葉桜の君に/オレンジ11 への感想

【あらすじ】 千島桜の蕾が膨らむ頃。 高校三年生が、自身の進路を考える頃。 昼休み、桜子は画用木炭で千島桜をスケッチする。 彼女は優等生。東京の有名大学すら狙える学力があった。 美しく描きあがっていく一色の千島桜。 今年赴任してきた教師、葉太が進路調査票を繰る。 桜子の進路希望は、この町のFランク大学だった。 ※重大なネタバレを含みます。本感想は、作品読了後に読むことを強く推奨します。 葉桜の君に/オレンジ11 https://kakuyomu.jp/works/1177354054895360951 ★総評 総合点:85/100 方角:北北西 作者自身が挙げられているように、毒親という重たいテーマを扱いつつも透明感や清涼感が漂う作品です。その絶妙なバランスを生みだしているのは単なる文章技術ではなく、何を描くのか、何の話なのか、誰の視点なのか、どう終わるのかなど随所に施された総合的な小説技術だと思います。いくつか細かいところで洗練できるところや調整を求めたいところはありますが、優れたバランス感覚を発揮した作品であると思います。 (本感想は「改稿後」のみの感想です。また「改稿前」は読んでおりませんので、双方の比較は行っておりません) ●重たいテーマを重たくしすぎない書き方1:誰が見るか、桜子の何を描くか 本作は毒親という重たいテーマを取り扱った作品です。しかし本作には透明感や清涼感といった雰囲気が漂っています。 ――――――――――――――――――― 本作の特徴は、「毒親」という重いテーマを扱いつつも、短く・読みやすく・爽やかであることです。 ――――――――――――――――――― とオレンジ11さんご自身が特徴として挙げてらっしゃいますが、フィンディルの目からしてもこれは大きな特徴だと思います。毒親という重たいテーマを取り扱っているのですが、雰囲気は爽やかで読みやすく、不思議と重さを感じさせません。しかしそれは毒親というテーマにきちんと迫っていないスカスカ感を指しているわけではなく、しっかり毒親というテーマに向きあって書かれたものです。 この重たさと爽やかさの同居、素晴らしいと思います。重たいのに爽やか、爽やかなのに重たいという読み味は非常に面白いと思います。これ自体が本作の大きな持ち味となりますしね。 重たいテーマを重たく取り扱うと、読者はしっかりとそのテーマに向きあうことができますが同時に読むのが苦しくなってしまう方もいると思います。読者が受け止めきれないほどの重たさになることもあります。 逆に重たいテーマをとにかく軽くしてしまうと、読みやすさこそ生まれますが読者はそのテーマにしっかりと向きあうことができません。それではそのテーマの重要さも、創作としての面白さも出てきません。 重たさと読みやすさを絶妙なバランスで混ぜて仕上げている本作は素晴らしいと思います。毒親というテーマに読者がしっかり向きあえる程度に重く、しかし読者がしっかり受け止められる程度に軽く。それにより多くの読者に読まれ、多くの読者にテーマに向きあわせるということが可能になっていると思います。素晴らしいバランス感覚だと思います。 これを可能にしている技術は何なのか。勿論、多くの方が挙げてらっしゃるように、その文章技術がまず目につきます。 千島桜を始めとする情景描写、高校生の青春の透明感、それらを前面に出した文章により、本作には爽やかさが出ています。しかしそれだけではこのバランス感覚を成立させることはできません。透明感を出す優れた文章技術が大前提ですが、本作のバランス感覚にはそれ以上の技術があるとフィンディルは考えます。 この重たさと爽やかさを同居させている技術はどこにあるのか、いくつか考えてみましたのてお聞きいただければと思います。 その技術はオレンジ11さんが無意識に選択したもの・調整したものかもしれません。しかし無意識に感覚的にできることこそが技術がある証拠なのであると受けいれてもらえればと思います。無意識だったからといって申し訳なくなる必要は一切ありません。 本作は毒親をテーマにした作品として、大きな特徴がひとつあります。本作が葉太視点で書かれていることです。 何かに苦しむ者を描くときには通常、苦しんでいる者を視点者にした一人称視点が選ばれます。そのほうがその苦しみをダイレクトに描写することができますから、当然とも思える判断です。 しかし本作は葉太の一人称視点です。葉太は桜子の担任という立ち位置です。担任は、他人でも家族でもないという微妙な立ち位置です。他人よりも相手の心や家庭環境を知ることができますが、家族ほどには相手を知らないし家庭環境に干渉することもできないという立ち位置です。 そして葉太自身は、毒親持ちの生徒に対しての理解を持っていませんでした。毒親に悩む桜子に対して、最初から優れた理解を示して寄り添うことはできません。 そのような微妙な立ち位置や認識の視点者ですから、桜子の心情や事情はある程度の輪郭しか見えません。そのなかにある桜子の心情を透かして見ることはできず、桜子の言動から察していく拾っていくという方法で、葉太と読者は桜子の心情と事情を理解していきます。 本作は桜子の持つ苦しみをダイレクトではなく、ある程度の輪郭で理解していく物語なのだろうとフィンディルは思います。 そのような見え方ですが、本作は桜子の心情や事情を無理なく理解することができます。どういうことなのかわからないという箇所がほとんどありません。 それは勿論、文章に桜子の心情を滲ませるオレンジ11さんの文章技術があってこそです。 しかしそれ以上に葉太視点の本作で桜子の心情を無理なく理解できる理由として、本作における桜子の心情変化がごく僅かであることが挙げられると考えます。 フィンディルには深い知識があるわけではありませんが、毒親持ちの子供が毒親からの脱出で最も難しいのは、自分が毒親から脱出する強い意思を持つことだろうと思います。 親から健全な愛情を与えられない状況に対して、自分が愛されるだけの良い子ではないからだ、親は本当は自分を愛してくれるはずだ、いつか親と心を通わせられる日が来るに違いない、と子供は考えてしまいがちです。 昔の楽しかった記憶、以前に親に優しくされた記憶、衣食住を提供してもらっている事実、これらの乏しい材料から子供は、親の愛の存在を信じてしまいます。 そして毒親から脱出する強い意思を持つことができない。自身の親が毒親に該当するという知識を得たとしても、でもそれでもとどこかで親を信じてしまうのだろうと思います。 毒親から脱出する強い意思を持つためには、自分の親は毒親であるという確信と、自分は親から愛されていない確信を持たなければなりません。それはとても辛い作業です。親から愛されていないという確信を持つことは、まるで「自分は誰からも必要とされていない」という自分自身の否定に感じられるからです。ですから、最も難しい作業でもあると思います。 そんな辛い作業を、桜子は本作が始まるときには全て終えていました。 「1.千島桜」では「心配性なんですよね。私が初めての子供だから、親も手探りなところがあるんじゃないですか」と話していますが、これは葉太との距離感をはかるために当たり障りのないことを言っただけでしょう。 「2.進路」では「うちの親って、おかしいですよね?」と、自分の親が毒親であるという確信を持ったうえで、葉太に問うています。 そして「3.気付き」では「私、親に愛されていると思いますか?」と、自分は親から愛されていないという確信を持ったうえで、葉太に問うています。 このようなことを他者である葉太に確認するまでに、桜子が何年の間思い悩み、親の愛情に向きあい、自身の心に向きあってきたか、想像に難くありません。自分は親から愛されていないという確信を持つなんて、一朝一夕で抱く結論ではないでしょう。桜子はそれらの作業を、既に一人で終えていたのです。 とはいっても、自分は親から愛されていないということを、自分一人の心で確信にするのはやはり難しいです。丹念に根拠を重ねて作った結論であっても、親はおかしい、自分は親から愛されていないという結論は認めたくないものですし、ふとしたときに崩れてしまいそうになります。そのため、信頼できる他者に、それも分別のついた大人に、自分の確信が正しいかどうか確認しなければなりません。 ――――――――――――――――――― 「先生。いいです、気を遣わなくて。ずっと思ってたんです。だから答え合わせできて良かった」 ――――――――――――――――――― その桜子の現在地が、この「答え合わせ」という語彙にこめられています。本作は桜子が毒親から脱出する強い意思を持つ物語ではなく、毒親から脱出するための最後の「答え合わせ」をする物語なのだろうと思います。桜子が本作で行った心情変化は「答え合わせ」ただそれだけなのです。自分の親は毒親であるという確信を持つ作業、自分は親から愛されていない確信を持つ作業は、既に本作が始まるときには全て終えられていたのです。 自分の親は毒親であるという確信を持つ作業、自分は親から愛されていない確信を持つ作業、先述したとおりいずれもとても辛く、とても難しい作業です。難しい作業であるということは、それを描くのも難易度が高いということです。 これを葉太視点で描くのは非常に困難であると考えます。葉太はとても理解しきれないでしょう。そして葉太が理解できないということは、葉太をとおして書かれる物語の読者も理解することが難しいだろうことが予想されます。 葉太視点の物語である以上、桜子の心情の難しい箇所は既に処理済で、最後の「答え合わせ」のみを表現するという桜子の描き方は非常に理に適っているとフィンディルは判断します。 逆に言えば、自分の親は毒親であるという確信を持つ作業、自分は親から愛されていない確信を持つ作業をしっかり描写しようと思えば、本作はどうしても重たくなってしまいます。親からの愛情を受けなかった桜子の黒い感情、それに苦しむ様、それをどう処理するのか、どう克服するのかという桜子の心情を丹念に描けば、本作はどうしても重たくなります。それを避けようと思えば、自分の親は毒親であるという確信を持つ作業、自分は親から愛されていない確信を持つ作業は描写しないという判断をする他ありません。 そしてその描写をしないという判断をする以上、桜子の一人称視点は選びにくくなります。一人称視点は視点者の心情を深く描けるのがメリットですが、本作では視点者の心情を深く描くと重たくなってしまいますから。そのため程よく桜子の心情を拾える、葉太の一人称視点の選択は非常に理に適っているとフィンディルは判断します。 重たさと爽やかさの同居という本作の持ち味の成立において、桜子の心情の何を描写するのか、誰を視点者にするのかという判断は重要です。そしてオレンジ11さんの判断は非常に上手いと思います。 桜子の心情変化を「答え合わせ」に絞ることで描かれる心情の重たさを調整し、葉太を視点者にすることで拾われる心情の量と質が自然になるようにしています。 素晴らしいと思います。 ●重たいテーマを重たくしすぎない書き方2:テーマを少しだけズラす 重たいテーマと爽やかな雰囲気を同居させる手法について、上の項目でお話しさせていただきました。 しかし項目名からもわかると思いますが、本作の持ち味を支える工夫はそれだけではありません。 本作はテーマを巧みにズラすることで、重くなりすぎないかつ軽くなりすぎない雰囲気を成立させていると考えます。 本作は何をするお話なのでしょうか。桜子が毒親から脱出し、自立するお話だと考えられる方が多いだろうと思います。上の項目の言い方をするならば、桜子が「答え合わせ」をするお話でしょうか。 それはそのとおりだと思います。しかしもうひとつ、大事なことがあります。 本作は葉太が成長するお話でもあると、フィンディルは考えています。成長という意味ではむしろ、自身の認識の「答え合わせ」をする桜子よりも、自身の認識を改める葉太のほうがずっと大きな成長を遂げているのです。 葉太の認識は、毒親についての考慮を持つ機会のなかった、ごくごく一般的な他者のそれでした。 葉太が春奈に言った ――――――――――――――――――― 「最初は反対されたよ。でも説得した。時間かけてじっくり話したんだ。なあ、春奈もそうしろよ。きちんと説明すればきっとわかってくれる。それでもだめだったら……そうだ、奨学金を使えば」 ――――――――――――――――――― という言葉。葉太が桜子に言った ――――――――――――――――――― 「なあ春川。来月の三者面談までに進路についてもう一度よく考えてみよう。相談に乗るから。将来何をしたいのか。そのためにはどの大学に行くのがいいか。しっかり考えてから面談の場で親御さんに伝えれば、きっと」 ――――――――――――――――――― という言葉。いずれも毒親についての考慮を持つ機会のなかった人間の言葉です。子供が自分の想いをしっかり伝えれば、親は理解してくれる。両者は必ず理解しあえるのだ、だって親子なのだから。問題のない家庭で育ち、それが当たり前であると考える人間の言葉です。 それを最も願い、そしてそれを夢見て様々な行動と苦悩を現在進行形で重ねている者に投げかけられるには、とても鋭利な言葉達です。頑張りすぎてしまって死が過っている者に投げかけられる「頑張れ」と同じ鋭利さがあります。 また葉太は ―――――――――――――――――――  唐突な質問に虚を突かれた。話をきいた限りでは、たしかに問題がありそうだ。だが俺は彼女の両親に会ったことがない。だからこの場で安易に春川の考えを肯定することはできない。それは無責任に過ぎるし、家庭の事情に立ち入るのは教師といえども憚られる。 ――――――――――――――――――― という考えを持っています。家庭の事情に立ち入るのは憚られると考えていた葉太ですが ――――――――――――――――――― 「なあ春川。来月の三者面談までに進路についてもう一度よく考えてみよう。相談に乗るから。将来何をしたいのか。そのためにはどの大学に行くのがいいか。しっかり考えてから面談の場で親御さんに伝えれば、きっと」 ――――――――――――――――――― という発言を行っています。しかしこの発言は、家庭の事情に立ち入っているようにフィンディルには感じられます。少なくとも桜子にはそのように感じられるはずです。自分の想いを親に伝えようとも愛情が返ってこないであろう家庭環境に悩まされていた桜子にとって、自分の想いを親に伝えようと助言する葉太の発言は、家庭の事情に強烈に立ち入っているものだからです。 この葉太の発言は自身の信条と矛盾していますが、葉太のなかでは矛盾していません。子供が自分の想いをしっかり伝えれば、親は理解してくれる。葉太のなかでこれは家庭の事情に立ち入っていない普遍的な発言であると考えているからです。だからこそ特別な考慮なく発することができてしまうのです。 そしてそんな、特別な考慮なく発しているだろうことを桜子は容易に見抜きます。様々な経路で今まで散々聞いてきた言説ですからね。 大した関係性のない他者との世間話で「そろそろ結婚しないとね」「子供を作らないとね」といった発言を浴びせられるのと、似たような感覚でしょう。「しっかり想いを伝えれば親は理解してくれるよ」という発言を浴びせられると、何も知らずに土足で自身の領域に踏みこまれるような感覚を覚えるのです。 葉太はそんな人でした。毒親についての考慮を持つ機会のなかった、ごくごく一般的な他者であり、「しっかり想いを伝えれば親は理解してくれるよ」なんて当事者の首を絞めるだけの発言を平気で行ってしまう人物。そんな人だったのです。 そんな葉太が、本作をとおして認識を改めていきます。 自身の「しっかり想いを伝えれば親は理解してくれるよ」との軽々しい発言により受ける、桜子からの拒絶。葉太はそれに過去の記憶を重ねます。 三者面談により毒親を実際に目にし、「しっかり想いを伝えれば親は理解してくれるよ」が通用しないケースがあることを知ります。春奈と、桜子の心情の一端を理解します。そして教師としてどのように向きあうのかを考え、葉太なりの言葉を投げかけます。 軽々しく普遍的な愛を押しつける他者に過ぎなかった葉太は、本作の出来事を通して毒親の存在とそれに苦しむ子供への理解を始められる大人へと成長したのです。そしてその理解は桜子にとっての「答え合わせ」となり、桜子は毒親からの脱出を行うことができます。 そういう意味で本作は、葉太の成長物語という側面が強いように考えます。 本作は「桜子が毒親から脱出する物語」ではなく「葉太が毒親への認識を持ち、桜子が毒親から脱出する物語」と少しテーマをズラしているように思います。少しだけ焦点をズラしていることで、毒親という重たいテーマを真正面から受けすぎず、適度な軽さを出しているのではないかと思います。 桜子から語られる自身の親のこと、三者面談で実際に目にする毒親のこと、これらは桜子が毒親からの脱出を決意するためのものではありません。桜子の成長のための出来事ではなく、葉太の成長のための出来事であると判断します。 これがもし桜子の成長のための出来事だったならば、これらの出来事は桜子に決意させるには展開量が少なすぎます。毒親の子供が決意をするのは、とても大変なことですからね。桜子の成長のための出来事とすれば、作品は不自然に軽くなってしまっただろうと思います。しっかり迫りきれていないという印象になっただろうと思います。 しかしこれらの出来事が、第三者である葉太が認識を改めるためのものであると考えると、とても自然に受けとることができます。「葉太が毒親への認識を持つ」というのにしっかり見合った展開量であると思います。 子供が、自分の親は毒親であるという確信を持つ作業、自分は親から愛されていない確信を持つ作業を行うのはとても辛く、難しいです。いくつかの出来事だけを取りあげて表現しきれるものではありません。しかし教師が、生徒の親が毒親であるという確信を持つ作業、生徒は親から愛されていない確信を持つ作業を行うのは難しいものではありません。その生徒にしっかりと向きあっていればいくつかの出来事だけで行えるものです。 そしてこの「葉太が毒親への認識を持つ」というテーマを付属させたことが、本作の重たさと爽やかさの同居にとって重要です。 本作が「桜子が毒親から脱出する物語」であったならば、自分の親は毒親であるという確信を持つ作業、自分は親から愛されていない確信を持つ作業を省いていますので、やや軽くなりすぎてしまっただろうと想像できます。 しかしここに「葉太が毒親への認識を持つ」というテーマを付属させることで、本作に適度な重さが加わっていると思います。毒親の問題については、第三者が毒親持ちの子供への理解を持ち、適切に対応をするというのもとても大事です。「しっかり想いを伝えれば親は理解してくれるよ」なんて言葉を不用意に投げかけられて傷ついてしまうことは多いです。本作はここに切り込んでおり、「葉太が毒親への認識を持ち、桜子が毒親から脱出する物語」というテーマに少しズラすことで、本作の重たさを保っているように感じられます。 「桜子が毒親から脱出する」では重すぎるから桜子の心情変化を絞り、視点者も工夫した。しかしそれでは描けることが少なくなってしまう。なのでここに「葉太が毒親への認識を持つ」を付属させて、テーマを「葉太が毒親への認識を持ち、桜子が毒親から脱出する物語」にズラして描くことを増やした。それにより、重たさを調整した。 素晴らしいバランス感覚だと思います。 また個人的な話になりますがフィンディルは桜子の親の理不尽な行動以上に葉太の不用意な言動が目に余っていたので、葉太がしっかり認識を改めたというのはとても良かったと思います。 ●過去の意味、立場の違い 本作には過去パートが存在します。葉太が高校生の頃お付き合いをしていた春奈との出来事です。 やりとりを見るかぎり、春奈も毒親持ちです。しかし当時毒親への認識がなかった葉太は、「しっかり想いを伝えれば親は理解してくれるよ」という軽々しい発言を行い、春奈に拒絶され、縁が切れます。 教師となった葉太は、桜子に春奈を重ねます。そして桜子も毒親持ちであることがわかり、葉太は三者面談をとおして毒親持ちへの理解を始め、同時に春奈の言動を理解することができます。 また、本作の締めにおいて葉太と春奈の復縁の可能性が示唆されていますね。 というのが本作における、過去パートの関連の仕方であると認識しています。 しかしこれだけを見ると、過去パートの必要性があまり感じられないとフィンディルは考えます。 本作では過去パートを、葉太成長前の表現として用いています。高校生の頃は毒親持ちへの認識がなかったが、教師になった現在の葉太は毒親持ちへの認識ができるようになった。その成長をわかりやすく示すために過去パートが用いられています。 しかし葉太成長前の表現は、教師になった現在の葉太でも行われています。 ――――――――――――――――――― 「最初は反対されたよ。でも説得した。時間かけてじっくり話したんだ。なあ、春奈もそうしろよ。きちんと説明すればきっとわかってくれる。それでもだめだったら……そうだ、奨学金を使えば」 ――――――――――――――――――― 「なあ春川。来月の三者面談までに進路についてもう一度よく考えてみよう。相談に乗るから。将来何をしたいのか。そのためにはどの大学に行くのがいいか。しっかり考えてから面談の場で親御さんに伝えれば、きっと」 ――――――――――――――――――― という両発言はそれぞれ、高校生葉太と教師葉太の発言ですが文意に相違はありません。つまり葉太の成長は高校生→教師の間で行われたものではなく、飽くまで本作のなかで行われたものです。 また過去と現在に直接的な関連があるわけでもなく、似たようなことが昔にもあったな、という程度でしかありません。 極論を言えば、過去パートはまるまるなくても本作の物語は成立します。毒親持ちの桜子の表現もそうですし、葉太の成長も過去パートなしでも問題なく成立します。 現状過去パートは、葉太の成長前をより強く示して、葉太の成長をわかりやすく表現するという演出程度の意味しかないように、フィンディルは思います。 それならば過去パートを省いて、現在の葉太の成長前の心情を強化して、葉太の成長の表現を強化するだけでも問題ないように感じられます。過去パートを入れれば構成は当然複雑になります。春奈という登場人物を増やせば話は当然複雑になります。いずれも影響は小さいかもしれません。ですが単純に現在パートとその登場人物の心情や表現を強化するだけでも行えてしまうのであれば、そちらのほうが本作はすっきりとまとまります。葉太の成長前の心情強化と、葉太の成長の表現の強化は、過去パートと春奈を追加せずとも行えるものなのです。 そしてここまで考えると、本作に過去パートがあるのは、本作が『筆致は物語を超えるか【葉桜の君に】』参加作であり指定プロットを消化するために過ぎないではないかという想像が当然出てきます。それは当然、指定プロットを上手く消化できていないのではないかという評価になり、作品の練りが甘いという評価にも繋がると考えます。 ここからが本項目の本題です。今までは全て前振りです。 現状過去パートは、葉太の成長前をより強く示して、葉太の成長をわかりやすく表現するという演出程度の意味しかない。とフィンディルは述べました。 しかし実はそんなことはありません。本作において、過去パートは非常に重要な意味を持っています。しかしそれをオレンジ11さんが認識してらっしゃるのか、本作を読むかぎりではかなり怪しく思います。 勿論それはただのフィンディルの解釈に過ぎませんので、これからお話しすることが重要であるかどうかはオレンジ11さんの判断を優先していただければと思います。重要だと思われれば参考にしていただければと思いますし、重要だと思われなければ一読者の一解釈として消化してください。ただ重要だと思われなかった場合には、過去パートの必要性の問題を解決する必要があるのかなとも考えますが。 過去パートと現在パートで、当初の葉太の対応は同じでした。 ――――――――――――――――――― 「最初は反対されたよ。でも説得した。時間かけてじっくり話したんだ。なあ、春奈もそうしろよ。きちんと説明すればきっとわかってくれる。それでもだめだったら……そうだ、奨学金を使えば」 ――――――――――――――――――― 「なあ春川。来月の三者面談までに進路についてもう一度よく考えてみよう。相談に乗るから。将来何をしたいのか。そのためにはどの大学に行くのがいいか。しっかり考えてから面談の場で親御さんに伝えれば、きっと」 ――――――――――――――――――― 春奈の進路についての発言、桜子の進路についての発言。葉太はどちらも同じ言動をしました。しかし、ここでひとつの疑問が浮かびます。では何故、両者の結果はまるで違うのか。 春奈は葉太を拒絶し、縁は切れます。桜子は葉太の言葉で「答え合わせ」をし、恩義を感じました。葉太は同じ対応をしたにもかかわらず、です。 それは葉太の立場が違うからではないかと、フィンディルは考えます。葉太が同級生だったのか、教師だったのかという立場の違いです。 自分の家庭環境についての悩みを、恋人や友人に打ち明けるのは勇気が必要です。対等な関係だからこそ、距離が近いからこそ、言いにくいことがあります。楽しいを共有している間柄には、なかなか相談できないことがあります。ですのでそこに線引きをしてしまうことがあります。葉太に進路について触れられた春奈は、それだけで棘のある言葉を返します。自身が恋人葉太に対して線引きしていた領域の内側に、葉太がいきなり入ってきたからです。そして葉太の発言により春奈は「私が悪いみたいないい方しないで」「葉太はなにもわかっていない」と明確な拒絶を示し、それをもって両者の関係は終わりました。線引きを崩されてしまった春奈は、葉太との関係を維持できなくなったのです。勿論葉太がこのとき毒親持ちに理解のある言葉をかけていたら結果は違ったでしょうが、最初から春奈は恋人葉太に厳格な線引きをしていたのです。 しかし相手が教師となると、その心理的ハードルは下がります。学生にとって、周囲にいる親以外の大人の筆頭が教師です。生徒にとっては目上にあたりますし、距離は近くないですが必要以上の警戒もありません。親とのことで悩む生徒にとっては最も相談しやすい相手であり、最も悩みを理解してほしい人物であるでしょう。少なくとも、桜子にとっては周囲の人物のなかでは適任でしょう。そして進路相談や三者面談など、悩みや事情を理解してもらうだけの機会が存在する人物でもあります。 当初桜子は葉太に対して線引きをしていました。「心配性なんですよね。私が初めての子供だから、親も手探りなところがあるんじゃないですか」と言ってかわしました。そして葉太の軽々しい発言に「無駄です」と拒絶をしました。ですがその直後「それよりも先生。うちの親って、おかしいですよね?」と理解を求めているのです。葉太の発言はほぼ同様だったにもかかわらず、春奈は拒絶を示し、桜子は拒絶の後で理解を求めました。これは葉太が恋人・友人ではなく教師であったからというのが理由だろうと思います。もしこの葉太の発言を野村がしていたら、桜子は「うちの親って、おかしいよね?」と野村に理解を求めていたでしょうか。おそらく求めていなかったのではないかとフィンディルは想像します。桜子は葉太が教師という立場だから、自身の境遇への理解を求めたのだと推測します。 春奈と桜子とで考えが違ったのでしょうか。しかし野村に対する桜子の態度を見ると、明らかに桜子は野村に線引きをしています。毒親持ちという自身の境遇を、野村には打ち明けていないことが推測できます。そしてそれは葉太に対する春奈の態度と同一であったことも想像できます。おそらく葉太が桜子の「答え合わせ」をしなかったら、桜子と野村は、葉太と春奈と同じような結末を辿っていたかもしれません。またそれは、残念ながら春奈の担任は春奈への理解を示してくれなかったのだろうとも想像できます。 過去パートと現在パートとで結末が違う理由は、葉太の立場が変わっていたからというのがフィンディルの解釈です。 つまりここから葉太は、教師という立場への自覚を持つことができるのです。家族や恋人、友人ではできなかったことが、教師にはできるのです。むしろそれは「できること」ではなく教師としての責任に近いかもしれません。恋人ならば縁を切ってお終いですが、教師ならばそれでも生徒に理解を求められることがあります。それは桜子にとっては最後の頼みの綱だったでしょう。そのときに教師は何ができるのか、何をしなければならないのか、それをするために必要となる知識や理解とは何か。 葉太は本作の出来事をとおして、それらへの強い自覚が促されただろうと想像できます。自分が職業としている教師が、生徒にとってどういう存在で、生徒に何を求められるのか。 葉太は本作をとおして、毒親持ちへの理解を始めるという成長の他に、自身の立場である教師への自覚を強めるというもうひとつの成長がなされているとフィンディルは考えます。 そして本作の過去パートは、それを端的に示す重要な役割を持っています。葉太は同じ対応をした。春奈と桜子の考えは同じだ。しかし結果はまるで違った。それは葉太の立場が変わったからだ。 これを強烈な対比をもって示すために過去パートは、非常に重要な役割を持っていると判断します。毒親持ちへの理解を始めるという成長としては、過去パートの必要性は弱いです。しかし葉太に教師としての自覚を強く促す意味としては、過去パートは必要不可欠です。 葉太の教師としての自覚、これの表現として過去パートは非常に重要な役割を果たしているとフィンディルは考えます。 以上、過去パートの存在意義についてフィンディルの解釈をお話ししました。 しかし本作では、葉太の教師としての自覚が強まるといった描写は見受けられません。そのためオレンジ11さんは、過去パートにこういった意味があるということを認識してらっしゃらないのではないかと思います。あるいは認識されたうえで、本作には必要ないと省いてらっしゃるか。 しかしそれでは過去パートの必要性は非常に低くなってしまいます。過去パートの必要性を高めるためには、今回の出来事をとおして葉太に教師としての自覚が強まったという描写を入れる必要があるとフィンディルは考えます。 これは全く難しいことではなくて、良いところで「教師の意味を知ったような気がした」や「これが教師か」といった一文を挟むだけでも、葉太に教師としての自覚が強まるということを表現することは可能です。文字数的にも構成的にも軽微な影響で、葉太の成長にさらなる深みを持たせることが可能です。 本作のテーマがブレてしまうとオレンジ11さんは判断されるかもしれませんが、過去パートの必要性を高めるためには葉太の教師としての自覚を高める描写は重要であるとフィンディルは考えます。 現状過去パートの必要性が薄い、過去パートは葉太の教師としての自覚の表現に重要、過去パートの必要性を高めるには葉太の教師としての自覚の表現が有効、これらの指摘について「確かに」とオレンジ11さんが考えられましたら、参考にしてみてはいかがかなと思います。 余談ですが、過去パートと現在パートの対比を示すうえで野村の存在が重要になります。過去パートで、葉太と春奈の縁が切れた後どうなるかは描写されていません。ですので春奈が毒親から脱出できたのかはわからず、毒親から脱出できた桜子との対比が作れません。そこで野村という恋人を用意することで、春奈は恋人と別れた、桜子は恋人と別れなかったというわかりやすい対比を作ることができています。また、桜子が野村に線引きをしているという描写を挟むことで、桜子は自身の悩みを誰にも打ち明けられていない、桜子と春奈は似た考えを持っているということの表現にもなります。 そういう意味で、桜子の恋人である野村は一定の役割を果たしていると考えます。 ただしこの対比は、葉太の立場が変わったのだということが本作で表現されて初めて意味を持つ対比です。過去パートと現在パートで結末が変わりました、だけでは対比を作った意味はあまりありません。過去パートと現在パートで結末が変わりました、それは何を指し示すのか、まで表現されることで大きな意味を持つのだと思います。 やはり葉太の教師としての自覚が強まるという描写はとても大事になるかなと思います。野村の役割を強めるためにも。 ●重たいテーマを重たくしすぎない書き方3:甘くなく、重くない終わり方 「答え合わせ」ができた桜子は、自立と毒親からの脱出を優先してS市の公務員になりました。 物語として考えた場合、桜子と親の心が通いあうことが一番のハッピーエンドでしょう。あるいは毒親をぎゃふんと言わせて克服することも、読者がすっきりするハッピーエンドなのかもしれません。 しかし親の心に問題がある場合が多い毒親問題で、親子の心が通いあうということは残念ながら考えにくいです。親の心に問題がある以上、子供の決意や周囲のサポートだけでは親子の心を通いあわせることは難しいでしょう。現実的ではありません。 そして親が悪意を持って接しているならまだしも、親なりに愛情を注いでいるがその注ぎ方に問題がある場合が多い毒親問題で、成敗とばかりに親を打倒するのは低質な勧善懲悪です。桜子の親も、自覚なく、良かれと思って姉妹差別をしているのだろうと想像します。 本作はそういった徹底的なハッピーエンドを選ばず、毒親から脱出するという終わり方を選びました。ベストではないがベターな、現実的に選べるハッピーエンドであるとフィンディルは思います。創作的ではないですが、創作的ではないがゆえに、毒親というテーマに向きあった結末であると思います。 毒親からの脱出の一番の方法は、一人暮らし及び自立です。桜子は固い決意により、毒親から脱出することができたのです。 しかし毒親から脱出すれば全て解決なのか、自立をすれば全て解決なのかというとそんなことはありません。 毒親とのこれまでの生活により桜子が受けた心の傷は、少しずつしか癒えていきません。 また ―――――――――――――――――――  優等生の春川桜子。すらりとした長身に長い手足、少し癖のある柔らかそうなボブ。主張しすぎず、かといってノリが悪いわけでもなく。それでいて周囲を少し警戒しているような。 ――――――――――――――――――― とあるように、社会人として他者と関係を構築していくなかで、様々な障害が立ちはだかることも予想されます。 一人暮らし! 自立した! 全て解決! ハッピー! とはならないだろうと想像します。自立した後に桜子が克服しなければならない問題は沢山あるでしょう。 毒親からの解放は、物理的にも精神的にも、とても自立四か月で解決できるようなことではないとフィンディルは思います。 親子が心を通わせるわけでも親をぎゃふんと言わせるわけでもなく、毒親から脱出するというベターで現実的なハッピーエンドを本作は選びました。 このハッピーエンドの先には、自立して自分の人生を歩める幸せと、それでも完全には解放されない苦しさの両方が存在しています。 もしここで、毒親から脱出できた! 自分の光輝く人生が始まるのだ! と桜子の幸せいっぱいな姿が描写されると、本作には現実的でない甘さが滲んでしまうでしょう。この甘さを描くならば、この現実的なハッピーエンドは相応しくありません。 だからといって、自立しても苦しさは続く、真に解放されるのはずっとずっと先なのだ、と桜子が完全には解放されない姿が描写されると、本作は仄暗い重さに支配されてしまうでしょう。重たさと爽やかさを同居させるには、やはりハッピーエンドと思われるハッピーエンドが相応しいです。 甘さが強くても重さが強くても、読後感はあまり納得できるものではないのではないかと思います。甘い終わり方、重い終わり方は本作には似つかわしくないと考えます。 そして本作は見事に、甘くもなく、重くもない終わり方をしているとフィンディルは判断します。素晴らしい。 ここには二つの技術が存在していると考えます。 まず、自立後の桜子の様子は、桜子が認めた手紙によってのみ確認できるということ。 手紙によると、桜子は温かい職場で楽しく働けているようです。将来的には大学に通うことも具体的に考えているようです。手紙の内容だけを見ると、桜子が自分の人生に前向きに進んでいるように感じられます。 勿論ここに明確な嘘があるわけではないでしょう。手紙の内容は真実であると考えるのが自然です。 しかし恩師に向けた手紙である以上、恩師を安心させることを第一目的にしているだろうであろうことも十分に察することができます。本当は無理をしているところがあるかもしれません、言いようのない不安に襲われる夜もあるかもしれません、職場の人達は親切でも人間関係で摩耗してしまうことはあるかもしれません。自立して直面した問題はいくつもあるでしょう。しかしそれは手紙には当然書きません。そして手紙には当然書かないことを、葉太も読者も説明されなくても理解しています。感謝を伝える手紙で苦しいことなんて書きません。 葉太が実際に桜子の姿を見たわけではなく、飽くまで桜子が恩師を安心させるために書いた手紙の内容によってのみ、桜子の近況が語られているというのがとても重要です。 もし桜子の自立後の様子が、手紙ではなく直接的な描写であったのならば、甘い終わり方あるいは重い終わり方のいずれかに偏ってしまう危険があります。 内容は甘く、しかし裏の重さも想像できる、そんな手紙という演出を採用したオレンジ11さんの判断はとても優れていると思います。とても上手いです。 もうひとつの技術。桜子の手紙を読んだ葉太のリアクションをカットしたこと。これはとても技術が利いていると思います。手紙演出を使ったこと自体よりも、手紙演出への葉太のリアクションをカットしたことのほうが素晴らしいです。これは素晴らしいと思います。 これもさきほどと同様ですが、葉太のリアクションで締めると、それが本作の終わり方になってしまうのですよね。そしてそれが本作の、毒親への見解になってしまいます。 例えば「俺は自然と笑顔になった」「教師をもっと頑張ろうと思った」「来年の千島桜が楽しみだ」みたいにポジティブなリアクションをすると、桜子のことは完全に解決しましたという終わり方になってしまいます。少なくとも葉太のなかではそうなりますから、成長したはずの葉太の認識にも大きな影響を与えます。そしてこれは作品としても、これで解決しましたという見解になります。とても甘い終わり方になり、読者によってはその甘さに首をひねってしまう人もいるかもしれません。 逆に「そこには俺を安心させようとする桜子の文章があった」「春川の幸せを願う」みたいにネガティブな香りのあるリアクションをすると、重たい終わり方になってしまい、本作の雰囲気を損ねてしまいかねません。葉太の認識としては賢明かもしれませんが、そこはもっと明るく爽やかに終わってもいいのにと思う読者もいるでしょう。 また「空を見上げた」「チャイムが鳴り、次の授業へと急いだ」などのようにどちらともとれる終わり方をしてもいいですが、このときは少し余韻にいやらしさが出てしまいます。文章にもよりますが、色々な想像ができますよという作者の色気が出てしまいます。 これらをせずに、葉太のリアクションをカットしたというのが素晴らしいと思います。甘くもなく、重くもなく、いやらしさもなく、甘さと重さが程よいバランスで混じった、奥行きのある読後感を生みだすことに成功していると思います。甘い余韻も重い余韻も全て読者に任せているというかたちですね。上手いと思います。 本作は単に「語りすぎない終わり方」「想像の余地がある終わり方」というものではなく、本作がどういうテーマを扱っているのか、本作がどういう雰囲気なのか、本作にはどういう読後感が相応しいのかというのを理解したうえで、テーマも雰囲気も損ねない終わり方を選択していると思います。 もし別の終わり方を選んでしまうと、甘くなりすぎたり、重くなりすぎたりしてしまっただろうと思います。この終わり方を選んでいるからこそ、本作は上手く締まっているのだろうとフィンディルは考えます。そしてそれは、オレンジ11さんに確かな技術があるからこそだと思います。 オレンジ11さんはそこまで意識したうえでこの終わり方を選んでいるわけではないかもしれません。この終わり方がしっくりくるという感覚で選んでいるかもしれませんが、それこそが技術であるとフィンディルは思います。 素晴らしいと思います。 ●「答え合わせ」の存在感を弱める締め方 前の項目で褒めさせていただいた終わり方ですが、一か所気になるところがあります。 ―――――――――――――――――――  追伸: 野村君とちゃんと続いています。葉太先生のアドバイスのおかげです。先生はどうですか。春奈さんには連絡、取れましたか? ――――――――――――――――――― フィンディルは本作の締めであるこの文章に、作品的にあまり良い印象を持っていません。 仮にこの締めの文章がなかった場合、「答え合わせ」以降の葉太と桜子の交流について三パターン解釈することができます。 1:葉太が桜子にしてあげたことは「答え合わせ」のみ 葉太が桜子にしてあげたのは「答え合わせ」のみで、その後進路を決めたのも、それに向かって努力したのも全て桜子であるという解釈です。 恋人である野村へ悩みを打ち明けたのも、S市の公務員になることも全て桜子が決めたことになります。ですが葉太の「答え合わせ」により決意を固めることができた聡明な桜子にはできなくもなさそうです。 この解釈の場合、「答え合わせ」が引きたちます。葉太が唯一してあげた「答え合わせ」に対して、桜子が大きな恩義を抱いたことになりますから。「その節は親身になって頂きありがとうございました。先生のおかげで、踏み出す勇気が持てました。」と伝えるほどに、油彩画をわざわざ送るほどに葉太のことを恩師として慕っていることになります。信頼できる他者による「答え合わせ」が桜子の自立をどれほど後押ししたかというのが、非常によく伝わります。葉太の成長を最も端的に伝えて桜子の自立の決め手ともなった「答え合わせ」が、本作の重要な箇所としてよく引きたつ解釈です。 2:「答え合わせ」の後、葉太は桜子の進路について、教師としていくつかのアドバイスをした 葉太が桜子にしてあげたのは「答え合わせ」だけでなく、桜子の家庭環境を鑑みた進路のアドバイスや、野村との接し方にいくつかのアドバイスをしたという解釈です。 「答え合わせ」により自立を優先させた桜子を見た葉太は、それが最も実現しやすいS市の公務員を勧めたり、野村との交際を続けるために家庭環境のことを打ち明けるべきであるなどのアドバイスをしたということですね。飽くまで桜子はクラスの一人の生徒という前提ですが、親身に対応した解釈です。 この解釈の場合、「答え合わせ」の重要度がやや下がりますが、種々の桜子の方針や行動に説得力がつきます。葉太が教師としてアドバイスをした結果の選択ということですから。桜子の感謝の対象が「答え合わせ」だけでなくその後の具体的なアドバイスにも及ぶという点では、本作の重要な箇所である「答え合わせ」が少し弱くなってしまいます。しかし桜子の行動に説得力がつき、物語の流れを自然と理解することができます。バランスの良い解釈だろうと思います。 3:「答え合わせ」の後、葉太と桜子は非常に親しくなり、葉太は良き理解者となった 「答え合わせ」により桜子に感情移入をした葉太は、その後も頻繁に桜子とやりとりをし、桜子の良き理解者となったという解釈です。葉太が「生徒とは個人的に親しくなり過ぎないように気を付けている。」という信条を曲げたかたちです。進路や野村についてのアドバイスは勿論、その他の様々な面で桜子の心のケアをしたということになります。桜子はクラスの中でも厚い対応をすべき特別な生徒として扱われたことになります。 この解釈の場合、「答え合わせ」の重要度がかなり下がります。「答え合わせ」は親身になるきっかけに過ぎず、その後葉太は様々なことを桜子にしてあげたことになりますから。当然桜子の感謝の対象はその全てということになり、「答え合わせ」の存在感が非常に小さくなります。 以上三つの解釈が可能であると考えますが、このうち望ましいとフィンディルが感じるのは1か2です。自分の親は毒親であるという確信を持つ作業、自分は親から愛されていない確信を持つ作業、両者を既に終えていた桜子が他者に望んだことは「答え合わせ」であった、という本作の肝がきちんと伝わるからです。単純に親身になったり理解してもらったりということではなく、何よりも「答え合わせ」に感謝していたということが表現できます。そしてそれは本作で描かれた場面でもあります。 これが3の解釈では希薄になってしまいます。本作で描いた「答え合わせ」は葉太がしてあげた始まりに過ぎず、その後色々なことをしてあげたとなると、相対的に本作で描いた「答え合わせ」の存在感がなくなってしまいます。それは作品的にあまり良い印象にはなりません。本作の「1.千島桜」~「3.気付き」で描いたことの重要性が「4.葉桜」で薄められてしまうようなものだからです。代わりに3の解釈では桜子の居場所を作ってあげたという表現ができますが、元々桜子には恋人や友人がいましたから、特別に教師が学校に居場所を作ってあげる必要性は薄いように感じられます。 作品的な見方からして、「答え合わせ」以降の葉太と桜子の交流についての解釈は1か2が望ましいとフィンディルは考えます。 しかしこの三つの解釈が可能なのは、 ―――――――――――――――――――  追伸: 野村君とちゃんと続いています。葉太先生のアドバイスのおかげです。先生はどうですか。春奈さんには連絡、取れましたか? ――――――――――――――――――― という締めの文章がなかった場合です。この締めの文章があることで、1の解釈の可能性がなくなります。「答え合わせ」以外の話をしていますからね。 そして3の解釈が強くなるように感じられます。 序盤にて葉太は桜子を春奈と呼び間違えますが、これだけでは「はるな」の漢字表記が「春奈」であり、昔別れた恋人であると気づくことはできません。桜子が何となく勘づいたという可能性を考えても、表記は別にしても「はるな」と死に別れている可能性を考えると「連絡、取れましたか?」と問うことが憚られるからです。よって「答え合わせ」以降のタイミングで、葉太が桜子に春奈の話をしていることは明らかです。 野村との交際を続けるために家庭環境のことを打ち明けるべきであるなどのアドバイスをするために、葉太は春奈の話を桜子にしたと考えられます。しかし葉太は自身の過去という、教師の距離感を越えた個人的な話をしました。これをきっかけに葉太と桜子が個人的に親しくなったと想像することは難しくありません。勿論それは理解者としての関係ではありますが、他の生徒よりも親密になったと想像することができます。 以上のように想像を働かせると、2の解釈が難しくなり、3の解釈が強くなっていきます。3になるということは、「答え合わせ」の存在感が弱くなってしまうということです。 これは推測に過ぎませんが締めの文章をこれにした理由は、春奈の過去パートを最終的に繋げたいというオレンジ11さんの意図があったのではないでしょうか。春奈の過去パートを途中で片づけてしまうのではなく、最後に持ってきて締めたいという作品的な試みがあったのではないかと推測します。 それ自体は良いと思います。過去パートを活かそうという工夫ですから。 しかしそれをすることにより、桜子にとって葉太が非常に親密な存在になってしまったように解釈することが可能になってしまっています。しかしその親密の過程は作品外であり、作品内であり作品のテーマを端的に指す「答え合わせ」の存在感を弱めてしまうことを意味します。 フィンディルはこの締めを読み、「1.千島桜」~「3.気付き」にて表現されたことが希釈されてしまったような印象を持ちました。作品が高めていったテーマや面白さの力が、締めの文章に上手く繋げられていないような印象を覚えます。 それはやっぱり締めとして、要向上に挙げられるところだと考えます。 語りすぎない終わり方が本作の魅力のひとつです。ならば葉太と桜子がどの程度交流をしたかについても、語りすぎないというのが合っているかもしれません。 あるいは葉太は桜子に春奈の話をしたことを明記するならば、3の解釈ではなく2の解釈なのだということをもう少し固定できるように、手紙の内容を考えてみてもいいかもしれません。 また過去パートを繋げたい、あるいは野村とのその後を説明したいのならば、その方法はもっと洗練の余地があるところなのかなと思います。 ●細かいところ ・「片付け始めた」「片付けはじめた」、「畳む」「たたむ」、「見る」「みる」、「頷く」「うなずく」、「代わり」「かわり」、「言う」「いう」、「聞く」「きく」 いずれも表記揺れです。表記揺れは文章の細かい差に意識が向き、作品への没入感を阻害してしまうおそれがあるので、できるかぎり潰すことをオススメします。 本作は文章がとても丁寧なのですが、表記揺れだけは意識が向いてないように感じられます。量も種類も多いです。文章の清涼感や透明感を邪魔しないためにも、表記揺れについてはオレンジ11さんの今後の小さな課題にされることをオススメしたいです。 ・その中で目が合ったのは春川桜子。 ・淡々と指摘したのは教壇のすぐ前の席にいる野村で、 同じ生徒であるのに一方は「春川桜子」とフルネーム、一方は「野村」と名字のみであることが少し気になりました。桜子が春奈と似ていたので、葉太の印象に強く残っているというふうに考えれば納得もできなくもないです。しかし「春川桜子」「野村」という呼び分けで、重要性がメタ的に示されているように感じられてしまいます。 野村も最初の一回だけはフルネームで表記する、などをすれば葉太が生徒との距離感を一律にしているという小さな表現になるかなと思います。あるいはその後に「優等生の春川桜子。」とちゃんとした紹介があるので、ここでは「春川」という表記に留めていく、などでもいいと思います。 ・この二人は付き合っている。 「二週間前に初めてこのクラスで春川を見た瞬間」とあるので、葉太はこのクラスの担任になってまだ二週間であると推測できます。それで桜子と野村が付きあっていることを知っているということは、桜子と野村は自身の関係をオープンにしていることが予想されます。 しかし桜子は野村との関係を親には知られたくないと考えるのが自然です。何を言われるかわかりませんから。ならば野村との関係がどこかから両親に知られるのを恐れて、桜子は野村との関係をクローズドにするのが自然なのではないかとフィンディルは推測します。 担任を務めて二週間しか経っていない葉太が、どうして桜子と野村が恋人同士であることを知っているのか、違和感があります。 ・そしてチョークを手に取り黒板に回答を書いていく。 「回答」→「解答」 ・主張しすぎず、かといってノリが悪いわけでもなく。それでいて周囲を少し警戒しているような。 春奈とのやりとり、桜子との当初のやりとりを見るかぎり、葉太は鈍感なタイプであるとフィンディルは想像しています。春奈の発言の真意を約十年理解してこなかった人ですから。桜子のことも、実際に親を見て初めて理解した人です。 そういう人物が担任になって二週間で、一人の生徒の内面についてここまで繊細な観察ができるのだろうかという違和感があります。ここまで繊細な観察ができる人物は、桜子や春奈の発言から親が毒親であるという想像が自然と働くのではないだろうかと推測します。 そもそも現時点の葉太は春奈を、理不尽な態度で一方的に縁を切ってきた過去の恋人と捉えており、良い思い出はないはずです。それから十年の間に他の人とお付きあいをしてきたことも想像できますし、春奈はそんなに強く記憶に残っている人物ではないと想像できます。そんな人を、生徒と雰囲気が似ているからと、何度も呼び間違えるほどに強烈に思い出してしまうものでしょうか。 桜子と春奈を繋げるためにここだけ葉太の観察眼を鋭くし、桜子と春奈を繋げるためにやや強引に春奈を強く思い出させてしまっているような、そんな作品的なご都合をフィンディルは感じます。 たとえば桜子とやりとりをするなかで、当時の春奈と全く同じ発言を桜子がして、それにより葉太が春奈を思い出す、などの流れにするとより自然に桜子と春奈が繋がるような気がします。 ・「今日は外で食べてきます。気分転換に」 外食の解釈ができてしまいました。教師ですから外食はないという判断もできますが、あまりにも外食の解釈を誘うような文言なので、調整したほうがいいのかなと思います。 「外」を「校庭」に変えるだけでも全く違います。 ・千島桜のこと、もう誰かに聞きました? 千島桜を選んだのは良い判断だと思います。ソメイヨシノだと三月の終わりから四月の始めになり、時期がズレてしまいますからね。進路希望の話ができる時期ではないでしょう。しかし千島桜の花期は五月から七月ということで、本作の時期と合います。また現時点ではまだ千島桜は蕾の段階ですしね。 後に「道外」という言葉を入れる気遣いもありますし、進路希望の話と桜の時期をしっかり固定させる、良い工夫だと思います。 ・それからの二十分ほど、春川は黙々と手を動かし続け、俺はその様子を眺めながらパンをかじった。 この書き方だと、葉太は二十分間パンを食べていたということになります。その人の食べるスピードやパンの量にもよりますが、定食ならまだしもパンを食べるのに二十分もかからないのではないかと想像します。 「それからの二十分ほど、春川は黙々と手を動かし続けた。俺はその様子を眺めながらパンをかじった。」と分けることで、そういう解釈にはなりません。 ・春川は画用木炭を右手に握ってはいるものの、 葉太の一人称描写ですから、葉太は桜子が持っているものが画用木炭であると知っていたということになります。それでもいいのですが、美術への知識があるという描写のない葉太が画用木炭を知っていたのは少し違和感があります。 「画用木炭か?」「詳しいですね」や「それは?」「画用木炭です」を挟んだり、「木炭のような画材」などと表記することで、この違和感を解消することができます。 ・桜の向こう側をのぞくと、レジャーシートの上で体育座りをした春川が、真剣な表情で膝の上の画板と千島桜を交互に見やっていた。 ウィキペディアによると「体育座り」は「尻を地や床などに着けて、両脚の膝を立てて踵を揃え、両腕は両膝を抱え込む坐法」とのことです。尻を地に着ける・両膝を立てる・両腕で両膝を抱えるという三点を満たすことが定義だろうと推測します。 ですが本文を見ると、おそらく両腕は両膝を抱えていません。画板は膝(腿?)の上にありますし、画材を持っているでしょうから、両手は組まれていないだろうと想像できます。 ですのでこの文章は「両膝を立てて座っている」や「体育座りのような姿勢をした」など、厳密には体育座りではないと示すのが無難であると思います。 ・得意げに差し出したのは、練り消し。 「差し出す」には相手に渡すというニュアンスがありますので、ここは「取り出す」のほうが文意に沿っていると判断します。 ・春川は黙ってペットボトルのキャップを開け、静かに飲み始めた。 素晴らしい文だと思います。 ミルクティーを飲むことで自分の気持ちを落ち着かせていることや、何を言おうか逡巡していることがわかりやすく表現されています。し、これを入れることで桜子にとって安易に触れてほしくない重大な話であることもわかります。 そしてこれが葉太の進呈したミルクティーであることもとても効いています。もしこのとき桜子のなかに葉太を拒絶する心情が発生していたならば、葉太からもらったミルクティーには手をつけないことが想像できるからです。拒絶が湧いてすぐに立ち去りたいのならば、いつでも離脱できるように葉太にもらったミルクティーは置いたままにしたでしょう。しかし桜子はこのミルクティーを飲んで、気持ちを落ち着かせました。それは葉太を拒絶しておらず、ある程度葉太に気持ちや考えを話す気持ちが桜子のなかにあるということを指します。それは当然、葉太が教師だからでしょう。 桜子にとって重大な話、それを話すために気持ちを落ち着かせている、葉太を拒絶する意思はないということが一文で全て表現されています。素晴らしい一文だと思います。 ・お礼にミルクティーを進呈。 ・春川は黙ってペットボトルのキャップを開け、静かに飲み始めた。 ネット検索したところ地域や世代を問わず共通認識らしいのですが、高校の飲料はペットボトルではなく紙パックというイメージがあります。これは紙パックはペットボトルよりも安価で量が多いという理由らしいです。 この場面は高校の敷地内ですから、「お礼にミルクティーを進呈。」とだけ示されたときに、紙パックで映像化していた読者も多いのではないでしょうか。 そのため「ペットボトルのキャップを開け」という文が入るときに、すぐにミルクティーに結びつかない可能性が考えられます。紙パックで想像していた読者は、ここでペットボトルに修正する必要が発生します。 高校以外だったらミルクティーはペットボトル前提で問題ないのですが、こと高校の敷地内となるとペットボトル前提では問題が生じることがあります。面白いですね。 ですので葉太が桜子に進呈する場面で、これはペットボトルであるという注釈を入れるか、紙パックに変更をするなどすると親切かなと思います。葉太は教師ですので敷地外でペットボトルのミルクティーを買ってきた可能性も十分にありますが、ここで気遣いができていると高校が舞台の物語として気が利くと思います。 ・まるで俺の質問など聞いていなかったかのようにミルクティーを味わっていた春川は、 さきほどの項目の確認になりますが、ここを見るかぎり葉太には鋭い観察眼を感じられません。桜子は無視をしているわけではなくて、触れられたくない話題を話すために気持ちを落ち着かせていることが容易に理解できるからです。進路のことですし、桜子でなくても逡巡しているのは一目瞭然です。 作品の流れに従うように、葉太が鋭くなったり、鈍くなったりしてしまっているような印象を覚えます。 ・「でも妹、B高だろ。あそこからH大に行くのは相当厳しいぞ」 ・さらにいえばC公立大学に受かるのがやっと、というレベルだ。 この話で問題になっているのは、当人の意思や話しあいなどの過程を踏まず、親が一方的に妹の進学を優先させていることのはずです。 しかしこの文章は妹の進学を優先させていることそれ自体がおかしいという文意になってしまっています。客観的に見れば姉(桜子)の進学を優先すべきだという誘導に感じられます。 妹は学力レベルの低いB高に通っているからというのが理由ですが、妹は入学したばかりの一年で今後学力が向上する可能性は十分あります。妹も高校三年生で、学力レベルがどの程度が把握したうえでの判断ならば合理的であるとも思えます。しかし一年の四月時点でC公立大学がやっとと判断されるのは、妹に対して非常に酷です。 この見解が桜子によるものであるならば、妹の学力や性格を把握し、恨みがあってのこととして納得できます。しかしこれは葉太による見解です。桜子の妹のことを何も知らない葉太が、入学した高校だけで進学先を決めつけてしまうのはそれこそ妹の可能性を狭めてしまうものであり、問題であると考えます。 桜子の親が一方的に妹の進学を優先していることは問題であるということを強調するための設定・文章だろうと思いますが、在籍高校だけで姉が優先されるべきという誘導は強引であり、これもまた問題であると考えます。親が一方的に片方を優先しているということを問題にするべきだと考えます。 ・「今はその質問には――」 桜子は葉太が教師なので、「うちの親って、おかしいですよね?」と理解を求めたと想像できます。 しかし桜子が理解を求めてくれるチャンスはおよそ一度きりで、ここで葉太が理解のない返答をした場合、今度こそ桜子は明確に葉太を拒絶しただろうと想像できます。 その境目となった場面だろうと思います。ただ一度でも理解を求められたということが重要だと思います。 ・「お母さん、今は春川のことを考えましょう」 親も春川ですので、こういう場合は一般的に「桜子さん」という呼び方を使うのではないかと考えます。 ・「ボーイフレンドがいるでしょう。野村君」 これは想像ですが、桜子の親にとって、取るに足らない娘の関係者も取るに足らないと考えるのではないかと思います。ですので桜子のボーイフレンドに対して「野村君」と敬意をこめることは不自然に映りました。 「野村とかいう」などを使うと、桜子のことを下に見ているというグロテスクさがより活きると思います。 ・もしかして春奈がいっていた「葉太にはわからない」というのは、このことではなかったか。 ここで葉太は、春奈の考えを理解することができます。 ですが春奈の考えが理解できたということは、どうして春奈は自分を拒絶したかについても理解することができるはずです。そしてそれを理解できたということは、自分がした発言がどれほど春奈を傷つけるものであったかも理解することができるはずです。 しかしこの文章では、春奈の考えを理解したという程度に留まっています。 「もしかしたら俺は、春奈にひどいことをいってしまったのかもしれない」などとするとそこまでカバーできますし、では何を言うべきなのかということが、次の桜子の場面に上手く繋がるように思います。 ・それなら。 ・「それならいつだって」 ここで「それなら」を並べる意図が理解できませんでした。 美大に進みたいわけではなく趣味として描きたいということなので、「それならそれを進路にすれば」を飲みこんだわけではありません。 もしリズムを整えるためであったり、地の文を入れたいためであるなら、不要かなと考えます。 別の意図があるならば、それを優先していただければと思います。 ・そのどれもが春川の母には欠けている。 表記の統一ということを考えるならば「母」ではなく「母親」をオススメします。 ・だから答え合わせできて良かった 項目でも使わせてもらっていますが、「答え合わせ」という言い回しが素晴らしいです。 長い間、桜子は自身のなかで考え続けていたことがわかります。そして回答(解答?)と呼べるものを持てるまでに自分の心情に整理をつけることができていたこともわかります。ですが自分一人では確信ができず、他者の同意が必要だったということもわかります。そして今まで、桜子は他者にこの悩みを打ち明けることができなかったということもわかります。 桜子の長い苦しみ、真摯に向きあう気持ち、他者の理解を求める気持ち、それが今まで得られなかったこと、それら全てが「答え合わせ」という言葉で表現できていると思います。素晴らしい言い回し。 ・……思ったんですけど母が反対して。受験勉強に差し障るからって。 ・「ちょ……なんで。勝手に携帯みたの? パスワード――」 ・あの日、自分は愛されていないのだと言い切った春川は、大学を受験しなかった。そのかわり公務員試験を受けて合格し、高校卒業と同時に実家を出てS市役所で働きはじめた。 フィンディルは毒親についての深い知識を持っていませんので、的外れな指摘かもしれない前提でお読みください。 本作の毒親は姉妹差別を行っていますが、そのうえでこの毒親が過干渉タイプなのか無関心タイプなのかの判別がつかないように思います。そして判別がつかないので、毒親の行動をよく理解できませんでした。 美術部への入部を反対したり、携帯を勝手に見たりというのは過干渉タイプであると判断できます。こういうタイプの姉妹差別は、一方の子供を執拗に上げてもう一方の子供を執拗に下げるという構造そのもので自身の心を保ち、この構造そのものが自分の親の愛であると考えていると推測します。能力が低いのだからあれこれ制限しますし、能力が高いのだからあれこれ優先するという、親のなかでは心配と期待を上手く使い分けた愛情なのだと想像します。この過干渉タイプは姉妹差別の構造を維持することが愛情であり自身の心を保つことにもなるので、桜子がS市の公務員試験を受けることに反対するのではないかと想像します。妹の学費のためにC公立大学を受けろというのは建前で、本当は桜子をいつまでも手元においてコントロールしたいと考えるのではないかと想像します。ですので自立のために公務員試験を受けようとする桜子に「あなたに一人暮らしはできない」「社会人としてやっていけるわけがない」などと何らかの理由をつけて、桜子の自立を阻止しようとするのではないかと思います。母親だけでなく父親も似たような価値観のようなので、両親揃って桜子の自立を阻止しにかかったら、桜子がしっかり準備をして公務員試験を受けて自立するというのはなかなか難しいだろうと思います。 本当に学費のことだけが問題で、妹の進学に金銭的な迷惑を与えないなら家を出ようが何をしようが構わないというのは無関心タイプであると判断できます。こういうタイプの姉妹差別は、姉は本当にどうでもよくてただただ妹が大事だと考え、妹に愛情を注ぐことで自身の親としての体裁を保っていると想像します。妹に対しては過干渉で、姉に対しては無関心ですので、姉がどういう行動をとろうが迷惑さえかけなければ興味を持たないのだろうと想像します。ですので金銭的に迷惑をかけず、公務員になって自立する際にも「好きにしたら」というスタンスであると推測できます。しかしこの無関心タイプの場合、桜子が美術部に入るのを反対したり携帯を勝手に見たりといった行動をとらないのではないかと思います。無関心ですから。携帯については、姉妹差別で増長した妹が姉を貶めるために携帯を見て母親に報告したということも考えられますが、本作に妹の人格を持ちこむと話がややこしくなってしまうので妹は関係ないと考えるのが無難です。 桜子の親がどういうタイプなのかがよくわからないというのが気になりました。桜子の親はどういう考えでもって姉妹差別をしているのか、考慮を重ねる必要があるかなと思います。 勿論、本作の行動を全て行うような過干渉かつ無関心な毒親もいるかもしれません。深い知識のない者の指摘ということで、上手く消化していただければと思います。 ・宅急便。 「宅急便」はクロネコヤマトの商標登録ですので、どちらかといえば一般名詞である「宅配便」をオススメします。 クロネコヤマトで送られてきたのかもしれませんし、細かいところですが、気になる場合にはどうぞ。 ・自席に戻って箱を開けると、カサカサと心地よい音を立てる梱包材に埋もれるようにしてA3サイズの真っ白な平たい箱がひとつ。 梱包材を敷きつめて発送準備をする桜子を想像すると、自立したのだなという印象が持てて良いですね。多分実家にいるころは、梱包材を用意して発送の準備をするのは難しかったような気がします。 ・もっとよく見ようと絵を持ち上げると、その下に手紙が入っていた。 段ボール箱の中に白い平箱があり、その白い平箱の中に絵があり、その絵の下に手紙がありました。 しかしこれでは手紙が見つけにくいのではないかなと思います。葉太が絵を持ちあげなければ手紙の存在に気づくことはできませんでした。箱は平たい箱ですし、葉太が絵を持ちあげることなく鑑賞を終えて蓋を閉じることも考えられます。 絵だけ入っているというのは不自然ですから、葉太は手紙を探したかもしれません。しかしそれでもどうして桜子は、そんな気づきにくいところに手紙を置いたのかと違和感が残ります。通常手紙は、白い平箱の上に置くなどするのではないかと思います。 絵の鑑賞→手紙の順に書きたいという文章の都合に、桜子を従わせてしまった結果なのではないかと推測します。 ・色を付けるの、とても楽しかったです。 高校生時には色を付けることができなかった葉桜に、社会人になって色を付けることができた。これは親の支配から自立して自分の人生を歩むことができたという暗示がこめられた表現だと思います。 それ自体は良いと思うのですけど、その暗示だけになってしまっている印象があります。ですので「休みの日に没頭してしまいました」「楽しくて、一日中描いていました」などの文章にすると、高校時代は家で絵を描けなかったのに今では家で思う存分絵を描けているのだなということがわかりやすく伝わってより良いかなと思います。また絵にかけられる時間が増えたことで、色を付ける技術を習得したことに説得力が増します。 ・追伸: 野村君とちゃんと続いています。 「追伸」の後でコロンとスペースを使っていますが、どちらか片方がいいのではないかと思います。どちらも区切る用法ですからね。 感想は以上です。 「フィンディルの感想」は現在非常に認知度が低いです。 ですのでこの感想に満足していただいた場合は「フィンディルの感想すごく良いよオススメ!」と、沢山の方にそして作家仲間さんに、積極的に口コミを広めてくださるようよろしくお願いします!

コメントするにはログインが必要です

    User Icon

    フィンディル

    ファンレターを送る