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2022/07/23 01:57

過去からの手紙 第八章 ー 遺 ー

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 七部咲きの桜の花が薄っすらとピンク色の光を路上に投げかけていた。目に入ってくる優しい光が心の奥底まで上気させた。初春のまだ幾分冷たく強い風が咲いたばかりのその花弁を引き千切るかのように揺らし、街道を吹き抜けていった。薄っすらと舞い上がった土埃が空気に混ざり合い地表を薄い膜で覆っていた。気が狂ったように忙しく街を動き回る人々は四月のアンバランスな陽気に苛立ちを隠しきれない様子だった。それはまるで見つからない探し物に腹を立てあたふたと動き回る老人のようにも見えた。  就職活動を再開した香堂は運よくそれから数週間後に食料品会社の商品開発部に就職することができた。休日に居間で何もせずにごろごろと寝そべっていても、母親が上機嫌なのが手に取るように分かった。心の中に明るくふわふわとしたおとなしい生き物が住みついているような軽い感覚が胸の中に漂っていた。香堂は週休二日の土曜日を未だ得体の知れないあいつの見舞いに充てていた。いくら美咲の治療を諦めたとは言っても憐れに思う心には蓋をしてはいなかった。香堂は母親の作ってくれた昼食を短時間で済ますとあいつのいる病院へと出かけた。  病室の窓から春の午後の光が差し込みほんのりと部屋の隅々を照らしていた。そいつは相変わらず香堂の前ではベッドの上に座り顔に嘲笑を浮かべているだけだった。香堂は美咲の復帰を諦めてから変にそいつを興奮させるような刺激を含む言葉を慎んでいた。無理やりにではなく自然に素直で静かな気持ちになれた。 「美咲さん…、俺就職できたんだ。食べ物の会社なんだけどね。よく俺みたいな味音痴があんなところに就職できたもんだって自分でも関心してるくらいさ。お袋も最近うるさくなくなったし、家にも居辛くなくなったよ。以前みたいにそうちょくちょくは来れなくなるけど美咲さんも早く病気がよくなるといいね」 香堂がそう静かに話すと、そいつは香堂の方にゆっくりと顔を向けた。その顔には嘲笑ではなく深い悲しみの表情が浮かんでいた。そいつの左目から涙がひと粒零れ落ちた。香堂は一瞬息を呑んだ。香堂は紛れも無く愛する明日香の顔を見た。母親が死んだ時のあの悲しそうな明日香の顔だった。心が砕け散り、その破片が音も無く空間へと吸い込まれていくような虚しさが胸を走り抜けた。心臓が捻り潰され鼓動が妨げられているようなえぐい感覚を覚えた。息ができなかった。瞬きでさえできなかった。香堂が自分を見失っている間にそいつがほんの少し長目に眼を閉じたかと思うと顔に浮かんでいた悲しみの表情は再び嘲笑へと変わってしまっていた。そいつの視線は既に窓の外へ向けられていた。香堂はそれから何も話せなくなってしまった。心の中の虚しさが他の全ての感情を貪ってしまったような空虚感だけが胸に残った。 「こいつはいったい誰なんだ…」 蓋をした筈の卑俗な苦悩が再び胸の中を這い摺り回った。ゆっくりと時を刻む空間の中で悲しみを纏った静寂のベールが2人を包み込んでいた。 「美咲さん…、また今度の土曜日に来るよ…」 そのベールを無理やり引き裂くように香堂は声を絞り出した。その声は計り知れない悲痛な色呈していた。窓から差し込む暖かい陽の光が2人の顔を明るく照らし出していた。しかしその暖かい光も香堂の暗い心の中にまでは届かなかった。  部屋の中心にぶら下がった四角い照明器具から垂れ下がった紐を二度引いた。まだ外は暗くはなかったが部屋の中では暗闇が香堂の視界を妨げていた。二度目のカチッという音と同時に暗闇は瞬時に何処へとも無く押し遣られた。炬燵布団を取り払っただけのまるで簡易のテーブルのようなそれの上にほぼ半分組み合わせられた『白黒の薔薇』の絵がそのままの状態で載せられていた。部屋の片隅に積み重ねてあった段ボールは、パズルの入っているそれを除いて全て押し入れに押し込められていた。香堂はその簡易のテーブルの前に重い腰を下ろした。柔らかい座布団がそのショックを吸収してくれた。ほぼ一ヶ月半の間そのままにしておいたそのパズルの欠片を一つだけ摘んでみた。しっとりとした心地いい感触が指に伝わってきた。さっき病室で見た明日香の悲しい顔が瞼の裏に映し出された。どうしても諦め切れなかった。明日香との思い出が大きくうねる波のように押し寄せてきた。その圧力に胸は締め付けられた。明日香への思いが蘇り、悲しみの杭が心を貫いた。 「なんであんな顔を見せるんだ…」 答えの見つかる訳のない疑問が頭の中を牛耳った。知り得たとしても全く意味の無い真実をどうしても突き止めたかった。未だ輪郭の浮かび上がらない明日香の残したメッセージから探し求めている何かを得られるような気がした。香堂は夕食前の数時間でかなりの数の欠片をその納まるべきところに納めた。香堂は逸る気持ちを抑えようと努力したが、その力とは裏腹に心は高鳴っていった。  香堂の眼がパズルの絵柄を確認し始めた。一度組み合わせたことだけあって欠片の絵柄をよく確認しなくてもそれがどのあたりに納まるべきなのか直ぐに分かった。  母親が香堂の名前を呼んだ。香堂はゆっくりと時計に目をやった。丁度夕飯時だった。欠片を摘みかけた手を止めて立ち上がった。香堂が居間に行くとテーブルには沢山の料理が載っていた。料理と言うよりは御馳走と言った方が適切な、滅多に食卓に並ばないような物ばかりだった。香堂は思わず母親に訊ねた。 「母さん、何だよこれ。今日俺の誕生日じゃないぜ」 母親が顔をしかめた。 「あんた、親不孝もいい加減にしときなさいよ。今日はお父さんの誕生日ですよ。本当に馬鹿だねえお前は…。就職できたから少しは増しになったかと思ったけど、やっぱり馬鹿に付ける薬は無いってのは本当のことなんだねえ…」 母親はそう言い残すと再び台所へ行ってしまった。香堂はテーブルの下に足を投げ出し、両手を後ろについて座った。しばらくすると母親が戻ってきて一緒に食事を始めた。結局残業で帰れない主役の父親を抜きにして誕生日を済ませた。香堂は何かが間違っているような気がしたが、空腹がその考えを否定してしまった。  病室の蛍光灯は看護婦が消した訳でもないのに消えていた。壁に付いているスイッチを手探りで押してみたが蛍光灯は光を発しようとはしなかった。看護婦は病室の中を吹く筈のない風が交錯しあっているのに気付いた。その風が舐め回すように足元に絡み付いていた。ベッドの上には人の形をした塊が横たわっていた。看護婦は開け放たれる訳も無い窓の前に近づきそして立ち止まった。中途半端に手繰り寄せられたカーテンが風に共鳴するかのようにはためいていた。窓は完全に閉められていたが、嵌められている筈の窓ガラスが月明かりに照らされて複雑な光を反射していた。足をもう一歩前に踏み出すと細かく砕けたガラスの欠片だと分かる多数の硬い粒を足の裏に感じた。ゴリゴリという不快な音が暗闇に押し潰されるように床に吸い込まれていった。もう一歩前に進むと、足の裏からピシッピシッという平らな壊れ易いガラスが割れる高く鈍い音が聞こえてきた。看護婦が一瞬息を呑んでベッドを振り向いた瞬間、顎の下にその端を白い布のようなもので包まれたトライアングルのガラスの破片が月光に照らし出され複雑に光るのが眼に入った。瞬時の襲撃に全く身動きが取れなかった。呑んだ息が胸から出ていこうとしない。口に冷たい女の手が当てられたのに気付くのと同時に喉元に灼熱の炎で熱せられた細長い金属のようなものが載せられたような感触があった。冷たい手が口から離れていった。呑んだ息をやっとの思いで吐き出すと、口からではなく喉の辺りで不気味な音を立てた。息苦しくなり息を吸い戻したが喉の細かい振動となり再び不気味な音を立てた。経験したことのない未知の恐怖に絶叫した。しかしいくら叫んでもその叫び声は獣が相手を威嚇するような低い呻き声となって静寂を纏った虚空の中に吸い込まれていくだけだった。声帯が完全に切断されてしまっていた。やがて目の前に月光に照らし出された赤褐色の小さなガラス球が目の前まで押し寄せてきた。そしてそれらは跡形も無く純白のベールに包まれていった。意識は行きつく宛ても無く悲しく中空に漂い始めた。ピシッゴリッというガラスの破片を踏みつける複雑な音がいつまでも耳に響き続けた。  夜に鳴ったことの無い玄関の下駄箱の上に載せられたプッシュフォンが鳴り出した。深夜のドキュメンタリー番組を見ていた香堂と母親は、二人で眼を見合わせて声も出さずに顎で電話に応答するよう互いを促していた。ほんの瞬間ではあったが母親が不安な顔を見せると、父親からの電話かもしれないと思い込んだようで無言で立ち上がり居間を出て行った。電話の呼び出し音がしなくなりしばらくの間があった。 「正明、電話だよ」 母親の不貞腐れたような声が聞こえた。香堂は仕方なく起き上がると玄関へゆっくりと歩いて行った。受話器を耳に当てると、小さなスピーカーから聞こえてくる誰のものとも分からないその小さな声に緊張感が含まれているのが手に取るように分かった。その声に釣られて無意識に身体のあちこちが強張った。 「もしもし…、そうですが何か…、え…、分かりました…、すぐ伺います」 香堂の顔が青ざめているのに母親は気が付かなかった。香堂が玄関から出ようとした時初めて母親が声をかけた。 「正明、こんな夜遅くどこ行くんだい」 「ちょっと友達の家に行ってくる。心配すんなって」 香堂は迷わず答えると瞬時に暗闇の中へと溶け込んでいった。  病室のドアが開け放たれているのを見るのは初めてだった。恐る恐る近付いていくと中から数人の男の話し声が聞こえてきた。香堂はその声に誘われるようにドアの前に立った。病室の入り口に立った香堂の気配に気が付いたのか、話は中断されてしまった。病室の中には2人の警察官と小林医師、そして看護婦が3人深刻そうな顔をして立っていた。その向こう側に割れたのか割られたのか分からないガラス窓が見えた。話し声の主はどうやら警察官の1人と小林医師のようだった。香堂はベッドの上にぐったりと横たわっているそいつの身体を確認した。香堂にいち早く気付いた小林医師が香堂に近付いてきた。小林医師の話では現場検証の後そいつの身柄をどうするかを話し合っていたらしい。いくら精神科の医師でも親族に了解も得ず患者の身柄を拘束することはできないようであった。香堂は法律上のことにはあまり詳しくはないが小林医師の話には納得ができた。そいつがこの病院に入院した時点で香堂は身元引受人のサインをさせられていたが、再度確認のために呼び出されたのだろうと思った。看護婦が1人死んだのだ。仕方ないことだろうと香堂は思った。香堂はベッドにぐったりと横たわったそいつの顔に視線を落とした。かなり強い薬を投与されているようでいつもの嘲笑は何処かへ消え失せていた。その代わりにあの悲しそうな表情を顔に浮かべていた。眼からこめかみにかけて白く粉を噴いたような涙の流れた跡がはっきりと香堂の目に映った。しかしその瞳は上下左右に速く小刻みに痙攣していた。まるで映像にした遠い過去の記憶を目で追いかけているようだった。香堂は明日香が目の前にいるような気がして胸にこみ上げてくる寂寥感を抑えるので必死だった。割れた窓ガラスから春の夜風が忍び込んできた。まだ幾分冷たいその風に混じって生々しい血の臭いがしたような気がした。  閉ざされたカーテンを透して朝日が部屋の中の闇と混ざり合っていた。香堂は昨夜自分で敷いた布団に身体を預けた。何をどうしていいのか全く見当も付かなかった。これからあいつは今まで以上の拘束を受けることは確実だ。それは仕方ないことだとしても、あの明日香のようなあいつの顔はいったい何だったのだろう。ふと明日香との楽しかった日々の思い出が再び香堂の胸を縛り付けた。香堂の眼に涙が溜まった。香堂は必死に涙が零れ落ちるのを堪えその思い出を無理やり何処かへ追いやろうとした。無駄なことだった。左腕が明日香の頭の重みを思い出した。左耳に明日香の寝息が聞こえてきた。香堂は布団を頭まで被り声を立てずに大声で泣いた。そして疲れ果てると明日香の寝息と共に深い眠りに引き込まれていった。カーテンが閉められているにも関わらず朝日は容赦なく部屋の隅々を照らしていた。  眼を覚ますと部屋の灯は付けっ放しになっていた。昨夜部屋に戻ってきた時に既に朝日が差し込んでいたせいで照明が付いていたのに気が付かなかったらしい。香堂はそのスイッチを切った。灯の消えた部屋には昼下がりの陽の光が心地いい明るさを作り出し部屋にある全ての物を優しく包み込んでいた。テーブルの上には完成間近な誰宛てのものか分からない明日香のメッセージを開く鍵が張り付いていた。欠片をひとつ摘んで絵柄を確認してそれを嵌め込んでみた。欠片はぴったりそこに納まった。香堂は滅多に起きない珍しいことにほんの少し心が明るく照らされたような気がして再びパズルに没頭していった。頭の中にこびり付いていた昨夜のあの明日香の悲しい顔も次第に薄れていった。  鍵は再びその輪郭を取り戻した。香堂は深い溜息をついた。これでやっとメッセージを読み取ることができるようになった。香堂は机の引き出しから明日香の過去からの手紙を取り出すと、目の前に翳して、その絵の穴の位置と照らし合わせてみた。そして以前と同じ作業をその明日香の手紙に施そうと鉛筆を手に取った。しかしその手はそ鉛筆を握ったままいつまでも動こうとはしなかった。やはり香堂は明日香の手紙を汚してしまうことができなかった。承諾も得ずに開いてしまった明日香の手紙を何の躊躇も無く汚してしまう程心は荒んではいなかった。鉛筆をぽとりとテーブルの上に落とすと手を膝の上に下ろした。ゆっくりと立ち上がると着ているものを確かめた。他人に見られても恥ずかしくない程度の物だと分かると慌てることもなくゆっくりと家の玄関を出て行った。  コンビニエンスストアーから部屋に戻ってきた香堂の手には一組の手紙の複写が握られていた。香堂はテーブルにそれを投げ置くとそのまま腰を下ろした。そして今度は米ひと粒の躊躇いも感じずにその複写に升目を入れ始めた。そしてついにメッセージがその輪郭を現した。それは過去からの手紙の一枚目のひらがなとカタカナを使って作られていた。最初のメッセージとは違って文字は様々な方向に向いていた。 まさあきへあナたとおクにいってシマうわたしたえられナいみンなとおクへいってしまッたわたしシぬワたしあなたヲまもるマさあきじぶんをせメないデわたしあなたをトてもあいしテるあすかより 複写を持つ香堂の手が小刻みに震えていた。香堂は胸が引き裂かれる思いを堪えた。浮かび上がった文章は明らかに明日香が香堂に当てた遺書だった。香堂はその遺書を繰り返し読んだ。両眼からは大粒の涙が止め処なく流れ出し頬を伝ってその明日香の遺書を濡らした。今まで美咲だとばかり思い込んでいた病室のベッドに座るあの患者は自分の愛する明日香だということをついに知り得たのだ。香堂は涙を腕で拭い去った。明日香は精神科医の診察を受けるよう促されたことが原因で自殺したのではなかった。 「俺を何かから守ろうとしたんだ」 何故だ。香堂は考えた。あの病室にいる患者が明日香だということは美咲は既に死んでいるということになる。美咲を殺したのは明日香なのだろうか。心臓はその鼓動が指先にまで伝わってくる程強く脈打っていた。明日香は更に看護婦を1人殺してしまっているのだ。自分に何ができるというのだ。たとえ病気が治ったとしても飽く迄も明日香に罪が覆い被さってくるのは避けられない。香堂は両手で頭を抱えた。香堂は考え抜いた末、一つの結論を見出した。明日香は一度自殺したのだ。そして本当に死んでしまったのだ。香堂は明日香を救い出すことを諦めてしまっていた。無理やり明日香との思い出を心の奥底へと押し込んだ。押し込んでも押し込んでも次から次へと蘇ってくる無尽蔵な思い出を再び押し込んだ。  いつしか窓から入り込む陽の光はその強さを弱め、部屋の中には暗闇がゆっくりと忍び込んできていた。  敷きっ放しの布団の上で香堂は考え続けた。しかしその考えは落ち着くべきところに落ち着かなかった。明日香に対する深い愛情だけが香堂の胸を満たしていた。香堂はゆっくりと立ち上がり部屋の片隅に置いてあるパズルが入った段ボールに歩み寄った。そのだらしなく不安定な2枚の蓋の片方を開くと見飽きた『農村の風景』が描かれた空箱が半分だけ見えた。もう片方の蓋を開きそれを取り出すと段ボールの隣に置いた。再び段ボールを覗き込むとそこには一度観たことのある絵柄の描かれたジグソーパズルの箱が入っていた。絵柄は『ギターを弾く男』の絵だった。香堂は片手でその箱を取り出すともう片方の手で段ボールの蓋を閉めその上にそれを載せた。しばらくの間それを眺めながらあることを考えていた。その場で蓋を開いた。欠片を鷲づかみにすると直ぐにそれを雨を降らせるように元の場所に落とした。パズルはぱらぱらと鈍い音を立てて小さくなだらかな山を作った。香堂は急にその箱を持ってその場に座るとそれを目の前に置いて欠片を数え始めた。他にもメッセージを浮かび上がらせるための鍵があるのかもしれない。明日香を救うことができるのかもしれない。香堂は逸る気持ちを抑えた。左手に乗せられるだけの欠片を載せて、そこから一枚ずつ箱蓋の中に投げ落としていった。箱と欠片のぶつかり合うパスッパスッっという鈍い音が部屋の空気に吸い込まれていった。その音と時計の秒針が放つ音が重なり合い不気味な二重奏を奏でていた。神経をパズルの欠片に集中している香堂の耳にはその二重奏がこれっぽっちも届いてはこなかった。無心で欠片の数を数えていた。そして箱は空になった。香堂は箱蓋を中身が零れないように水平に持ち上げ、書かれてある欠片の数を確かめてみた。3000ピースと書かれてあった。香堂は箱を床に戻すと顔をしかめた。やはり102個足りなかった。香堂は段ボールに入っている全ての箱を取り出し床に重ねた。それらは既に取り出してあった3つの箱を除いて11箱あった。香堂は2つになった箱の山からひとつを選んで箱を開けた。香堂にとって絵柄は既に関係のない物になっていた。香堂は同じようにその欠片の数を数えてみた。再び不気味な二重奏が部屋の空気を微かに揺らし始めた。パズルの欠片と箱がぶつかり合う音はぴったり3000で終わった。香堂はもう考えようとはしなかった。今数えたパズルを片付けると、続け様にもう一箱手に取った。そしてその箱の中の欠片を再び数え始めた。やはりそれは3000で終わった。香堂は全てのパズルの欠片を数えた。結局もう一つの欠片の不足したパズルが見つかった。それは『椅子に座る女』の絵柄だった。その2つのパズルのそれぞれの不足している欠片の数は一致しなかった。香堂は欠片に不足の無かったパズルの箱を全て段ボールに戻した。そして並べられた2つのパズルの箱の前に座った。香堂は考えていた。2つのパズルも他の手紙を読むための鍵になっているのは確実だろう。そうでなければ2つのパズルの欠片の数がこんなに数が足りないのは不自然だ。   香堂は比較的絵柄の複雑な『ギターを弾く男』の絵が描かれた箱を手に取ると立ち上がった。テーブルの隣の床にそれを投げ置いた。『白黒の薔薇』のパズルを再び壊してしまうのは気が引けたが、このままにしておく訳にもいかない。香堂は仕方なくそれをゆっくり崩し始めた。ばらばらになった欠片を掻き集め、それが小さな山をになると両手ですくって箱に戻した。それを何回か繰り返すとテーブルの上に残っているものは何一つなくなった。香堂は床の上に置いた『ギターを弾く男』が描かれた箱をテーブルに載せた。いつの間にか今まで部屋の中をぼんやりと照らしていた陽の光がその強さを失い、その代わりに夜の匂いを帯びた暗闇が部屋の中に忍び込んできていた。  居間のテーブルにはシチューと納豆が並んでいた。香堂はそれを見てなんという組み合わせなんだと母親に文句を言いたかったが、既にテレビドラマに集中し始めてしまった母親にそんなことを言っても無駄だということを一瞬で悟った。 「母さん俺先に食べるぞ」 母親から返事は無かった。「これじゃまるで病院にいる明日香と同じじゃないか…」母親の作った料理を胃に流し込むと直ぐに立ち上がった。ドラマが終わってやっと食べ物を口に運び始めた母親が香堂を呼び止めた。 「正明、お茶は要らないのかい」 香堂は母親の質問に小さく頷いて見せた。シチュー、納豆、お茶の組み合わせは身体にいいのだろうかと首を傾げながら部屋へと戻っていった。  部屋のテーブルの上で縁になる4辺が既に長方形を描いていた。香堂はテーブルの前に敷かれた座布団に腰を下ろした。箱に入った無数の欠片の山を鷲掴みにすると、それをテーブルに描かれた4辺の内側にそっと載せた。そして一つずつの絵柄を確かめていった。香堂は明日の仕事を考慮して早めにパズルの組み合わせを切り上げると、敷きっ放しになっていた布団の中に身体を忍び込ませた。香堂は急ごうとは思わなかった。このパズルを組み合わせ終わって手紙を読むことができたとしてもそれが明日香を助け出す手掛かりになるとは限らない。しかし果てのない暗闇の中にある見えない何かを手探りで探すように、明日香を思う心が必死に手掛かりを探し求めていた。香堂は腕の中に居もしない明日香の寝息を聞きながらいつしか眠りに引き込まれていった。  仕事から帰ってくると毎晩のようにテーブルに載った中途半端な絵と睨み合いながらその輪郭を徐々に浮かび上がらせていった。香堂はいつしかパズルを組み立てているのではなく、鍵の穴を作りあげているような感覚に陥っていた。最初から完成しないと分かっているパズルを組み立てる物好きは自分以外にはいないだろうと幾分暗い心持になった。  ゴールデンウィークの初日にパズルを完成させてしまおうと朝からテーブルの上の『ギターを弾く男』の絵と睨み合っていた。そしてそれは昼食の時間を告げる母親の声が聞こえてくるのと同時に完成した。母親の昼食の誘いを断る訳にもいかず、ゆっくりと立ち上がってしばらくの間その場で穴の開いた絵に視線を落としていた。やっと鍵が出来上がったと胸の前で両腕を組んでみた。  居間のテーブルの上には、直ぐにでも食べられるよう全てが準備されていた。香堂は母親に対して自分が何も手伝わなかったことをほんの少し恥ずかしく思った。 「お袋、いつも悪いな…」 母親は自分の息子が何を言っているのか分からずにしばらくの間眼を丸くしていたが、その言葉が何を意味しているのか理解できたのか口を開いた。 「正明、朝何食べたっけ。もしかしてあんただけ何か悪い物でも食べたんじゃないのかい」 母親は茶化したように話したが、香堂には母親が照れ隠しでそう言っているのだということが分かった。確かに数日前に食べた納豆とシチューの組み合わせはいただけなかったと言おうかと思ったが喉元をぎゅっと締めぐっと堪えた。それきり2人は何も話さずに箸を口に運んだ。そして明日からゴールデンウィークの始まる父親を抜きにして母親と2人きりの昼食を済ませた。  コンビニエンスストアーのレジには、やはり客が並んでいた。それを見て苛立つことは無かった。用意してきた小銭をポケットから取り出すと複写機の前に立った。100円硬貨を2枚連続でコインの投入口にくぐらせると、それは小さな硬い音を立てて落ちていった。それがコインボックスの中に落ちるとトーンの低い短く鈍い音を立てた。香堂はその音で箱の中に沢山の硬貨が入っていることを察知した。デジタルの数字を確認すると20という光を発していた。香堂は封筒から明日香の過去からの手紙を引っ張り出すと、それを二枚ずつコピーした。やはり明日香の手紙を汚してしまうことには気が引けて升目は入れてなかった。レジに並んでいる客の殆どは弁当や雑誌などを手にして苛ついたような顔をしていた。  自宅に戻ってきた香堂は真っ直ぐ部屋に入っていった。テーブルの上に手紙の複写を載せると、その前に立ったまま一枚ずつ左右に振り分け複写を2組作った。一組を穴の開いた絵の上に残し、もう一組と手紙の原本を自分の机の上にそっと載せた。テーブルに戻ると、以前と同じ作業を始めた。そして意味を成すその不気味な手紙がついに紐解かれた。   未来の里佳子へ    俺は一度口にしたことは必ず成し遂げて見せる。いくら明日香が邪魔してもな。俺はお前等みたいに他の奴等には興味は無い。俺は俺の考えていることを貫き通すだけのことだ。ただ俺の邪魔をする奴には容赦しない。弘美みたいにな。あいつは明日香でさえ殺すかもしれない。そういう奴なんだ。明日香が死んだら俺達も危ない。そうだろ里佳子。あいつがいる限り俺達はいつも危ない目にさらされるってことだ。この手紙が届く頃には俺は必ずあの女を殺しているはずだ。もし生きていたとしたら明日香が殺されたってことだ。俺達はもう存在しないってことだ。俺に任せとけ。お前達は俺の手柄をその場で見れたはずだ。そうだろ里佳子。俺のこと褒めてくれよ。もし弘美が俺の手で殺されるところを見れたならな。なあ里佳子、前にお前に話したろ俺の計画を。この手紙が届いてもし俺が弘美を始末できていたら俺はあの計画を実行しようと思ってる。いいだろ里佳子俺のこと分かってくれるのはお前だけさ。そうだろ里佳子。なあ里佳子、俺はお前と明日香に謝らなきゃならないことがひとつあるんだ。お前等は知らないだろうけど弘美は俺に惚れてるんだ俺はあいつを利用したんだ。たぶらかしたんだ。俺が弘美に一隆を殺させたのさ。お前等には悪いと思ったけどな。俺はあの糞餓鬼がうるさくて目障りで仕様が無かった。それで弘美にそう言ったらあいつ私がやるって喜んでた。糞親父の時と同じようにな。そうさ、あの糞親父を殺すように弘美に仕向けたのも俺さ。そして俺は弘美も始末しなきゃならない。おい、未来の俺、お前ちゃんとあの馬鹿を始末したんだろうな。おい、しっかりしてくれよ。もしまだ弘美が生きているんだったら今から殺しに行け。そうでないとお前たちが危ない目に遭うだけだぞ。しっかりしろよ未来の俺。   健司   香堂はゆっくりと立ち上がると机の上に手紙の原本と一緒に置いてある封筒を手に取った。その手は小刻みに震えていた。宛名と差出人を確認してみた。市居明日香と確かに書かれている。今まで美咲だけが多重人格だと思っていた香堂は、明日香も美咲と同じように多重人格だと知ったその時、途方も無い虚脱感が身体全体を支配していくような感覚を覚えた。頭をゆっくり大きく左右に振った。双子には双方の多重の人格と話し合う機会が毎日のように存在したのだ。美咲の3つの人格を明日香が知り、逆に明日香の3つの人格を美咲が知り双子双方が人格の橋渡しをして、結局普通の多重人格者にはあり得ない人格相互間の複雑な交流を持つことになってしまったのだ。そして明日香と美咲はお互いが多重人格だということを知りながらそれを親にも知らせずに育っていったのだ。殺人鬼の人格を宿す多重人格の二人が話をしているのを周囲の人間も全く気が付かなかったのだ。 「小林医師でさえそれに気付いていないのではないだろうか…」 香堂の脳裏にに双子が旅先で母親を殺す計画を立てているイメージが浮かんできた。その双子の証言で警察は母親の自殺を信じてしまったのだ。香堂は後に寝転んだ。香堂は健司の言う計画とは何なのかが気になった。しかしそれを知る術はどこにもなかった。増してやどんな理由にしても両親、弟、美咲、そして看護婦を殺したのは明らかに明日香でありあの状態なのだ。そんなことを聞きだせる訳が無い。父親が溺死した時に浩二の友人の健太が聞いた「健司」という名前は明日香の人格のひとりの名前だったのだ。結局は明日香の心の中に巣食う人格のひとり健司が美咲の人格のひとりである弘美を利用して父親と弟を殺したのだ。恐らくは母親も健司が弘美を利用して殺したのだろう。その後健司が言っているように弘美を始末してしまったのだ。健司が殺した弘美は弘美ではなく美咲なのだ。香堂は混乱した。あいつに大笑いされたことを思い出した。 「あの時俺があいつを美咲だと思いこんでいることがおかしくてあいつは大笑いしたんだ…」 香堂の耳にあの病室のあいつが「明日香じゃない」と叫んだ声が蘇ってきた。やっとその言葉の意味が理解できた。 「あれが健司なんだ…」 香堂は無意識に独り言を言っていた。 「何か言ったかい正明…」 居間の方から母親の声が聞こえてきた。 「いや何でもない。独り言だよ」 香堂がそう言うと母親は納得したのか静かになった。ふと香堂は穴だらけの『ギターを弾く男』の絵柄に視線を落とした。それはテーブルにぴったりと張り付いて剥がれないようにも見えた。あいつが健司だと分かったからといって自分に何ができるんだと香堂は自分に問いかけていた。香堂は弾かれたように立ち上がると机の下に押し込んでおいた『椅子に座る女』が描かれたパズルの箱を引っ張り出した。それを床の上に置くと、テーブルの上の『ギターを弾く男』のパズルを崩し始めた。崩し終わると、それを箱に戻し段ボールに入れた。香堂はその場に立ち尽くしたまま行き場を失った遣る瀬無さが胸の中で膨らんでいくのを感じた。再び夜を纏った暗闇が部屋に押し寄せ、香堂の視界を妨げ始めていた。  ナースステーションを通り過ぎようとした時、中にいた顔見知りの看護婦がドアを開けて香堂を中へ招き入れた。香堂は呼ばれるがままそのドアの中へと入っていった。中に入ると以前と何かが違うことに気が付いた。アドバイスをしてくれたあの看護婦の姿が見えなかった。香堂は一瞬でその原因を察知した。明日香が殺してしまったのはあの看護婦だったのだ…。途方もない無念感がきりきりと胸を締め付けた。何故全く関係の無いあの優しい看護婦を殺す必要があったのだろう。疑問が頭の中を埋め尽くした。香堂をナースステーションに招き入れた顔見知りの看護婦は、香堂が明日香を見舞う際に同行するべきか否かを訊ねてきた。 「大丈夫です。監視カメラも付いてることでしょうから…」 「じゃあ香堂さんが病室にいる間だけ鍵は開けておきますね」 香堂は看護婦が何を言っているのか分からなかったが、取り合えずお辞儀だけしてナースステーションを出た。  病室のドアの前で立ち止まった。外から鍵がかけられていた。電気式になっているらしくナースセンターにいる看護婦がそれを遠隔操作で開けられるようになっているらしい。さっき看護婦が言っていた鍵というのはこのことだったのかとぼんやりと考えていた。小さな電気音がしたかと思うと鍵の隣についている小さなランプの色が赤から緑に変わった。  香堂は今までの自分とは何か違う自分を感じ取っていた。香堂は迷わず目の前のドアを強くノックした。やはり返事は無かった。いつもの沈黙だけが両耳を覆った。ドアノブを素早く回すとそのまま押し飛ばすようにドアを開いた。いきなり獣のような顔を出して飛び掛ってこられては敵わないと思っていた。ドアの向こう側にはそいつはいなかった。そいつはやはりベッドに座って窓の外を眺めていた。香堂は病室に一歩足を踏み入れると迷わず一直線にそいつの前に距離を置いて立った。病室の片隅には折り畳み椅子が立てかけてあったが、香堂はそれを使おうとはしなかった。もうこの病室では何が起きても座らないと心に決めていた。香堂は以前はそいつの視線を遮らないようにしていたが、それはそいつが明日香だと思い込んでいたからでこそそうしていたのだった。今香堂は完璧にそいつの視線上に立っていた。香堂は立ったまま黙っていた。そして嘲笑を浮かべるその顔についている両眼をじっと睨んだ。そいつは視線を別のものに移す訳でもなく、動く訳でも話し始める訳でもなかった。ただ何かを嘲り笑い続けていた。それでも香堂は視線を逸らさなかった。香堂はいつそいつが襲い掛かってきても対応できるように身構えてさえいた。香堂はそいつを睨み、嘲笑するそいつは掴みどころの無い視線を香堂に投げかけ、その状態が一時間も続いた。それはまるでそいつが香堂を嘲り笑っているかのようにも見えた。香堂が今までの姿勢をやめ身体を塊と斜に構えた。 「おい健司」 その香堂の声にそいつは一瞬でその形相を醜い獣のそれに入れ替えた。やはりこいつは健司だ。香堂の胸は叩かれる大太鼓の前に立っているかのように高鳴った。醜い獣の形相を浮かべた女の形をしたその塊の口が何かを言いたそうだった。香堂の眼には健司がそれを堪えているように見えた。 「今度俺に飛び掛ってきたら俺はお前を殺す。まあ俺がお前を殺さなくたってどっちにしてもお前は看護婦に注射されてなよなよになるだけだけどな」 香堂は強い口調で台詞を吐いた。そいつは口を開こうとはしなかった。香堂は最初からそれを予測していた。香堂にはある考えがあった。一度しかできないが、香堂はそれを完全に健司だと仮定し誘導しようと思ったのだ。名前を呼ぶだけのつまらない誘導ではなく、健司の仲間になろうとしていた。そうすることでそいつの企みを知ろうとした。それをまだそいつは知らない。しかしそいつは依然として口を開こうとはしなかった。 「まあいいさ。お前がその気になったら俺に話し掛けてくれ。一つだけ言っとくが俺はお前の敵じゃない。じゃあな」 そいつに背を向けないようにベッドの隣を足早に通り抜けた。病室のドアをゆっくりと開けて後を振り向くとそいつはベッドに座ったままだった。香堂は女の形をした塊の後姿を見てそいつが何か考えているように見えた。  病室から廊下に出た香堂は軽い手応えのようなものを感じ取っていた。香堂は明日香を呼び戻さなければこの病院から出ることができないことを理由に明日香の人格が表面に現れる度数を増やしていき、その代わりに健司の人格を徐々に追い出していく計画を立てていた。その第一歩が今日の香堂の芝居だった。病棟の階段を降りていく香堂の足取りは以前とは比べ物にならない程軽くなっていた。  階段を下りきって1階の廊下を歩き始めた時病棟の玄関から長いコートのような白衣を着た男が入ってくるのが見えた。小林医師だった。香堂はそのまま足を進め、小林医師もこちらに向かって歩き続け病棟の丁度真ん中辺りで二人は立ち止まった。 「ああ、香堂さん、明日香さんのお見舞いですかな」 香堂は小さく頷いた。 「ええ、これから帰るところです」 「どうでしたか明日香さん。喜んでましたかな。少し良くなったでしょう」 香堂は言葉に詰まった。しかし精神科医がそう言うのだから、その医師の目から見て良くなったということなのだろうと思った。確かに飛び掛ってはこなかったと香堂は思った。まさかこの期に及んでまだ明日香の振りをして狡猾な猿芝居をし続けているとは考えにくかった。 「ええ喜んでました」 香堂は忙しそうな顔をしている小林医師に話を合わせた。小林医師は確かに忙しいらしくその後挨拶を交わすとさっき香堂が降りてきた階段を足早に上っていった。病棟の玄関から差し込んでくる陽の光が廊下に塗ってあるリノリュウムに反射され廊下全体をほんのりと照らしていた。 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