「桃ちゃんちょっとこっちにおいで」 幾田小町は日本から苦労して連れてきた大切な5匹の猫のうち最年長の白と黒が程よく混ざり合った毛色の大きな猫を両手で挟むように持ち上げると膝の上に乗せた。2,3度頭を撫でると手にしていた首輪を丁寧につけてあげた。その猫がメスなので気を使って赤い色の首輪を選んであげた。これで全ての飼い猫に首輪を付け終わった。小町は猫をそっと床に降ろすと古い木製の椅子からゆっくりと腰を上げた。最初どの猫も慣れないらしく後ろ足で首元を掻くような仕草をしていた。しばらくするとその仕草に飽きてしまったかのように付けられた首輪を気にはしなくなり、皆各々違うことをし始めた。のっそり歩き出す猫、毛繕いをする猫、そのまま倒れ込むように寝てしまう猫もいた。 「じゃ、ご飯にしますか」 小町は台所の方に身体を向け直しゆっくりと歩いていった。すると全ての猫が一斉に足元に群がった。5匹とも飼い主の言っていることを理解しているようだった。その証拠に何も言わずに台所に立った時は猫達は寄ってこようとはしなかった。台所の下に入れてある猫用のドライフードと缶詰に入った生タイプのキャットフードが猫たちの餌だった。自分の食事には殆ど気を使わない小町だったが、猫の餌には健康のためにと高価なものをいつも用意していた。増してやそれらの餌を切らしたことは一度たりとも無かった。きちんと洗った猫用のお皿にいつもの量の餌を盛るとそれにがっつく猫もいれば、ゆっくり味わって食べるのもいれば、匂いだけ嗅いでそっぽを向いてさっきまで寝ていたお気に入りの場所に戻ってしまうのもいた。いつものことなので小町も気にはしていなかった。 小町の猫好きは近所でも評判になり、彼女が猫をかわいがるのを見て近所の家でも飼い始まる程だった。小町は近所の子供達が猫に意地悪をしたりすると注意した。それだけではなく通りかかる勢いのいいトラックのドライバーにまでもそうしていた。終いには彼女の住む地域で猫は神様のような扱いになり猫がいじめられたりするようなことはなくなった。 小町が親しくしている隣の家の夫婦も例外ではなく一匹の猫を飼い始めた。小町は隣の夫婦が猫を飼い始めた頃から彼等を信用し始め、家の中のことを任せるようになっていた。その妻のマリーは小町の家の掃除や身の回りのことを世話していた。小町が外出して猫たちに餌をあげられないようなときは猫の世話もしていた。小町が病気で寝込むようなことがあれば料理や洗濯までしていた。猫を中心として小町の平凡な毎日が続いていた。 黒くゆっくりとうねる海面が朧な月の光に照らされ神秘的な夜の絵画を闇に描き出していた。肌理の細かい乳白色の砂が微細な海流に捲きあげられ遠浅の海の底を薄く這うように動いていた。海は岸から離れていくに連れ叙々に深さを増していった。深くなるに連れ海底には大小の無数の岩が頭を覗かせた。岩陰には色とりどりの大小様々な魚達が夜の恐怖を耐えながら身を隠していた。海底から上を見上げるとそこには見たことも無い幻想的な月が魅惑と疑惑の入り混じった光を投げかけ、海面で屈折されたその光はオーロラのように海の中に散っていった。岩と岩の間に前後左右に揺れ動く白い塊がその月明かりに照らし出されていた。その塊の影にも黒と白の縞模様を彩った小さな魚が数匹身を隠していた。その塊は寂しげな女を形取っているように見えた。真っ白なTシャツが微妙にうねっていた。2つの眼は柔らかく閉じられ、唇は薄暗く細長い小さな洞窟の入り口を形取っているように見えた。その悲しい女の水死体は時間が経つに連れ弱い海流に揺られながらゆっくり海面へと浮かんでいった。 強いブルーの色を放つ海からほんのりと海の匂いを伴って潮風が坂道を駆け上がってきた。潮風に遊ばれるようにココナッツの細長い葉が揺れていた。巨大なアカシアの老木のドームのような枝葉を通して太陽の光が辺りをふんわりと包みこむような網目模様の陰を作り出していた。空はどこまでも青く澄み渡り、遥か上空をゆっくりと横切っていく雲は子供達の興味をそそる様々な形に変幻していった。 子供達を学校に送り出し自分の家の家事を済ませたマリーがいつものように小町の家の庭を掃き始めると、制服姿の警官が1人ゆっくりと坂を上り近づいてきた。50歳前後の色の浅黒い男だった。 「こんにちは。この辺に日本人女性が住んでいると聞いたのですがご存知ありませんか」 マリーはほんの少し呆気に取られて口を半開きにさせた。彼女が掃いているのは紛れもなくその日本人女性の家の庭先である。小さな間を置いたが顔をしかめて返答した。 「ええ、ここですが…。ただまだ寝てると思いますよ」 小町は朝起きるのが苦手な女だった。夜寝るのも遅かった。いつも朝11時を過ぎないと起きて来た例がない。だがこのとき既に12時を過ぎようとしていた。マリーにとってはいつものことなので然程気にはしていなかった。 「いるかいないかだけでも確認できないでしょうか」 マリーはまたしかめ面をして見せた。今度はさっきよりもっと醜い顔を作って見せた。マリーは小町を起こすことに乗り気ではなかった。以前マリーが朝の10時頃に小町を起こしてしまったとき一日中不機嫌な顔をされたのを覚えているからだ。その時まで10時というのはマリーにとって世の中の全ての人が寝床から離れ、当たり前のようにそれぞれの生活を営んでいる常識的な時間だった。それはマリーの常識が音も無く崩れ去った瞬間だった。ただこの時は警官のしつこさに負けて仕方なく玄関に近づいていった。 「おはよう、小町、警察が来てるよ」 何度かノックしてみたが返事は一向に返ってはこなかった。マリーはまた小町の機嫌を悪くさせてしまったのではないかとほんの少し不安になった。仕方がないので小町が猫の出入りのためにいつも少しだけ開け放しておく窓から覗いてみることにした。 開いている窓の隙間から右手を少しだけ差し込んでカーテンをチラッと寄せてみた。その隙間に左目を当てて中を覗いてみたがベッドの上にも小町の姿を確認することはできなかった。どうやら猫達は5匹ともいるようだ。どの猫も不思議そうに窓の隙間に現れたマリーの丸く大きな左目を睨んでいた。 「トイレかしら…、小町、 小町…」 今まで隙間に当てていた左目をそこから離し、その代わりに口を当てて大声で呼んでみた。やはり返事は無かった。 家の中の様子に気を取られていたマリーは警官が背後に来ていたことに気が付かなかった。警官に急に話し掛けられた時彼女の胃袋のほぼ半分は口の中にあった。 「あの…、実は今朝この下の海岸に日本人らしい女性の水死体が上がったんですが、困ったことに身元を証明する物が何も無いんですよ。それで日本人の家を探しているのですが、この辺りに一軒あると聞きましてね…、こうしてこちらへお伺いした訳なんです。どうやら不在のようですね。顔見知りのようだし、どうでしょう、貴方、確認してみてくれませんかね。すぐそこの海岸ですから」 警官は海の方を指差して見せた。マリーはそれを聞いてほんの少し不安になった。それまで朝家にいなかったことのない小町が留守にしていることと警官の話を重ね合わせてみると、小町の水死体がほんの一瞬だが脳裏を横切っていった。マリーは身震いした。頭を小さく左右に振った。警官はそのマリーの身震いと小さな仕草には気づかなかったような顔をして後に振り向いて先に歩き出始めた。マリーは仕方なさそうに警官の後を小走りで追い始めた。 小町の家は坂道の途中に建っていた。坂の上から見ると道の両脇に生えている大きな木の枝の合間から青い海が見え隠れしている。マリーと警官は歩いてその坂を下りていった。坂を下ると海岸沿いに走る大通りに突き当たる。大通りといってもあまり車は通らないが、人通りが全く無いとも言えない。大通りを渡るとすぐ遠浅の海が続く海岸に出る。砂浜はクリーム色の砂で埋め尽くされていてその所々に生えているココナッツの木の下には涼しそうな日陰ができている。その木と木を結んで誰も乗っていないハンモックが昼下がりのひと時を楽しんでいるかのようにぶら下がっていた。海岸に着くとかなり離れてはいたが数人の警官と、警官とは違う服を着た恐らく検死官だと思われる2人が、砂浜に横たわる何かを丸く囲んでいるのが眼に入った。マリーは吐き気を催していた。近付くに連れて何か布のようなものが身体に賭けてあるのが分かったが、顔には何もかけられていなかった。もう少し近づいていくと顔に何も被されていないのではなく覆っていた布の一部を捲り上げてあるのが分かった。 マリーは足を止めた。それ以上近付く必要がなくなったからだった。髪の毛の色と横顔だけでそれが小町だと直ぐに分かった。 「彼女です…。小町です」 そう答えながらマリーは得体の知れぬ何かに押しつぶされるようにその場に座り込んでしまった。警官がマリーの隣に座り肩に手を差し伸べた。 「大丈夫ですか…。気を落とさないで。残念なことです。できれば彼女の家を調べたいのですが…」 警官はなんと言ってマリーを慰めていいのか分からないようで、ありきたりの言葉を並べるのが精一杯のようだった。マリーは小さく頷いた。その仕草はまるで項垂れて泣きべそをかき親に説得さる子供のようだった。海から押し寄せてくる潮風は何ごとも無かったかのように吹き続けていた。しかしこの時その風を清々しいと感じることのできる者は誰一人この海岸には存在しなかった。 家に入るとマリーは然程寂しさは感じなかった。恐らく猫たちのせいだろう。マリーの足元に3匹の猫がまつわりついていた。餌をねだっているのだった。いつもは起きてきた主人が餌をくれるはずなのに、その主人の姿でさえ猫たちには見つけることが出来なかった。マリーは猫が気の毒になって猫の名前を一匹一匹呼びながらその場にしゃがみこんだ。警官が入ってくると猫たちは見知らぬ来訪者を恐れたのかそれぞれの好きな場所に逃げるように戻っていった。警官は家の中をゆっくりと見て回った。しばらく家の中で何かを探し回っているようだったが諦めてマリーのしゃがんでいる玄関へ戻ってきた。猫達はじっと動かずに警官の動きを窺っていた。 「争った形跡はありませんね。争ったどころか綺麗に掃除してあるみたいですね。貴方が掃除したんですか」 マリーは首を小さく横に振った。 「私が家の中を掃除したのは3日前です」 警官は腕を組んで考えているようだった。そして深く溜息をつくとまた話し出した。 「遺書も無いようだし…。身体に外傷もないし目撃者もいないので自殺というのが私達警察の見識です。家に遺書くらいは残していると思いましたが…、見当たりませんね」 マリーは警官が話している間猫たちのことが気になっていた。彼らの餌のこともあったが、それよりも今後の彼らの身の振り方を心配していた。何が小町を自殺に追い込んだのかマリーには想像もつかなかったし、いくら考えたとしてもそんなことは無意味なことだとしか思えなかった。それよりも小町が可愛がっていた猫たちを今後苦労しないように取り計らってあげるのが彼女の小町に対する慰めだと思っていた。警官はマリーの返事を待っているようだったが、マリーが心ここにあらずというような表情を顔に浮かべているのを見て取ったのか急に話を纏めようとした。 「とにかく検死の結果を待つしかなさそうですね」 警官は然程家の中の部分部分には興味がないらしくただ単に遺書を探しに来たような態度だった。2人は外に出ると検死の結果を知らせるための携帯電話番号のやり取りをした。日本の遺族への知らせは地元警察が日本大使館を通してするということだった。 坂道を上がってくる潮風が2人の髪の毛を揺らしていた。アカシアの木の下で近所の子供達が奇声を上げて走り回っていた。皆何事もなかったかのように全くいつもと変わらなかった。ただいつも餌をくれるはずの主人の姿を見つけることの出来ない猫達だけがいつもと違う異様な雰囲気を感じ取っていたのかもしれない。いや、猫たちは既に小町がもうこの世を去ってしまったことを知っていたのかもしれない。猫達の目に悲しみと不安が色となって留まっているように見えた。 検死の結果と警察の捜査の打ち切りがマリーの耳に届いたのはそれから3日後のことだった。結局外傷その他変わったところは発見されず、また解剖の結果も体内からは薬物といったような不振なものも検出されなかった。その結果と捜査を基に警察は自殺による溺死と断定したようであった。身元引受人の小町の母は高齢のため渡航は不可能という理由で大使館が遺体を火葬して日本に届けるということだった。マリーにとっても不服はなかった。小町が他の誰かと争っていたようなことはなかったし、増してや恨みを買うようなこともない性格だったことをよく知っていたからだった。マリーには他殺ではなかったということは自殺だったのだと考えることしかできなかった。ただなぜ自殺したのかは小町の家の隣で暮らしていたマリーにも全く分からずじまいだった。 マリーは警察が捜査をしていたこの3日間を猫たちを引き取ってくれる新しい飼い主を探すことに費やしていた。運よく4人の猫好きを見つけだすことができ、後はその新しい飼い主たちが猫たちを引き取りに来るのを待つだけだった。問題は残った一匹だった。考えた挙句マリーは自分でその猫を引き取ることにした。引き取ってくれる人たちが小町の家に来た時にそれぞれ気に入った猫を選ぶという話になっていたのでマリーは自分で真っ先に選ぶことにした。マリーは桃ちゃんを引き取ることにした。これといって特別理由はなかったが、5匹の中でも一番自分に慣れている猫を選んだ。 やがて猫達は皆新しい主人に連れられていった。静かになった小町の家の戸締りをしながらマリーはなぜ小町は自殺なんてしたのだろうと涙を流していた。家の外ではいつものようにアカシアの木の下で子供達が遊んでいた。その子供達もやがてはこの開かずの家の異常に気付くことだろう。風が玄関の鍵を掛けるマリーの涙を徐々に渇かしていった。潮風は次第に強さを増し、舞い上がった土埃が子供達の視界を妨げていた。 まだしょぼしょぼする目を手の甲で擦りながら、山瀬剛はベッドから起き上がり玄関のドアへよたよたと歩き始めた。郵便配達人がガチャガチャと玄関の新聞受けに何かを差し込んでいる音に起こされたのだった。玄関といってもアパートのそれで、安っぽいドアの中央に新聞受けの口がぽっかり開いている。当然新聞だけでなく手紙なども入ってくる。壁に掛けられた時計は既に11時を回っていた。これまでこの時間にはなかった郵便配達の不規則な訪問に山瀬は少し不機嫌にさせられた。山瀬は長年続けてきた客商売をやめ、ほんの少し骨を休ませるための休養を楽しんでいるのだった。殆ど夜が仕事だったこともあって、起きる時間を正常な人間のそれに戻すことが出来ないでいた。玄関に近付くと新聞が玄関の床に落ちていた。その上に今では殆ど見れなくなったきちんと漢字の宛名が書かれた手紙と思われる封筒がひとつ載っていた。その下に薄いセロファンに包まれた、カタカナの宛名が書かれたダイレクトメールも横たわっていた。もう一通やはりカタカナで宛名の書かれた電力会社の請求書兼振込用紙が入った封筒もあった。これは封筒に宛名を書くのも惜しいのか小さな覗き窓のような透明のセロファンがそれに貼られて中の請求書に書かれた名前が見えるようになっている。山瀬はその請求書を見るといつも不機嫌になった。拾って引き裂きたくなる衝動を堪えた。それらはコンクリートの床の上に無造作に散乱していた。山瀬はしばらくの間それらを拾いもせずに眺めていたが結局漢字の宛名が書かれた珍しい封筒だけを拾った。裏を見ると差出人は幾田優子となっていた。その字が達筆なことから山瀬は差出人が若い人ではないことを直感した。 「こんな名前初めて聞くな…」 もしかすると宛先人が間違っているのではないかと思い、ひっくり返して確かめてみた。住所、氏名、宛名の漢字も間違いなく確かに山瀬のものだった。山瀬は無意識に首を傾げていた。テーブルに手紙を放り投げて、とりあえず薬缶にお湯を入れて1人分のコーヒーを入れるためのお湯を沸かし始めた。いったんテーブルに戻りもう一度宛先人を確かめて確かに自分のものであると分かると封筒の端の方を摘んで少しずつ千切っていった。中の便箋を引っ張り出して開いてみると、書かれた文字は確かに達筆だった。 拝啓 突然このような手紙を差し上げるよな失礼をどうぞお許しくだ さい。実は貴方様のことを以前から娘に聞かされ存じ上げていた のですが、他に頼れるような人も見当たらず、藁をも掴む思いで 筆を執った次第です。 先日私の一人娘の、幾田小町がフィリピンで自殺しました。私 にはどうもそのことが信じられません。警察や弁護士にも調査を お願いしてみようと考えましたが、海外だということを理由に頭 から拒否されてしまうのではないかという思いが先に立ってしま い、足が前に進みません。例えば私が警察に調査を依頼したとし ても国際的な警察組織に調査が回されてしまうことでしょう。当 然そのような組織はお忙しいのでしょうから、私の娘の自殺の件 など相手にもされないかもしれません。いや、相手にされるわけ がありません。弁護士に依頼したとしても、通訳その他の経費で 恐らく膨大な調査料を請求されるのは目に見えています。そこで 私が行き着いた結論はフィリピンの国の言葉に精通して、尚且つ フィリピンの国のことについて詳しい貴方様を頼るということで した。 あつかましいのは重々承知の上です。ただ出来ることならば貴 方様と一度お話をさせて頂きたいと考えております。この手紙に 私の住所と電話番号を書いておきます。無理なお願いだとは思い ます。ただ貴方様が最後の頼りだとだけ言わせてください。 敬具 幾田 優子 住所 ……………… 電話 ……………… 「まいったなあ…」 薬缶がまるで激怒しているかのように注ぎ口から湯気を吐き出していた。山瀬は厚手のコーヒーカップにインスタントコーヒーを入れてまたテーブルに戻ると、もう一度手紙を読み返した。確かに山瀬はフィリピンの共通語であるタガログ語に精通し、以前数年間フィリピンに滞在していたこともあった。だがこの手紙にあるような調査などという難しいことに関わったことは一度もなかった。熱いインスタントコーヒーを啜りながら、いったいどうしたものか決めかねていた。このまま知らない振りをして忘れてしまおうか。いや、それも失礼だしせめて電話で断ろうかなどと考えていた。 「いや、電話したら俺の性格上断れなくなるな、こりゃ」 いつの間にか口から独り言が零れていた。山瀬は断るのが下手な性格だった。以前から他人に何かを頼まれると断れず、引き受けてから頭を抱えて後悔するのが常だった。山瀬は自分の性格をよく知っていた。 「どっちにしても断らないと…。そんな調査だなんてできる筈ないに決まってる」 山瀬は熱いコーヒーを一口啜った。 山瀬にとってフィリピンは嫌な国ではなかった。以前住んでいたときは事業に失敗してしまったが、日本と比べると生活するのは然程苦にはならなかった。かえって日本での毎日の規則正しい生活に縛られることの方が山瀬にとっては苦痛だった。その証拠に山瀬は日本へ帰国する飛行機の中でいつも憂鬱な時間を過ごしていた。いざ飛行機が着陸態勢に入ると、「またか…」という寂しさに駆られるのが常であった。ぬるくなってしまったコーヒーを飲み終わる頃、山瀬の頭の中にフィリピンの光景、あの時間の感覚を鈍らせてしまう不思議な魔力が漂ってきた。 「そういえばもう帰ってきてから6年になるなあ。話だけでも聞いてみるか」 山瀬は心の中で呟きながらまた布団に戻って右へ左へごろごろしながらだらだらと時間をやり過ごした。以前ならこの時間は店を空ける準備で忙しい時間帯だった。その忙しさを忘れられないのか、この時間になるといつも胸がそわそわとしていた。窓から差し込む陽の光がカーテンを透して半分遮られていた。半分はカーテンのオレンジ色を透して部屋にほんのり黄金色の光となって充満していた。カーテンを少し寄せて吐き出し窓をほんの少し開けると、カーテンをふんわりと揺らす気持ちのいい風が部屋を満たした。 「もうすぐ夏も終わりだなあ、このままいくと年が明けちまうな」 風はカーテンを揺らし続け、部屋の中に作られる黄金色の陰でさえも揺らしていた。その揺れに共鳴するかのように山瀬の心も幾分揺れていた。 携帯電話の6度目のコールが鳴り終わらないうちに幾田は電話に応対した。 「もしもし 幾田ですが…」 一人娘を亡くしてまだ日も経っていないとみえて、まだ声に張りが感じられなかった。当たり前のことだと山瀬は思った。 「あ、私お手紙をいただいた山瀬と申しますが…」 山瀬の声のトーンも少し控えめになっていた。 「あら、本当に突然お手紙なんて差し上げてしまって申し訳ありませんでした。でも山瀬さんが一番適任だと思い込んでしまって…」この答えと相手の心境を考えている山瀬は既に断るための言葉を心のどこかににしまい込んでしまっていた。 「私は調査なんて大それたことしたこともないし、お役に立てるかどうかは分かりませんが、具体的にはまず何をすればいいのでしょうか」 断るはずが考えていることとは裏腹に口が動いてしまう。言ってしまってから携帯電話を掴んでいる反対の手が額を叩いていた。携帯電話のダイヤルを押し始めたときにはこうなることは自分でも分かっていたが、こうも簡単に幾田の依頼を受けてしまうような言葉が口から出てしまうとは思ってもみなかった。 「今度の週末に東京の兄のところに行こうと思っているのですが、その帰りに山瀬さんのお宅に寄らせていただいても宜しいでしょうか。とにかくお電話口では失礼なことだと存じますので、是非そうさせて頂きたいのですが…。ご迷惑ではないでしょうか」 幾田の一方的な話の進め方が山瀬に緊張感を与えていた。案外この母親の、娘の死は自殺ではないという勘が当たっているのかもしれないという考えが山瀬の頭をよぎった。 「ということは他殺なのか…」 小さな生温い沼の底からゴボッと浮かび上がってくる泡のように、山瀬の脳裏に嫌な言葉が浮かんだ。山瀬は首を小刻みに横に振ってから幾田に答えた。 「私は構いませんが…」 話は2分とかからなかった。ただ電話を切った後も山瀬は幾田の熱の篭った話し方のせいで緊張感を拭い去ることが出来なかった。風は既にカーテンを揺らすのに飽きて一休みしているかのように吹くのを止めてしまった。山瀬の緊張を悟ったかのようにカーテンは重く動こうとはしなかった。 夕立が去っていった。日中の日差しに温められた何もかもがその雨に冷まされていった。生温かい雨は雫となってひたすら地面へと滴り落ち吸い込まれていった。日没までの僅かな光を得た夕焼けが全てを薄オレンジ色に染め尽していた。山瀬は幾田の訪問を言葉にすることのできない複雑な気持ちで待ち続けていた。商売をやめて暇を持て余している自分の時間を他のことに使うことが出来るのならばそれはそれで有意義なことである。ただ山瀬の心を誘っているものはそんな綺麗事のようなものではなく、ただ単にあの拘束感のない社会へほんの短い時間だけでも戻れるかもしれないという心の奥底に隠れている怠惰のようなものだった。湿気を含む晩夏の風が山瀬の身体を取り巻いていた。さっき降った夕立が道端の土埃を空気に巻き上げ、その臭いを含んだ風の湿った匂いが余計に山瀬の脳裏に懐かしいフィリピンの光景を思い浮かばせていた。 ふと壁の時計に目をやると針は7時を回りかけていた。とそのとき玄関の呼び鈴が心地よい余韻を残して部屋に鳴り響いた。幾田優子は約束した通り、週末にやって来た。 「はーい、ちょっと待ってくださいね」 立ち上がりながらそう答えると山瀬は足早に玄関へ向かった。ドアの魚眼レンズの付いた小さい覗き窓からその向こう側にある外の光景を確認してみた。アパートの通路に付けられたライトが女の顔を照らしていた。70歳前後の老いて疲れ果てた女の顔が魚眼レンズで変形して見えた。女は二度目のベルを鳴らそうともせずドアから一歩下がっていつそれが開いてもいい距離を作っていた。まるで山瀬が覗き窓から覗いているのを知っているかのようだった。山瀬はそう思うと自分のしている行為が少し恥ずかしく思えて咄嗟にレンズから眼を離すと無意識に頭を掻いていた。 ドアの鍵を左に回すとガチャっという機械的な音がした。ゆっくり前に押し開いてみるとそこには覗き窓から見るよりも痩せた幾田優子の顔があった。背筋をピンと張ったその姿勢がなんとなく育ちの良さを山瀬に感じさせた。 「こんばんは。初めまして、山瀬です。幾田さんですか」 ドアを開いてしまってから名前を訊ねるのもおかしいと山瀬は思ったが、この時間に初老の女性が訪ねてくる訳もなく、約束通りの時間帯だったこともあって、躊躇うことはなかった。 「はい、初めまして、幾田優子と申します。宜しくお願いします」幾多は疲れたような声で簡単に自己紹介をした。2人はとりあえずありきたりの簡単な挨拶を交わした後部屋の中に入っていった。山瀬はお茶かコーヒーを差し出そうと思い直ぐに薬缶にお湯を沸かし始めた。 「あら、どうぞお構いなく。お一人だと何かと不便でしょう。私も今一人暮らしなもので自由がきかなくて何かと困ることが多いんです…。娘があちらに行ってしまってからは寂しさも加わって一日一日がつらく感じられましてねえ…」 幾田はそう一気に言うと山瀬が指定した座布団に腰を下ろした。かなり疲れているように山瀬の目には映った。山瀬は返す言葉が見つからかった。薬缶のお湯が沸くまでのしばらくの間ふたりは何も話さずに黙っていた。 やっとお湯が沸いて2人分の緑茶を持って幾田の反対側に腰掛けると、山瀬はそれを幾田に差し出した。 「大変でしたね。でもお身体に毒でしょうからあまり思いつめないほうがいいんじゃないですか」 幾田はちょっと熱めの湯飲み茶碗を両手で受け取ると一口も啜ることなくそのままテーブルの上に置いた。 「すいません。ちょっと熱過ぎましたか…」 山瀬の問いに幾田は声を出さずに首を小さく左右に振った。どこからどうやって話していいのか分からず、言葉を喉の辺りに詰まらせている様子だった。小さな間を置いて一口緑茶を啜ると決心が付いたかのように話し始めた。 「うちの娘、日本にいるときから可愛がっていた猫を5匹も連れて行っているんです。そんな娘が自殺するなんて、とても信じられなくて…。私宛に特別何の知らせもなかったし、私は全く納得できないで毎日眠ることさえもできずにいるんです。山瀬さんしかいないんです。頼めそうな方が…。私が知っていることは娘が住んでいた家の住所くらいのものなんです。私が調べに行ったとしても、確実に無駄足になってしまいます。山瀬さんなら言葉も話せるでしょうし、娘に何があったのか調べることができるのではないでしょうか。どうかこのつまらない母親の頼みを聞いてはいただけないものでしょうか。ちゃんとお金も用意してあります。どうか引き受けていただけないでしょうか」 幾田の唇は震えていた。顔は赤くなり眼には涙が溜まっていた。その涙を拭おうともしなかった。テーブルの上にそっと乗せられた両手は柔らかく握り締められていた。幾田の悲痛な願いと、動機の分からない娘の自殺への憤りが山瀬には理解できた。 「まあ、私も今商売をやめて何もしないでぶらぶらしているだけなので時間は有り余っています。ただ、幾田さんのおっしゃる調査というような大それたことにお力添えできるかどうかは私にも分かりません。幾田さんのお気持ちは分かりましたが、私が行ったとしても無駄足に終わるかもしれませんよ」 山瀬は俯いている幾田にゆっくりと静かに答えた。そう答えてしまえば確実に引き受けることになってしまうことは分かっていたが、老いた幾田の俯いている姿を見ていると自然に口がそう動いてしまった。山瀬の答えを聞いた幾田の顔にほんの少し安堵の表情が浮かび上がった。 「それでも構いません。本当に何も分からなかったとしても山瀬さんの口からもしそれが聞けるなら私も諦めます」 既にもう後戻りは出来ない状況に追い込まれている山瀬にはとうとう依頼を断る言葉は見つからなかった。 「分かりました。どうなるかは私にも分かりませんが出来る限りの事はしてみましょう」 幾田は娘の住所を書きとめてあったメモを山瀬に手渡し、来たときよりは少し元気のある表情を顔と身体に浮かべて帰っていった。窓から入ってくる心地よい風がカーテンを揺らしていた。しかしその風を山瀬には感じ取ることが出来なかった。幾田優子が帰った瞬間からやらなければならないことが一気に倍増してしまっていた。 航空券を予約しなければならない。山瀬はパソコンの前に座りインターネットで旅行会社のサイトを見ていた。この時期はお盆休みも終わって、どの国に行く航空券も殆どといっていい程安上がりだった。とりあえず都合のいい日を予約して今度は幾田小町の死亡記事について検索し始めた。フィリピンの新聞記事だったが思ったより簡単に小町の事件記事に行き着いた。あまり得意ではない英文をゆっくりと読み始めた。 カミギン島で日本人女性自殺 甲 月 乙 日 午前海岸に打ちあがった女性 の水死体を地元の漁師が発見した。女性の氏名は 幾田小町、年齢48歳、日本国籍と判明した。カ ミギン島警察の調べにより遺体に外傷がなかった ことと、司法解剖の結果これといった異常も発見 されなかったことから、死因は自殺による溺死と 断定された。当初カミギン島警察は、男女関係の もつれ、若しくは、金銭関係のもつれと考え調査 したが、結果何の情報も得られず自殺という結論 に至った。尚幾田小町氏の遺体は火葬され日本大 使館によって本国の遺族に送り届けられた。 簡単な記事だった。 「とにかく検死はされた訳か」 山瀬は首を傾げていた。この記事だと地元警察も島の人たちから何の手掛かりも得られなかったことになる。もし自分が行ったとしても何の情報も得られないかもしれない。ただ引き受けた以上は、幾田優子の期待に応えられるだけのことをしなければならない。小さな義務感が心の片隅を占めていた。開いた窓から忍び込む濃紺色の夜の臭いを纏った風が山瀬の前髪を揺らしていた。 第二章 ー 渡航 ー へ https://ofuse.me/e/16587
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