Indigestion/はごろもとびこ への感想

【あらすじ】(一部本文より抜粋) 「チャコ!」  今市駅の前、久しぶりに待ち合わせ。 「今日はちょっと寒いね」  風も少し秋らしい。 高校三年生の秋、チャコと一緒に餃子食べ比べをすることになった。 宇都宮駅で数軒まわる予定だけど、〆はもう私が決めてある。 チャコとは中学時代一緒で、高校は別だけど、こうやって定期的に一緒に遊ぶ仲。 ※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。 Indigestion/はごろもとびこ https://estar.jp/novels/25816706 ★総評 総合点:85/105 方角:北北西 登場人物の人間関係やキャラクターバランスを、存在感の出し入れを大胆に行うことで効果的に表現している様が印象的。物語の形まで変えてみせる技術は、はごろもさんの大きな魅力であると思います。 大人の体裁を保てなくなるほどに想いが強い、心配するふりが精々なほどに想いが弱い。年月という試験薬によって露骨に浮かびあがるその人への想いの量が、人間の心を生々しくえげつなく描きます。 この人間の心を、情報による論理的な納得感ではなく空気感による感覚的な納得感で示せればより生々しさは洗練されるだろうと期待します。また「こんなに好きだった」の「好きだった」ではなく「こんなに」によりフォーカスできれば、チャコとカイの対比はより鮮烈さを増すだろうと期待します。 しかし何より本作においてはごろもさんの明確な課題は、まずもってコンテンツを全て消費しきらせるため、前半パートの文章を「だらだら読めるストレスフリーな文章」に磨くことであると考えます。 ●「続きを読みたくなくなる理由」を徹底的に排除すること 本作は三つのパートに分かれています。 高校三年生の梅雨、高校三年生の秋、社会人三年目の春の彼岸。それぞれ、テストの話をしつつ餃子食べ比べの約束をする日、餃子食べ比べをする日、プチ同窓会に地元に帰ってくる日です。 実質的には高校三年生の前半パートと、社会人三年目の後半パートで分けられるのかなと思います。 はごろもさんには過去「さようならのロードショー」を応募していただいたことがあります。友達三人の何でもない一日を描く前半から、日常を維持したままに登場人物の思い出に潜っていくような尻上がりの構成、そのような印象がありました。 フィンディルは本作についても似たような印象を持っています。むしろ本作のほうが顕著かもしれません。前半は羊子とチャコの他愛のない一日を描き、後半から人間関係の魅力を描いていく尻上がりの構成。 ですのでフィンディルとしては「あーこれがはごろもさんの小説なのかな」という印象を持っています。はごろもさんの主な引きだしといいましょうか。もしかしたらあえて似た二作品を選んで応募されているのかもしれませんが。 これは後の項目で触れる内容ですが、はごろもさんはキャラクターバランスを表現する能力が非常に高いと考えています。人間関係や人の想いを、キャラクターの存在感を調節して作品全体のバランスを整えていく能力が非常に高い。存在感の出し入れを大胆にかつバランス良く扱うことができるのですね。「さようならのロードショー」では作品を維持するうえでこの能力が発揮されていましたし、本作では作品の魅力に直結させているように思います。 その前段階として、登場人物の他愛のない日常を描くパートが役割を果たしていると思います。 どこにでもいる若者、何でもない日、何のわだかまりのない楽しいだけの間柄、楽しいだけの日。 そういった良い意味での「意味のなさ」を纏った人物・日々・場面が読者に染みていくんですよね。ただ若者達の日常が綴られているだけだ、ここに描かれているのはリアルだ、そういった印象が読者のなかに蓄積することで、彼らがそこにいて当たり前の存在になっていく。 この前段階があることで、後半で描かれる人間関係の妙が映えてくるように思います。このキャラにはこういう意味があったんだ、や、こんなリアルな想いが潜んでいたんだ、と。 ただの若者達の日常を綴って読者のなかにキャラクターを染みこませたうえで、そのキャラクターバランスや人間関係の魅力を描く。 そのようにするとキャラクターバランスが良いだけで作品的魅力を感じられたり、リアルな人間模様を感じられたりと、読者が魅力を感じやすい土壌ができると考えます。 最初からキャラクターバランスが良かったり人間模様が描かれていると「そういう作品なんだ」で終わりますが、後々から効いてくるかたちにすると滋味を感じやすくなりますからね。「このキャラにはこんな意味があったんだな、なるほど」や「あー何かリアルだなあ」と思えたりして。 全体的な作品構成として有効であると思います。良いと思います。 ここについてはまた後の項目で詳しく触れます。 この作品構成ですが、難しいところもあります。 それは前半に読者を引きつける力が弱いということです。尻上がりに人間関係の魅力を描く前段階として、前半ではただの若者の日常を描く。そこにはエンタメ小説としての起伏や人間の内面の深い描写もありませんので、「この作品は面白い作品だな」と読者の心を積極的に掴みにいく力が弱いという側面があるように思います。 本作も高校三年生のパートは羊子とチャコがただ餃子の食べ比べをする様子だけが綴られており、積極的な魅力があるようには感じられません。伏線や布石といった文章は要所に見られますが、本作の魅力を人間関係の妙とするならばそれは社会人三年目のパートになってから現れるものであり、高校三年生のパートは完全に下ごしらえです。 注意しておきたいのは、この作品構成をとること自体が作品の品質を左右するわけではないということです。前半に積極的な魅力がなかったとしても後半には魅力があるわけですから、この前半が弱い構成を指して「作品の品質が低い」となることはありません。本作を最後まで読めば、本作の魅力も、前半の下ごしらえのパートの意味も読者は受けとれるだろうと思います。 しかし現実的に読者が、本作を最後まで読んでくれるのか。これを考えたときに、積極的に魅力を描かない前半のパートは難易度の高さを見せてきます。 web小説は冒頭だけを読んでブラウザバックをされやすい。これはweb小説だからではなく、無料コンテンツだからだとフィンディルは考えています。無料でコンテンツを消費できるので、ごくごく軽い気持ちでそのコンテンツを消費するかどうかを決められます。それは同時に、そのコンテンツを消費しきらないことを決める心理的ハードルも非常に低いことを意味します。有料コンテンツだったら、金銭を払ったという事実が消費者に「全部消費しないともったいない」という気持ちを起こさせますから。 これは作品の品質を左右するものではない、いわば無料コンテンツライフハックのようなものです。これができていなくても作品の品質には影響しません。ですが現実的には大事ではある。「作品は面白いとしても、それ以前にその面白さが届かなければ意味がない」よく聞きます。(フィンディルとしてはそれを小説指摘に適用する向きは好きではありませんが)前半では積極的に魅力を描かずにそれを下ごしらえとして後半に人間関係の魅力を描いている本作において、この無料コンテンツライフハックはやはり無視できないものだろうと考えています。 ですが当然ながらこの無料コンテンツライフハックは、本作の作品構成や方針を否定するものではありませんし、否定するものであってはならないとも考えます。 それははごろもさんが本作を制作する際に選んだ根本の方針だからです。はごろもさんがwebで小説作品を公開する動機次第ではありますが、書きたい小説を書くために選んだ創作方針よりも現実的な無料コンテンツライフハックを優先する必要なんてありませんし、フィンディルは感想でそれを指摘するつもりはありません。ライフハックはライフハックに過ぎないのです。 その根本の方針が作品の品質を左右するものであれば指摘の手も入りますが、ただの無料コンテンツライフハックが根拠であるならばフィンディルは本作の小説方針を尊重します。実際、前半の下ごしらえがあるからこそ後半の人間関係はより映えるわけですから。 つまり両者の折衷として「本作の創作方針を前提にして、いかに積極的に魅力を描かない前半パートを読者に読み進めてもらうか」ということを考えたいと思います。 日常系と呼ばれるような、大きな波乱や深い内面描写を用いずに物語をコンパクトに描くジャンルが存在します。本作の前半パートはそれに近しいものであると想像します。 もっとも日常系と呼ばれるジャンルの物語は、物語の毛並みが日常・コンパクトであるだけで、物語構成自体は相応に読者を惹きつけるものであるだろうと考えられます。人物描写、ちょっとした謎、展開の繋げ方、それらの技術を用いて読者に続きを促す、日常系ジャンルでも適用されていると思います。 そのため本当にただ餃子食べ比べをして、後半に繋げるためだけに前半パートを描いている本作と全く同じ扱いにすることも難しいだろうとも思います。それだけで一作品を構成する日常系と違い、特定の役割を果たすだけの本作の前半パートはなおさらに「ただ〇〇をしているだけ」という印象を加速させていると思います。 ただそれでも日常系と呼ばれるジャンルの技術は(他ジャンルに比べて)、本作の前半パートにある程度抽出できるだろうと考えます。日常系ジャンルも読者に続きを促す技術は用いているとはいえ、他ジャンルに比べてそれら技術の規模は小さいことが予想されますから。それに代わって読者に続きを読ませる何かの技術があると考えるのが自然です。 では大きな波乱も深い内面描写を用いない日常系と呼ばれる小説ジャンルは、どのような技術を用いているのか。 これはフィンディルの想像に過ぎず、かつ本感想内容に利用できるものを抽出しただけであることをご留意いただければと思います。 読者に小説を全て読みきらせるという観点に立ったとき、多くの小説は「続きを読みたくなる」ことに焦点を当てていると考えます。冒頭の掴みはもちろん、ハラハラする展開、気になる謎、美しい情景描写や戦闘描写による興奮、これらの工夫を用いることで「続きを読みたくなる理由がある」と読者に思ってもらい、続きを読んでもらう。ページをめくる手が止まらないという読者感覚は、これら「続きを読みたくなる理由」の質と量によって管理されていると思います。 しかし日常系の小説ジャンルが読者に小説を全て読みきらせるときに選択している方針はやや異なるとフィンディルは想像しています。「続きを読みたくなくならない」ことに焦点を当てているのでは、と想像します。小説に限らない日常系のコンテンツを消費するとき「何でかわかんないけどずっと見ちゃうんだよね」「何かだらだら見られちゃう(読めちゃう)んだよね」といった感覚を覚えることがあります。これは「続きを読みたくなくなる理由がない」からだと思います。 このように「続きを読みたくなくなる理由がない」という読者感覚を与えられるのは、物語の毛並みが日常・コンパクトであるため、読者がコンテンツ消費にかけるカロリーが低いというのが主だった理由だと思います。ワクワクもドキドキもハラハラもしない、考察をしたり心を抉られたりすることもない。これにより読者が「今回はここまででいいや」「もうお腹いっぱい」といった満足感を得にくいというのが考えられます。満足感も「続きを読みたくなくなる理由」にあたりますので、これが薄いと「何かだらだら見れちゃう(読めちゃう)」とそのままの勢いで小説を読める、ということが挙げられるだろうと思います。 良くも悪くも日常系にはコンテンツ消費にストレスがないんですよね。 もちろん「続きを読みたくなくなる理由がない」だけで続きを読もうとなるわけではありませんので、「続きを読みたくなくなる理由がない」うえで「続きを読みたくなる」様々な工夫を施しているだろうとは思います。人物描写、構成、区切りのつけ方、そういったところでやはり読者に続きを促す工夫は施しているでしょう。 ただコンテンツ消費カロリーの多い作品が「続きを読みたくなる理由」に比重を置いて消費を促しているのに対し、日常系は「続きを読みたくなくなる理由がない」を徹底することで消費を促す傾向がある、というのはひとつの考えとして挙げられるだろうと思います。 日常系ジャンルには「続きを読みたくなくなる理由がない」という特徴がある。そのような読者感覚を得る理由は、作品内容に良くも悪くもストレスがないからだ。 この考えは本作の前半パートに当てはめることができると思います。 むしろ日常のみで一作品として完結させるうえで作品的魅力を相応に組む必要のある日常系と比較して、それら作品的魅力を後半パートが担っているために本作の前半パートは日常系以上にストレスが発生しない読み味を追求できるはずです。 もちろんストレスのなさは一長一短でありますので、「暇だ」「つまらない」という印象も生みます。ですがそれは「続きを読みたくなくなる理由がない」うえで「続きを読みたくなる」工夫ですので、まずは「続きを読みたくなくなる理由がない」をしっかり追求することが大事であると考えます。 余談ですが本作の場合、ストレスのない読み味を前半で追求できると、後半で描かれる人間関係の妙や生々しい心情への落差がより大きくなります。そういった構成の演出もはかれるだろうと期待します。 前置きが非常に長くなってしまいました。 要は、本作の前半パートは他の作品以上に、だらだらストレスフリーに読めることが大事であるということです。「続きを読みたくなくなる理由」を徹底的に排除することが大事であるということです。後半パートは別ですよ。 そして本作において「続きを読みたくなくなる理由」としてフィンディルが一番に挙げたいのが、文章です。 これは前回でも指摘したことです。文章面。おそらくはごろもさんも、そのフィン感以降意識されていることだろうとは思っています。 ですが本作についても「読みにくいな」「え、どういうこと?」という箇所が散見されました。 文章が読みにくい、文意がつかみにくい、状況がよくわからない、これらは「続きを読みたくなくなる理由」の筆頭です。ハラハラやドキドキ、心を抉られる感覚は基本的に良い意味でのストレスですが、文章面の未熟は基本的に悪い意味のストレスにしかなりません。 もちろん「気をつけます」で完璧に改善するものではありません。文章からストレスを排除するには意識ではなく技術が必要ですから(厳密には意識を前提にした技術)、だらだらストレスフリーに読める文章を書くのは確かな技術が必要です。 イメージするならばおもてなしでしょうか。ホームパーティを開きます、準備をします。招くゲストがストレスフリーにひと時を過ごせるように準備をするには、きめ細かな気遣いと技術や経験が必要になります。それが簡単でないことはイメージすればすぐにわかります。読者が何も考えずに読める文章は作者があれこれ考えないと書けません。 ですがはごろもさんが本作のような作品構成をひとつの創作方針にされるのならば、だらだらストレスフリーに読める文章を習得するのはおよそ必須です。日常系以上の日常を物語の前半に持ってくるのならば、文章の未熟で「続きを読みたくなくなる理由」を置いたままにしておくのは避けたほうが良いと考えます。 本作のような創作方針がはごろもさんの主要な引きだしならば、とにかく文章を磨くこと。それは美しい情景描写や芯を貫く内面描写ということではなく、読者が何ひとつ引っかからずに読める文章を書くということです。この文章を習得することが、はごろもさんの前に立ちはだかるまずもっての明確な課題であると、フィンディルは考えています。 どうすれば文章を磨けるのか。これはあまりにも根本かつ広範な技術であるため、本感想でしっかりとした方法論を示すことはしません。フィン感はコーチングではありませんから。そもそも問われてもよくわかりません。 基本的にははごろもさん自身で模索していただきたいと思います。 ただ本作においてフィンディルがストレスを感じた箇所を紹介したいと思います。 例によって支援状態ではフィンディルがストレスを感じた箇所を全て洗いだしますが、無支援状態ですのでそれは割愛します。 二点のみ紹介します。 ―――――――――――――――――――  駐車場もほとんどない小さな印刷屋を左に、地上の三角洲のような場所でチャコと信号待ちをしている。 ―――――――――――――――――――  店はまさに渡ろうとしている交差点との反対側、レンタルビデオ屋の隣にある。 ――――――――――――――――――― 冒頭の場面です。地上の三角洲のような場所がある交差点ということで、その地域の中心にあたる大きな交差点なのだろうと想像できます。そこに本作のキーとなる餃子屋があるわけですけども、どうしてこれほど交差点と羊子達の位置関係を説明しようとしているのか、ここが気になりました。 「左に」「反対側」「レンタルビデオ屋の隣」こういった位置関係を示す語彙が出てくると、読者は頭のなかで配置図のようなものを考えてしまうんですよね。ここにこれがあって、羊子達はここにいて、羊子はここからここに移動して、と。 しかしこの程度の情報だと、およそ配置図はできないんですよね。単純な十字交差ではなく地上の三角洲のような場所のある交差点ですからなおさらです。印刷屋はどこにあってレンタルビデオ屋はどこにあって餃子屋はどこにあって羊子達はどこにいてどのように方向転換したのか、これがわからないんですよね。 ここではごろもさんは「位置関係は気にしないでいいですよ」と思われるかもしれません。あとの話を見ても「いつもの交差点に餃子屋がある」ことさえ認識していれば全く問題ありません。乗せるとしても餃子屋の隣にレンタルビデオ屋があれば行列の長さ=人気がわかるので、それだけでいいのです。ですのではごろもさんとしては、気にしないでいい位置関係だから、読者が配置図を作れない程度にしか示していないのだと思います。 であるならば、読者が頭のなかで配置図を作りたくなってしまうような語彙を不用意に置かないということが大事であるとフィンディルは考えます。 「左に」じゃなくて「傍に」「横目に」といった語彙を選んだり、交差点の構成要素の数を減らしたり、ハンドルを曲げる角度を「ぐいっと」など抽象的にすれば、読者は頭のなかで配置図を考えようとはしません。無理であることがわかるからです。 気にしないでいいならば気にしないでいいと伝わる書き方があると思います。「気にしないでいいですよ」と文章で伝えられていないように思います。 伝えないといけない情報をしっかり伝えるのと同じように、伝えないでいい複雑な情報は伝えない(伝えないことを伝える)。 「印刷屋が左で、羊子達は三角洲のような場所にいて、ハンドルを90度曲げたから……えーと、どうなってるんだ? あー、気にしないでいいのか、な」となるのがストレスなんですよね。 読者はこう思ってしまうかもなと執筆時に想像して、そうならないような書き方をすることがだらだらストレスフリーに読める文章には必要になってくると思います。 なお前回の感想で「場面に応じた描写半径を」といったことを指摘しましたが、はごろもさんはそれを意識して交差点の描写対象を増やされたのかもしれません。ならば良いトライだと思うのですが、今度はその描写をすることで読者がどういうことを考えるのかについても意識されてみるともっと良いかもしれません。 次です。 ――――――――――――――――――― 「やっときたね、この日が」 「〆だけは決めてある」 「すっごい当てたいけど得意げな羊子のために黙っとくね」 「なんでよ!」 ――――――――――――――――――― 「駅近に何軒かあるけどオススメでいい?」 「任せる」 ――――――――――――――――――― 以前の感想で話者整理の指摘をしましたけど、本作のこの箇所も話者整理にあたるのかなと思います。 今回の餃子食べ比べですが、はごろもさんとしては「シメはいつもの餃子屋さんとして羊子が決定しているが、他の店は宇都宮なのだから宇都宮に明るいチャコが主導する」ということなのだろうと思います。 チャコが宇都宮に明るく羊子が明るくないのは「駅近に何軒かあるけどオススメでいい?」の前で示せているので、そういう流れがある時点で「駅近に何軒かあるけどオススメでいい?」はチャコの発言であると自然にわかるだろう、と。 しかしそういった認識を上手く読者と共有できていないようにフィンディルは感じました。 というのも「〆だけは決めてある」「すっごい当てたいけど得意げな羊子のために黙っとくね」というやりとりの時点で、今回の餃子食べ比べのホストは羊子であるという認識が生まれる可能性があるからです。餃子食べ比べを行うなら当然複数の餃子店を巡るわけですが、その店選びをするのは羊子であると。 そのように感じられるのは、羊子がシメを決めることに対してチャコが容認も拒否も示していないからです。「すっごい当てたいけど得意げな羊子のために黙っとくね」と、羊子がシメを決めること自体ではなく、羊子が決めたシメがどこであるかにチャコは着目しています。今回の餃子食べ比べのホストが羊子でないのなら、まずチャコは「何で羊子が決めてんの、まあいいけど」や「決めてるだろうと思ったー」といった、羊子がシメを決めることへのリアクションを入れることが自然であると思います。そこへのリアクションをしていないことから、事前に日時などを決める際に羊子がホストであるという合意も得ていたのだろうと解釈できるのです。 なお「〆だけは決めてある」ということはシメ以外は決めていないということですが、「決めていない」というのは候補すら出していないのか候補は出しているが決定はしていないのか、どちらのニュアンスであるのかまで特定するものではありません。候補は出しているがどの店にするのかはその日の流れで決める可能性を考えれば、「〆だけは決めてある」であっても羊子がホストであるという解釈を崩すものではありません。 そういう解釈の余地を残している段階で「駅近に何軒かあるけどオススメでいい?」という台詞が入ると、その発言主がどちらなのかが混乱してしまいます。ホストは羊子のはずだからオススメするのは羊子だ、でも宇都宮駅周辺に詳しいのはチャコだ。どちらの発言なのだろう、と話の流れを見失ってしまう危険があります。フィンディルは「あれ?」と思い、ここまでの内容を読みかえすことになりました。 「シメはいつもの餃子屋さんとして羊子が決定しているが、他の店は宇都宮なのだから宇都宮に明るいチャコが主導する」というはごろもさんの認識が、上手く読者に共有できていないのですよね。共有できるような書き方をしていない。 作者自身としてはこういう認識をしているが、この書き方で読者に伝わるだろうか。勝手に前提にしているだけで、読者に想定外の伝わり方はしないだろうか。それによって読者に無用な混乱を招かないだろうか。作者と読者で認識を共有できないリスクは、創作では常に付きまといます。だからこそシミュレーションを重ねることが大事なのですが、本作はこのシミュレーションが不足しているような印象があります。 それにより読者に混乱・引っかかりを与えてしまい、ストレスが発生してしまう。そういうことが考えられると思います。 以上、二点のみ紹介しました。 ここ以外でも(紹介は割愛しますが)名詞や動詞のチョイス、そして特に助詞のチョイスにより、文意をつかみにくい文章が多く散見されました。 「続きを読みたくなくなる理由」に十分当てはまるとフィンディルは考えます。 前半パートは起伏のないただの若者の日常を描く。それによって登場人物の存在を読者に染みこませ、後半で描かれる人間関係やキャラクターバランスの魅力を映えさせる。この構成は良いと思います。 この構成の現実的な難点として、前半の弱さがある。起伏のない若者の日常を描くということは、読者に先を読ませる力に乏しいということです。「続きを読みたくなる理由」が少ない。無料コンテンツにおいては、まずコンテンツを全て消費させきることがライフハックとして重要になる。 類似する日常系ジャンルでは「続きを読みたくなくなる理由」を徹底的に排除することが、コンテンツを全て消費させきるうえでひとつの方針になる。そのうえで「続きを読みたくなる理由」を置くが、まずは「続きを読みたくなくなる理由」を排除してだらだらストレスフリーに楽しませることが大事だろうと。 そう考えたとき、本作は文章面において読者にストレスを発生させる箇所が散見される。このように書くと読者はどのように読むだろうか、どのように書けば作者の認識はスムーズに読者に共有できるだろうか、読みにくさ・引っかかり・ストレスを排除できるだろうか。このシミュレーションが不足している。 ですのでフィンディルは、はごろもさんが本作のような創作方針を主な引きだしにされるなら、まずは文章を磨くことをオススメします。ストレスのない文章を書くのは(北向きなら)ほとんどの作品で大事なことなのですが、本作においてはなおさら大事です。文章下手でも物語が魅力的だからOK、とは本作の構成上なりにくい。ストレスフリーな文章が生命線のパートが前半を占めているわけですから。 ですので前回も文章面は指摘しましたが、今回も文章面への指摘を改めてしました。 フィンディルの印象として(前作もですが)本作は「文章には難があるがセンス(能力)の光る作品」という立ち位置なんですよね。そのセンス(能力)で85点ですし、前作も80点でした。本作はわかりませんが、文章だけでいえば前作は75点だったでしょう。 しかし文章が相応に磨かれば、はごろもさんは「押しも押されもせぬ良作」を量産することが十分に可能だと思います。次の項目で触れますが、人間関係やキャラクターバランスの見せ方は非常に高い能力を持っていますので、「やっぱりはごろもさんの作品は間違いなく面白いよね」という作品しか出さないということも十分考えられるんですよね。 そこを「センス(能力)は感じる作品」に甘んじさせているのが、文章面だと思います。 ですので文章をとにかく磨く。これが大事だとフィンディルは思っていますし、期待しています。 もちろんはごろもさんには既にその意識が強くあるだろうとは思っています。文章を磨こうで磨けたら苦労はしないわけですから。それを踏まえたうえで「文章を磨きましょう」と改めてお伝えしたいと思います。 ●キャラクターの存在感を出し入れする技術とその魅力 それではこの項目では本作の魅力についてお話したいと思います。 後半のパートで描かれる、人間関係やキャラクターバランスの妙です。 前項目でもお話しましたが、本作の前半は羊子とチャコの他愛もない日常が流されていきます。餃子食べ比べをした一日、それは作品的な起伏に乏しい若者の日常でした。これにより読者には羊子とチャコという友達、親友の姿が染みこんでいきます。 後半、年月は一気に六年進みます。 前半パートの最後で大学進学の話をしていた羊子ですが、後半は大学進学・卒業・就職を経て社会人三年目の羊子が登場します。春の彼岸、中学時代のプチ同窓会に羊子は参加します。 チャコの元彼など、前半パートでちらりと名前が出ていたメンツが同窓会に参加しているなか、チャコの姿がありません。 そして羊子は同窓生から「チャコは大学時代に大学と家族を捨て、彼氏と姿を消した」ことを知ります。もちろん、大学に入ってから疎遠になっていた羊子に告げることなく。 この辺りまでを読んだとき、フィンディルは「昔の親友に何かがあったことを知った羊子が、思いを馳せる展開になるのかな」というようなことを考えました。人生のすれ違いというか、その物悲しさといいますか。 本作の中心人物は羊子とチャコであると思っていたからです。後半パートも羊子のチャコの物語として進んでいく。そう認識していたのは間違いなく前半パートの存在が大きいだろうと思います。 しかし物語は予想とはやや違った方向に進んでいきます。 プチ同窓会がお開きになり、どのように実家に帰ろうかと考えたいた羊子の前に、同窓生の一人である江連が現れます。そして実家まで車で送ると提案してきます。 この江連はカイでした。背が高くて怪獣のようだから「カイ」という渾名をつけられていたそうです。もっとも羊子は渾名ではなく江連と名字で呼んでいましたが。これは中学時代、羊子がカイのことが好きで、好きであるがゆえにカイとろくに話す機会を持てなかったからです。 ――――――――――――――――――― 「この前ね、カイくん見たよ」  不意に出たカイくんの名前に心臓が跳ねる。同じ中学、同じ高校。向こうはたぶん、ただそれだけ。 ――――――――――――――――――― これは前半パートでも布石が打たれ、情報が置かれています。羊子はカイが好きだった。 中学高校とまともに話す機会を得られなかったカイと、六年の時を経て羊子は二人きりの場を持つことになりました。 その車内での話題はチャコでした。カイが「福田美沙子ってさ、俺のこと嫌いだった?」と羊子に問いかけます。福田美沙子とはチャコのことです。 この段階では江連=カイとは明らかになっていないわけですが、羊子の様子から江連は羊子にとって特別な存在であることはそれとなく伝わっています。そしてカイからの質問内容は、チャコに関すること。 ここまではフィンディルは物語の中心人物は羊子とチャコなのだろうと思っていました。チャコが音信不通になったことを知った羊子とカイが、チャコについて話し、思いを馳せる。チャコや羊子と微妙な関係性を持つカイも交え、チャコについてあれこれと話すのだろうと。チャコは本物語の主要人物、キーマンの位置を確かなものにしているのだろうと。 しかし次の一文で、その想像は外されることになります。 ―――――――――――――――――――  話しかけてくれたと思ったらチャコのことか。 ――――――――――――――――――― すごい一文だと思います。何とクリティカルな一文か。 羊子にとってチャコのことは大したことではなかったのです。厳密にいえば、今の状況においてチャコの話は優先順位の低い話題だった。フィンディルはてっきり、「チャコは音信不通になった」という衝撃をそのまま引きずってそれを受けての羊子や周囲の心情を綴っていくものだと思っていました。何故ならチャコは中心人物で、その中心人物に衝撃の事実が乗っかったわけですから。しかし主人公である羊子が「何だチャコのことか」とチャコの音信不通を矮小化したんですよね。 その後も「また、チャコの話。」と独白します。 それから、カイの不器用な物言いにより「カイはチャコが好き」と勘違いした羊子が感情を隠せなくなり、それをきっかけにして羊子とカイが両想いであることが明らかになります。 ここまでくるとチャコのことはどこへやら、羊子とカイのお話になります。不器用なカイのことですから、チャコの話をしたのは羊子と何とか話をしようと思ってのことだろうと想像します。 話の中心人物が羊子・チャコから、羊子・カイに変わっていくような、そのような印象をフィンディルは覚えました。 このときの読書感覚、フィンディルは前作の「さようならのロードショー」でも感じたものでした。モグラ・ジー・フジの三人が同じ存在感を見せていた前半から、ジーの存在感が極端に小さくなり、フジの存在感も小さくなり、モグラの存在感が極端に大きくなるあの感覚。「あれ、三人の話だと思ってたのに、違うの?」とキャラクターバランスに重力がかけられたような感覚。 存在感の出し入れとでもいいましょうか。チャコの存在感が極端に小さくなり、代わりにカイの存在感が大きくなっていったのです。「羊子とチャコの話」だと思っていたのが「羊子とカイの話」に変わっていく、作品の顔が変わっていくような、そういうキャラクターバランスの変更を感じていきます。作品の見え方、読むときの重力が変わっていくのです。 端的にいいまして、めちゃくちゃ面白いです。中心人物が中心人物でなくなっていく感覚、非常に面白いです。 ただこれはおいそれと使える技術ではありません。主要人物を主要人物からおしやるような大胆なバランス操作なのですから、物語を見失わせ作品を壊してしまうおそれのある技術です。 ですがはごろもさんはそのようにキャラクターの存在感の大胆な出し入れを行いながらも、作品のバランスを決して壊さないところが本当に素晴らしいと思います。これは後述します。 話に戻ります。 チャコの話をしたカイに「話しかけてくれたと思ったらチャコのことか。」と思った羊子。さっき「チャコは音信不通になった」と知ったばかりにもかかわらず、チャコのことを重大に捉えていない羊子。 何故か。それは好きなカイと二人きりという貴重な場だからなのか。中学高校と密かに願っていた機会に社会人三年目にして巡りあえた、そんな貴重な場の話をチャコで費やすことをもったいなく感じたからか。羊子が友情より恋愛を優先したということなのか。 これは半分は正しいですが、本質ではないと思います。確かにこの貴重な場をチャコの話題で支配されてしまうことを羊子はもったいなく思ったでしょうが、本質はそこではありません。 ふりかえってみると、カイと二人きりになる前から、羊子の様子は印象的でした。 ―――――――――――――――――――  状況と、情報が上手く整理できていない。 ――――――――――――――――――― と「チャコは音信不通になった」ことに羊子は少なからず動揺を覚えました。 しかし話が落ち着いたあとは ――――――――――――――――――― 私は思い出話でチャコの名前を出さないよう気をつけた。 ――――――――――――――――――― と場に波を立てないように(大人としての)配慮をしたのです。ここが非常にフィンディルの印象に残りました。 「チャコは音信不通になった」が羊子にとって非常に衝撃的ならば「適当に相槌を打っていたが、頭の中はチャコのことでいっぱいだった」などになるのが自然だと思います。「ううん。ただちょっと……動揺はしてるけど、もうお互い大人だし気にしないで」と口では言ったものの、頭のなかではチャコのことがぐるぐる回ったままで、同窓会を楽しむこともできない。 しかし羊子は場に波を立てないような配慮をすることに神経を注ぎました。チャコのことが心配で気になったというよりも、不用意にチャコの名前を出して楽しい雰囲気を壊さないように気を遣ったのです。 つまり羊子にとって「チャコは音信不通になった」は、音信不通になったと聞かされても動揺して気が気じゃないことになるわけでもなく場の雰囲気を維持することに神経を注げる程度の衝撃だったのです。 さらに15ページでは羊子がチャコについて考えている素振りがありません。皆と別れてカイと会うまでの時間的猶予はあまりありませんでしたが、その短い時間で羊子が考えたことは「タクシーを呼ぶの面倒だな」でした。 作品的に見ても、「チャコは音信不通になった」で物語を動かした直後のページでチャコについて一切触れないのは非常に印象に残ります。 以上から羊子がチャコのことを重大に捉えていない理由を「羊子が友情より恋愛を優先したから」で片づけるのは無理があると考えます。カイとのことがなくても羊子は「チャコは音信不通になった」という事実にそれほどの動揺を受けていないのです。 六年の時が経っているからか。羊子とチャコが仲良くしていた時期から六年の時が経っていたから、羊子のなかでチャコへの想いが薄れ、「チャコは音信不通になった」ことを知ってもそれほどの衝撃を受けなかったのか。 これは明確に否定されます。何故ならば羊子はカイへの想いを薄れさせてはいなかったから。 様子を見るかぎり、羊子はカイへの恋心を現在進行形で持っていたわけではなかったのでしょう。 羊子は同窓会に参加するか迷っていましたがその理由がカイであると明言されたわけではありませんし、同窓会でカイと会話するときもぎこちなくはありましたが必要以上の気負いはありませんでした。また同窓会の後半でカイが煙草のために席を外したときも特別なリアクションを示していませんし、同窓会がお開きになったときもカイについて「話せたけど、深い話はできなかったな」など何らかの反省を行っている様子もありませんでした。 総じて同窓会に参加するにあたって羊子はカイのことを「昔好きだった人」と捉えている印象をフィンディルは持っています。昔好きで、今でもぎこちなくはなってしまうが、もう六年前のことなんだし、もう立派な大人なんだし、ある程度フラットに当たり障りなく交流することくらいはできる。そんな同窓生の一人。それ以上の心情は感じられませんでした。 しかし羊子はカイと二人きりになります。カイは羊子へ好意があったので(不器用ながらも)話す機会を持とうと行動したのでしょうが、羊子にとっては完全にイレギュラーな出来事でした。チャコの話もあり、羊子のなかで急速に当時の恋心が復活したのだろうと想像します。 ―――――――――――――――――――  ぷわーっと視界が歪む。恥ずかしい、学生時代の想いを引きずって泣くなんて。 ――――――――――――――――――― もし羊子が現在進行形でカイのことを想い、今でもカイのことを十分に意識していたのなら「恥ずかしい」という感情は持たなかったでしょうし「学生時代の想い」とはいいません。カイのことを「昔好きだった人」と思っていたから、もう自分は過去の恋心に揺れ動かされない立派な大人になっていると思っていたからこそ、カイの気持ちを(勘違いですが)知ったことで自分が強く動揺していることに「恥ずかしい」と思ったのでしょう。泣いてしまうほど今でも好きなのかよ自分、と。 これが「六年の時が経っているから羊子のなかでチャコへの想いが薄れた」が否定される根拠です。六年の時が経っても、六年の時が経っていると思っていても、羊子のカイへの想いは薄れてはいなかったのです。これを単純に当てはめるなら、六年の時が経っていても「チャコは音信不通になった」という事実は羊子を大きく動揺させるはずです。しかしそうはならなかった。もちろん、人の想いは単純に比較できるものではありませんが、作品としてはこの比較は重要であろうと思います。 つまり「チャコは音信不通になった」と知っても羊子が大きな動揺を受けなかったのは、そもそも羊子はチャコをそこまで大切な存在だと感じていなかったからであるとフィンディルは考えます。 友情より恋愛を優先したから、六年の時が経っていたから、それらは副次的な理由ではありますが、本質的な理由はそもそも羊子のチャコへの想いが大したものではなかったから。 「仲が良い」と「その人が大切だ」は同じようでいて、違います。「仲が良い」は人間関係の状況ですが、「その人が大切だ」は個人の心情です。大っぴらにはしませんが、仲が良くても大切でない人は確かに存在します。「仲が良い」という状態を継続する理由が「その人が大切だ」からとはかぎりませんし。 これですが、周囲はもちろん自分自身でもあまり自覚できないことのように思います。仲が良いんだから、いつも一緒にいるんだから、その人に何かがあったら一番に気にかけて心配するべきだ。こういう固定観念が周囲はもとより自分自身にもあります。親友に何かがあれば、一番に心配するのは自分だ。一番仲が良いんだから。これは「その人が大切だ」という心情由来ではなく、「仲が良い」という立場由来の行動です。ですが自分自身も、その人が大切だから心配しているのか仲が良いから心配しているのか、よくわからないことがあります。 これの試験薬となるのが年月です。その人との空白期間が数年ほど置かれ、「仲が良い」が「仲が良かった」という過去になり立場の影響力が自他ともに低下したとき、その人のために思考や行動をどれほど費やすかは「その人が大切か」という心情由来に偏りがちになります。離れてはじめてその人の大事さを知る、ということですね。これはもちろん離れてはじめてその人が(自分にとって)どうでもよかったことを知る場合もあります。 羊子はカイのことがどれほど大切なのか。六年という年月が試験薬となり、羊子のカイへの気持ちの大きさが明らかになりました。「こんなに好きだったんだ」と羊子自身も驚いたはずです。 それと同時に、チャコのことを大して大事に思っていないことも明らかになりました。 ―――――――――――――――――――  ふと、呆れた。  チャコのことを考えている間も私は、スマホが震えるのをずっと期待したままだった。 ――――――――――――――――――― 「こんなにどうでもよかったんだ」と羊子は呆れました。 この「呆れた」という語彙チョイス、お見事だと思います。めちゃくちゃ上手い。「寂しくなった」「悲しくなった」「驚いた」ではなく「呆れた」んですよ。チャコのことを考えているはずなのに、心はスマホに、カイからの連絡に向いていることに。音信不通になったチャコよりも、恋人になったカイに心が向けられている。それは先述したように、友情より恋愛を優先しているというよりも、自分(羊子)にとってチャコが大した存在ではなかったからだ。それに羊子は呆れました。 「寂しくなった」「悲しくなった」「驚いた」だと、「そのように考えてしまう自分は良くない」というニュアンスが出てくるんですよね。自分は非情だ、自分は良くない、あんなに仲良かったのに、と自分を責めるニュアンスが出てくるんですよね。そしてそんな自分を変えよう、真剣に心配しようというニュアンスが入る余地がある。 しかし「呆れた」だと、そのニュアンスが入らない。「あーなるほど、そう考えちゃうかー自分。もう仕方ないなあ」というような感じ、「自分は非情だ」ではなく「自分は非情だわこれまったく」といった感じで、物事を重大に捉えず自分も真剣には責めず、そしてそんな自分を変えよう何か行動を起こそうというニュアンスも入らなくなるんですよね。これは想像ですがこれから先、羊子がチャコについて考えることはほとんどないでしょう。「寂しい」や「驚いた」ではそういう想像にはなりません。 「呆れた」のが大事なのです。めちゃくちゃ上手いです。素晴らしい。 またチャコの喪失のメタファーに羊子自身が設定したあの餃子の喫食にも、名残惜しさを感じさせません。上手い。 これって、すごくリアルなんですよね。経験したことがある人もいるかもしれませんし、共感できる人は多いはずです。 本当はもっと気にかけるべきだろうし、立場を考えても誰よりも心配するべきなんだろうけど、いやーでもちょっとどうでもいいわ。エネルギー出てこない、気持ちが出てこない。結構色々してもらったし楽しい思い出たくさんあるし仲良かったんだけどな。あ、こんなにどうでもいい人だったんだ。全然冷めてるわ、そんな自分に呆れるわ。まあでも、しょうがないよね。 こういう感覚を持ったことがある人は非常に多いと思います。大っぴらにはしませんが。 この感じが羊子の様子からすごく表現できているんですよね。「チャコは音信不通になった」という事実を考えれば(一番仲良かったし)本当はずっと思考を支配すべきなんだろうけど、カイとの会話でチャコが出てくれば「またチャコか、チャコどうでもいいよ」って思ってしまうし、チャコのことを考える場面になっても心はカイからの連絡に向いてて呆れてしまうし、何ならチャコに思いを馳せる餃子もそうとわかっていながら普通に美味しく食べてしまう。 すごくリアルなんですよね。大っぴらにはできないけど「わかる、わかるわかる」となった読者は少なくないと思います。フィンディルはなりました。 対比としては 「昔好きだった人」のはずでもう立派な大人になっていたと思っていたのに、恋心がぶわーっと蘇って泣いてしまう。そんな自分に恥ずかしさを覚える。こんなに好きだったんだ。 「昔仲良かった人」のはずで音信不通になったと聞けば(周囲が気を遣うほど)動揺してあれこれ気にかけるべきなのに、真剣に考えるエネルギーが出てこない。そんな自分に呆れを覚える。こんなにどうでもよかったんだ。 といったものがあると思います。この対比って、第一印象以上にえげつないというか、すごくリアルを描いているなと思うんですよね。一見してわかる残酷な心情よりも残酷というか。でもそれは誰しもが思うような普遍的な気持ちで、決して特殊な気持ちじゃない。多くの人が共感できる残酷な気持ち。 六年の時の流れが、その人への想いの差をえげつないほどに浮かびあがらせているのですよ。恥ずかしいくらいに想いが強かった、呆れるくらいに想いが弱かった。 とても面白いです。素晴らしい。 これを登場人物の存在感の出し入れで表現しているんですよね。 主要人物のチャコの存在感を急速に小さくして、カイの存在感を急速に大きくしていく。これ自体が、年月の試験薬で明らかになった(羊子の)その人への想いの差を非常に効果的に表現しています。 とはいえそれで終わってしまうと作品のバランスが保てない。本当はそのままチャコの存在感は小さいまま、カイの存在感は大きいままのほうがリアルなんですけど、作品のバランスが保てなくなってわかりにくくなってしまう。それはそれでアリなんですけど、はごろもさんはバランスをとる選択をしました。 バランスを整えるために、終盤チャコをまた持ってきます。しかしそれは羊子にとってチャコの存在感が大きくなったからではなく、「チャコの存在感が小さいよ自分」という羊子の呆れを物語らせるようなかたちで持ってきているんですよね。これも上手いと思います。作品としてチャコの存在感を小さくしておいて、そのままチャコの存在感が小さいままでは作品としてのバランスがとれないので、「羊子にとってチャコの存在感が小さい」という体でチャコの存在感を最後に復活させる。 その小道具として餃子および餃子屋を利用していますね。羊子に「自分にとってチャコの存在感が小さい」と思わせるためのトリガーとして。これはチャコのことを演出するトリガーというよりも、トリガーがなければ羊子はチャコのことを考えないという表現になっていると思います。羊子にとってチャコの存在感が小さいなら、羊子が何のトリガーもなしにチャコのことを考えることはないわけですから。カイとのことで頭のなかは大忙しですし。ここも上手いです。 これで作品のバランスも登場人物のバランスもどちらもとれているんですよね。 主人公にとって親友への想いが小さいことを表現しようと思うと、最初から「羊子にとってチャコの存在感が小さい」という体でチャコの存在感を維持するのを発想しがちなんですよね。「この作品は羊子とチャコの話で、実は羊子からチャコへの想いが小さいことを表現するなら、その小ささを色々な言い方や展開で表現しよう」と。ずっとチャコは「羊子からの想いが小さい」キャラとして主要人物のままでいがちなんですよね。「この作品は羊子とチャコの話」を一時的にでも崩す発想が出ない。 しかしはごろもさんは、まるでチャコを物語から弾きだすかのような進行ができるんですよね。物語の形が変わるほどに登場人物の存在感を出し入れすることができる。「あれ、話が変わっていってるな」「羊子とチャコの話じゃなくなってるな」と思えるほどに。そしてそれが「羊子にとってチャコの存在感が小さい」を表現するもっとも効果的な手法であり、本作の魅力になっている。そして最後で「羊子にとってチャコの存在感が小さい」という体でチャコの存在感を復活させてバランスをとる。 はごろもさんの能力の高さを感じます。登場人物同士の(距離感などを利用した)人間関係、作品としてのキャラクターバランス、存在感。これらを大胆に操作して物語の形すら変わったように感じさせるけれど、上手くバランスをとって破綻はさせない。 繰りかえしになりますが「チャコは音信不通になった」という事実を明かしておいて15ページ目ではチャコの名前を出さずに「あれ? そんなに気にかけてない?」と思わせておいての、 ―――――――――――――――――――  話しかけてくれたと思ったらチャコのことか。 ――――――――――――――――――― で急速にチャコの存在感を小さくしていくのはお見事だと思います。非常に素晴らしいです。最高の一文だと思います。そしてカイの存在感を急速に上げていく。 素晴らしい。面白いです。 ●「真剣に心配しない理由がある」のではなく「真剣に心配する理由がない」という書き方 「チャコは音信不通になった」という事実を知った羊子ですが、羊子の頭のなかをチャコが支配することはありませんでした。 それは羊子が友情よりも恋愛を優先したわけでも、六年の年月が長すぎたわけでもなく、そもそも羊子にとってチャコがそこまで大切な存在ではなかったから。というのがフィンディルの解釈です。 それはカイへの恋心が急速に蘇って恥ずかしさを感じた姿と、カイからの連絡に心が向かっていることに気づいて呆れた姿とで、強烈な対比をもって描かれています。 ではどうして羊子にとってチャコが大切な存在ではなかったのか。 これは作中においてある程度明確に示されています。 ―――――――――――――――――――  明るい。チャコはよく笑う。泣いたところは小学校低学年に見たきりだし、落ち込んでいることもない。一緒にいて楽だけど、いつでもあっけらかんとしているチャコといるのは息苦しいときもある。 ―――――――――――――――――――  聞こえなかったんじゃない、わざと聞こえないように言ったんだ。離れたくはないけれど、チャコのいない世界も知ってみたいとぼんやり思っただけなのだ。 ――――――――――――――――――― 前半パートですから、羊子が高校三年生のころにチャコに対して抱いていた気持ちです。 辛さや弱さを見せず、悩みなんてなさそうに元気に生きているチャコ。控えめな性格だったらしい羊子が息苦しさを覚えるのも不思議ではないかもしれません。楽しさだけがある空間は楽だけど、楽しさしかない空間ではありのままではいられない。そんな本音を言えない窮屈な間柄。羊子はチャコに対して、そんなほんのりマイナスの感情を抱いていました。 また後半パートでは、 ――――――――――――――――――― 「俺をにらんでたのは沼尾を取られると思ったからだぞ」 ――――――――――――――――――― チャコに相談しても「だめ」の一点張り。 ――――――――――――――――――― ともありますので、中学生ごろにありがちな友人間の幼い束縛のようなものも、チャコは羊子に向けていたのでしょう。自身は奔放に交際を行うのに対し、友人の恋愛は(友人を失いたくない一心で)防ごうとする。チャコの幼く身勝手な価値観が窺えます。 ここについて羊子は社会人三年目の今でも明確に自覚・非難しているわけではありませんが、高校三年生当時から自分が自分らしく自由に振る舞えないような感覚をどこかで感じていたからこそ、「チャコのいない世界も知ってみたい」と思っていたのだろうと思います。 ―――――――――――――――――――  一緒に逃げた男はしっかり甘えられる男だろうか。知らないけど。心配しているフリをした、これでいいんだ、よくできましたと口角をあげる自分がいる。本当にチャコのいない世界が迫ってくる。 ――――――――――――――――――― その思いは、チャコとすっかり疎遠になった社会人三年目にもどこかで残っていたのでしょう。 明るくて悩みがなくて楽しくて楽な間柄、しかし弱さを出せず本音を言えずどこか自分の気持ちに素直でいられないような、やや窮屈な空間。 羊子がチャコに対してそのようなマイナスな感情を抱いていることが明確に書かれています。十代の「親友」にはありがちな仄暗い感情だろうと思います。 フィンディルはここが引っかかりました。羊子のチャコへのマイナスな感情そのものに引っかかっているわけではありません。 前半パートからマイナスな感情を言語化できすぎている。六年後の羊子がチャコをどうでもいいと思っている理由が、情報として置かれてしまっている。ここが引っかかりました。 他の方のコメントでも、六年後の羊子がチャコをどうでもいいと思っている理由について、その明るさに息苦しさを感じていたところをそのまま解釈しているようなものも見受けられます。作中に明確に書いているから当然です。 社会人三年目の羊子が「チャコが音信不通になった」と聞いてもそこまで真剣に心配しなかったのは「チャコは明るいが息苦しかった」というマイナスの感情を抱いていたからか、というとニュアンスがやや違うんじゃないかなと思うんです。 「チャコが音信不通になった」と聞いてチャコのことを真剣に心配したくなるような(大切に想うという)プラスの感情をチャコに対して持ってなかったからであるとフィンディルは想像します。 「マイナスの感情を抱いていた」なのか「プラスの感情を抱いていなかった」なのか。フィンディルは後者だと思います。そしてそれが羊子の心情的に自然で、生々しいものであるとも考えています。 ――――――――――――――――――― チャコの元彼その1。 ――――――――――――――――――― 「そ、それは、私じゃなくてチャコじゃない?」 ――――――――――――――――――― 「うん、福田美沙子。あれ、そういえば来てないの?」  辺りを見回すけれどチャコは見当たらない。 ――――――――――――――――――― このときの羊子がナチュラルにチャコの名前を出していることからも窺えますが、決して羊子はチャコのことを嫌いじゃないんですよね。厳密にいえば、嫌いな人にカテゴライズしていない。 ナチュラルに名前が出てくるくらい、このときでも羊子はチャコを親友にカテゴライズしています。もし羊子がチャコに対して「息苦しいな」というマイナスの思いを強く持っていたのなら、チャコのいない場でわざわざチャコの名前は出さないと思うのです。チャコとは疎遠になって、羊子は羊子の人生を歩んでいるわけですから。 チャコのことが嫌いではない。チャコは中学時代の一番の親友だった。そういう認識を社会人三年目でも羊子は持っていたはずです。チャコに対するマイナスの感情を羊子は明確には持っていないと想像できます。 しかし羊子はチャコのことがどうでもよかった。心配しているふりをして満足し、カイからの連絡に心が向かって仕方がない。決して嫌いではない、一番の親友だった、真剣に心配して当然のはず。それでも真剣に心配するエネルギーが出てこない。それはチャコに対するプラスの感情を持っていなかったから。チャコを真剣に心配しない理由があるのではなく、チャコを真剣に心配する理由がなかったから。こちらのほうが羊子の心情には沿っていると思います。 こちらのほうが人の感情として生々しいと思うんですよね。誰かを心配するのってエネルギーを消費して疲れますから、心配するだけの理由がないと心配しないんですよね。自分にとってその人が大事であるという理由がないと。それがないと、精々心配するふりしかできない。「だって息苦しかったからな」「だって嫌いだったからな」で心配しないということはなくて、嫌いじゃないし良い人だったし仲も良かったけど何でかわからないけど真剣に心配する気持ちになれないわ、というほうが多いですし生々しいと思うんですよね。 本作もそういう気持ちを描いているはずだとフィンディルは解釈しています。実はチャコにマイナスな感情を抱いていたから羊子はチャコを真剣に心配しないのです、ではなく、本当は心配したほうがいいんだろうけど何故かどうしてもそんな気持ちになれない羊子は自分自身に呆れてしまうのです、という人間の素朴な残酷さや人生のすれ違いなどを描いているとフィンディルは解釈しているのです。 そしてどうしてチャコのことを真剣に心配できないのだろうかと、プラスの感情がない理由を突きつめたときに「ああ、息苦しかったのかな」とマイナスの感情を見つけることができるのではないかなと思います。 なので順番としては「マイナスの感情がある」→「真剣に心配できない」ではなく「真剣に心配できない」→「マイナスの感情がある」だと思うんですよね。真剣に心配できない=プラスの感情がない、それを突きつめたときにマイナスの感情を発見する。ああ当時の自分はこういう気持ちを実は持っていたんだな、だから今の自分は真剣に心配できないのか、プラスの感情を抱いていないのかと答えを得る。 この流れがリアルで生々しい心の動きだとフィンディルは思います。理由を認識したうえで結果がある、なんてことは「こういうところが嫌いなんだよ!」と嫌いで嫌いで仕方ないときくらいしかないと思います。微妙な間柄、嫌いと明確に思っているわけではない、そんなときは結果があるうえで理由を認識する。息苦しいな→だから真剣に心配できない、ではなく、真剣に心配できないな→どうしてだろ→ああ息苦しかったんだ、と気づくような。 これが親友であるチャコが音信不通になったと知っても心配するふりしかできずに呆れてしまう、羊子に合った心情の描き方であると思います。 以上のフィンディルの解釈を前提にした場合、前半パートの描き方はもっと洗練できるのではないかなという気がしています。 つまり羊子からチャコへの「息苦しい」というマイナスの感情をおよそ情報として置くのではなく、行間からそれとなく香ってくるような空気感で息苦しさを表現するという方針をフィンディルはオススメします。 現在は、羊子がチャコを真剣に心配しないとわかったときに「あー前半パートで息苦しいって書いてたもんね」という論理的な納得の仕方なんですよね。こちらは情報として置かれているので読者に確かな納得感を与えられ、作者は安心できます。ただしこちらは先述のとおり、羊子の自然な心の動きから考えると不自然であると思います。理由をはっきり認識しすぎている。 フィンディルとしては羊子がチャコを真剣に心配しないとわかったときに「あーいや、はっきりとはいえないけど、前半パートの二人の様子見てたら、何かわかるわ……」という感覚的な納得の仕方が合ってると思うんですよね。そしてこちらのほうが、納得したときの納得感がより強くなると思います。何故ならそれは「真剣に心配できない」→「マイナスの感情がある」という生々しい心の動きに合致した書き方だから。 初読時、前半パートはただ羊子とチャコが仲良く過ごしているだけにしか見えなかった、そして実際そうなのだが 羊子がチャコを真剣に心配していないことがわかって振りかえると「あー、何かわかる、そんな気する」と情報なしに納得できてしまうような、そういう読書体験。こちらのほうが納得感が強いですし、人の心の共感性の高い残酷さやえげつなさがダイレクトに伝わってくると思うのです。だって何かわかっちゃうんだもん、共感できちゃったんだもん、と。 そしてその感覚的な納得感があったうえで、「俺をにらんでたのは沼尾を取られると思ったからだぞ」『チャコに相談しても「だめ」の一点張り。』などの情報をあとから受けて「あー羊子は息苦しかったのかな」と、真剣に心配しない理由がそれとなく読者に見えてくるようなかたちが望ましいのかなと思います。 現状は「息苦しい」という明確な情報が先にきて、真剣に心配しないことを論理的に納得して、そこから二人の関係性とかの空気感が追いかけてくる印象があります。 そうではなくて、まず二人の関係性の空気感が先にきて、真剣に心配しないことを感覚的に納得して、そこからカイの発言などの情報が追いかけてくるほうが、より羊子の気持ちに生々しさが出るように思います。 本作のタイトルは「Indigestion」で消化不良という意味です。何をもって消化不良としているのかははごろもさんの意図次第ですが、親友であったチャコのことを真剣に心配しない羊子の心情を指して消化不良としているのであれば、真剣に心配しない理由が情報として置かれて論理的に納得できるよりも空気感だけで感覚的に納得できるほうがより消化不良らしいのかな、という印象もあります。はっきりとはいえないけど、何かめっちゃわかるんだよな。この塩梅が「Indigestion」には合ってるのかなと思います。 もちろんこちらのほうが前半パートを表現するのはずっと難しくなります。「息苦しい」と明言してしまえば羊子の息苦しさを示すのは簡単ですし、真剣に心配しないことにも相応の納得感は与えられます。 しかし「息苦しい」と明言してしまわずに、二人の空気感だけで羊子の息苦しさを示すのは容易なことではありません。その空気感をもって、真剣に心配しないことに感覚的な納得感を与えるのは繊細な人物表現が必要になるはずです。十代の仲の良い親友同士という姿は事実として存在していますのでこれは覆すことなく、両者の僅かな波長の合わなさを出すのはかなり難しいと思います。 ―――――――――――――――――――  待っていたのに乗り過ごしたんじゃ仕方ない。急いで飲み干して駆け足で改札へ向かう。エスカレーターを走って降りればベルが鳴っている。 「乗りまーす!」 「ええっ」  もう無理か、と諦めかけたらチャコが右手を挙げて叫んだ。気付いた運転手がドアを開けてくれる。 ――――――――――――――――――― などの細かい表現が、二人の空気感および息苦しさを出してくれる鍵となると期待します。快活なチャコのペースで動いて、羊子が羊子のペースで過ごせない感じ。多分こういったチャコの行動は(電車に乗れるので)ありがたいけど、羊子は疲れてしまうと思うんですよね。なのでここの表現は上手いと思います。 一方、 ―――――――――――――――――――  駅に止めておいた自転車を飛ばしていつもの餃子屋へ。私が前に、チャコが後ろから付いてくるお決まりのスタイル。西日はまだ射していない。 ――――――――――――――――――― はどうして羊子が前でチャコが後ろなのだろうとやや気になりました。(カイのことも含め)無意識のうちに主導権を握られてしまうチャコとの間柄なら、チャコが前で羊子が後ろというのが合っているようにフィンディルは感じます。 餃子食べ比べのシメを羊子が決めているなら今回だけは羊子が前でチャコが後ろということは自然です。そのときにはお決まりのスタイルとは逆であるため、どこか居心地が悪い・緊張してしまう、などにするとこれはこれで息苦しさを表現できるように思います。素でいられてるわけではないのかな、と。 こういった細かい表現の積み重ねが「初読時は仲の良い親友二人にしか見えなかったが、羊子がチャコを真剣に心配しないとわかって振りかえってみると、感覚的に納得できるような空気感から滲む息苦しさ」に繋がるのかなと思います。 とはいいましたが、単純に「息苦しい」などの情報的な文を省いてみても、意外と成立するんじゃないかなという気はしています。現状から情報的な文を省いてみるだけで、「あーいや、はっきりとはいえないけど、前半パートの二人の様子見てたら、何かわかるわ……」という読書体験はそれなりに提供できそうな気はしています。 ですので技術面というより、はごろもさんの勇気の問題なのかもしれませんね。 羊子がチャコを真剣に心配しなかったのは「息苦しさ」といったマイナスな感情など「真剣に心配しない理由があった」からだというのがはごろもさんの想定ならば、現状でもいいと思います。実は羊子はチャコを嫌っていたということを伝えたかったのならば、前半パートでマイナスな感情を情報レベルに言語化していてもいいと思います。 そうではなく羊子がチャコを真剣に心配しなかったのはカイへの恋心のようなプラスの感情など「真剣に心配する理由がなかった」からだというのがはごろもさんの想定ならば、前半パートではマイナスな感情を情報レベルに言語化するのではなく「あー真剣に心配しないの、はっきりとはいえないけど何となくわかる」と感覚的な納得感を与えられるような書き方をすることをオススメします。そちらのほうが生々しい心情、「Indigestion」をより与えられると期待します。 ●「こんなに好きだったんだ」の「こんなに」を強調する、対比の洗練 前項目のおさらいですが、チャコとカイが対比になっているという話です。 チャコは六年前の親友であり、カイは六年前の想い人であった。同窓会に羊子は特別な気負いなく臨んでいる。 しかしイレギュラーな機会でカイと二人きりになると、カイへの想いが再燃します。六年で立派な大人になっていたと思っていたのに、恥ずかしいくらい、泣いてしまうくらい、今でもカイのことが好きなんだと羊子は気づかされます。 一方チャコはどうでしょうか。「音信不通になった」周囲が羊子を心配するほどの衝撃的な事実、立場を考えれば羊子は同窓会どころでないくらいにチャコを心配するべきだったでしょう。しかしどうしても真剣に心配することができない、心配するふりをするぐらいしかできない。“昔”の親友、“過去”の思い出、そこから抜けだすことのできないまま自己完結でけりをつけてしまう。それはそもそも、チャコのことを大切に想っているわけではなかったからだ。「息苦しさ」についても明言されていました。 このようなえげつない対比が表されています。想いを引きずるつもりはなかったのに涙が出るほど鮮明に蘇ってしまう、真剣に心配すべきだろうに心配するふりしかできない。自分のその人への想いの量が、六年という試験薬で露骨に判明してしまう。目を覆うような残酷よりもずっと残酷な、誰しも経験したことのあるであろう生々しくリアルな気持ちです。 素晴らしい対比です。ここが本作の魅力であるとフィンディルは解釈しています。 この対比の表し方ですが、より洗練できるんじゃないかなとフィンディルが思う箇所があります。 羊子がカイと車のなかで二人きりになり、チャコの話および勘違いを通して泣きだしてしまう一連の流れです。 同窓会の様子を見たかぎり、羊子はカイへの気負いなく会に参加しただろうと想像しています。カイと深く話せずに同窓会がお開きになっても特に気にする様子はありませんでした。むしろ学生時代はろくに話せなかったのに社会人になった今ではぎこちないながらも会話をこなせるようになっていた、そんな自分の成長を感じてさえいました。それは(同窓会に参加するまでの)羊子にとってカイは「昔好きだった人」以下でも以上でもないという認識だったことを指すと想像します。 しかしそうではなかった。恥ずかしいくらい、泣いてしまうくらい、今でも羊子はカイが好きだった。カイへの想いは少しも色褪せていなかった。 ―――――――――――――――――――  すっと、心臓が冷えていく。そっか江連はチャコが好きなんだ、しかも現在進行形で。 ―――――――――――――――――――  ぷわーっと視界が歪む。恥ずかしい、学生時代の想いを引きずって泣くなんて。 ――――――――――――――――――― ここまでダメージを受けるなんて、おそらく羊子は想像していなかったでしょう。心臓が冷え、視界が歪むとき、羊子は自分の感情に驚いたことだろうと想像します。 実はカイは中学高校時代に別に好きな人がいた、誰かと付き合っていた、六年後のカイは既に結婚していた、同窓会でそんな事実を知る可能性もあったでしょう。(明確に心構えをしていたわけではないでしょうが)仮にそうなっても羊子は受け止められると思っていたのではないかと想像します。ダメージは受けるだろう、ほろ苦い気持ちにはなるだろう、でももう六年前だし大人になった自分の人生を生きているし、まあ受け止められるだろう。 しかし実際は心臓が冷え視界が歪み、とてもじゃないが羊子は受け止めきれませんでした。感情の決壊を防ぐことができませんでした。 羊子はそんな自分に恥ずかしさを覚えます。六年間をかけて築き上げてきたと思っていた大人としての成長、そんな誇らしさを片隅に隠して同窓会に参加していたかもしれません、しかしそれも全て崩れてしまった。情けない、みっともない。全然成長していないじゃないか。それでも、こみあげる感情はどうしても止められない。好きという気持ち、ショックな気持ち、それら奔流を制御することができない。 ですが、そんな自分を恥ずかしい・情けない・みっともないとどこか俯瞰で捉えられるぐらいには成長しているんですよね。 そして ――――――――――――――――――― 「さっきのさ、その、二回は言わないって話」 「おう」 「私もだよ、なんなら今も」 「まじで」 「うん、まじ」 ――――――――――――――――――― と、その場から逃げださずに自分の気持ちを伝えるくらいの勇気も獲得しているんですよね。大人だから、今伝えないともうチャンスはないと思えば伝えることができる。羊子が中学生高校生だったら、逃げださずにきちんと自分の気持ちも伝えられていたか。怪しいようにフィンディルは思います。 イメージするなら汽水でしょうか。成長して海水になっていたと思ったのに、川の水が流れこんでしまい塩分濃度が不安定になる。気持ちがぐちゃぐちゃになって海水を保てない。しかしそれは淡水に戻ってしまったわけでも海水は思いこみだったわけでもなく、汽水なんですよね。過去の想いが蘇って今の思考とぐちゃぐちゃに混ざりあう感じ。だからこそ不安定で混乱してしまうんですけど、ちゃんとそこには海水としての塩分もある。 恋心など、昔の想いが蘇ってくるときにはそういった感覚になるものだと思います。まさしくこのときの羊子は汽水だったのだと思います。大人と子供、現在と過去がぐちゃぐちゃに混ざりあっている状態。だからこそ本人としては恥ずかしさや情けなさでいっぱいになるんですけど、そこで情けなさを感じるのはちゃんと大人になっているからであり、大人としての勇気や振る舞いも見せることができる。 より洗練できるんじゃないかとフィンディルが感じたのはここです。 昔の恋心が急速に蘇って感情が制御できなくなって大人を保てなくなってでもそんな自分を確認してきちんと気持ちを伝えられた汽水の羊子、この羊子の心情描写がやや弱いんじゃないかと思ったのです。 本作は一人称描写で羊子の気持ちはダイレクトに書ける文体なのですが、フィンディルがさきほど述べたような内容が薄いように感じたのです。恋心が蘇っていく様、それを恥ずかしく情けなく思う様、でもどこか落ち着いていて大人として勇気を出せる様。 全然表現できていないわけではありません。フィンディルが上述した解釈ができるのは、それが作中で表現されているからです。完全なフィンディルの妄想ではないでしょう。 ただそれはキーとなるいくつかの文章から解釈しているもので、場面としてフォーカスして描かれている心情というわけではありません。もっとフォーカスして厚く描写していいのではないか、と考えています。 何故ならばこの羊子が汽水になる心情描写が、チャコとカイの対比をより鮮烈に表現してくれるからです。 カイとイレギュラーに二人きりになる出来事があり、カイの気持ちの勘違いもあり、羊子は激しく揺さぶられて大人を保てなくなりました。 しかしチャコはどうか。「音信不通になった」という事実を聞かされ、「――受かる気しないわ」という言葉を思いだし自責の念すら浮かばせた羊子は、激しく揺さぶられ大人を保てなくなったのか。いやむしろ逆に完璧に大人を保ったのです。自身でも呆れるほどに。同窓会の場に波を立てないように振る舞うこともできましたし、大人として立場上チャコを心配するふりだってできた。チャコについて考えるとき、羊子は常に大人の立場を保っているのです。大人の立場を保ったまま動揺している。おそらく羊子はチャコについていくら考えても涙は滲まないでしょう。それは真剣に心配するエネルギーが湧いてこないからですね。 カイに対しては汽水になった羊子、しかしチャコに対しては海水のままの羊子。この対比をより色濃く表現するならば、カイに対して汽水になった羊子の心情描写をより厚く描くということが重要になると思います。カイに対して大人を保てなくなった様を厚く描写することで、チャコに対して大人を保ててしまう様が強く引きたつと考えます。 ただこのように羊子が大人を保てない汽水の心情描写がやや薄くなってしまっているのは、とある事情があるのだろうと推測しています。 江連はカイであり、羊子はカイが好き。この事実は同窓会および車内の場面を通して徐々に明らかになっています。 前半パートでカイの名前を出し羊子に心臓を跳ねさせ、同窓会で江連と話すときに羊子をカタコトにさせ、麻美などの発言から江連=カイであると察知させ、カイと二人きりになった羊子を明らかにそわそわさせ、江連=カイを由来ともに確定させる。このように江連=カイおよび羊子はカイが好きという事実を徐々に明らかにしていき ―――――――――――――――――――  中学校に入学して、自分とは真逆の大きな体躯と強気な性格に一目惚れだった。チャコに相談しても「だめ」の一点張り。同じ高校になっても、チャコがいなくても緊張して話せなかった。やっと会話できるまで私は成長したと思ったのに。 ――――――――――――――――――― で確定させる。 この流れが、羊子が過去の恋心を蘇らせて大人を保てなくなり汽水の心情になる流れと、被っているのです。江連=カイおよび羊子はカイが好きという読者向けの事実と、羊子が汽水の心情に至るまでのリアルタイムの羊子の心情描写とが、同時進行で展開しているのです。 たまたま同時進行になっているわけではありません。はごろもさんはこの両者を兼ねるテクニックを採用しているとフィンディルは考えています。 羊子がカイへの恋心を蘇らせるなかで落ち着かない言動や心情を増えていくことが、羊子はカイが好きだという読者向けの事実を明らかにしていく説明になっているのです。 同窓会に臨んだときは羊子はカイを「昔好きだった人」として特別に意識する素振りを見せなかった。しかしカイと二人きりになるとそうも言っていられなくなり、大人になったことを撤回するように、(読者に)そうと明らかにわかるようにどぎまぎして好意を隠せなくなっていく。カイを特別扱いしているとわかる描写が増えていく。それが羊子はカイが好きだということを如実に物語る材料になっているのです。 過去の恋心を蘇らせて大人を保てなくなることと、羊子はカイが好きだという読者向けの事実の開示を兼ねるような表現になっているのです。 それ自体は上手いテクニックだと思います。カイへの好意を示唆する描写が増えていく必然性としては巧みです。カイへの恋心が蘇っていっているから、羊子はカイが好きであるとわかる描写が増えていく。 しかしそれによって羊子が過去の恋心を蘇らせて大人を保てなくなる汽水の心情になっていく表現に踏みこむことができていないように思います。描写の量が重要になっているため、描写の性質にまで目を向けることができなくなっている印象です。 「カイのことが好きだ」と独白させることが場面のメインであるため、その先の「過去の恋心が蘇って大人を保てなくなる恥ずかしさや情けなさ」がサブ的な表現に終始しているのですよね。「恋心があること、恋心が蘇ること」が中心で、「恋心の蘇りに、羊子はどういう心情を抱いたのか」が脇に押しやられている印象です。 それでも「恥ずかしい、学生時代の想いを引きずって泣くなんて。」や「やっと会話できるまで私は成長したと思ったのに。」といった文章を入れられているのは健闘しているとは思います。 それでも兼ねるというテクニックを使っていることで表現にしがらみが発生して、踏みこみが甘くなってしまっているとフィンディルは考えます。 本作が「羊子は親友であったチャコを真剣に心配できない。その誰しも共感できる残酷さ、あるいは消化不良」といったところを核心に据えているのならば、羊子がカイを好きであること自体は大事ではないんですよね。 羊子がカイに対して抱いていた想いは六年の時を経ても容易に蘇り羊子の大人としての体裁を保てなくなるほどに強いものだ、というこの想いの絶対値が大事だと思うんですよね。想いの種類・ベクトルではなく、絶対値が大事。 それが、チャコが音信不通になっても心配するふりしかできずに大人の羊子として過去を振りかえる態度を徹底できてしまう想いの弱さと、強烈でえげつない対比を描いているのだと思います。 羊子のチャコへの想いがいかに弱いのか、これは前項目で示したように素晴らしく表現できていると思います。チャコとの思い出の象徴にした餃子を簡単に平らげてしまった、カイからの連絡に心が向いていた、「呆れた」という語彙チョイス、「話しかけてくれたと思ったらチャコのことか。」というクリティカルな一文もありました。 それに対して羊子のカイへの想いがいかに強いのか、これが相対的に弱いように思います。表現できていないわけではありません、羊子がカイを好きである説明と兼ねるうえではバランス良く表現できていると思います。ですがさらなる力を注ぐ余地がある箇所だと考えます。「こんなに好きだったんだ」の「好きだったんだ」ではなく「こんなに」がチャコとの対比では重要であると考えます。 江連=カイおよび羊子はカイが好きだという読者向けの事実の開示をこのタイミング(同窓会~車内)で行ったのは無難だとは思います。しかしこのタイミングは、作品の核心であるチャコとの対比(カイへの想いはこんなに強いんだ)を描くタイミングでもあった。読者向けの事実の開示と兼ねるかたちでそれを行ったため、必然性の確保はできているが、対比の表現の踏みこみは甘い。もっと踏みこんだほうが、より対比はきくのではないか。 そのように考えます。 必ずしも事実の開示と対比の表現を分けなくてもいいと思います。今と同じで兼ねたかたちで開示・表現してもいいと思います。兼ねても踏みこんだ表現はできるはずです、現状でも表現自体はできていますので。 方法はどのようにでも考えられますので、フィンディルとしては「羊子が過去の恋心を蘇らせて大人を保てなくなり汽水の心情に至る」をより厚くすることが、本作の生々しくえげつない人間の想いをより対比で演出するうえで鍵になってくるのかなと考えています。 大人でいたいのに大人でいられない様を厚く描写することで、どうやっても大人でいられてしまう様が映えると考えます。 現状でもバランスはとれていると思います。上手いと思います。ただより対比を洗練させるなら……という指摘でした。 「なるほど」と方針に納得していただけましたら、参考にされてみてください。 感想は以上です。 「フィンディルの感想」は現在非常に認知度が低いです。 ですのでこの感想に満足していただいた場合は「フィンディルの感想すごく良いよオススメ!」と、沢山の方にそして作家仲間さんに、積極的に口コミを広めてくださるようよろしくお願いします! 投げ銭支援を受けつけています。 作者にかかわらず「良い感想だった」と思われた方は、よろしければ投げ銭支援をしていただければと思います。活動を長く続けられます。 【OFUSE】https://ofuse.me/phinkan/u https://phindillnokanso.fanbox.cc/posts/1334938 月額支援もあります! 本感想を受けて満足していただいた場合はご検討ください。各種特典もあります。

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