闇に包まれた『椅子に座る女』の絵が描かれた箱が冷たい床にひっそりと佇んでいた。香堂が照明から垂れ下がった紐を二度引くとその絵の中の女が照明の灯で生き返ったかのように見えた。香堂はその箱を手に取るとテーブルの上にそっと載せた。身体もその箱の前に沈めた。そして再びパズルを組み合わせ始めた。再び気の遠くなるような鍵の輪郭を捜し求めた。一つ一つの欠片を摘みながら香堂の頭の中ではどうすれば健司を説得して明日香を表面に引き出させることができるかという試行錯誤が繰り返されていた。病棟の廊下で感じ取った手応えは本物の筈だ。健司を誘導することは可能だということだ。健司を上手く利用して明日香を引っ張りあげてみるしか方法は無い。他にこれといって決めては見つからなかったが、今まで全くと言っていい程分からなかった治療のきっかけがほんの少しでも掴めたということが細い一本の光となって心の片隅を照らしているような気がした。全身に忘れさられていた力が蘇ってくるような感覚だった。 台所の食器棚の上に載せられたポットの頭についている給湯ボタンを押すと、泡を多量に含んだ混沌としたお湯が周りにその飛沫を飛び散らしながらインスタントコーヒーの粉末が入ったマグに落ちていった。香堂はそんなことには構いもせずにボタンを押し続けた。お湯がマグを満たす寸前にそれをポットの給湯口まで持ち上げてボタンから手を離した。適当にスプーンでかき混ぜるとそれを持って部屋に戻った。 部屋の時計に眼をやると、3本の針が丁度12を刺しながら重なり合って一本に見えた。家の外から聞こえてくる物音は何一つ無かった。香堂は立ったままテーブルの上のパズルに視線を落とした。絵の約3分の一が輪郭を取り戻していた。香堂はコーヒーを一口啜ると再びその前に腰を沈めた。そして再び一つ一つの欠片の絵柄を確認してはそれを絵柄に嵌め込んでいった。それから3時間掛けて座る女の輪郭が少しずつ浮かび上がってきた。香堂は眼に疲れを感じ部屋の電気を消して布団にもぐりこんだ。明日香の顔を左腕に感じながら夢の中へと引き込まれていった。 鍵のランプは既に緑色になっていた。病室のドアをノックしようとしたその手を直前で止めた。中で誰かの話し声が香堂の耳に入った。香堂は息を潜めてその話を聞き取ろうとしたが声の発信源がドアから遠いせいか、それを言葉として認識することはできなかった。しかし確かに女2人の話し声だ。已むを得ず香堂はドアをノックした。病室の中にいたのは、明日香と2人の看護婦だった。香堂は瞬時にその看護婦の話相手が明日香の頭を乗っ取った健司であることを察知した。その証拠にそいつは今まで動かしていた口を硬く閉ざしてしまっていた。香堂は何も無かったような顔をして見せた。 「あら、どうしたの明日香さん急に黙っちゃって…。ああ、香堂さんが来たから猫被ってるのね」 看護婦の声には何処と無く明日香を怖がっているような声色が混じっていた。香堂はその看護婦の言葉に不安を抱いた。猫を被っているのではなく女の皮を被っているのだと言ってやりたかった。もしかすると健司はこの病院を出るために再び明日香を装って病気が良くなっている印象を看護婦達に与えているのではないだろうか。香堂は昨日廊下で小林医師とすれ違った時の会話を思い出した。「間違いない」頭の中で呟いた。香堂は健司がこの病院を出たがっているのだと確信した。 看護婦達は香堂の隣を通り過ぎながらお辞儀をした。香堂もそれに合わせてお辞儀した。病室のドアが閉まる大きな音が部屋に反響した。香堂はゆっくりと健司の前まで一定の距離を保ちながらその視界に入っていった。健司は再び嘲笑を顔に浮かべていた。 「健司…、お前まだ猿芝居を続けてるのか…、お前は馬鹿か。お前が看護婦にそんなことしたって医者がそんなこと信用する訳ないだろ。餓鬼じゃないんだからそれくらいのこと分かってると思ったけどな。お前、よく考えてみろ…。俺はお前の敵じゃないって昨日言ったじゃないか。例えばだ…、俺がお前の病気が治ったって医者に言ったとしたら…」 香堂がそこまで言うと今まで浮かべていた嘲笑は徐々に退いていきその代わりに真剣な表情が健司の顔に浮かび上がってきた。明日香が入院してから香堂が初めて見る明日香の真面目な顔だった。香堂は一瞬息を呑んだ。優しい明日香の笑顔が懐かしく思えた。香堂はそれを必死に堪えた。 「お…、健司。俺の言っていることが飲み込めたのか…」 健司はまだ黙っていた。しかし香堂の話しに興味を持ったことは確かだった。 「健司…、俺が言いたいのはお前がこの病院から出るためには俺の力が必要だってことさ。ただな、敵は医者だぞ…、俺だって医者を簡単に誤魔化せるとは思えない。だから逆に本物を利用すればいいんだ。そうだろ」 健司は真面目な顔をしたままピクリとも動かない。 「まあいいさ…、俺は別に損する訳じゃないからな。ゆっくり考えてくれ。また明日来るよ」 香堂が昨日と同じようにベッドの隣を足早に通り抜けドアに近づいたその時、背後から健司の声が聞こえた。 「おい…、正明…、お前のメリットは何なんだ。俺がこの精神病院から外に出たってお前には何の徳も無いぞ」 香堂はこんなに早く健司が興味を示すとは思っていなかった。答えを探す時間稼ぎをした。真面目な顔をしてゆっくりとベッドの方へ戻り始めた。香堂はわざと不気味な笑みを顔に浮かべて見せ、人差し指を口の前に当ててそれを左右に振った。そしてその顔を健司の顔に押し付けるのかと思うほど近付けた。既に答えは見つかっていた。 「お前はやっぱり馬鹿だ。これは俺とお前の契約だぞ…。お前がもしこの病院から出たら必ず守れよ。いいか、よく聞けよ…。俺のメリットはな…、その女の身体さ。お前がもしこの病院から出たら身体は俺の自由にさせろ。だからって縛っておく訳じゃない。俺の使いたい時に使わせろって言っているだけのことさ。お前はこの女の頭を乗っ取ってるんだ。それで契約が成立するんじゃないのか」 香堂は話している間ずっと口の前に立てていた人差し指で健司の額を突いた。健司の頭が幾分後に弾かれた。 「分かった」 健司は短く答えた。香堂はずっしりと身体に覆い被さってくるような疲れを感じた。もっと話をしてみたかったが諦めざるを得なかった。これ以上続けると下手な芝居の襤褸が出てしまいそうな気がした。まだ時間は腐る程あるのだ。焦ることは無いのだと自分に言い聞かせた。 「また明日来る。じゃあな」 香堂は後に向き直ると背中に健司の視線を感じながら足早に病室を出た。 廊下には誰もいなかった。香堂はそれを確認すると胸を撫で下ろした。肩に硬く重い岩がめり込んでいるような感覚を覚えた。廊下を歩きながら肩を小さく回し凝りを解した。悪役を演じることが多大な精神力を要するということをこの時初めて悟った。しかし香堂の胸には小さな満足感が芽生えめきめきと伸びていった。今まで無言だった健司が急に話しだしたということには驚きを感じたが、暗闇を小さな灯で照らされたようなふんわりとした小さな喜びを感じた。第一関門は突破できた訳だ。次は健司に明日香を表面に出すよう誘導しなければならない。果たして健司は医者を誤魔化すことはできないと言った自分の言葉を信じるのだろうか。香堂は首を傾げた。増してや健司の芝居と本当の明日香をどう見分ければいいのだろう。そしてもし本当の明日香が表面に出てきた時、明日香は再び健司が現れるのを防ぐことができるのであろうか。香堂には答えを出すことができなかった。砂の中に落ちたひと粒の米粒を探すような気の遠くなるような虚脱感が頭の芯を捉えた。 小さな子供を連れた母親が目の前に座っていた。子供はシートから立ってみたり座ってみたりほんの少し母親から離れてみたり、落ち着きの無い動きをしていた。電車にブレーキが掛かるとその惰性で子供の身体は前へのめりそうになった。電車が停車している間も子供は動きを止めようとはしなかった。電車のドアが閉まり再び加速し始めた電車の進む方向に身体を向けていた子供は引っ張られるように後に転がり尻餅をついた。それを見て驚いた母親は直ぐに子供の手を取って起き上がらせるとその手を引いて再びシートに座った。 「今度やったら承知しませんからね」 その子供は服の厚さのせいで特別痛みを感じなかったようで泣くようなことはなかった。香堂はその親子の行動を最初から最後まで見守っていた。香堂は子供は再びシートから立ち上がって動き出すに違いないとしばらく様子を見ていた。案の定子供が再び動き出すと、今度は母親は直ぐに子供を連れ戻し優しく叱った。香堂はこれで子供は立ち上がらなくなるだろうと心の中で笑みを浮かべた。香堂は病室にいる健司のことを思い出した。実際には条件の悪い環境下で育った明日香の作り出した健司という人格なのだ。精神年齢の満たない子供の頃の明日香がそれを作り出したのであれば、健司の精神年齢は低いのではないだろうかと香堂は思った。しかし健司は最初から明日香を表面に出すようなことはしないだろう。恐らく明日香を装って騙そうとするはずだ。香堂はそれを防ぐために色々なことを想定して健司に対する言葉を考えてみた。しかしやはりこれと言って決め手となるようなものは見つからなかった。香堂は電車のステンレスパイプに身体を預け窓の外を流れていく街並みに視線を向け続けていた。ふと気が付くとさっきまで落ち着きの無かった子供が母親の隣に座りながらこちらに視線を向けていた。香堂はさっきとは逆に自分が観察されているような感覚に陥った。仕方なくニヤっとぎこちない作り笑顔をして見せた。子供はその笑顔を見て何の反応も示さなかった。しらけた空虚な空気が香堂の頭の周りに漂っていた。 玄関で靴を脱いでいると居間からテレビドラマの音声と混じって母親の声が聞こえてきた。 「正明…、お前毎日何処ほっつき歩ってるんだい。心配するこっちの身にもなってもらいたいもんだよ」 香堂は明日香のことを一切母親には言っていなかった。たとえ母親に話したとしてもその理解の範囲内を超えてしまっていると分かっている明日香の身の上話をしても意味が無いということを心得ていた。心配を掛けているつもりは無いのだが、母親にそう言われると幾分罪悪感が心に忍び込み自分の身勝手な行動を反省した。 「心配すんなって、別に悪いことしてる訳じゃないんだから」 香堂はそう言いながら居間にいる母親には眼もくれず部屋へと歩いて行った。母親の視線を感じたが他に話すことは何も無かった。 香堂はこの時『椅子に座る女』のパズルを完成させてしまおうと思っていた。香堂は健司の手紙の宛先人の里佳子が手紙を書いているのではないのだろうかと考えていた。明日香が大事にしまっていたパズルから既に明日香と健司の手紙を読む鍵を見つけることができたことで、残っているのは里佳子だけだという予想を立てていたのだった。明日香が好きだった絵柄が『農村の風景』、『ギターを弾く男』が健司の手紙を浮かび上がらせた。そして残った『椅子に座る女』の絵が示すのは、飽く迄も予測ではあったが女の里佳子が残したメッセージなのでのではないかと考えていた。 カーテンを透して朝日が部屋の中を照らし始めた。香堂は深い溜息をひとつついた。テーブルの上には鍵穴の開いた座る女の絵があった。そのパズルの箱にはもう一枚も欠片は残っていなかった。香堂の意識は朦朧としていた。そのまま布団へ這っていくと半ば崩れるように倒れた。部屋の電気を消したかったが、それさえもできなかった。 家の前を通る子供達の奇声が香堂のうつろな意識の中に届いてきた。香堂は突然起き上がると母親のいる居間を通って縁側に駆け寄った。母親は何事が起きたのかと口を半分開けていた。香堂はその子供達に食い入るように見入った。香堂は明日香と美咲が話している声を聞いたのだった。その言葉の中に既に香堂の知っている弘美と健司の名前が含まれていたのを聞いたような気がした。しかししばらくすると自分のしていることの馬鹿馬鹿しさに気付き再び部屋へと引き返していった。 「どうしたんだい、正明」 母親が部屋に戻っていく香堂に声を掛けた。声に驚きの余韻を残していた。 「知ってる奴の声が聞こえたんだ。気のせいだったよ」 香堂が素直に答えたが母親は納得いかないような顔をしていた。香堂はそんな母親を背に部屋へ戻った。 テーブルの上に載っている完成したパズルを見て香堂は驚いた。昨夜徹夜で完成させたことを完全に忘れてしまっていた。香堂は昨夜の記憶を辿っていった。しばらく考えた後、眼を閉じながら首を何度も縦に振った。自分でそのパズルを完成させたことを思い出したのだった。幻聴と記憶喪失の両方を同時に味わたったことで神経が疲れ果てていることに気付いた。香堂ははそのまま机の上に載せておいた手紙の複写の最後の一組を手に取った。再び升目を入れ、パズルの穴と照らし合わせていった。そしてその里佳子の手紙は語り始めた。 これが私の最後のチャンスかもしれません。この手紙を誰が読もうとそんなこと私には関係ありません。ただこれを読んでいる貴方にお願いがあります。市居健司を止めてください。貴方は恐らく市居明日香が私と健司という人格を作り出したと思っているのでしょう。それは間違いです。市居健司が私と明日香を作り出したのです。親から名前を与えられるのが先になっただけのことです。健司はそれを利用したのです。健司という生まれつきの人格が明日香という名前に人格を与えたのです。明日香という名前を与えられた子供は生まれた時から男の性格を持ち合わせていたのです。物心付き始めた頃に自分自身に健司という名前を付けたのです。美咲でさえこのことを知りません。私は健司の恐ろしい計画を聞きました。実際には美咲の人格のひとり博隆から聞いたのです。健司のその計画とは明日香という一つの人格を精神異常に仕立て上げそれを利用して大量殺人を引き起こすということです。精神異常ならば重い罪に問われることはありません。私はこの手紙を書いた後健司を止めてみるつもりです。しかしそれが成功する確率は低いと思います。何故なら私は健司に作られた人格だからです。健司が不利な時に現れるだけなのです。失敗すれば私は健司に封じ込められることでしょう。私は美咲を利用して健司を説得しようと思っています。母親はもともと危険な状態に置かれていました。母親は確実に健司が自分の手で殺したことでしょう。何故ならこの手紙を書く前に私は弘美がもう人殺しは嫌だということを彼女の口から聞いていたからです。明日香は自殺してしまおうと考えていたようです。しかしそれも難しいことだと思います。もし明日香が自殺を遂げていれば健司を止めることができたということです。でももし市居健司が生きていて尚殺人を繰り返しているとすれば、それは彼が計画を開始したということを意味しています。恐らく貴方は明日香の愛している人なのだと思います。明日香には愛情が必要だったのです。もしかすると貴方にしか健司をとめることはできないのかもしれない。お願いです健司を止めてください。 里佳子 香堂は健司と里佳子の書いた二つの手紙を読み返してみた。こんなことが世の中に起こり得るのだろうか。単なるいたずらな子供の遊びではないのだろうか。もしこれが真実だとしたら人格とはいったい何なのだ。本物、偽物、そんなものが人間の人格に存在するのだろうか。ある一人の人間に宿ってしまった多数の人格から本物を選ぶというのは馬鹿げた話だ。そもそもどれが本物の人格なのかはその人間が作り出す環境の中に入ってくる他人が決めることではないのか。それは環境を作り出した人間の本物の人格を選んでいるということではなく、その人間のありのままの人格を受け入れようとすることだ。そのために環境を作り出したその人物は自分の人格を他人に受け入れてもらうためによく見せようとするのだ。多数の人格を持つ殺人鬼が作り出した環境があるとするとして、その環境下にいる他の人たちにその殺人鬼の本物の人格を選べと言ったとしたら殆どの人は殺人鬼の人格を選ぶだろう。何故ならその人たちは殺人鬼の作り出した環境にいて既にその人格を受け入れてしまっているからだ。しかしそれが本物の人格なのかどうかは誰にも決めることはできない。恐らくは殺人鬼本人でさえ自分の本当の人格を決めることはできないだろう。それが医師であろうと総理大臣であろうとその殺人鬼の本物の人格を決めることは馬鹿げたことでありまた不可能なことだ。自分の場合は明日香という優しい普通の人格が作った環境の中に入り込みそれを受け入れたのだ。たまたま明日香の心の中に健司という殺人鬼の人格が同居していたというだけのことだ。初めから殺人鬼に近寄るような馬鹿はいないし、増してや殺人鬼が自分は殺人鬼だと告白する訳は毛頭無い。問題はただ単に一つの心に宿ってしまった多数の人格だということだけだ。他を排除若しくは制御しまえばいいのだと香堂は思った。香堂にとって都合がよかったことは自分に味方してくれるかもしれない人格が明日香の心に宿っているということだった。 視線上に明日香の真剣な顔があった。明日香を被った健司の顔だった。香堂は何とかして明日香を表面上に出させたかった。そこから何らかの糸口が見つかるのではないかと思っていた。 「なあ健司…、お前はどう思ってるんだ。あの医者がお前の猿芝居を信じると思うか」 健司は相変わらず黙っていた。香堂は健司が何かを企んでいるような気がした。 「俺は絶対に無理だと思うな…。映画やテレビドラマと同じさ。頭のおかしい奴がいくら直ったって言っても信じてなんかもらえる訳無いだろ。俺だってもし精神科医だったらお前の猿芝居なんか信じないね。だからだ。あいつに気付かれないように本当の明日香を出してここから出るために利用しろって言ってるんだ」 健司の視線がゆっくりと香堂の顔から逸れていった。香堂を信じていないような仕草だった。 「健司、お前何をそんなに怖がってんだ。別に本当の明日香が出てきたからってお前が損するようなこと無いんだろ。だったら構わないんじゃないのか。それともお前何か隠し事でもあるんじゃないのか」 香堂がそう言うのと同時に明日香を被った健司の顔が瞬時におぞましい獣の顔に変わり襲い掛かってきた。香堂はいつ襲われてもいいように身構えていた。襲い掛かってきた健司の両肩を掴んでベッドに弾き飛ばした。瞬時に両足を取ってベッドの向こう側へそれを捨てるように放り投げた。落ちた健司は頭を打ったのかその場所で動こうとしない。慌てた香堂はベッドの隣を通って明日香を被った健司の様子を見た。そいつは既にそこに座っていた。香堂は健司の顔を確かめて戦意喪失しているのを察知するとそいつの体を両手で抱えてベッドに乗せた。ほんの瞬間の出来事でナースセンターにいる看護婦は監視カメラの映像を見逃したらしく姿を現さなかった。 そいつは目を閉じていた。香堂がしばらく様子を伺っているとそいつは呻き声を出した。そしてゆっくりと眼を開いた。 「こ、ここは…、あ、貴方誰…」 香堂は面食らった。一瞬本当の明日香が頭を打ったせいで記憶喪失を起こしたのかと思った。しかし香堂はその考えを直ぐに否定した。香堂の眉間に数本の皺がよっていた。 「もしかして貴方が里佳子さん…」 そいつの眼が一瞬だが大きくなったように香堂の眼に映った。 「あ、貴方もしかしてあの手紙を読んだの…」 香堂は素早く小さく頷いた。 「里佳子さん何か方法は無いんですか…。健司を閉じ込めておく方法は」 香堂は焦っていた。こうしているうちに再び健司が里佳子を引き摺り下ろしてしまうのではないかと不安だった。里佳子は頭を打ったせいか身体を横にしたまま右手で後頭部を抑えていた。 「貴方が明日香の思ってる人なのね。人質よ、人質を取るの。そうすれば互角でしょ。ゆかりよ。ゆ…」 そう言い掛けると、そいつの身体は小刻みに痙攣し両の眼がゆっくりと裏返り真っ白になった。その眼がゆっくりと元に戻った時香堂は瞬時に身を引いた。健司だった。再び顔に嘲笑を浮かべながらゆっくりと上体を持ち上げた。それを見て香堂は再び眉間に皺を寄せた。 「健司、言っただろ今度俺に襲い掛かってきたら殺すって…。今度やったら承知しないぞ」 香堂は電車の中で母親が子供を叱った時の言葉を思い出して口にしてみた。 「分かったよ」 香堂はその健司の弱弱しい素直な言葉に驚かされた。以前考えた通り健司の精神年齢は低いのかもしれない。殺人を犯すような健司を前にしていることが自分の判断を鈍らせていたのかもしれないと香堂は思った。 「まあ今日のとこは勘弁してやるよ。また明日来る…」 そう言い残すと足早に病室を出た。香堂は廊下を歩きながら健司の精神年齢が低いのではなくその性格の弱さを感じ取っていた。手紙で里佳子は健司が明日香と自分を作り上げたと言っていたということは恐らく精神年齢は20歳に達しているのだ。香堂はそう考え直していた。 病棟の階段をゆっくりと降りながら、香堂は里佳子の言葉を思い出していた。ゆかり。いったい誰なのだろう。明日香の作り上げたもう1人の人格なのだろうか…。兎に角里佳子が知っているということは恐らく健司、明日香も知っているに違いないと香堂は思った。香堂が階段を下りきった時、丁度小林医師が病室の一つに入っていくのが一瞬だが眼に入った。香堂は医師に一つだけ訊きたいことがあった。香堂は廊下で医師がその病室から出てくるのを待った。しばらくするとその病室のドアが開き、小林医師の背中が少しだけ先に姿を現した。医師は中にいる患者に向かって何かを言っているようだった。ドアノブを引きながら医師はゆっくりと後退りすると、やがて身体全部が病室から吐き出された。ドアの閉まる音が廊下に反響した。医師は香堂のいる方とは反対の方に身体を向け直すと次の部屋へと歩き始めた。医師が自分の方へ向かってくると思っていた香堂は慌てて医師を呼び止めるのと同時に小走りで近付いていった。 「先生、小林先生」 医師は香堂の慌てた声に驚いたような顔をして見せた。香堂は振り向いた医師に小走りで近寄って行った。 「どうしたんですか香堂さん、そんなに慌てて」 「いいえ、そこで先生のことさっきからお待ちしてたんですよ。ちょっとお訊ねしたいことがありまして」 香堂は今来た方向を指差した。 「先生…、明日香のことなんですが。先生は今の明日香を診ていて精神年齢が低いと思ったことはありませんか」 医師は再び驚いたような顔を作った。 「んんん、私は医者だからいろんな患者さんを見てますけど…、今の明日香さんの場合は精神年齢が低いというよりは性格に弱さのようなものを感じます。何故貴方はそう思うんですか」 香堂は医師の鋭さに感心したのと同時にその質問に答えを詰まらせた。 「先生、私も明日香と付き合いが長いから何となくそう感じただけですよ」 香堂はぎこちない笑顔を作って誤魔化したが、内心精神科医を前にして自分の下手な猿芝居がばれないか心配だった。 「香堂さん、何か気付いたことがあったら私に何でも相談してくださいね。こう言ってはなんだが看護婦が1人死んでいるんですからね…」 医師は厳しい顔を作ってそれを香堂に投げかけた。香堂はやはり芝居はばれているのだと反省した。しかし明日香の身の上に起きていることは口にしようとはしなかった。 「分かってますよ、先生」 香堂も真剣だった。香堂が医師に礼を言うと、医師は次の病室へと入っていった。香堂もそれを見届けると歩き出した。香堂は里佳子の言葉を基に性格の弱い健司を脅かす方法を考えていた。午後の陽の光で照らし出された病棟の玄関が香堂を導いているかのように見えた。 押入れの中には俄かな黴の臭いが充満していた。香堂は自分の持ち物を引っ張り出すと、その奥に入っていた明日香の持ち物の入った段ボールを引っ張りだした。ゆかりという名前の手掛かりが無い以上、自分でそれを探す以外に手は無かった。香堂は最初ゆかりというその名前だけで健司を脅そうと思ったが、それだけでは物足りないような気がしていた。考えた挙句以前明日香に見せてもらった小学校と中学校、そして高校の卒業アルバムのことを思い出した。もしかするとそれからゆかりの手掛かりが掴めるのではないかと思っていた。明日香の持ち物を段ボールに入れた時に本や雑誌のようなものは全て一つの箱に入れたことを覚えていた。香堂は段ボールの重さでその中身を確かめていた。確か重かったのは食器の入った段ボールとその目当ての本類が入っている段ボールの二つだけだと記憶を辿ってもみた。ひとつ目の段ボールは軽かった。それを一旦押入れから出して。そのまた奥にある段ボールを両手で挟んで動かしてみた。腕にその重みが伝わってきた。 「これだ」 香堂はその箱が本の入っている箱だと確信した。箱を少しずつ左右にずらしながら手前に引き寄せた。箱の底がほんの少し押入れの2段目の床からはみ出すとそれを軽く押し上げて一気に引っ張り出し床に下ろした。箱はかなり重かった。香堂は段ボールの蓋をぴったりと閉ざしているガムテープを思い切り引き裂くように引き剥がした。段ボールの蓋がだらしなく口を開いた。蓋を完全に開いて中を覗くと、香堂の予想通り本の類が入れられていた。3冊の卒業アルバムを探し出すのは然程難しくなかった。他の本と比べて大き目だったので、箱を上から覗くとその一部分が見えていた。単行本や参考書、雑誌、辞書等を床に取り出すと、その下の3冊重なっている卒業アルバムを手に取った。香堂はそれを手にしながら敷きっぱなしの布団に腰を下ろした。最初に小学校の卒業アルバムを開いてみた。一人一人の卒業生の顔写真の下に名前が記載してある。香堂はそれをゆっくりと確認していった。ゆかりという名前の卒業生は4人もいた。それぞれ名前に使われている漢字は違っていたが明らかに4人のゆかりだった。香堂は眉間に皺を寄せた。そのままページを捲っていくと仲のいいもの同士が一枚の写真に写っている写真集があった。香堂はそこに明日香の顔を捜した。アルバムに人差し指の先端を宛てながら、それをゆっくりとなぞっていった。 「あった」 香堂はその小さな写真を凝視した。明日香の隣に寄り添って誰かが座っている。香堂はその誰かの顔をじっくりと記憶してからさっきの卒業生一人ひとりの顔写真のページに戻った。そしてそれぞれのゆかりの顔と照らし合わせてみた。香堂は無意識に唸っていた。明日香と2人で並んでいる写真があまりにも小さすぎて同一人物だと確認するのは難しかった。香堂は再びページを捲り始めた。紙の質を落とされた卒業文集のページを捲っていると、明日香の書いた文章があった。読んでみると確かにゆかりという名前が出てきたが、その名前はひらがなで書かれていた。 「だめだ」 香堂は小学校の卒業アルバムでゆかりを探し出すのを諦めた。しかし香堂はかなりの手応えを感じていた。そのアルバムが確実に里佳子の言うゆかりを示していたからだ。里佳子の言っていたゆかりは間違いなく明日香の隣に写っている女の子だ。そのアルバムを布団の上に重ねて置いてある2冊のアルバムの隣に置いた。中学校の卒業アルバムを手に取って同じように調べてみるとゆかりは2人になっていた。香堂は直ぐにその2人の名前が小学校の卒業アルバムにあったそれと同じだということを認識した。アルバムのページを捲る手が無意識に速くなっていた。クラブ活動の写真がある。香堂は再び人差し指の先端を滑らかな紙の上に滑らせた。あった。香堂の眼で確認できるくらいの大きさで数人の卒業生が写っていた。その下に親切に名前まで書かれてあった。香堂はその一つ一つの名前を声に出して読み上げていた。 「これだ」 香堂の人差し指が澤田由香里という名前を文字通り指差していた。香堂はその名前を紙に書き写した。そしてアルバムを裏返して、逆さまにページを捲っていった。香堂の思ったとおり卒業生全員の住所録があった。香堂は由香里の住所を紙に書き写すとアルバムを小学校のそれに重ね置いた。そして今度は高校の卒業アルバムを手にとって同じように調べた。ゆかりは3人に増えていたがその中に澤田由香里の名前があった。香堂はそこでほぼ確信を得た。それでもやはりページを捲り続け、明日香と由香里が並んで写る写真を見つけると、香堂の確信は揺るがないものとなった。香堂は昨日の健司との出来事を思い出していた。もし隠し事という香堂の言葉に過剰な反応を示した健司の隠し事が里佳子の言っている由香里のことだとすれば、香堂がこれからやろうと思っていることが健司に対して多大な影響を与えることは確かだった。香堂は3冊のアルバムを枕元に置くとその場で布団に身体を預けた。優しい明日香の顔が香堂の胸の中で微笑んでいた。 閑静な住宅街の一角に澤田由香里の住む家はあった。香堂はデジタルカメラで由香里の姿を写しておきたかった。健司の心に何らかの打撃を与えるためにその写真が必要だった。この場所に来るまでに直接由香里に写真を撮らせてもらおうかと考え、そう願い出るための理由を探してみた。明日香の多重人格の一人に見せるなどという理由を素直に口に出すことは馬鹿げていたし、その他色々と考えてみたが、結局里佳子の説得に決め手となる理由を見つけ出すことはできなかった。結局盗撮というあまり気の乗らない行動に走ることになった。 香堂は由香里の家から離れて、民家の塀に背中をもたれ左手に掴んだ話し相手もいない携帯電話を耳にあて、もう片方はウィンドブレーカーのポケットの中のデジタルカメラを握りしめ、被写体が出てくるのをひたすら待った。待っている間、通行人が目の前を通ると話し相手のいない携帯電話に向かって適当な話をした。そしてついに由香里の家の玄関のドアが開いた。香堂は目を凝らして誰が出てくるのかを確かめようとした。そのせいで無意識に2,3歩足を前に踏み出して今まで背にしていた塀から離れてしまった。玄関から出てきたのは紛れも無く明日香の高校の卒業アルバムに載っていた写真の面影を残す由香里の姿だった。香堂は右手に握られているデジタルカメラを素早くポケットから引き抜いた。同じ角度で何度もシャッターを押した。数十枚の写真を撮ることができた。香堂は安心しきって写真の納まったデジタルカメラを眺めていた。 ふと背後に人の気配を感じた。香堂が後を振り向くと、不思議そうな顔をして香堂の怪しい行動を嘗め回すように窺っている初老の女がそこに立っていた。香堂は由香里に気を取られて民家の塀から身体を離してしまったことで道を歩きながら近付いてくるその女に気が付かなかった。女の視線は香堂がカメラを向けていた被写体の由香里と香堂の顔の間をゆっくりと何度も往復していた。 「まずい…」 香堂は咄嗟にそう心の中で呟きながら再びカメラを由香里の家の方に向けた。運よく携帯電話はまだ耳に当ててあった。 「もしもし、社長、この物件何枚くらい写真撮っとけばいいんでしょう…。遠くから撮った写真も要りますよね…。はいそれは終わりました…。はい。分かりました…。お昼までには戻れると思います…。はい。失礼します」 香堂はわざと音が出るように携帯電話を強く折り畳み再び女の方に振り返った。そしてカメラのスイッチを切ってそれをポケットに差し込んだ。香堂は飽きもせずに猿芝居を続けた。 「あ、済みません…、この近くに大井川さんのお宅があるって聞いたんですがご存知でしょうか」 女はその質問を真に受けて一生懸命そのあるはずも無い大井川の家を必死にイメージしているようだった。小さな間ができた。 「聞いたことありませんね。他の人に訊ねたほうがいいかもしれませんよ」 「そうですか…。早くしないと社長に怒られるな。サラリーマンってのは辛いですよね。お母さん」 香堂はそう言い残すと足早にその場を離れた。香堂は歩きながらわざとらしく民家の表札を確かめる振りまでして見せた。女はそんな香堂の下手な猿芝居をいつまでも見守っていた。俗に言う人々の頭を惑わすアンバランスな四月の陽気が終わるのも残すところあと僅かに迫っていた。 閉ざされた病室のドアの前に立った。香堂は今までに無く気を引き締めた。脇に挟んだ大きな封筒には大きく引き伸ばしてプリントアウトした数十枚の由香里の写真が入っていた。鍵の隣の小さなランプが小さな機械音と共に赤から緑に変わった。香堂はノックもせずに勢いよくドアを押し開けた。いつものようにベッドに腰掛けて窓の外を眺めている健司がいたが、健司も香堂の性格を読み始めたのか、ノックもせずにドアを開けたのが香堂だということを瞬時に察知してこちらを振り向いていた。しかし相変わらず顔には嘲笑を浮かべていた。香堂は何も言わずに部屋に一歩踏み出すとドアを思い切り閉めた。その音が病室に響いた。健司は香堂が目の前に来るまでその一挙手一投足を見守っているようだった。気のせいか幾分怖がっているように見えた。香堂は窓の外に視線を向け直した健司の目の前で立ち止まった。 「健司、今日は俺とお前の契約の日だ。これが契約書だ」 香堂は数十枚にも及ぶ大きな写真の入った封筒を健司の隣に投げ置いた。健司はゆっくりとその封筒に視線を移した。そして封筒をベッドに載せたままの状態で中身だけを抜き取った。健司の嘲笑が消え、その代わりにゆっくりと真剣な表情が顔を埋め尽くした。健司は一番上に載った由香里の顔を見てうっとりとした眼を見せた。その下の写真を見ようともしなかった。香堂はその眼を見て健司をじりじりと追い詰め始めた。これが恐らく最初で最後のチャンスだという気がしていた。 「お前それが誰だか知ってるんだろう」 健司は答えようとしなかった。 「俺とお前はこれでやっと互角になった訳だ」 健司は再び視線を香堂の顔に移した。健司は香堂の言っていることが分からないような顔をしていた。 「俺の言っていることの意味が分からないのか…。じゃあ説明してやる…。お前がこの病院にいる間に由香里はいつでも俺の自由にできるってことさ」 健司の顔が叙々にあのおぞましい獣の顔に変わっていくのが香堂の目に映った。 「おっと…、また飛び掛ってくるのか。止めとけ。今度は承知しないって言ったろ。俺はまだ由香里に何もしちゃいないんだ。俺が言いたいのは俺だってお前のように悪さができるってことさ。そうだろ健司…。だから今日は俺とお前の最後の契約の日なんだよ。分かるか」 健司は香堂が言っていることが飲み込めたようで、その獣のような表情を引っ込めた。 「正明、いったい俺とお前の契約の内容は何なんだ」 香堂はこの言葉で健司の隠し事が由香里であることを確信した。健司はそれを知られたくなかったのだろう。 「お前が本当の明日香を表面に出さない限りお前はここから出れない。それは分かるよな。まず明日香を表面に出せ、そしてお前はもう出てくるな。お前が一度でも出てくれば俺が由香里に何をするかは保障できない。それだけだ。もし承諾すれば明日香が退院して自由になった時、たまには明日香を由香里に会わせるようにしてやる。それができないんだったら俺はもうこのゲームから降りさせてもらう。お前の前には二度と現れない。もうお前と面を合わせるのには飽きた」 香堂は最後の賭けに出た。この言葉が香堂の本音だった。健司の表情に沈黙を押し通す考えが見て取れた。首筋と肩に重厚な怒りの塊が瘤となって盛り上がっていくような感覚を覚えた。突き上げてくるような冷酷な感情が背筋を貫いた。香堂の顔がおぞましい獣のような表情を剥き出しにした。香堂は芝居をしていなかった。心の中の何者かが胸を引き裂き身体の表面に飛び出しつつあった。内から膨張し突き上げてくる未知の力が身体全体に満ちていくような気がした。善と悪の見分けの付かない惨たらしい心の動きさえ感じ取れた。足と手の指先から行き場失った怒りが噴出していくような気がした。心は愛しい明日香への思いで硬い岩と化した。香堂の手が健司の胸倉を掴んだ。香堂は病室が張り裂けそうな大声で叫んだ。 「はっきりしろ…、黙ってないで何とか言え、この猿めが」 健司の体が軽々とベッドから浮いた。健司の顔には明らかに恐怖の色が浮かび上がっていた。香堂は健司を片手で持ち上げたままの状態で自分の目の前にそれを引き寄せた。今にも喉元を食い千切りそうな形相をしていた。ついに健司は口を開いた。 「わ、分かったよ。は、離してくれよ」 その健司の弱々しい言葉を聞いた香堂は、怒鳴り声に気付いたであろう看護婦が病室に来る前に平静を取り戻そうとしていた。2人の位置と顔が正常に戻った時病室のドアがノック無しに開いた。案の定看護婦が2人駆けつけてきた。 「どうかしましたか香堂さん、明日香さん…」 香堂は既に答えを用意してあった。 「済みません看護婦さん。今明日香と面白い話しててちょっと大きな声を出しちゃいました。申し訳ありません」 香堂は左手で頭を掻いて見せた。特別変わりの無い2人の顔と香堂の言い訳が功を奏したのか看護婦はそのままゆっくりと退室していった。ドアの閉まる音が病室内に響くと再び香堂が口を開いた。香堂の低い声が病室の重い空気に吸収された。 「今から俺があのドアを出て一旦外に出る。お前はそのドアの閉まる音と同時に明日香を解き放て。その後直ぐにまた俺がドアを開ける。その時もし明日香がそこにいなかったら俺はもう二度とここには来ない。お前は死ぬまでここに縛り付けられる訳だ。せいぜい薬漬けにでもなるがいい」 香堂の眼が健司の眼に溜まっていく涙を捉えた。 「健司…、これでお別れだ。俺とお前の男同士の契約だ」 香堂は右腕を刺し伸ばし健司に握手を求めた。健司はゆっくりと右腕を上げた。香堂の手ががっちりと健司の手を握り締めた。その二つの手が離れると香堂は何も言わずに最後のドアへと向かって歩き出した。香堂の視界に項垂れる健司がいた。香堂はそれに構おうともせずに足を進めて行った。ドアノブをゆっくりと回しドアを引き開け病室を一歩出た。その場で振り返るとそのまま動こうともせずに項垂れる健司の後姿が見えた。香堂はゆっくりとドアを引き始め、閉まる直前にその引く力を強めた。ドアの閉まる音が部屋の中に響き、廊下に反響した。そしてその音はやがて空間に吸い込まれていった。 香堂は心の中で祈るように数を数えた。 「1、2、3、」 ゆっくりとドアノブを回し再びドアをゆっくりと押し開けた。ドアが開いていく。ベッドの上に横たわった明日香の頭が見え始めた。ベッドに預けられた明日香の肩が見えた。力のない明日香の腕が見えた。ベッドに身体を任せる明日香の上半身が見えた。ベッドから寂しそうに投げ出されてぶら下がったままの明日香の足が見えた。香堂はゆっくりと足を前に進めた。一歩一歩近付いていくとその気配が健司のものと違うのが手に取るように分かった。香堂は明日香の顔を覗いてみた。ぐったりとして両の眼は閉じられていた。ふと明日香の右足を見ると、自殺した時と同じように小刻みに痙攣している。腰から垂れ下がった右手は強く握り締められていた。香堂は明日香の顔に自分の耳を近づけた。息をしていない。歯が何かを耐えているかように強く食い縛られていた。香堂は明日香が首を吊った状態だということを察知した。素早く明日香を両手で抱きかかえナースステーションに駆けていった。明日香を抱えた腕にその重さを感じ取ることができなかった。その軽さに何故か自分の愚かささえ感じた。ほんの数秒で辿りつけるはずのナースステーションが遠く感じられた。自らの胸の焦げ付く臭いを嗅いだような気がした。 急に明日香を抱きかかえて入ってきた香堂に驚いた二人の看護婦は弾かれたようにその場に立ち上がった。香堂はナースステーションの壁にぴたりと沿うように置かれている患者を搬送するための細長く硬いベッドの上に明日香の身体をゆっくりと乗せた。 「看護婦さん、恐らく明日香は今頭の中で首を吊っている状態なんだと思うんです。適切な処置は俺には分かりません。早く…、お願いです」 香堂は半ば看護婦に向かって叫んでいた。2人の看護婦も有り得ないことが目の前で現実に起きていることに気が動転しているようだった。看護婦達のあたふたする態度に気が付いた香堂は仕方なく人工呼吸を明日香に施し始めた。明日香の既に冷たくなっている鼻を摘み、素早く大きく息を吸い込むと自分の口を明日香のそれに当て魂を吹き込むように息を吹き込んだ。自らの思いも流し込んだ。両手で胸を一定間隔で何度も押した。押す度に明日香の心が動き出すのを自らの前頭葉に描き出した。香堂はそれを5度繰り返した後、以前明日香が自殺から蘇生した時と同じように明日香の身体を激しく揺すぶった。吹き込んだ魂を明日香の体に浸透させようと思った。何度も何度も揺す振った。香堂には明日香の顔色が既に青ざめてしまっていることも見分けることができなかった。香堂の腕を看護婦の冷たい手が制止しようとしたが、それさえも香堂には感じ取ることができなかった。やがて香堂は動こうとしなくなった。心の底からありとあらゆる感情が湧き出し首筋を伝って頭の中を渦巻いた。その感情の出口が見当たらない。どうすればいいか全く分からない。愛する者を失う痛烈な痛みを理解することができた。静かに視線を落とすとそこに明日香の小さな手が垂れ下がっていた。その冷たい手を握り締め自分の頬に当てた。それをゆっくり明日香の胸に戻し身体を抱き上げると強く抱きしめた。もう感情を抑制することはできなかった。心の闇の奥底から何もかもを吐き出すがごとく叫んだ。魂が胸から抜け出していくほど叫んだ。それは雷鳴の轟くがごとく空間を揺るがした。 「明日香ァァァァ…」 「何でだァァァァァァァァァァ…」 「何でなんだァァァァァァァァァァァァァ…」 香堂は明日香の魂を失った身体を抱きしめたまま床へ崩れるように跪いた。香堂の眼から大粒の涙が解き放たれ、そのまま空間をゆっくりと流れ明日香の頬に落ち、そして重力に任せ冷たい床へ次々と吸い込まれていった。 紅葉して落ちた大銀杏の枯葉が道の両脇に緩やかな小さい山を作り出していた。風が吹くたびにその山はほんの少しずつ形を変えていった。それはまるで魂を得た無数の生命体が一つになり未知の形を造り出す命の集合体のようにも見えた。 部屋の片隅に明日香の荷物が置かれていた。一つに纏められ病院から送られてきたその荷物の上には、香堂が明日香の成人の祝いにと送ったパズルの箱が載っていた。香堂はその様々な色のチューリップが描かれた箱を手に取った。手に取った瞬間明日香との思い出が、闇の中で幾多の刀と刀がぶつかり合い火花を散らす合戦の中を走り抜ける戦闘馬のように香堂の胸の中を奔り巡った。ひとつひとつの思い出がその閃光に照らし出され香堂の脳裏に焼き付き一塊の光の集合体へと姿を変化させ留まり消えようとはしなかった。その光の塊が香堂の冷たく荒み切った心をほんのりと暖めそして慰めていった。喜びを刻み込み、怒りを沈め、哀しみを覆い包み、楽しみを開花させた。全てを理解できたような気がした。明日香の死は深い傷として心に刻まれはしたが、同時に大事な物を得たような気がした。柔和な光が身体を包み込み目に見えない密かな力を与えてくれた。 蓋をそっと開けてみると、ばらばらになったチューリップの絵の欠片がひとつひとつ色とりどりの魂を得た枯葉のように積み重なっていた。香堂はその欠片の数を数え始めた。寂しく鈍い音が部屋の空気に染みこんでいった。ひとつひとつの欠片を手に取っては明日香との思い出を心の中に刻み込んでいった。そしてついに箱の中の欠片はなくなった。113個足りなかった。香堂は何も載っていないテーブルの上にその箱を置くと生命を枠組む欠片を探し始めた。もう考えることは何も無かった。心はどこまでも限りなく澄み渡っていた。香堂は明日香がこの生命の輪郭を浮かび上がらせ魂を呼び起こす姿をイメージして自分の姿に重ね合わせていた。明日香がその指で魂の欠片を手に取り、明日香がその瞳で命の絵柄を確認し、明日香が生命の息吹を吹き込み、それは少しずつ魂の鍵の輪郭を現していった。二人の心にはもう無意味な時間の感覚は存在しなかった。明日香と共に息を吸い、明日香と共に瞬きをし、明日香と共に生命に触れ、明日香と共に命の匂いを嗅ぎ、明日香と共に魂の音を聞いた。時間の概念の存在しない空間に誘い込まれたふたりはもう死という有限の概念に捉われることなく、思うがままに時空を走り抜け空間を駆け巡った。そしてついには創造、破壊、整然、混沌、静、動、陰、陽、終、始、愛、憎全ての相反する概念を持たない一つの意思となって、心という無限の概念でさえ存在しない空間に溶け込み薄っすらと柔らかな色を呈して浸透していった。 正明本当にありがとう私は貴方のために生き貴方のために命を捧げましょう貴方の強い信念が私を目覚めさせそして私に愛する力を与えてくれました私は貴方の心の中に生きることにします誰にも触れることのできない愛しい貴方の優しく強い心の中に ー 了 ー
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