セブに向かう揺れる船のシートの上で山瀬は今までの自分の行動を振り返っていた。実際に小町は自殺したのだ。それは確かだと山瀬は思った。山瀬は小町の母に依頼されて小町の死について調べ始めたのだ。小町は自分自身の自殺を母親にまで疑わせたのだ。もし依頼されたのが山瀬でなく他の誰かだったらどうなっていたであろう。恐らく山瀬と同じことをして同じ結果を招いていたであろう。調べていくうちに小町が飼っていた猫に付けられた首輪の秘密を知った。そこで既に小町の自殺を疑い始めている。『ファイブキャッツダイブカンパニー』、『会社の帳簿』、『日記の一部』、『保険会社』、そして小町と今中辰雄との間に生まれた一樹の記載のあった『戸籍謄本』、それぞれのメモリーカードから得られた情報は確かなものだった。そしてまた、計画を山瀬に伝えるためのパスワードは分割されていた。情報を断片化したのは山瀬に興味を持たせ猫探しを諦めさせないためだと小町は言っていた。山瀬が興味を持ったのは確かだった。 「何故だ…」 小町が死んだ後でなければ送ることの出来ないメールだということは納得が出来た。死んでいるからこそ真実味が表現される内容だったのだろう。小町の死を既に知っている今中でなければ信用できない内容だと小町自身も言っていた。だから山瀬の協力が必要だったのだ。しかしなぜパスワードを分割するような手の込んだことをしたのだろう。そんなことをしなくてもただ単にひとつの情報で直接山瀬が「幾田小町」のページを開くと同時に今中にメールが送られる仕掛けを作っていたとしたらそれだけで済むことなのではないだろうか。わざわざ情報を分割する必要など無かったのではないか。例えば全ての猫の首輪に同じ内容の記録されたメモリーカードを埋め込んでおきさえすればいいのだ。しかし小町はそうしなかった。それに何故山瀬に計画を話す必要があったのだろう。小町が山瀬に計画を話さなくても確実に今中は一樹を殺したことだろう。小町は山瀬にそれを阻止してもらいたかったのだろうか…。山瀬は次々と頭に浮かんでくる疑問に対してひとつひとつ答えを見つけ出そうとした。 「何故だ…」 山瀬の頭は混乱した。どちらにしても山瀬は幾田小町のページを開きそしてメールを送信する手助けをしてしまったのだ。 「待てよ…。小町さんが猫の首輪にメモリーカードを埋め込んだのは岡村さんが死んだ後だからつい最近のことだ。一樹の計画を1年半前に知ったのになんでその時にそうしなかったんだ…。一樹が岡村さんを先に殺すか小町さんを先に殺すかなんて当然小町さんには分からなかったはずだ…。増してやいつ殺しに来るかなんて分かるはずは無い…」 山瀬は首を傾げていた。 「小町さん…、もしかして一樹の恐ろしい計画っていうのは貴方の狂言なんじゃないんですか。情報を断片化したのは一樹が岡村さんを殺したということを俺に信用させるためだったんじゃないんですか。岡村さんは一樹に殺されたんじゃない。ただの事故死なんだ。貴方はそれをただ利用しただけなんだ。今中さんは罪の無い貴方達の子供一樹を本当に殺してしまいましたよ」 答えるはずの無い小町に心の中で問いかけていた。山瀬はもう疲れ果てていた。こうして考えていることが正しいのかどうかも全く分からない。山瀬は目を閉じた。瞼の裏の暗闇の中で山瀬の作った小町のイメージが浮かび上がった。若い頃の小さな写真でしか見たことのない小町に翻弄されている自分の力の無さを情けなく感じていた。山瀬は瞼に小町のイメージを焼き付けながら深い眠りに引き込まれていった。 騒がしい乗客の声で耳を冷ますと船は丁度ボホール島のタグビララン港に到着したばかりだった。長時間眠れたせいか山瀬の頭の中はすっきりとしていた。山瀬は下船する客に混じって港に下りた。大きく背伸びをすると身体の節々が痛むのが分かった。狭い椅子に長い間座っていたせいで関節が固まってしまっていた。この港もボホール島の主要港で多数の大型船が出入りする。船の排気の入り混じった空気のなかで深呼吸をする気にはなれなかった。船の出入り口から下船してくる乗客が殆どいなくなったのを見計らって再び狭いシートへと戻っていった。 戻る途中売店の横を通るとふとインスタントコーヒーのパックが目に入った。朝から何も食べていない胃袋が山瀬に不満を言っていた。紙コップに入れられたインスタントコーヒーを右手に、誰がいつ作ったか分からないサンドイッチのパックを左手にシートに戻った。早速不満を言うその胃袋の中にコーヒーとサンドイッチを詰め込んだ。詰め込み終わると胃袋はまるで口を塞がれたように何も言わなくなった。 「やはり日本へ帰る前に岡村さんの死が事故死だったのかそうでないのか確かめないと…」 山瀬の頭の中で日本への帰国は既に調査続行へと変更されていた。山瀬の考えが正しければ小町が断片化した情報のひとつ『会社の帳簿』が小町の作り上げたものに違いなかった。この帳簿は印さえ付けてしまえば怪しい臭いを漂わせることができる。『日記の一部』は小町の自作自演なのかもしれない。そして全ての情報が出揃ったとき山瀬自身がストーリーを不完全な状態で組み立てそれを補うために小町のページが存在していたとしたら山瀬を簡単に信用させることが出来る。小町が山瀬に先入観念を植えつけていたとしたら後のストーリーは小町の思うがままだ。手品師が見せた手品で驚いている観客に全く嘘の種明かしをしてもそれを観客は信じ込んでしまう。手品師は種を明かすときに嘘をつかないと思い込んでいる観客の先入観念と同じようなものだ。事実山瀬は断片化された情報のせいで一樹が岡村を殺したというストリーを組み立て、その小町の話を簡単に信用してしまっていたのだ。山瀬はそう考えていくうちに一樹が岡村を殺したことには確信が持てなくなっていた。 「とにかく岡村さんの事故の真相が全て解決してくれる」 山瀬は座り心地の悪いシートに座りながら考え続けた。船はタグビララン港を出港し、そのスピードは頂点に達していた。船はいつもより大きな波を切るように直進していた。波を切るたびに舳先が持ち上がり大きな揺れを作り出していた。 昼下がりのプエルト・プリンセサ空港にセブからの便が到着していた。遥かかなたの台風がパラワン島にいつもより少しだけ強い風を作り出していた。飛行機は台風の影響の及ばないこの島へ避難してきたかのように見えた。飛行機に繋がれたタラップを数珠繋ぎの乗客が次々と降りてくる。その中に以前より少しやつれた山瀬の姿があった。他の乗客のにこやかな顔と違い明らかに浮かない顔をしていた。山瀬は直射日光をまともに顔で受け止めながらターミナルの方向へ歩いていた。 「またか…」 山瀬は心の中で呟いた。この飛行場から飛び立っていったのはつい数日前である。このような忙しすぎる旅をしたのは山瀬にとって初めての経験だった。預けた荷物をターミナル内で受け取ると外へ出た。 いつものように空港から離れてトライシクルを拾う気力はなかった。ターミナルを出てすぐ待機しているトライシクルに乗り込んだ。 「ローラ・イタン」 山瀬が行き先を伝えても走り出そうとしない。ドライバーが山瀬の顔を見ながら何か言いたそうな顔をしていた。 「何だよ」 「旦那…。200ペソだけど構わないかい」 山瀬は文句を言う気力でさえなかった。数日前に来た時のホテルまでのトライシクルの料金が10ペソだっことをまだ頭の隅に記憶していた。いくら疲れ果てた山瀬でも20倍の料金を支払う気にはならなかった。重い旅行鞄を担ぎながらトライシクルを降りると空港の外へと歩き出した。背後から声が聞こえた。トライシクルのドライバーが叫んでいた。 「旦那。やっぱり100ペソでいいよ」 こういうドライバーが山瀬の一番嫌いなタイプだった。何を言おうが後の祭りである。山瀬はただで乗せてくれたとしても乗るまいと思っていた。 「何考えてんだ、馬鹿野郎」 山瀬はそう怒鳴ってやりたい気持ちを抑えながらただひたすら歩き続けた。そしていつものように空港の外でトライシクルを拾いローラ・イタンに向かった。疲れ果てた身体をとりあえず今日一日ゆっくりとホテルで過ごそうと思っていた。 数日前に泊まったローラ・イタンが懐かしく感じられた。それ程山瀬は多くのことを考え過ぎていた。その懐かしいローラ・イタンの受付カウンターに懐かしい男の顔があった。 「ああ、山瀬さんまたお泊りですか」 山瀬は受付の男が名前を覚えていてくれたことに驚いていた。 「あ、ああ、また泊まらせてもらうよ」 山瀬は名前を覚えていてくれたその男に笑顔を見せた。小さなことが新鮮でまた温かくも感じられた。山瀬は再度ホテルの記録用の紙に名前と必要事項を書き込むと昼食代わりに何か食べておこうとメニューを要求した。船の中の冷房のせいか身体が冷えているような感覚があった。山瀬は魚のスープと肉料理とビールを注文したあと調理に時間がかかりそうなので部屋でシャワーを浴びようと、重い旅行鞄を持って部屋に入った。 熱めのお湯でシャワーを浴びると温まった血が身体全身を駆け巡り山瀬の意識を鈍くさせた。いつもより少し長めに温かいシャワーを味わっていた。浴び終わり鞄からノートパソコンを引っ張り出すとそれを片手にレストランへと部屋を出て行った。 レストランには誰一人客がいなかった。それもそのはずで昼食の時間帯はとっくに過ぎてしまっていた。仕方がないことだと山瀬は思った。山瀬は陽の差さない窓際のテーブルに腰を下ろした。山瀬が腰を下ろすとすぐウェイターが注文の料理を運んできた。ウェイターといってもさっきカウンターで受付をしていた男である。この時間帯は客が少ないので仕事を掛け持ちしているのだ。 「ひとりじゃ大変だね」 山瀬は思わず労いの言葉をかけていた。 「いやあ、慣れてますから…」 ウェイターは山瀬の言葉が嬉しかったのか顔に微笑を浮かべた。 「ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」 他に客がいたとしたらその掛け持ちウェイターを呼び止めはしなかったが、たまたま他の客はいなかったので山瀬は岡村の事故のことを訊いてみようと思った。 「何でしょう…」 「最近日本人が事故で死んだっていう話聞いたことあるかな…」 掛け持ちウェイターは山瀬の言っている事故を覚えているようで間髪を入れずに話し始めた。 「ああ、それなら知ってます。確か居眠り運転の乗用車がオカムラさんの乗っていたトライシクルに後ろから突っ込んだんです。オカムラさんは即死でドライバーは重傷だってテレビで報道していましたよ。オカムラさん可哀相に…」 掛け持ちウェイターの口から出てきたオカムラという名前に山瀬は驚き息を呑んだ。山瀬はやっとの思いで口を開いた。 「岡村さんを知っているのかい」 「ええ。ここによく会社のスタッフを連れて食べに来てましたから…。優しい人でしたよ。スタッフのカズキさんとエリコさんも気持ちのいい人たちですよ。岡村さんがなくなった後2人で一度だけここに食べに来ましたがそのとき一樹さんは一旦日本に帰るって言っていました」 山瀬の身体は硬直していた。日本に帰ったのが一樹だけだとしたらエリコにここで会えるかもしれないと考えていた。 「エリコっていうスタッフはどこに住んでるのか分かるかい」 山瀬は藁をも掴む思いだった。エリコが何か情報を握っているかもしれないと山瀬は思っていた。山瀬は知らず知らずのうちに酷い形相を顔に浮かべていた。面と向かっている掛け持ちウェイターはその山瀬の形相に戸惑いを隠しきれないようだった。山瀬の形相が掛け持ちウェイターにも移ってしまっていた。 「い、いえ…。そこまでは分かりません」 山瀬の身体の硬直が一瞬で解けてしまった。さっきまでの酷い形相もどこかへ消え去っていた。掛け持ちウェイターの顔も山瀬につられて気が抜けたような顔になっていた。 「ところでこの町の警察署ってここから遠いのかい」 山瀬は話題を変えて質問した。山瀬は警察でトライシクルと乗用車それぞれのドライバーの住所を聞き出せるのではないかと思っていた。流石にこの質問には驚かなかったようで掛け持ちウェイターは素直に口を開いた。 「それでしたらここからトライシクルで5分くらいの所です」 「ありがとう」 山瀬は掛け持ちウェイターが行ってしまうと料理をつまみにビールを飲み始めた。カミギン島を去った時の山瀬に比べるとかなり落ち着きを取り戻していた。急ぐことがなくなったというただそれだけの理由が山瀬をそうさせていた。1本目のビールが底を突く頃ノートパソコンのスイッチを入れ小町のページを再び読み直した。山瀬は読み直しながらビールを追加した。読み直してみるとやはりおかしいところがあった。しかしいくら読み直してもこれが小町の狂言であるか否かについての確信を得ることはできなかった。 「とにかく今日はゆっくり休もう。こんな状態じゃ身体がまいっちまう」 山瀬は全て食べ終わると部屋に戻った。 まだ眠れるような時間帯ではなかったがとにかくベッドに横になり何か楽しいことを考えるよう努めていた。山瀬はサミス・インの気の利くウェイトレスの顔を思い出していた。その素直で優しい顔が山瀬の心を和ませ、他の憂鬱な考えを追い払っていった。窓から見える大きなアカシアの木の何処かで小鳥が囀っていた。山瀬にはそれが子守唄のように聞こえた。誰にも邪魔されることなくやがて深い眠りに引き込まれていった。 白く塗られたコンクリート造りの市役所の隣に警察署はあった。まだ朝の慌ただしさが外にまで漂っている。敷地内に建物がいくつかあったので山瀬はどの建物に入っていいのか迷っていた。山瀬はその中の大きく立派な建物の正面玄関から出入りする警官の一人を呼び止めた。 「すみません、交通課で話を聞きたいのですがどこへ行ったらいいかわからなくて…」 「交通課だったらこの建物に入ってすぐ右側だよ。カウンターがあるからすぐ分かるよ」 警官は今自分が出てきた建物を指差した。 「ありがとうございます」 警官は話し終わるとパトロールカーの止められている駐車場に向かって急ぎ足で歩いていった。山瀬は警官と反対方向の正面玄関に向き直った。入ってすぐ右側を覗くと言われたとおり長いカウンターがあったが、特別交通課と書かれた看板があるわけではなかった。カウンターの向こう側に制服を着た身長の高い女の警官が座ってパソコンと睨み合っている。山瀬が近付くとそれに気づいて顔を上げた。 「何か…」 女警官だが厳しそうな顔つきをしているので山瀬は威嚇されているような感じがした。 「すみません。以前に起こった交通事故の話を聞きたいのですが、どこでどうしていいか全くわからなくて…」 山瀬はわざと恥ずかしそうな態度を取った。下手に出たほうが優しく答えてくれるのではないかと思ったのだ。 「いつ起きた交通事故でしょうか」 女警官は全く話し方を変えようとはしなかった。 「日付は分からないのですがつい最近起きた交通事故でトライシクルに居眠りの乗用車が衝突して岡村達也という日本人が死んだということしか知らないんですが」 女警官はほんの少しの間考えているような素振りを見せたが直ぐに答えが見つかったようだった。 「その事故だったら確か彼が受け持ったはずよ」 女警官は後ろを振り返ってセサールという警官を指差そうとしたらしいが、デスクにセサールが座っていないのを確認するとしばらくの間きょろきょろと辺りを見回していた。 「おかしいわね。さっきまでそこにいたのに…。ちょっとそこに座って待っていてください。恐らくトイレにでも行っているんだと思います」 女警官は頭をカウンターの端の方に置いてあるプラスチックの椅子の並べてある方にほんの少し向けただけだったが山瀬もその方向にある椅子の存在を確認していた。山瀬は言われたとおりそのプラスチックの椅子に腰を下ろしてセサールを待つことにした。 山瀬が交通課の中の様子を伺っていると片隅にあるドアが開き身体のがっちりしたやはり身長の高い警官が入ってきた。手にはハンカチを持っていた。明らかにトイレから戻ってきたような仕草だった。警官が自分のデスクに座ろうと椅子を引っ張ると、その音に気づいたのか女警官がまた後ろを振り向いた。 「セサールお客さんが来てるわよ。日本人が死んだ事故の件で聞きたいことがあるみたい」 プラスチックの椅子に座って暇そうな交通課の様子を観察していた山瀬の目と自分のデスクの前で立っているセサールの目が合った。山瀬はほんの少しだけ頭を下げた。セサールにはそれが見えないようだった。引っ張った椅子の背もたれを掴んだままの手を離したセサールが山瀬の方に向かって歩いてきた。 「そこじゃ何だから中で話しましょう」 カウンター越しにそう言うとその端の方に取り付けてある小さい扉から山瀬を招き入れた。山瀬はセサールの大きな背中を見ながらデスクまでついて行った。セサールは途中で掴んできたやはりプラスチックの椅子をデスクの横に置くと山瀬に座るよう促した。 「岡村氏の事故の件と聞きましたがどういったことでしょう」 セサールは椅子に腰を下ろすのとほぼ同時に話し始めた。 「実はトライシクルと居眠りの乗用車を運転していた本人達の口から事故が起きたときの状況を訊いてくるよう日本の保険会社から依頼されまして…」 山瀬は下手な嘘をついた。 「そうですか。トライシクルのドライバーはまだ病院に入院中ですが話だけだったら大丈夫だと思います。乗用車のドライバーの方は…、えーと…」 セサールはそう言いながらデスクの引き出しから書類を引っ張り出すとページをぱらぱらと捲り始めた。日本と違って個人情報の厳守について然程厳しくなさそうだった。 「ありました。トライシクルのドライバーの名前も書いておきましょう」 デスクの端に置いてあったメモ用紙を1枚切り取ると名前と住所をゆっくりと声に出しながらそれに書き写した。セサールはそれを山瀬に手渡すと書類を引き出しにしまいなおした。 「本人はまだショックで話したがらないでしょうが保険会社の依頼ならば仕方ないでしょうね」 山瀬はメモを受け取ると礼を言った。今度は確実に相手にも分かる様に深くお辞儀をした。 忙しさがまだ絶えない朝の警察署を跡にした山瀬はその足で2人のドライバーに話を聞きに行こうとトライシクルのサイドカーに座りながらどのように話を聞きだそうかと考えていた。素直に話をしても事実を隠されてしまっては意味がない。 ぶつけられた方のドライバーの入院している病院は警察署からそう遠くはなかった。白く大きな2階建てのその建物は警察署とは違い制服警官の代わりに白い白衣を着た看護婦や医者を正面玄関から吸いこんだり吐き出したりしていた。病院の横の方の出入り口には救急車が停車しているのが見えた。救急患者が運ばれてきたのだろうと山瀬は思った。山瀬は正面玄関から中へ入るとカウンターの置いてある受付のような場所に足を進めていった。カウンターの中には白衣を着た看護婦と白衣ではない制服を着た事務員のような女がいた。両方とも椅子に腰掛けてはいなかった。山瀬がカウンターの前に立ったのに気づいた事務員の方が山瀬の前で立ち止まった。 「すみません。この患者の病室の番号を教えてもらえますか」 山瀬はセサール警察官にもらったメモ用紙を事務員に手渡した。大きな病院なので入院している患者も少なくはなさそうだった。事務員はデスクトップ型パソコンの置かれた机まで歩いていくと立ったままそのメモを片手に患者の名前を入力しているようだった。そして直ぐにまた山瀬の前に戻ってきた。 「2階の224号室です」 事務員はそれだけ言うとさっきまでしていた仕事の続きを始めた。山瀬は階段のある場所を聞き出したかったのだが、直ぐに行ってしまった忙しそうな事務員を呼び止めるのには気が引けて結局自分で探す羽目になってしまった。 患者や看護婦の流れに身を任せてその後を追ってみると2階に上がる階段とエレベーターが並んで作られている大きなホールのようなところに出た。ホールの片隅には小さな売店があった。エレベーターは恐らく歩けない患者や寝たきりの患者を小さな車輪つきのベッドに乗せて上に運んだり下に運んだりするものなのだろうと山瀬は思った。なぜなら殆どの人はエレベーターを使わず階段を使っていたからだ。山瀬もその流れにあわせて階段を上った。 224号室は六人の相部屋になっていた。入り口のドアを挟んで右左に3つずつベッドが置かれている。全てのベッドに患者がいるようだ。患者が留守のベッドもあったが山瀬は一目見ただけで誰かがそれを使っていることが分かった。 「ライアンさんは…」 ドアから一番近い右側のベッドに腰を掛けて爪を切っている患者に尋ねてみた。部屋の奥の窓際にある左側のベッドを指差した。山瀬が患者の指差した方に目を向けると背中をこちら側に向けて横になったまま動かない患者がそこにいた。右腕と頭と首に包帯が巻かれていた。山瀬が近付くとライアンはそれに気づいたのかゆっくりと頭を持ち上げた。しかし見たこともない日本人がそこにいることを知ると頭をまたもとの位置に戻してしまった。 「ライアンさんですよね…」 自分の名前が山瀬の口から出てくるのを聞いたライアンは再びゆっくりと頭を持ち上げた。ライアンと面と向かえるように山瀬が折りたたみの椅子が置かれている窓側のスペースに入っていくとライアンは再び頭を元の位置に戻した。まだ首が痛むと見えて頭を戻した後ぐったりしている感じが山瀬の目に映った。山瀬が目の前に来たことで首が楽になったようだった。 「はじめまして、山瀬です」 「何でしょう」 ライアンの声は喉の渇きのせいか擦れていた。 「カズキが大事なことを言い忘れたらしくて…、貴方に言伝して欲しいって頼まれたんだけど…」 山瀬がトライシクルで考えた文句だった。もし本当に一樹が岡村を事故死に見せかけて殺したとしたらライアンと一樹そして乗用車を運転していたハンスとの間に何らかの繋がりがあるだろうと思っていた。それでライアンを誘導尋問してみたのだった。ライアンは直ぐに名前の部分を訊き返した。 「誰ですって」 「カズキです。イマナカ・カズキですよ」 「すみません。人違いじゃありませんか。そんな名前聞いたこともありませんよ」 山瀬の目にはライアンが嘘をついているようには映らなかった。しかし山瀬はもう一度誘導してみた。 「お金の受け渡しはどうすればいいんだってカズキが言ってるんだけど」 「やはり人違いですね。私にお金をくれるノー天気な親切な知り合いはいませんよ。人違いです」 ライアンは話しを茶化しているようだったが言い切った。 「そうですか。お恥ずかしいとこお見せしちゃいましたね。失礼します」 これ以上続けると怪しまれかねないので山瀬は話しを切り上げると病室を足早に出て行った。 山瀬は病院の中を歩きながらライアンの様子を思い出していた。 「それにしてもひどい怪我だったな。あれじゃちょっと間違ったら自分の命だって危ないよな。嘘をついている感じでもなかったしやっぱり装った事故じゃなくて本当に起きた事故だったんじゃないのか…」 山瀬の頭の中で一樹が岡村を殺したという小町の話が狂言であったという思いが強くなっていった。山瀬はその思いをもっと確実なものにしたかった。そのためには乗用車を運転していたハンスにも話しを聞かなければならないと思っていた。ライアンとハンスの2人の答えがもしカズキを知らないという答えだったら事故は小町の狂言だった可能性が高まると山瀬は思っていた。他に確かめる手立ては何もなかった。 下町の雰囲気をかもし出す小さな家並みの中にハンスの家はあった。山瀬が玄関のドアをノックすると小さな男の子がドアの下のほうに顔をちょこんと覗かせた。山瀬の顔を見ると直ぐにドアを閉めて中に引き返してしまった。中からその男の子の小さな声が聞こえてきた。 「パパ…、外人が来たよ」 その男の子の言葉に誰も答える様子はなかったがさっきの男の子の気配とは全く違う気配がドアの向こう側に近づいてくるのが感じられた。その気配がドアの向こう側で止まったかと思うとドアが勢いよく開いた。無精髭を生やした痩せこけた中年の男がそこに立っていた。 「誰だい」 男は急に訪ねてきた山瀬に幾分腹を立てているようでかなりがさつな話し方だった。 「カズキから頼まれてきたんだけど…。あんたがハンスかい」 山瀬も男に合わせてがさつに話した。 「誰だって…、」 山瀬の質問に自分がハンスだということには答えず、ライアンのときと同じように間髪いれずに名前の部分だけを訊きかえしてきた。 「カズキだよ。イマナカ・カヅキ。金の受け渡しはどうすればいいのか聞いてきてくれって言われたんだ」 「そんなやつ知らねぇよ。帰ってくれ」 ハンスだと思われるその無精髭の男は自分が起こした事故のためにまだ精神的に安定していないようだった。捨て台詞を吐くと壊れてしまうのではないかと思うくらいの強さでドアを閉めてしまった。下手をすると殴られるかもしれないと思い山瀬もそれ以上のことをすることには気が引けてしまった。 山瀬はハンスの家を跡にすると細い下町の小路を来たときと同じ道筋で戻りながらハンスの態度を思い出していた。 「やっぱり嘘をついているような雰囲気じゃなかったな…」 山瀬はライアンとハンスの態度が同じだったこととお金のことを口に出しても喰らいついてこなかったことだけから小町の話を狂言だと確信したかった。しかしこれといって決め手がない。山瀬はまた行き詰ってしまった。 「どうすればいいんだ…」 山瀬は路上に転がっている小さい石を蹴り飛ばした。危うく民家のブロック塀を越えそうになったのを見て思わず立ち止まり辺りをき ょろきょろと見回していた。山瀬は誰も見ていなかったことを知るとまた何もなかったかのように歩き始めた。 ローラ・イタンの受付で部屋の鍵を受け取ろうと思った山瀬を掛け持ちウェイターがカウンターの中で待ち受けていた。 「あ、山瀬さん…。先程エリコさんが食事しに来ましたよ」 山瀬の目が一瞬大きくなったのが掛け持ちウェイターに分かったようだった。 「私が山瀬さんのことを話しましたら今晩またいらっしゃると言ってましたが…。約束があるようでそれを済ませてから来ると言ってました」 気のせいか山瀬には掛け持ちウェイターの顔が光って見えた。山瀬は遅めの昼食を済ますと部屋でエリコが来るのを待つことにした。窓の外に見える大きなアカシヤの木で小鳥がさえずっていたが、今の山瀬にはそれが子守唄には聞こえなかった。 エリコが来るのを待ちかねた山瀬はビールでも飲もうとレストランのいつもの窓際の席に腰を据えていた。夕食の時間帯だったので他のテーブルにも何人かの客が座っていた。流石にこの時間帯だと掛け持ちをするのは難しいようで本物のウェイターが山瀬の注文をとりに来た。掛け持ちウェイターは既に一日の仕事を終え帰宅していた。 「ビールとフライドポテトをください」 山瀬はエリコが食事を済ませてこないかもしれないと思い腹に軽いものを注文した。もし今エリコが現れても一緒に食事ができるように準備していた。1本目のビールが底を突く頃、まだ20代の小柄な日本人の女が玄関の重い透明なガラスの扉を押し開けて入ってくるのが目に入った。まだ一度も会ったことがないのにその女を見て山瀬は彼女がエリコだということを確信した。なぜならこの時間にこのホテルでエリコとは違う日本人女性が現れる可能性はゼロに近いからだ。女はカウンターの前で立ち止まると掛け持ちウェイターとは違う受付の男と何か話しているようだったが、男の左手が山瀬のほうに向けられるとその方向に向かって歩き出し、ついには山瀬のテーブルの前で立ち止まった。 「はじめまして北川衿子です」 山瀬も衿子に合わせて自己紹介をした後北川衿子に椅子に座るよう促した。 「私のことを知っている日本人が今ここに泊まってるってお昼ここに食べに来たときにウェイターが教えてくれまして…。もしかして友達が来ているのかと思いましたが違ったみたいですね」 衿子は顔に笑顔を浮かべていた。山瀬は答えを用意していたはずだったのに返す言葉が見つからなかった。 「なぜ私のことご存知なんでしょう」 結局話を聞きたかったほうの山瀬が先に質問されていた。 「実は岡村さんの事故の件でちょっと調べておりまして…。もしかして事故ではなく事故を装った殺人ではないかという噂がありまして…」 山瀬はまた下手な作り話をした。それを聞いた衿子は驚きを隠しきれないようだった。さっきまでの笑顔がどこかへ消え失せてしまっていた。 「そんなこと有り得ないと思います。あんなひどい事故…、装ってできるものじゃないと思います。増してや誰が岡村さんを殺そうなんて考えるんですか」 衿子の声のトーンがさっきまでのそれより幾分高くなっていた。山瀬はまた返す言葉が見つからなかったが話しを進めるために今度は衿子の質問に答えた。 「一樹さんです」 一瞬衿子の身体が硬直したのが山瀬の目に映った。 「そんな馬鹿な…。誰がそんなこと言ってるんですか。一樹さんそんなこと出来るような人じゃありません。とても優しい性格の人ですよ。馬鹿げてるわ…」 衿子はかなり興奮しているようだった。 「まあ落ち着いてください、北川さん。私だって一樹さんがそんなことするわけないってそれで調べてるんです」 山瀬も興奮して声が少し大きくなっている。 「とにかく一樹さんはそんなことできる人じゃありません」 山瀬はもしかすると衿子が一樹の死をまだ知らないのではないかと思った。その証拠に語尾が過去形ではない。 「衿子さん…、ご存知ですか…。一樹さん、亡くなったんですよ。実のお父さんに殺されたんです」 「そんな…。今中さんが一樹さんを殺すなんて…。親子なのに…。そんな。嘘…、つい数日前まで今中さんと会社の整理を手伝ったばかりなんですよ」 山瀬はあえて小町の話はしなかった。話したところで衿子が理解できるかどうかも分からない。増してや混乱している彼女に話しても時間の無駄だと山瀬は思った。衿子は震えていた。既に話す気力も残っていないようだった。山瀬たちのテーブルの前にウェイターが立ち止まるのと同時に衿子は跳ね返るように急に立ち上がった。 「私これで失礼します」 そう言うと足早に去っていってしまった。取り残された山瀬とウェイターはしばらくの間呆気に取られ顔を見合わせていた。 「ビールもう1本…」 山瀬のほうが先に我を取り戻した。レストランの窓からヘッドライトを灯したトライシクルが行き来しているのが目に入った。その中の一台に北川衿子が乗っているのかと思うと山瀬は彼女が不憫に思えた。 「彼女も全く関係のない一人なんだ」 山瀬の心は沈んでいた。結局皆の答えが事故は偽装ではなかったということを物語ってはいたが自分一人だけがその確信を得られずに動き回っているということが山瀬には納得できなかった。暗闇の中に一本の水銀灯が見える。山瀬もその無数の虫達を導く光のように自分を確信に導いてくれる何かを求めていた。山瀬はビールを飲みながらその水銀灯の光をいつまでも見つめ続けていた。 部屋に備え付けてある電話型のインターホーンの呼び出し音で目を覚ました山瀬は痛い頭をこらえながらベッドから起き上がり受話器を持ち上げた。山瀬の耳に男の声が響いてきた。カウンターの中で椅子に腰掛けながら自分に電話を掛けている受付の男が目に浮かんだ。 「山瀬様…。北川衿子という女性の方からお電話が入っていますが…。お繋ぎいたしましょうか」 目覚めたばかりの山瀬は受付の男の言っていることを理解していなかった。 「お願いします」 そう言ってしまってから受付の男が何を言っているかを理解するとまだ眠っている自分の意識を無理やり呼び戻そうと努力したが、それは所詮無駄なことだった。電話口から聞き覚えのある声が聞こえてきた。 「もしもし…。山瀬さんですか…。さっき警察から連絡がありました。関係ないかもしれませんけど乗用車を運転していたハンス・スマリノグが自宅で自殺したそうです。これでも偽装事故なんでょうか…。それだけです。何かお役に立つかと思ってお電話差し上げました。では…」 一方的に電話は切れた。山瀬が口を挟む隙はこれっぽっちもなかった。山瀬は眠った意識の中で北川衿子に言われたことを噛み砕いていた。 「やっぱり狂言だったんだね…。小町さん」 ハンスは事故を起こしてしまったことを本当に悩み苦しんでいたのだと山瀬は思った。事故を装ったのだとしたら自殺なんてするわけがない。山瀬はダンプカーを運転していたハンスが自殺したことによって、一樹が岡村を殺したという小町の話が狂言であったという確信を得ることができたのであった。空けきらない朝の薄明るい陽の光が窓から差し込んでいた。差し込んだ光が皺になったベッドのシーツで反射され部屋全体に不思議な模様を作り出していた。 第十章 ー 追憶 ー へ https://ofuse.me/e/16610
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