肌寒い初秋の風をその建物全体で受けとめ続ける成田空港の第2ターミナルの到着ロビーに小さな満足感を心に秘めた山瀬の姿があった。家族に迎えに来てもらっている人もいれば、迎えが遅れて携帯電話を耳に当てながらきょろきょろとそれを探し回っている人、自分の名前の書かれた白い紙に魅せられたように近寄っていく外国人、喜びと不安を顔に浮べたそんな人々でロビーは犇めいていた。それぞれがそれぞれの目的地へと散っていく。山瀬はその中をひとり電車のホームへと歩いて行った。途中重い旅行鞄から持ち歩き易いデーパックにパソコンと必要最小限の持ち物を詰め込んだ。用意しておいたセーターを引っ張り出すと外の寒さに備えるためにそれを羽織った。そして残りの荷物は宅配便で自分のアパートの部屋に送ってしまった。これから直ぐに今中辰雄の留置されている秋田県の警察署に直行しようと思っていた。出来るだけ早く自分の掴んだこの真実を今中辰雄と小町の母幾田優子に知らせることが自分の役目なのだと確信していた。山瀬は疲れた心と身体を鞭打ちながら、しかし力強く一歩一歩終着駅へと歩いていた。 警察署の壁のクリーム色と秋の雨雲の灰色が不気味なコントラストを投げかけていた。山瀬は寒い時期に東北に来たのは初めての経験だった。せっかく用意してきたセーターもあまりの寒さに全く役には立たず、駅を降りて町の洋品店で買った安いジャンバーを羽織っていた。ひょっとすると雪でも降り出すのではないかと心配もしていた。 クリーム色の警察署の中に足を一歩踏み入れると今までの寒さが馬鹿らしくなる程の暖房が効いていた。寒い外から暖房の効いた暖かい部屋の中に入るとほっと溜息が出るのは誰しも同じことである。それは山瀬にとっても例外ではなかった。ただこの時は状況が違っていた。身体は暖かさに反応しているのだが、別れた妻の狂言のために実の息子を殺してしまった男への面会を考えると心は凍えたままかたくなにそれを拒んでいた。交通課のカウンターで刑事課の場所を確認すると2階へ上がる階段に向かってゆっくりと歩いて行った。気のせいか階段を上る足が重く感じる。それでも一段一段ゆっくりと上り詰めた。階段を上がり切ると暗い廊下が1本一直線に走っていた。左に行けば刑事課があることをさっき教えてもらったばかりだったが、なぜか右と左をきょろきょろと確認していた。奥の方は暗くどちらも限りない闇ように見えた。言われたとおり左に曲がると暗がりの中に刑事課という文字の書かれたプラスチックの札がドアの上に壁と直角に取り付けられているのが見えた。刑事課の反対側のドアの上にもそれと同じものが取り付けられてあったが、何故かそちらの方には文字は書かれていなかった。山瀬は握り拳で2つドアをノックすると返事を待たずに押し開けた。 目の鋭い刑事達が皆そろって山瀬を睨んた。その幾つもの鋭い目に幾分体が硬直した。 「すみません…。今中辰雄さんに面会したいのですが」 黙ってこちらを睨んだままの刑事もいたが、俺には関係ないと言わんばかりにパソコンに視線を戻してしまった刑事もいた。部屋の奥の方にいた優しそうな老刑事がデスクの間を縫って山瀬の前までやってきた。 「面会ですか…。とりあえずこちらへ」 部屋の片隅にテーブルを囲むように椅子が3脚置かれていた。山瀬とその老刑事はその応接セットとは言い難い貧相な椅子に座った。 「えーと…、ご家族の方ですかな」 やはり優しそうな声で質問してきた。しかしその老いた警官の目の奥に底知れない鋭さを感じた。優しさを表面に出すよう努めているようだが、目に纏ったその厳しい雰囲気だけは隠し切れないようだ。 「いいえ…、でも今中さんに話さなければならないことがあるんです」 自分が知り得た事を今中に聞いてもらえなければ全ては水の泡と化してしまうのだ。山瀬は必死だった。 「分かりました。特別差し入れとかはありませんかな」 山瀬の熱意が伝わったのか刑事は一つ返事で面会を認めてくれた。 「これといってありません」 書類に必要事項を書き込み終わると山瀬と老刑事の2人は刑事課の事務室から出て面会室へ向かった。 廊下に出て左手に進んで行き、さっき上がってきた階段を通り過ぎると先の方にさっき見えた暗がりが見える。その暗がりの一番奥にやはりドアがあったが面会室とかかれた札は掛かってはいなかった。老刑事がドアを押し開けて中に入ると山瀬もそれに続いた。中は思っていたよりも明るく大きかった。左側に事務机が置いてあり、見張り役なのか制服の警官が座っていた。老刑事がその警官に一礼するとやはり山瀬もそれに続いて一礼した。右側に大きな一枚ガラスの窓が張ってある。ガラス窓の向こう側がまた部屋になっていた。ガラス窓の隣には頑丈そうな扉が壁に張り付いていた。山瀬はその一般住宅では見られない部屋の造りを見てこれが留置所なんだと半ば関心さえしていた。 「こちらへ…」 老刑事に促されてガラス窓の前に置かれた椅子に座った。山瀬が椅子に座ると老刑事はその重い扉の向こう側に入りガラス窓を挟んで山瀬の反対側に今中辰雄を呼び出した。今中は山瀬の顔を見ると目を丸くして不思議がっていた。山瀬にはそれがなぜだか分かっていたが老刑事には分かるはずもなかった。今中は山瀬の目から視線を逸らさずにガラス窓の向こう側の椅子にゆっくりと腰掛けた。老刑事が近くにいるのが気になったのか今中は最初口を開こうとしなかった。しばらくして老刑事がそそくさと退室してしまうと今中の方が先に口を開いた。 「山瀬さん…、なんで貴方がここにいるんですか」 あまり長い時間の面会は許してもらえるはずがないと考えた山瀬はまず要点だけを今中に伝え最後に全ては小町の狂言だったことを伝えた。今中はこれっぽちも動揺を見せずに山瀬の話に聞き入っていた。 「そうでしたか…」 山瀬は今中の声に安堵感を感じとっていた。さっきまで今中の顔を満たしていた満足感がその安堵感に変わっていく瞬間を山瀬は見逃さなかった。今中に会うまで山瀬は小町の狂言に今中が激怒するのかと思っていた。その考えを覆した今中の態度が山瀬を惑わした。 「貴方には迷惑をおかけしました。私も貴方の話を聞いて安心しました。本当にありがとう」 それだけ言うと今中は立ち上がって奥の方へ行ってしまった。山瀬は混乱していた。今自分が話したことは恐らく今中が殺人罪で裁かれる時に役立つはずだった。山瀬はもし今中に要求されれば証人になることでさえ惜しんではいなかった。山瀬は立つことを忘れてしまったかのようにしばらくの間椅子に座ったまま動かなかった。 「もう、宜しいですか」 山瀬は監視役の警官に呼び戻された老刑事の声にふと我に返った。 「刑事さん…。何か差し入れてあげたいんですが…」 「食べ物と薬の差し入れは禁止されてます。それと刃物とか…、まあ常識内で考えれば分かりますわな」 老刑事は笑顔さえ浮かべなかったが混乱している山瀬を見て優しい声色で話した。再び暗い廊下を通り抜け階段の前で老刑事と別れると山瀬は階段をゆっくりと下り始めた。 階下の交通課の前に人だかりが出来ていた。どうやら運転免許を更新するための講習会があるようだった。山瀬はその人の間を縫うようにしてクリーム色の警察署を出た。秋の冷たい雨が再び山瀬の心と身体を冷やし始めた。雨が山瀬の髪を濡らしていた。 狭いビジネスホテルの一室で山瀬は目を覚ました。長い間湯船に浸かっていなかったことを思い出した山瀬はユニットバスの小さなその湯船にお湯を溜め始めた。外に出ればまた寒さに襲われるのは分かりきっていたので暖かいお湯に浸かり身体を温めておこうと思った。お湯が半分も溜まっていないのに待ちきれずに湯船に飛び込んだ。湯船の中に座るとお湯は腰の辺りまでしかなかった。ゆっくりとお湯が溜まっていった。胸の辺りまで来たときに、今までお湯と水を混ぜて丁度いい温度を作り出していた蛇口の水を完全に閉め熱湯を細く絞った。そうすると余計に熱いお湯が出てきて徐々に身体を温めてくれた。山瀬はお湯の表面を右手でかき混ぜながら今中のことを考えていた。 「なぜ今中さんは安心した顔をしたんだろう…」 実の息子を死んだ女の狂言のせいで殺してしまったことを知ったら激怒するのが当たり前のことではないのか。しかしいくら考えても今中の気持ちを読むことは毛頭出来なかった。山瀬はどんな形でもいいから今中に小町のメールを送ってしまったことの償いをしたかった。そのひとつが差し入れという山瀬が今できる最小限の償いだった。他に何もしてあげられないことに山瀬は腹が立った。お湯が湯船の淵からこぼれていった。山瀬は細く絞ってあった熱湯の蛇口を完全に閉めその代わりに水の蛇口を開いて冷たい水を飲んだ。水は冷たく、温まった山瀬の喉を潤していった。そしてまた湯に身体を預けた。山瀬は何度かそれを繰り返して湯船を出た。 朝食をファーストフードで済ませた山瀬は寒い晩秋の東北の街で古本屋を探し歩いていた。何を差し入れたらいいのかよく考えた挙句、本がいいだろうという結論に行き着いた。今中の気を紛らわし煩わしい時間を潰すためには本が最適だろうと思った。何冊もあったほうがいいと思い古本屋で沢山買って差し入れしようと思っていた。寒い東北の見知らぬ街をひとり歩くことに山瀬は乗り気ではなかったが仕方ないことだと諦めて歩き続けた。古本屋に辿り着くまでに何度か道を尋ねてみたが、皆違う答えで結局道に迷ってしまった。普通の本屋ならまだしも古本屋となると何処にあるのか記憶されていないようだった。ついに古本屋を見つけたときには既に身体は冷え切ってしまっていた。 古本屋の中はやはり暖房で温めてあり山瀬は冷え切った身体が温まるまで本を探している振りをしていた。本を1冊ずつ買い物籠に入れていった。身体が温まった頃買い物籠には約20冊くらいの本が入っていた。山瀬は古本屋の主人に代金を支払うとついでにタクシーを呼んでもらった。地方の小さな町の路上でタクシーを拾える可能性はゼロに近い。温まったままの身体で暖かいタクシーに乗り込んだ。 タクシーに行き先を告げてしまうと山瀬は窓から見える町並みが流れていくのを眺めながら幾田優子に話す話の内容を考えていた。山瀬が知っていることをそのまま伝えていいのかそれとも彼女が傷つかない程度で話したほうがいいのか決めかねていた。山瀬は今中に本を差し入れた後その足で幾田優子を訪ねようと思っていた。幾田優子の住むマンションはここから電車で約2時間くらいの距離だった。その日の内に幾田に会い全てを終わりにしたかった。 タクシーがクリーム色の警察署の駐車場に入ったとき、山瀬はその慌ただしさに気づいた。山瀬にはその原因が何なのか全く分からなかったが、昨日とは確かに何かが違っていた。タクシーを降り警察署に入るとすぐ昨日の老刑事が慌てた顔をして山瀬に近づいてきた。 「いやあ、参りました。今中が自殺したんですわ」 山瀬の身体が緊張で硬くなった。当然言葉も出てこなかった。 「朝の5時頃トイレに行きたいと担当の刑事に言ったらしいんですが…、あまりにも長いんでその担当の刑事が話しかけると答えがなかったと…。それでドアを開けてみたら首吊ってたみたいなんですわ。着ていた洋服を口で引きちぎってロープ代わりにしたみたいなんですわ。応急処置したみたいなんですがだめだったみたいで…」 山瀬は愕然とした。足が震えるのを堪えていたが、耐え切れず交通課の前に置いてある椅子に崩れるように腰を下ろした。 「何なんだこれは…」 山瀬は呟いた。老刑事が山瀬の肩に手を当てていた。 「大丈夫ですかな」 山瀬は答える気力も無くしてしまっていた。床にはビニール袋に入った古本が無念そうに横たわっていた。 老刑事がホテルまで送ってくれた。山瀬は部屋に戻るとそのままベッドに倒れ込んだ。そしてそのまま死んだように眠った。気が付くと夜はとっくに明けていた。幾田優子を訪ねるのを取りやめた山瀬は同じビジネスホテルで朝を迎えた。気分が悪かったのもあったが今のこの状態で幾田優子を訪ねるのは避けようというのも理由のひとつだった。かなり長い時間眠っていたらしい。ベッドから降りて立ち上がってみたがやはりまだ気分は悪かった。再びベッドに横になったが眠ることは出来なかった。額に手を当ててみたが熱はないようだった。山瀬は恐らくそれが疲れから来るものだろうと自己診断していた。 部屋の電話の呼び出し音が鳴った。山瀬は耳に響くその尖った音に一瞬息を呑んだ。手を伸ばすと電話は寝ながら手の届く場所に設置されていた。5回目の呼び出し音が鳴り終わるのを待って受話器を取った。 「もしもし山瀬様でいらっしゃいますか。警察からお電話が入っておりますが…。お繋ぎいたしましょうか」 「あ、はい。お願いします」 山瀬は首を傾げた。受付の声が聞こえなくなってしばらくすると聞き覚えのある声が受話器から響いてきた。 「もしもし覚えてますかな…」 山瀬は老刑事の名前を知らなかった。しかし山瀬の耳はその声色と口調で相手が誰なのかを識別した。 「ええ、分かります。どうかしましたか」 山瀬はベッドに仰向けで受話器を握って話していたので老刑事に自分の声色が幾分潰れて聞こえているのではないかと心配した。 「ちょっと署に来ていただけると助かるんですが…」 山瀬は眉間に皺を寄せて再び首を傾げた。 「どういった用件でしょうか」 「今中の遺品を確認してもらえませんかねぇ…」 山瀬は答えを渋っていたが断れない性格が災いして結局再びクリーム色の警察署へと足を運ぶ羽目になったしまった。 雨雲が町を包んでいた。小粒の雨が寒さに拍車を掛けていた。クリーム色の警察署内で刑事課は相変わらず息の詰まるような厳しい雰囲気を部屋中に充満させていた。その中に気分の優れない顔をした山瀬と老いた刑事がテーブルを挟んで向かい合わせに座っていた。老刑事は今中辰雄の遺品の入れられた冷たく小さな金属のケースを膝の上に載せていた。 「いやあ…、本当に参りましたよ。署内でこういうことが起きるのはよくないことでして…。私も定年を前にしてまさかこんなことが起きるとは思いませんでしたわ」 演技で困った振りをしているのではなく本当に困っている老刑事の気持ちが山瀬にも痛い程分かった。山瀬はその痛々しい老刑事の気持ちに対する答えを見つけることは出来なかった。 「これなんですがね…。今中の親戚連中が受け取りを拒む一方なんですわ。後であれが無いこれが無いなんて言われるのも困るんで出来れば友人の貴方に確認しといてもらえればと思いましてね…」 老刑事は山瀬が今中の友人だと完全に思い込んでいるようだった。山瀬はその言葉に反論しなかった。老刑事は金属製のケースを貧相なテーブルの上に置いて蓋を開いた。中には高価そうな財布、腕時計、ボールペンが入っていた。老刑事は財布の中身も全て引っ張り出した。お金と運転免許証、キャッシュカード、それと古い写真が1枚入っていた。 「財布の中身も確認しておいてください」 山瀬はまずボールペンをケースの端に追いやった。続いて腕時計を手に取ってみた。セイコーのオートマチックのものだった。山瀬は以前から腕時計に興味があったので手に取っただけでその価値が判った。腕時計をボールペンの隣にそっと置いた。老刑事は山瀬の反対側で山瀬が確認したものをひとつずつ紙に書き込んでいた。財布もボールペン同様ケースの端に追いやってしまうと今度は現金を数えた。1万円紙幣が1枚と5千円紙幣が1枚そして千円紙幣が3枚合計18000円だった。よれよれになった一枚の500ペソ紙幣が山瀬の心の中に遣り場の無い寂しさを注ぎ込んだ。山瀬はそれをケースに戻した。残った運転免許証とキャッシュカード、写真を纏めてやはりケースの端に追いやろうとしたそのとき色褪せた写真に今中辰雄と一緒に小さな赤ん坊を抱いた女が写っているのが目に入った。山瀬はその写真を手に取って目の前に翳すと、まじまじと見入った。見覚えのある女の顔がそこにあった。それは紛れもなくひっそりと佇む小町の家の棚の隅に立ててあった小さな写真立てに入れられた若い頃の小町の顔だった。同じように色褪せ同じ大きさだった。ただ、今山瀬の手にしている写真には若い今中辰雄と赤ん坊の一樹が付け加えられていた。そして写真を手にした殆どの人がそうするようにひっくり返して裏側も見てみた。部分部分インクの滲んだ裏書きが書かれていた。 貴方と私、そして一樹の 皆揃った初めての写真 s58.11.29 小町より 山瀬はその裏書きを見ながら無意識に首を傾げていた。頭の中に何かが浮かびかけていたが、それが何なのか自分でも理解できなかった。 「もしかすると今中さんと小町さんはまだ愛し合っていたんだな」 山瀬は手に持った写真をまたひっくり返しながら頭の中で呟いていた。 「古い写真ですな…家族みんな揃ってる。こちらでも調べてみたんですが別れた女房みたいですわ。その女房も最近海外で自殺したみたいですな。抱かれている赤ん坊が今中に殺された息子の一樹ですわ。この写真の日付の後離婚してるみたいですな」 山瀬は老刑事の言葉をぼんやりと聴いていた。その老刑事の言葉が山瀬の頭の中の何かを引っ張り出そうとしていた。山瀬はまだその何かを思い出そうと努力していた。もう一度裏返して写真の裏書きの日付を見たその時、さっきまでぼんやりとしか浮かばなかった何かがいったい何だったのか今度ははっきりと手に取るように分かった。今まで忘れていた小町のページの最下段にある『追憶』の文字を思い出していた。 「確か小町さんはあの写真のあの日のようにって書いていた。何か不自然だ」 山瀬は老刑事にメモ用紙を1枚もらうと写真に裏書された日付を書き写した。もしかすると『追憶』のページのパスワードがこの日付なのではないのかと考えていた。普通は「あの日のあの写真のように」と書くのが自然なのに「あの写真のあの日のように」と書くのは不自然ではないかと思った。山瀬はその写真をケースの中にそっと戻した。老刑事はなぜ山瀬は裏書きの日付だけを写し取ったのか不思議だったようで、幾分擦れた声で山瀬に問いかけた。 「何かのパスワードなんですかな」 山瀬はこの老いた定年前の刑事の鋭い質問に一瞬息を呑んだ。長年こういった仕事をしていると勘も鋭くなるのだろうかと不思議に思った。 「そんなことある筈ありませんわな。あはははは…」 山瀬が質問に答えられずにいると老刑事はその間を埋めるようにそう付け加えた。冗談のように笑ってはいたがその厳しい目が山瀬を睨んでいた。山瀬は老刑事が書いていた今中の遺品のリストに名前を書いて右手の人差し指で押印した。旅先なので印鑑など持っている訳がなかった。 「いやあご苦労様でした。それじゃあ私がホテルまでお送りしますわぁ」 外では相変わらず雨雲が薄暗い灰色の光を投げかけていた。景色がぼんやりと霞掛かったように見えた。冷たい小粒の雨が降り始めていた。 まだ気分のさえない山瀬を老刑事が再び車でホテルまで送ってくれた。山瀬は老刑事の運転する車の助手席に座りながらあの遺品を受け取りに来る者は誰一人いないだろうと思っていた。血の繋がったものでさえ実の子供を殺した男の遺品に興味を持つことはないだろう。あの今中辰雄の遺品はあのクリーム色の警察署でこれから長い歳月を送るのだと山瀬は思った。車がホテルの駐車場に着くと山瀬は老刑事に礼を言って車から降りた。降り際に老刑事も山瀬に礼を言った。車が行ってしまうと山瀬はホテルの正面玄関に向き直り小雨の中を足早に歩いて行った。 暖房の訊いたままの部屋に戻ると軽い眠気を感じた。ベッドで静かに身体を仰向けに横にしたが眠ることは出来なかった。山瀬はしばらくの間何も考えずに何の変哲もない部屋の天井の一点を見つめていた。ふと今中、小町、一樹の写った写真が脳裏に浮かんだ。山瀬はベッドの上で上体を持ち上げると足をベッドから下ろし深い溜息をついた。床に置かれたデーパックからノートパソコンを引っ張り出すとそのスイッチを入れた。また見慣れた小町のページがパソコンの画面に表示された。もう一度最初から読み直していた。そして最後に『追憶』の文字をクリックした。やはりパスワードの入力画面が現れた。山瀬は試しに何も入力せずに空白のままページを開いてみた。しばらくすると真っ白な画面が浮かび上がりその上の方に『パスワードが間違っています』というメッセージが浮かび上がっていた。その機械的な言葉が山瀬を寂しくさせた。山瀬は財布からメモを取り出すと写真の裏書から写し取ってきた日付を入力してみた。少しの間を置いて『追憶』のページがついに画面に表示された。山瀬は息を呑んでパソコンの画面に食い入った。再び小町が静かに話し始めた。 ――― 追憶 ――― 貴方がこのページを読んでいるということは恐らく私の愛する今中辰雄は貴方が住んでいる世界にはいないということを意味しているのだと私は願っています。そしてそれが私の望んでいたこと、私の立てた計画なのです。辰雄と一樹から離れた私は2人に対する愛情と怒りが交錯する毎日を送りました。そしてその歪んだ感情が私にこの計画を作り上げさせたのです。私は私の愛する家族を取り戻すために岡村達也と私自らの死を利用したのです。お話しした通り岡村と今中が従兄弟同士だと知ったのは一樹が会社で働き始めた時です。この時から私は計画を立て始めたのです。貴方は私一人の命で十分ではないかと思っているのかもしれません。私は確実性を求めたのです。私が死んだ後に初めて実行される計画なのですから確実性を求めるのは仕方のなかったことなのです。それで岡村の命を犠牲にすることを考えたのです。しかし私と岡村の単純な死だけでは私の元に私の愛する2人の家族一樹と辰雄を呼び寄せることはできないと思いました。そして私はまず一樹を呼び寄せる計画を立てたのです。そしてまた辰雄までをも死に追い込み私の元に呼び寄せるためのもうひとつの計画も立てたのです。貴方だけには真実をお伝えしましょう。もう貴方も薄々感じていることだろうと思います。私に岡村の死を待つことなどできる筈がありません。岡村を殺したのは私なのです。全ての計画は岡村の死から始まっているのです。恐らく貴方は既にハンスの存在をご存知でしょう。ハンスの身体は病に蝕まれていました。私は彼に近づいて岡村を事故死に見せかけて殺す計画を立てたのです。家族思いの彼は死ぬ前に家族にお金を残していきたいと言っていました。私の家族を思う執念と彼の家族を思う情熱が一致したのです。恐らくはハンスも既に貴方の住む世界にはいないでしょう。私は彼に私の持っている全てと言っていい程の金銭を手渡しました。私はハンスの命を買ったのです。貴方はハンスの死によって岡村の死を事故死だと確信したはずです。貴方が私の狂言をあばき確信を得たときです。私がハンスにそうお願いしたのです。ハンスに残された少ない時間が先にあの世に行く私には心配でした。岡村の死を疑う者が尋ねてきた時にそうするようお願いしたのです。その傍ら私は残していく母のことを考え、母を受取人にして自分に保険を掛けておいたのです。それは前にもお伝えした通り私が母にできる唯一の償いでした。辰雄は私が貴方の力を借りて送ったメールで一樹が私と岡村を殺したという私の狂言を信じ込んだはずです。辰雄は一樹を殺すことによって息子を庇うことができたと満足感を得るはずです。そういう人なんです。それを覆し辰雄を悲しみの底に追いやるためには貴方の力が必要でした。私はこの計画を立てながら貴方が私の狂言をあばいてくれることを願っていました。貴方は最初、私の作り上げたストーリーを信じた筈です。貴方は私の狂言をあばいていくうちに辰雄に対する使命感を強めていったと思います。そして狂言をあばいた貴方がそれを辰雄に伝えることによって私の計画は結末を迎えるのです。そうです。あの人の死です。辰雄の死です。私が愛する今中辰雄の死です。あの人は何の罪もない一樹を殺してしまったことを悔やんで自殺した筈です。そうでなかったら私の計画は失敗だったということです。もし私の計画が成功していれば私達3人はあの日のあの写真のようにひとつに戻ることが出来ます。どちらにしてもどうか自分を責めないでください。一度もお会いしたことのない貴方ですが、貴方には心から感謝しています。ありがとう。 今中小町 山瀬は身震いした。山瀬は小町の手の平の上で必死になって歩き回っていたことを知り、そしてまた小町の計画が復讐ではなかったことを確信したのだった。小町は全てがこうなることを予測して計画をたてたのだ。愛するが故に愛する人を殺すという情熱を山瀬には到底理解することは出来なかった。山瀬は小町の底知れない愛情を恐れさえしていた。無意識に自分を責めていた山瀬の罪悪感が和らいでいった。山瀬は留置所で今中の見せたあの安堵感を浮かべた表情を思い出していた。今中はあの時小町にまだ愛されていたことに気付いたのだ。そしてまた今中も小町を愛し続けていたのだ。写真を肌身離さず持っていた今中の小町に対する愛情と小町の今中と一樹に対する執拗な愛情が特異な形であれひとつになり終局を迎えたのだ。山瀬は全てが終わったのだということに底知れない安堵感を感じた。もう彼らを責めることのできる者はいないのだと思うと山瀬の目から涙が粒になって頬を流れ落ちていった。 窓の外の灰色の雨雲のあちらこちらに薄っすらと水色の空が見え隠れしていた。 それから3ヵ月後、カミギン島の白い砂浜の上にひとり佇む山瀬の姿があった。山瀬は長い間青い遠浅の海を眺めていた。小町の死んだこの海で写真でしか見たことのない小町が砂浜を歩いて小さく波打つ海の水に身体を捧げていくイメージを胸に浮かべていた。それは計り知れない小町の家族に対する深い愛情の表現だったのだろうか。憎しみを乗り越えた小町の愛情なのだろうか。人が人を愛するために憎しみが存在するのだとしたら、そんなものは真っ平だと山瀬は思った。簡単なことだ。ただひたすら愛すればいいのではないか。憎しみを抱けば愛情以上に執着心が心を蝕む。それを防ぐためには運命を受け入れること以外他にできることは何も無い。小町にはその運命を受け入れることができなかったのだろうと山瀬は思った。 波打ち際で小さな波が砕ける音がした。山瀬はゆっくりと立ち上がり砂浜を波打ち際へと歩き始めた。そして砂に跪き着慣れたジーンズのポケットの中で忘れ去られていた小さな白い貝殻を乳白色の砂に静かに戻した。そしてすっきりとした顔で立ち上がり大きく伸びをすると気の利くウェイトレスの待つサミス・インへと歩き始めた。 ー 了 ー
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