閉め切られ、その裾を何かに引っ張られてでもいるかのように真っ直ぐと重く垂れ下がり動こうとはしなかった。カーテンを通して家の中に入ってくる微かな光が虚無の影を居間の床に投げかけていた。時折部屋の隅を鼠が何かを捜し求めるかのように途切れ途切れに走って行った。鼠はまるで神隠しにでもあったかのように一瞬で姿を消した。台所の蛇口から一滴一滴したたり落ちる水の雫がステンレスのシンクの底にぶつかり低く鈍い金属音を立てていた。4畳半の寝室の布団はじっとりと湿りを含み微かにカビの臭いが立ち始めていた。寝室の襖は開けっ放しでそのカビの臭いがゆっくりと這うように家の床全てを覆い尽くそうとしていた。浴室の混合水栓からは途切れることなく針のように細い水が浴槽の溜まった水へと吸い込まれていく。浴槽に溜められた水は表面は無色透明だったが底の方に行くに連れて薄赤色が暗黒色へと変わっていった。限りの無い闇がそこに存在していた。その闇に囚われれば如何なる物も這い上がることができないような、容赦のない無情な色を呈していた。浴槽の縁から水がゆっくりと零れ落ちていく。その落ちていく水に混じる何本もの長い黒い糸のような物がその水の揺れに共鳴するかのようにうねっていた。その糸をゆっくりと辿っていくと、そこにはふやけ切った女の顔があった。ところどころ肉が削げ落ちていた。その顔は薄赤い血の色に染められ、細長く薄っすらと開かれた眼は朧に光りを放ち、変色した唇から覗かせたその白い歯が何かを嘲り笑っているかのように見えた。  市居京香の遺体が発見されたのは桜の散り始めた4月の中旬だった。大学2年生の双子姉妹の旅行中の出来事だった。司法解剖の結果、死因は左手首の動脈切断による出血多量、遺書は残されていなかったが、家族の証言を基に自殺と断定された。市居京香の夫は9年前に既に海水浴場で溺死していた。残された双子の姉妹が簡単な葬儀を済ませた。その後その家は不動産会社に売買物件として委託され娘達はそれぞれの生活へと戻って行った。    大学を卒業したての香堂正明は引越しを手伝うために二年前大学のコンパで知り合った恋人のアパートへと道を急いでいた。約束の時間から既に1時間余りが過ぎてしまっていた。香堂は大学在学中に就職先を見つけることができずに、已むを得ず就職活動を続けていた。毎日の就職活動に手応えを感じられず、捌け口の見つからない苛立ちを胸の中に募らせていた。応募先の会社の面接が長引いたために恋人との約束を破ることになってしまい、その倍増した苛立ちを抑えることに集中しながら歩いていた。会社の面接に勝利の手応えを感じ取ることはできなかった。桜の花びらが路上に作り出した薄く壊れやすい麗美な絨毯も香堂の眼には入らなかった。母親を亡くして間もない恋人のことを考えると、どんな理由であろうと約束を破ってしまった自分が情けなく感じられ、余計に苛立ちが増した。訪問先の会社からの道をいそいそと足を運びながら恋人の怒った横顔が頭の中を横切っていった。その横顔がフェードアウトしたかと思うと、続け様に母親を亡くして悲しんでいる恋人の顔がゆっくりとフェードインするスライドショーのように脳裏に滑り込んできた。駅の自動券売機の前に並んだ利用客の長蛇の列を見て再び憤りを感じた。 「ついてない時は悪いことが重なるもんだ」 香堂は心の中で無意識に愚痴っていた。  やっと恋人の借りたアパートに着いた時には約束の時間を2時間も経過してしまっていた。香堂は無意識にそのアパートの階段を駆け上っていた。203号室のドアの前に立つのと同時にドアの隣に設置されている呼鈴を力強く押した。部屋の中で微かな物音がするのが聞こえたが返事は無かった。香堂は中にいる筈の恋人に分かるように自分から先に声を出した。 「俺だよ、俺」 階段を駆け上ったせいで声を出した後少し息苦しくなった。今度は本当に中で大きな物音がして返事が声となって返ってきた。 「正明…、ちょっと待ってて」 恋人が玄関のドアを開けるまでにかなりの時間がかかった。香堂は恋人が寝ていたのだろうと身勝手な想像をしていた。寝ている想像から始めて見せることのできる顔を作り、髪の毛を梳かし、服を着替えて等と考えていると、ドアノブの鍵がガチャっと短い音を立てた。ドアがゆっくりと開くと、まだ顔の表情に寂しさを隠し切れない恋人の市居明日香の姿がそこにあった。香堂は明日香の眼を見て自分の想像が正しかったことを確信した。ただ服は着替えてはいないようだった。 「ごめん、遅くなった」 明日香は首を小さく横に振ると、ひと言も口にせずにドアノブを香堂に預けて自分だけ先に部屋へ戻っていった。香堂は玄関で靴を脱ぎドアの鍵を閉めると明日香のいる部屋の方へ向き直った。明日香は既に座布団の上に座って香堂の動きを窺っているようだった。香堂は最初明日香が怒っているのかと思っていた。しかしそれが間違っているということは直ぐに分かった。香堂が明日香の前に座ると明日香の眼からぽろぽろと大粒の涙が零れ始めた。明日香は香堂の胸に顔を押し付けて抱きついてきた。約束の時間に遅れるということがこれ程まで情けなく感じたことは今までに一度も無かった。心の底から申し訳ないことをしたと思った。しかしその心とは裏腹に香堂の口は勝手に動き出した。 「お前まだ全然梱包解いてないじゃないか」 増してや母親を亡くして悲しんでいる明日香にかけるべき言葉が見つからなかった。明日香の啜り泣きが止むのを待つこと以外、他にできることは何も無かった。しばらくふたりでそのまま抱き合っていたが、とうとう明日香の方が泣き疲れたのか、香堂の胸から顔を離すと急にしかめ面を作って見せた。 「何で遅れたの」 話が不意に逸らされて香堂は用意していた言い訳を思い出すことができなかった。香堂があたふたしている間に明日香は立ち上がり怒った振りをして積まれた段ボールの梱包を解き始めた。 「何だよ…、怒ってんのか」 香堂も直ぐに立ち上がると、段ボールに入っている物を引っ張り出す手伝いをし始めた。俯きながら手を動かす明日香の顔を下から覗き見るとニヤニヤと笑っているのが見えた。香堂は仕事の手を速めた。ふたりはそのまま黙って仕事をし続けた。ゆっくりと波打つような暖かい幸福感がふたりを包み込んでいた。  香堂が最後の段ボールの蓋を開けた。背を向けていた明日香がガムテープを引き剥がすベリベリという音に気付き振り返ると、ほんの僅かだが驚いたように眼を大きくして見せた。 「開けちゃったの…。それ開けなくても良かったのに」 明日香はその段ボールの隣に座った。香堂も屈んだ姿勢から腰を下ろした。明日香は段ボールの中に入っている一番上の異国の『農村の風景』が描かれた箱を取り出した。ジグソーパズルの箱だった。香堂はその絵に傾けられる憧れにも似た明日香の瞳をじっと見つめていた。 「これね、前に一度だけ組み合わせたの。でもまたばらばらにして箱に戻してあるの」 香堂は首を伸ばして段ボールの中を覗いた。そこにも絵の描かれた箱が入っていた。『ギターを弾く男』の絵だった。 「これ全部パズルが入ってるのか」 香堂は箱の中を覗きながら明日香に訊ねた。 「そうよ全部前に一度だけ組み合わせたのよ。でも今はばらばら。これね、私の一番好きな絵なの…」 明日香はしばらくその箱の絵柄を見つめていたが、それを元に戻すと段ボールを閉じた。 「やっと終わったな。俺明日早いから今日は帰るよ」 香堂は立ち上がろうとしたが、明日香の手が香堂の腕を掴みそれを妨げた。明日香は小さく首を横に振った。香堂は明日香の悲しそうな顔を見つめた。言葉が見つからなかった。かりそめの優しい言葉など一切無意味な物のように感じられた。小さな明日香の手を握ると、またそこに座り込みゆっくりとその小さな身体を抱き寄せた。そうすることで悲しみという暗闇から忍び込んでくる醜悪な手が明日香の心を奪い去ろうとする狡猾な行為を遮断できるような気がした。そうしてふたりはしばらくの間そのまま動こうとはしなかった。明日香の眼から再び大粒の涙が頬を伝って香堂の胸を濡らしていった。  泣き止んだ明日香がエプロンを掛けて人参、玉ねぎ、ジャガイモの皮を剥き始めた。香堂はしばらくの間それを隣で眺めていた。何を料理するのかは訊かなかった。香堂は明日香の包丁を持つ手さばきを見ながら何ができるのか楽しみに見ていた。結局明日香は短い時間でタイ風カレーを作って見せた。 「インスタントカレーよ。キーマカレーって言うみたい。正明忙しいんでしょう。これ食べたら直ぐに帰ってね」 香堂は明日香の言葉も合わせて楽しんでいた。明日香の心とは裏腹の駆け引きのような言葉に香堂の心は柔らかい光で照らされ、そしてあらわれていった。声には何処となく憎めない不思議なトーンが含まれ漂っていた。 「明日香こんな料理どこで覚えたんだ」 香堂は不思議に思って訊ねた。明日香はテーブルの反対側に座ってカレーを少なめに載せたスプーンを口に運んでいた。 「テレビで普通の女の人が料理しているのを見たの。簡単そうだったから覚えて自分で料理してみようって思っただけよ。ちょっとだけ毒が入ってるから美味しいでしょう。もうそろそろ毒が回ってくる頃よ。ちょっとだけ手が痺れるでしょう」 明日香はわざと小悪魔のような微かな笑みを作って見せたかと思うと、香堂が手に持ったスプーンが口の前で止まっているのを見て小さな声を出して笑い始めた。香堂はそれを見て再びスプーンに載っているカレーを口に入れてにっこり嫌味を含めた笑顔を作って見せた。その後ふたりは黙って食べ続けた。部屋にはさっき置いたばかりのテレビの音声だけが鳴り響いていた。  小さな布団にふたり並んで入った。明日香の冷たい体が香堂の心の中にまでその寂しさを伝えてきた。香堂の左腕に明日香の顔があった。香堂は明日香の冷たい足を温めようと自分の足を明日香のそれに絡めた。香堂の右足に明日香の足の冷たさがひしひしと伝わってきた。体が温まってきたのか、明日香が口を開いた。 「私達ね、本当は5人家族だったの」 香堂は5人という明日香の言葉に違和感を感じた。5人ということは両親と双子の姉妹、それと残ったもう1人誰かいたのだろう。それが誰なのかを香堂は知らなかった。しかし明日香の告白めいた匂いを伴う話し方に口を挟む必要がないことを瞬時に悟った。 「ふうん…」 「私達本当は3人兄妹だったの。私達の下に弟が一人いたの。でもね…、お母さんが買い物で留守の時にお風呂で溺れて死んじゃったの。私と姉さんで面倒見なきゃならなかったのに、私、弟が溺れている間寝てたの。悲しかった…。とても辛かったわ。結局私達双子姉妹だけになっちゃった」 香堂は明日香の言葉の端々に悲しみが感じられ、遣る瀬無い気持ちになった。掛けてあげるべき言葉は心の何処かにあるのであろうが、それを見つけ出して口にすることができなかった。軽はずみな言葉をかけるより黙っている方が自分の心が伝わるような気もした。香堂は明日香を両手でそっと抱きしめた。 「今日はもう寝よう。明日早いし」 香堂が優しくそう呟くと明日香はそれ以上話さなくなった。沈黙と静寂がふたりの心を結び付けているかのようだった。しばらくして明日香の寝息が聞こえてきたが、香堂はなかなか眠りに就くことができなかった。耳元に聞こえてくる明日香の寝息がいつまでも香堂の胸を締め付けていた。  その週の土曜、ふたりは明日香の姉である市居美咲の引越し先のアパートへと初春の心地いい風を背中に受けながら道を歩いていた。行き交う人々はゴールデンウィーク前とあって、それまでに終わらせなければならない仕事でもあるのか忙しそうに歩いていた。空は青く高くいくら手を伸ばしても届きそうになかった。途切れ途切れの薄い雲がその空をより高く見せていた。  美咲の引っ越し先のアパートは明日香のそれと然程離れてはいなかった。学部でこそ違うものの同じ大学に通っている2人だったが、一緒に暮らしていることに飽きたのか、話し合って別々に生活することを決めたのだった。  香堂と明日香が美咲のアパートに着いた時美咲は洗濯をしていた。洗濯を終えると美咲が料理を作ってくれた。 「香堂さんはスパゲティーって好きな方なの。口に合えばいいけど。私料理下手だから口に合わなくても怒らないでくださいね」 美咲はそう言うとフォークをくるくると回し始めた。香堂は回していたフォークを止めて美咲の問いに答えた。 「何言ってんですか美咲さん。美咲さんのスパゲティーすごく美味しいじゃないですか。まだ一口しか食べてないけど御代わりしようと思ってたところですよ。実は私スパゲティー大好きなんですよ。長いものは巻けってね…」 美咲はほんの少しだけ笑って見せた。その微笑に何処と無く悲しみが漂っているように見えた。香堂はさっきから隣で浮かない顔をしている明日香を少しでも笑わせようと思って冗談を言ったつもりだった。しかし明日香の耳には全く届いていないようだった。その眼が何処か遠くを見つめているように香堂の眼には映った。香堂は仕方なくフォークに巻きついたカルボナーラを口に運んだ。お世辞ではなく本当に美味しかった。3人はその後何も話さずにゆっくりとスパゲティーを平らげた。  双子の姉妹が揃っているのを見るのは香堂にとってこれが2度目のことだった。2人の洋服が同じものだとしたらまったくどっちがどっちなのか区別することができない程瓜二つの双子の姉妹だった。ただその時は2人とも寂しそうな顔をしていた。あえて言うならばこの時香堂が見た双子の相違点は、明日香の眼に何か不安のようなものが滲み出ていたことだけだった。それが香堂の胸に焼きついて離れようとはしなかった。  然程乗客の乗っていない電車のシートに2人は隣り合わせで座った。2人の正面に恐らく夫婦であろう初老の品のいい男女が座っていた。男のそのゆっくりとした動きが厳格さを醸し出し、女のその柔らかい動きが優しさを醸し出していた。香堂はしばらくの間その2人を眺めていた。女が顔をほんの少しだけ男の方に向けるとその耳元で何かを囁いている。男はそれを聞いて小さく頷いている。もう一度女が何かを囁くと2人は嫌味のない笑顔を浮かべて声を立てずに笑い始めた。品のある老夫婦の笑顔だからこそ嫌味の無い和やかな雰囲気が滲み出ていた。その2人の仕草を見て香堂は2人が夫婦なのだと確信した。そして老夫婦の姿に自分と明日香のそれを重ね見ていた。ふと明日香の顔を覗いてみるとまだ浮かない顔をしている。香堂は明日香の耳元で囁いた。 「明日香、俺達の前にいるあの老夫婦、何だかいい感じだな」 老夫婦は囁き合いながら再び嫌味の無い小さな笑顔を顔に浮かべていた。明日香は視線をその老夫婦の方へ向けた。そして小さく頷いて見せた。 「なあ、俺達がこうやってあの老夫婦を目の前にして囁きあってると、何だか未来を映し出す鏡を見てるような気がしないか」 明日香の顔にほんの小さな嫌味の無い笑顔が浮かんだ。香堂は話を続けた。 「そうするとあの老夫婦は俺達のことを見て過去を映し出す鏡を見ながら囁きあってるってことだろ。あのおじさんが若かった頃俺みたいに格好良かったとは思えないよな…。そうだろ」 明日香の肘が香堂の脇腹を軽く突いた。ふたりは顔を向かい合わせて微笑んだ。明日香は頭を香堂の肩に預けた。香堂は自分達の笑顔だって満更じゃないと変な自信を抱いていた。そしてふたりはいつまでも電車の揺れに身を任せながら嫌味の無い微笑を顔に浮かべていた。電車はオレンジ色を呈してきた空間の中を様々な過去と未来を載せて走り抜けて行った。  ハンバーガーショップのテーブルには数人の客が座っていた。ふたりは夕飯を簡単に済ませてしまおうとその店に立ち寄ったのだ。香堂はカウンターで注文をした。明日香の食べたいと言っていたメニューは少し時間がかかると言われたが、この後特別予定も無かったので構わないと答えた。  香堂が注文をし終わってテーブルに戻ると明日香の姿はそこには無かった。香堂は辺りを見回してみたがやはり明日香の姿を確認することはできなかった。 「どこ行ったんだ、あいつ…」 他人に聞こえない程度に小さく呟いた。恐らくトイレにでも行っているのだろうと思い、自分も店に入る前から我慢していた用を足すことにした。本当のところ香堂はハンバーガーがあまり好きではなかった。明日香に誘われたことと自分の用を足す目的が重なって結局店に入ることにしたのだった。香堂はもしかすると明日香も自分と同じ目的だったのではないかと心の中で笑っていた。  男と女だと分かる絵の描かれたプラスチックの札を見つけるとそちらへ向かって歩いて行った。二つのトイレのドアが細長い通路を挟んで向かい合わせで設置されていた。右側が紳士用、左側が婦人用で、やはりプラスチックの小さな札がそのドアに貼り付けられていた。香堂が用を足し終わってそのドアから出てくると、真正面に見える婦人用の札が貼られたドアの向こうから明日香のものだと思われる微かな声が聞こえてきた。誰か知り合いと話しているのだろうか。何を話しているのかは聞き取れなかったが、確かに明日香の声だというのは分かった。あまり婦人用のトイレを前にして長居もできないと思った香堂は他の客のテーブルの間を縫うようにして自分達のテーブルへと戻ってきた。周りのテーブルに座っているのも殆どが若いニ人連れだった。カップルもいれば、女同士もいた。皆ハンバーガーを頬張り、然程面白くもない話をして週末のひと時を楽しんでいるようだった。不思議と男同士の客はいなかった。香堂は自分も男同士でハンバーガーショップに入った経験が無いことを不思議に思った。  しばらくすると明日香もその様々な客の座るテーブルの間を縫ううようにして戻ってきた。 「明日香、トイレに誰か知り合いでもいたのか」 明日香は最初香堂が何を言っているのか理解できないような表情を顔に浮べた。小さな間ができたが恥ずかしそうに口を開いた。 「え…、正明聞いてたの。恥ずかしい…。独り言よ独り言。私だってたまには独り言くらい言うわよ。気にしないで」 明日香はぎこちない笑みを顔に浮かべていた。 「あ、来たわよ」 明日香が香堂の背後を指差した。丁度ウェイトレスが盆に注文の品を載せて香堂たちのテーブルに向かってくるところだった。2人はテレビドラマや明日香の大学の友達のことを話しながらゆっくりとハンバーガーを平らげた。ハンバーガーショップの窓から時折手を繋いで歩くカップルが通り過ぎていくのが見えた。そのカップル達を除けば、殆どの人たちは土曜日の夜だというのに忙しそうに歩いていた。香堂は明日香の顔を見ながら胸に沸いてくる幸福感を味わっていた。    紫陽花の花に雨がポツリと振り落ちその葉に伝った。道を行き交う人々は水溜りに視線を配り傘を片手に寂しそうに俯きながら歩いていた。空はどこまでも薄暗くべったりとした灰色を帯びていた。明日香の母、市居京香の自殺から2ヶ月余りが過ぎ去ろうとしていた。  薄いベージュ色で塗られたアパートの砂利を敷き詰めた駐車場に、車両後部にアルミ製の硬い積載ボックスを載せた宅配便のトラックが滑り込んできた。アパートの壁には青葉荘と書かれてある安物の看板が取り付けてあった。車両の重みが砂利を押し潰し、ほんの短い時間ぎしぎしという鈍く重い連続音を発して止んだ。勢いよく運転席のドアが開き、制服姿の帽子を深く被った配達員が降り立った。砂利は今度はほんの一瞬だけ大きな音を発すると、その後短く小刻みな一定間隔の音を放った。配達員は観音開きの積載ボックスの扉の一方だけを開くとその中に音もなく飛び乗った。しばらくの間があったが、配達員が再び姿を現した時にはビニール袋に包まれた白い小包が右手に掴まれていた。小包はノートパソコンくらいの大きさだったが、見ている限りではかなり軽そうだった。配達員が荷台から飛び降りると再び砂利が大きく短い音を立てた。  駐車場から聞こえてくる砂利の音が気になった明日香はアパートの部屋の小さな台所の上にある窓の隙間からそれを窺っていた。インターネットのオークションで購入した品物が届くのを待ち望んでいた明日香の耳は聞き慣れないトラックのディーゼルエンジンの音に反応したのだった。明日香の目にアルミ色の積載ボックスがはっきりと映った。積載ボックスには有名な運送会社の名前が大きく書かれていた。鉄製の階段が子気味よくリズムに乗って鳴り響いた。それが止む頃明日香は玄関の前に移動するとドアベルが鳴るのをその場で立ちながら待った。硬い安全靴がコンクリートの廊下を踏む度に起きる振動がアパート全体に伝達されていった。その振動源が徐々に自分の部屋の方へ近付いてくるのが手に取るように分かった。そしてそれはついにドアの向こう側で止まって動かなくなった。それとほぼ同時にドアベルの音が部屋の壁に反響した。明日香は無言のままドアを開けた。 「あ…、こんにちは、市居明日香さんのお宅ですか。これお届け物です」 配達員は明日香の対応の早さに少し驚いたようで最初眼を丸くしていた。受け取りのサインをして貰う受領証を用意する暇もなかったようで、幾分慌てている様子だった。配達員はやっと一枚の紙とボールペンを引っ張り出すと、それを明日香に提示した。 「ここにサインか印鑑をお願いします」 明日香は配達員に受け取り印を請求されると、手に用意していた三文判で配達員の提示した受領証に押印した。配達員の手にしている小包の入れられたビニールには無数の雨の雫がついていた。配達員は明日香にそれを手渡すと直ぐにドアを閉めそこを去って行った。「ご苦労様」くらいの小さな労いの言葉を掛けてあげたかったが、そんな時間の欠片は微塵も見当たらなかった。明日香はその場に立ったままさっきとは逆のパターンで鳴り響くその音で配達員の行動を想像していたが、やがて短いリズムで砂利の鳴る音がしてディーゼルエンジンの始動する音が耳に届いてくると部屋の奥へと歩いて行った。  小包を包んでいるビニールを乾いた雑巾で拭くと、密着テープで貼り付けてあるその部分にカッターで切り込みを入れた。綺麗に包装された小包から服を脱がせるようにビニールを取り払った。すると今まではぼやけて分からなかった宛先人と差出し人のラベルがはっきりと見て取れた。宛先人は言うまでも無く明日香自身のものだった。差出し人はアジア・エンタープライズ「世界のパズル」とその会社の住所が書かれていた。それを見た明日香の顔に薄っすらと笑みが浮かんだ。包装紙が破れないようにゆっくりと剥がすとそれを丁寧に折り畳んだ。パズルの箱の表面には白い背景をバックに沢山の薔薇が水墨画のように白と黒で描かれていた。明日香はその箱の蓋をそっと引き上げた。パズル本体は牛の骨を使って作られているとインターネットオークションの商品説明に書かれてあったが、予想していた色よりもそれはもっと白かった。サイズはジグソーパズルのそれと同じ大きさで作られていた。一つ手に取ってみると、それはしっとりとして滑らかで指の先から肘の辺りまで心地よさが伝わってきた。明日香は立ち上がり部屋の隅に置かれたクローゼットから黒い色の布生地を取り出した。布は空気を掴んでゆっくりと空間を降りていきながらテーブルを覆い隠した。そしてさっきまで座っていた位置に再びゆっくりと座り直すとパズルを組み合わせ始めた。明日香の眼には底知れない悲しみが秘められていた。    濃い灰色を呈した雲が空を覆い隠していた。霧のような雨が街を朧に包み込み、人々の心も朧にさせた。  カーテンの締め切られたアパートの一室…。そのカーテンは既に四日間開かれていなかった。オレンジ色のカーテンは重力に任せ下へ下へと垂れ込んでいた。それは薄く硬い一枚の金属板のようにも見えた。古いアパートの外壁から外に張り出したテラスには数枚の服が干されていた。それらが雨の降る寂しい風景に違和感を与え、一層深い悲しみの色を投げかけていた。梅雨のせいか部屋の空気はかなりの湿りを含んでいた。丁寧に並べられた一組の靴が玄関のコンクリートの床で何通かのダイレクトメールに埋まりかけていた。綺麗に磨かれた台所のシンクには重ねられた大小の2枚の皿が洗われないまま放置されていた。その上にテーブルスプーンが1つと箸が一膳丁寧に並べて載せられていた。その隣にはグラスが一つ、やはり洗わずに置かれていた。その食器の間を縫うようにして数匹のゴキブリが見え隠れしていた。壁に掛けられた時計の秒針が発する機械音だけが重く静まり帰った部屋の空間へと染み込んで行った。布団は敷きっぱなしになっていた。枕はあるべき場所にあったが、その上に主の頭は乗っていなかった。テーブルの上にはテレビのリモコンが寂しそうに逆さまに伏せて置かれていた。ノートパソコンの充電完了を知らせる小さなランプだけが小さく密かな吐息を漏らしているように見えた。ユニットバスの床の排水口に湯船から流れ落ちた水が吸い込まれていく。水はやがて2階から1階へ真っ直ぐ落ち込む排水パイプに辿りつくと小さな音をたてて下へ下へと落ち込んでいった。蛇口からは砂時計の落ちる砂のように細い水が静かに湯船に注がれていた。湯船の縁から零れ落ちる水に共鳴するかのようにやはり黒い何本もの糸のような物がうねっていた。浴槽の水の底にもやはり容赦のない無情な暗黒の世界が息を潜めていた。その闇に身体だけを吸い取られ縛り付けられてしまったかのように、赤く染まった女の顔だけが視線の先にある見えない何かを嘲り笑っていた。  それから5日後の月曜の午後、梅雨のまだ明け切らない雨の日にアパートの一室で自殺した市居美咲の遺体が発見された。第一発見者は妹である明日香だった。  月曜の午後に予定された会社の面接に行く途中だった香堂は駅のホームで明日香からの電話を受けた。携帯電話の見えない小さなスピーカーから聞こえてくるその明日香の声にはありとあらゆる感情が渦巻いていた。その声が香堂の心と身体を硬直させていた。 「大丈夫か…。すぐ行く。警察には俺が電話する」 それだけ言うと携帯電話を折り畳んだ。急行列車がホームを勢いよく通過していった。埃の匂いを含んだ風がホームを這うように隅々まで行き届いていった。幾分混雑し始めたホームを移動しながら警察への電話を済ませると、以前訪れたことのある市居美咲のアパートへの道筋を頭の中に描いた。会社の面接に行く筈だった予定を変更した。駅構内の階段を大股で上り詰めると慌てても仕方がないことに気付き歩くスピードを緩めた。香堂の脳裏に明日香と同じ顔をした美咲の自殺したそれが一瞬浮かんで消えていった。香堂は歩きながら眼を閉じ、俯き加減の頭をゆっくり左右に振った。 「いったい何があったって言うんだ…」 コンクリートの通路はまるで病気の心臓の不規則な鼓動のように利用客の足が踏みつける度にどくどどくと振動していた。香堂のその小さな呟きはアリクイの細長い舌に絡み捕られ喰われる蟻のように足元の揺れる通路に一瞬で飲み込まれていった。  雨が降っているというのにアパートの前には既に人だかりができ様々な色の傘が犇めいていた。野次馬達はまるで餌をあさる鳩のように前後左右に首を振り、見えもしない何かを覗き込むように上下にそれを伸ばしたり引っ込めたりしていた。香堂は野次馬達ががやがやと騒いでいる間を縫うようにしてやっとの思いで階段へ辿り着いた。駐車場には既に警察のパトロールカーが待機していた。  階段を登ろうとすると、警備役なのか警察官が香堂の行く手を遮った。香堂は慌てていたのもあったが、自殺した美咲の妹である明日香の恋人なのだから入っていくのは当たり前だと思い込んでいた。思い切り階段を駆け上がろうとしたところで急に止められ、瞬時に身体を後へ仰け反らせた弾みで2,3歩後退りした。香堂は瞬時に頭に熱い血が流れ込んでいくのを感じた。 「申し訳ありません。ここからは立ち入り禁止です。ここの住人の方でしょうか」 香堂はその警察官に質問されてやっと自分が名札を付けている訳でもなく、増してやその警察官が自分と明日香の関係を知っている筈がないことも悟った。その警察官にとって自分は全くの不審者なのだと認識した。香堂は警察官に自殺した市居美咲との関係を詳しく説明した。当然明日香には来てくれる身寄りが一人も残されていないことも話した。説明しながら自分の無力さを感じずにはいられなかった。針のような苛立ちが胸の隅をちくちくと突つき始めた。 「少々お待ちください。いま確認を取ってみますので」 警察官は香堂に背を向けてトランシーバーの小さなマイクを指で摘むと2階で現場検証している刑事に、明日香に確認を取るよう話をしているようだった。警察官の耳に白いイヤホーンが差し込まれていたので警察官の相手が何を言っているのかは分からなかった。 「はい。了解しました」 そう言い終わるのと同時に警察官は香堂の方へ向き直った。その顔には幾分申し訳なさが浮かび上がっていた。 「失礼しました。どうぞ」 香堂は小さくお辞儀をすると階段を3段ずつ大股で駆け上がった。   玄関のドアは開け放たれていた。部屋にはシートが敷かれ、2人の刑事が土足で現場検証をしていた。香堂はその光景を見るのが生まれて初めてだった。玄関でどうしていいものか迷っていた。しかし中で待っている明日香のことを考えると居ても立ってもいられず土足のままそっとシートを踏んだ。シートがカサカサと乾いた音を立てた。入ってすぐ台所の前で屈んでいる婦人警官に宥められながら力なく座り込んで俯く明日香の姿が眼に入った。溶けた鉛が流れ込み急激に冷えて固まったような感覚が胸を締め付けた。婦人警官が香堂に気付いて振り返った。その優しい表情を浮かべた婦人警官の顔が幾分硬くなった気持ちを和らげてくれた。 「良かった。できたらパトカーの中で少し休ませてあげた方がいいでしょう。連れて行ってあげてください」 下にいる見張り役の警察官と話をしたのはどうやら刑事ではなくこの婦人警官のようだった。婦人警官の耳にも白いイヤホーンが差し込まれていた。香堂は小さく頷くと明日香の肩へゆっくり手を伸ばした。肩の小刻みな震えが香堂の手に伝わってきた。明日香は俯いた顔を持ち上げると再び啜り泣き始めた。香堂は再び自分の無力さが心の奥で渦巻き大きくなっていくのをじっと堪えた。 「明日香、大丈夫か…。下へ行こう」 明日香は大きく頷いて見せたが足がすくんでしまっているようでいつまでも立ち上がろうとしなかった。それに気付いた婦人警官が明日香に手を貸すのを見て香堂も明日香を抱えるように立たせた。明日香が香堂の首に手を回すと、香堂は明日香の腰に手を回した。明日香の身体が床からほぼ浮くくらいすれすれに抱え上げた。玄関に並べて置いてあった靴に明日香が自力で足を差し込むと、2人はゆっくりと一歩ずつ下へ下りて行った。階段の前でまだ見張り役をしている警察官が上にいる婦人警官から既に連絡を受けているのか、パトロールカーまで誘導してくれた。さっき階段を上がる時は苛立ちを感じたが、誘導してくれているその大きく真っ直ぐな背中を見ていると滲み出てくるような力強さを感じた。 「この人達は仕事なのにここまでしてくれているんだ…」 香堂は心からありがたさを感じていた。  明日香は香堂の隣で黙ったまま俯いていた。香堂も明日香に掛けてあげるべき言葉が見つからず、ただ黙って明日香の手を握っているだけだった。香堂はフロントガラスに降り落ちてくる雨が小さい水の玉になるのをぼんやりと眺めていた。やがてそれは徐々にひとつに纏まり自重に耐え切れなくなると足跡を残しながら下へ下へと流れ落ちていった。流れ落ちる途中他の水玉とぶつかる度に大きさを増すとその落ちる速さは叙々に加速された。それはまるで自分の気持ちが周囲の不快な思いを吸い寄せながら深い闇に落ち込んでいくような底知れず寂しく、暗い印象を香堂の胸に注いだ。 「明日香…、大丈夫か。寒くないか」 明日香は小さく首を縦に振った。車のエンジンはかけられていなかった。香堂自身は寒さを感じてはいなかったが、隣に座っている明日香の小刻みな身体の震えが気になった。香堂は明日香の手を握っている手を離すと、それを明日香の背中にそっと回した。もう片方の手で明日香の身体を自分の胸に引き寄せると強く抱きしめた。その力が明日香の心を捉えたのか、その震えが幾分弱まったような気がした。香堂は明日香の震えが自分の身体に感じられなくなるまで力を緩めようとはしなかった。崩壊してしまいそうな明日香の心も合わせて抱きしめていた。 「私一人になっちゃった…」 明日香がそっと小さく呟いた。香堂はその言葉に対する答えを必死に心の中に探し求めたが、結局それを見つけ出すことはできなかった。香堂は明日香を抱きしめているその手で明日香の肩をそっと何度も撫でた。その手から明日香の悲しみが自分の心に伝わってくるような気がした。  どれくらい経ったのだろう、気が付くとさっきまで大勢たむろしていた野次馬は既にまばらになっていた。タイミングを見計らっていたのであろうか、遺体を運び出すための搬送車が駐車場に入ってきた。駐車場に敷かれた砂利が長く鈍い音を立てた。そして香堂は雨の中アパートの2階からシートで包まれた重く細長いひとつの屍が運び出され階段を下り遺体搬送車に乗せられて去っていくまでの一部始終を脳裏に刻んだ。車の中にいる香堂には聞こえる筈のない、屍を覆うカーキ色のシートに降り落ちる雨のぷつっぽつっという低く短く硬く寂しい音がいつまでも耳に響いていた。香堂は無意識に俯いていた。  現場検証を終えて下に下りてきた刑事2人、婦人警官、見張り役の警察官、全ての顔が重々しい空気を周囲一帯に作り出していた。   明日香は事情聴取のために警察署へ行くことになった。ほんの少しだが気を取り戻したようで、刑事に対する受け答えもできるようになっていた。 「それではこの車で私達と同行していただくということで宜しいでしょうか」 刑事の一人がパトロールカーを指差した。明日香は声さえ出さなかったが皆に分かるように頷いて見せた。 「一人でも大丈夫か…」 香堂が明日香にそう訪ねると明日香は再び小さく頷いた。香堂は一緒について行ってあげたかったが、5人乗りの小さな車に6人乗ることはできないということを瞬時に察知した。香堂は雨の中明日香たちの乗ったパトロールカーが去っていくのを見送った。傘を差すとそれに振り落ちてくる寂しく冷たい雨が不規則なリズムを奏で始めた。香堂はそれを聞きながら歩道をゆっくりと歩いた。その音と自分の歩調の不釣合いな二重奏を頭の中で奏でながら歩いた。それはテンポの噛み合わない自分の無様な私生活を思い起こさせた。  交通課のカウンターの中では何人かの婦人警官が忙々と事務をこなしていた。そのカウンターの前に、連結された青いプラスチックの硬い椅子が置かれていた。香堂はその人通りの多い場所で明日香を待つことにした。警察署の正面玄関は幾人もの人を吸い込みそして吐き出していた。誰一人として自分の知っている若い女の死を知る者はいない。そう思うと無念感が香堂の胸を埋めていった。両膝の上にそれぞれ置かれた両手は硬く握られていた。  香堂は二重になっている警察署の正面玄関の中に飲み物の自動販売機があるのに気付くと、それに歩み寄って温かい缶コーヒーを買った。さっきまで座っていた席に戻り缶の蓋を開けるとそれを一口啜った。あまり買う人がいないのか缶は強くは握れない程温まりきっていた。熱いコーヒーが胸の中を混乱させた。全ての家族を失った計れる訳のない明日香の悲しみを無我夢中で計ってみた。無駄なことだった。大切な人を失ったことが無い自分の心でその悲しみを計り知ることは毛頭できなかった。  コーヒーを飲み終わる頃婦人警官に付き添われた明日香が奥の方に見える階段を下りてくるのが眼に入った。香堂は空き缶を握ったままその場に立ち上がり、明日香が目の前に来るまでその一挙手一投足を見守っていた。 「大丈夫か」 香堂が優しく呟くと明日香は小さく頷いて見せた。 「まだちょっと足がおぼつかないみたいだからここでちょっと休ませてあげた方がいいかもしれませんね」 飽く迄も婦人警官はまだ気力の戻らない明日香に気を使っているようだった。香堂は明日香の腰に手を回すとゆっくりと椅子に座らせた。それを見た婦人警官はまだ仕事が残っているようで、香堂たちに簡単に挨拶をするとさっき下りてきた階段の方へ向かって歩いて行った。 「もうちょっと休んでいこう。コーヒー買ってくる」 明日香は俯いたまま何も話そうとはしなかった。香堂はさっき飲んだ温かいコーヒーを明日香にも飲ませてあげようと思った。それくらいしか今してあげられることが見つからなかった。自動販売機の前に立ちながら香堂の心も俯いていた。コーヒーを手渡すと明日香はそれをゆっくり、じっくりと飲み干した。飲み干すと俯いた顔をゆっくりと持ち上げて香堂に視線を向けた。 「ごめんね正明…、もう大丈夫。帰りましょう」 明日香は小さく擦れかけた声を搾り出すように話した。香堂は小さく頷くと明日香の身体を抱えあげるように立ち上がった。  陽はもうとっくに暮れ街頭の灯りが朧な丸い光をぼんやりと路上に映し出していた。その楕円の光の輪は等間隔に並んで遠くに行くに連れ小さくなっていった。雨は止むことを忘れてしまったかのように降り続けていた。  香堂は通りかかったタクシーに手を上げた。しかし暗さで見えなかったのか通り過ぎて行ってしまった。 「ここじゃ見えないのかな…」 香堂は小さく呟いた。明日香の身体が小刻みに震えているのが香堂の身体に伝わってきた。その震えが香堂の心に僅かな焦りを感じさせた。再び右の方から車の屋根の上に乗せられた小さなタクシーの灯りがこちらに向かって走ってくるのが眼に入った。悲しく不規則なリズムを刻む傘を明日香に手渡した。香堂はほんの僅かな間でも明日香の隣を離れたくはなかったが、明日香から身体を離し歩道の端まで行くとそのタクシーに大きく手を振って見せた。タクシーはスピードを徐々に緩めついには香堂の目の前で動かなくなった。香堂は運転手にすばやく行き先を伝えると急いで明日香の元へ小走りで駆け寄った。再び明日香の腰に手を回すと今度はゆっくりとタクシーの方へ歩き出した。  ふたりが後部座席に乗り込むのを確認すると運転手はタクシーをゆっくりと走らせ始めた。タクシーの独特の臭いと湿気を含んだ空気が混じりあい不快な空気を作り出していた。黒く冷たい雨の中を赤いテールランプが濡れた路面を赤くぼんやりと照らしながら小さくなっていった。  部屋の中は暗かった。アパートの通路の天上に付けられている一本の短い蛍光灯の光だけが微かに部屋の中に忍び込んでくるだけだった。香堂は玄関で記憶を辿りながら手探りで部屋の灯りのスイッチを探さなければならなかった。右腕を伸ばし手を壁に当てるとざらざらした壁紙の感触が腕にまで伝わってきた。手を小さく上下に動かしながら前の方へずらしていくと、一瞬だが手の平を薄く硬い突起物が通過していくのが分かった。手をその突起物に戻すとそれは確かにスイッチだった。上下に2つ並んでいるスイッチを同時に押してみた。それと同時に玄関と台所が生き返ったように煌々と照らし出された。香堂は玄関のスイッチを消し戻した。明日香を腕に抱えたまま部屋に行き、座布団の上にゆっくりと座らせた。一旦玄関に戻りドアを閉め鍵をかけると足早に明日香の元へ戻った。明日香はやはり俯いたままだった。 「大丈夫か。布団敷こうか。それとも風呂入れようか」 明日香は尚も答えようとはしなかった。香堂はやはり明日香にかけるべき言葉が見つからなかった。美咲が死んでしまったことで5人だった家族が明日香ひとりだけになってしまったことを考えると、それだけで香堂には明日香の悲しみの深さを計り知ることは不可能のように思えた。何もしてあげられない無力な自分に憤りさえ感じた。香堂は仕方なく明日香の隣に座るとその冷えきった手を握った。明日香はまるで力を無くしたようにゆっくりと香堂の胸に身体を預けた。香堂はしばらくの間そのまま明日香のしたいようにさせた。そのうち明日香の寝息が耳に入ってくると、ゆっくりとその身体を床に寝せ布団を敷いた。明日香の身体を両腕でそっと抱えあげると、その力ない身体を布団の上に乗せた。毛布一枚だけを身体に掛けてやると明日香の唇に自分のそれをそっと重ねた。  街路樹の枝々にはまるで自分で振り落としたかのように枯れた葉がところどころにしか残っていなかった。乾ききった風が路上に落ちた枯れ葉をゆっくりと動かした。それは誰かが見えない糸をつけて道行く人をからかいながらゆっくりと引っ張っているようにも見えた。  美咲の死から半年の月日が流れ去ろうとしていた。美咲の死以来香堂は明日香のアパートで半同棲生活を始めていた。未だに就職先は見つかっていなかった。この一年の間にふたりの家族を亡くした明日香の精神状態を考えてなるべくそばを離れないようにしていた。ふたりはたまたま明日香の母、京香が加入していた生命保険の会社から支払われた保険金を少しずつ切り崩しながら生計を立てていた。保険金は加入期間が長かったために京香の自殺が一種の病気だと判断され支払われたのであった。明日香の精神状態は完全に安定した訳ではなかったが、それでも美咲が自殺した当時と比べるとかなり良くはなっていた。たまに見せるその笑顔が香堂を安心させた。ただ以前と少し違ったのは明日香が少し怒りっぽくなったことだった。以前は喧嘩をしても直ぐに仲直りできたはずが、長い時には一週間も口を利かないこともあった。喧嘩の原因は殆どの場合明日香の嫉妬だった。それも街を一緒に歩きながら反対側から来る女の顔を見ていたとか、同じアパートに住む女に気があるとか、香堂が考えてもみなかったことが何度も明日香の口から飛び出してきた。香堂は恐らく美咲の死が明日香をそうさせているのだろうと諦めていた。しかしあまりにもエスカレートしていく明日香の態度に香堂の心は徐々に疲れを増していかざるを得なかった。  ある晴れた日曜の午後ふたりは食料品を買いに街へ出かけた。風は冷たかったがふたり並んで話しながらショッピングセンターへと向かって歩いているとその冷たさをこれっぽっちも感じることはなかった。ふと明日香の顔を覗くと優しい微かな笑みをそれに浮かべていた。 「明日香、お前元気になったみたいだな。あんまり泣かなくなったし…」 明日香はほんの少しの間だったが香堂の顔に視線を向け、その後直ぐに項垂れるように足元へ視線を落とした。しばらくの間何も言わずに何か考えているように見えたが、俯いた頭を持ち上げると話し始めた。 「正明、私ね、貴方とこうして何でもない小さな時間を一緒にいられることを幸せに思うの。他の皆はこんな何でもないことには気付かずに通り過ぎてしまうんだろうけど…、私にはこういう小さな小さな幸せが必要なの」 香堂は小さく頷いて見せただけだった。 「多分他の皆は大きな幸せを見過ぎちゃって心が麻痺しちゃっているんだと思うの。私、それこそ不幸せのような気がするの。幸せなことって毎日いっぱい自分の身に降ってくるのよ。貴方とご飯を食べて、話をして、こうやって一緒に歩くことができる小さな幸せ…。だから私こういう時間が好き」 香堂はどう答えていいのか分からなかったが、首を縦に振って見せた。明日香は言葉を繰り返した。 「私本当にこういう時間が好き。でもね…、」 明日香が急に言葉を詰まらせた。香堂は明日香の顔にゆっくりと視線を向けた。 「でもね…、貴方は嫌い」 言い終わるのと同時に笑い声を出しながら走り出した。香堂は呆気に取られていたが、何を言われたのか理解すると明日香を追い駆け始めた。 「何い…、待て、こら」 香堂が明日香に追いつくと2人は再び並んで歩き始めた。返事はできずじまいだったが、香堂も明日香と同じようにその小さな幸せを楽しんでいた。  ふたりは部屋に戻り着くと買ってきた食料品をそれぞれの置かれるべき場所に納め始めた。明日香が冷蔵庫の扉を閉めたと同時に香堂の方に視線を向けた。その眼には憤りを浮かべていた。 「正明…、何度言ったら分かるの。また他の女の人のこと見てたでしょう」 香堂は呆気にとられて言葉を失った。「またか…」と内心嫌気が差した。 「何言ってんだよ。お前どうかしてるぞ」 香堂は明日香に伝わるように優しく言った。 「誤魔化さないで。私ちゃんと見たんだから。貴方さっきすれ違った女の人の顔に見入ってたわ」 香堂はさっきまで明日香とふたりで歩いた帰り道の風景を記憶を辿りながら思い出してみた。そう言われてみれば確かに数人の女とすれ違ったような気がしたが、明日香が言うような見入っていたという言葉には身に覚えが無かった。 「俺はそんなことしてない。でもお前がそう言うんだったら謝るよ…。ごめん」 香堂はこれ以上明日香の気持ちがエスカレートしないように自ら謝った。しかしその香堂の明日香を労わる思いは全く通じないらしかった。 「やっぱりそうよ。謝るって言うことは見ていたって言っているのと同じことよ」 明日香は冷蔵庫から離れると部屋の隅の方へ行って黙り込んでしまった。こうなるといつもと同じことだと思った香堂も話すのをやめた。これ以上話しても一方的に香堂が話すことになるだけだった。増してや言い訳じみて聞こえる自分の言葉に嫌気が差した。実際には濡れ衣を着せられているだけのことに、ただ言い訳をするのは臭い演技を強いられているようで、背筋に虫酸が沸いてやりきれなかった。香堂は炬燵の上に載っているテレビのリモコンを手に取りそのスイッチを入れた。別に見たくは無かったのだが、それしかできることが無かった。そのうち明日香の機嫌も良くなるだろうと高を括っていた。  香堂はひとりで冷たい布団に滑り込むと最初のうちは寝付けなかったが、徐々に体温が布団を温めていくとうとうとと眠りに引き込まれていった。明日香はまだ部屋の隅の座布団に座りテレビに眼を向けていた。どれくらい眠っていたのであろうか、香堂がふと眼を覚ますと部屋の電気は消されていたがテレビのスイッチは入れっ放しだった。その光が部屋の隅々をぼんやりと照らし出していた。身体をテレビの方に向けて寝ていたのでそれだけは分かった。さっきまで座っていた筈の明日香の姿は無かった。布団の中にも明日香の身体を感じることはできなかった。もしかすると風呂にでも入っているのかと思い、寝床から起き上がろうと身体をゆっくり仰向けにしたその時、テレビの放つ薄明るい光に照らし出された明日香の逆さまの顔が目の前に現れた。その顔にできた陰の部分と陽の部分が不気味な不協和音を奏でているかのようだった。一瞬首筋から腕にかけて筋肉が硬直するのが分かった。 「……」 香堂の口から声にならない叫び声が出るのと同時に明日香の身体を突き飛ばしていた。恐怖と驚愕が胸に渦巻き絡み合った。香堂は瞬時に弾き飛ばされたように起き上がると、明日香の方へ向き返った。明日香は突き飛ばされた拍子に尻餅をつき壁を背にして座っていた。 「脅かすなよ。死ぬかと思ったぞ」 香堂は眼を剥きながら話していた。 「何をそんなに向きになってるのよ。寝顔を見ていただけよ。突き飛ばすこと無いでしょ」 明日香の顔には突き飛ばされた怒りではなく不気味な笑みが浮かんでいた。香堂は納得した振りをした。明日香の背後に隠された細長い白い紐の先端がテレビの光に照らし出されていた。ほんの一瞬それが何を意味するものなのかを考えて爆発寸前の怒りを沈めることに集中した。  香堂が布団に戻ると明日香もそれに入ってきた。殺意を含んだ明日香の体臭が顔の周りに漂っていた。体温が奪われていくような気がした。それと同時に寂寥感が凝縮された一つの固まりとなって胸にしこりを残した。いまだ覚めやらぬ頭の中の恐怖と胸の中の驚愕がぶつかり合い不安となって眠気を遮断した。ストーブの消された暗い部屋の冷たい空気にふたりの息が吸い込まれていった。そのうち明日香の寝息が耳に届いてきたが、香堂の眼は暗闇を見通すことができる程冴え、神経は縫い針の先のように尖っていた。  カーテンを透して部屋に差し込んでくる朝日がぼんやりと部屋を照らし始めた。一刻も早くこの部屋の空気から逃れたかった。息苦しさが苛立ちに変化していた。結局それから一睡もできなかった香堂は、明日香を起こさないようにそっと布団から抜け出すと、部屋の何処かにある紙と鉛筆を探し求めた。部屋の中だというのに香堂の口から吐き出される息は寒さで白くなり部屋の空気と混ざり合い姿を眩ましていった。やっと見つかったその紙を炬燵の上に載せると明日香への置手紙を書き残した。鉛筆を持つ右手が小刻みに震えていた。  その日から香堂は就職活動を理由に明日香のアパートから足を遠ざけていった。一緒に暮らしていてもエスカレートしていく明日香の嫉妬のようなものにうんざりしていたが、何よりもその白い紐の先端が頭の中にこびり付いて離れなかったのもその理由の一つだった。しかしいくら足を遠ざけたとは言っても3日に一度は明日香に会いにアパートを訪れていた。 第二章 ー 疑 ー へ https://ofuse.me/e/16567

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