家の前で朝早くから奇声を上げる子供達の声が小鳥たちの囀りのように聞こえていた。道行く人々は楽しかった正月の日々の延長上を綱渡りをするかのようによろめいているかのように見えた。冷たい朝靄の中を雀が餌を捜し求めて飛び回っていた。子供達の声と鳥達の囀りが心地のいい協奏曲を奏でていた。母親が台所で何かを言っている澱んだ声が聞こえてきた。その澱んだ声が清々しい朝の澄んだ空気を満たす心地のいい協奏曲を無理やり妨げた。冷酷で冷たい空気が顔の周りにへばり付いていた。暖かい安全地帯のような温もりが香堂の身体を布団の中に硬く縛り付けて離さなかった。再び台所の方から母親の声が聞こえてきた。布団を頭に被せるとその母親の声は幾分遠ざかった。それでもどこからともなく布団の中に忍び込んでくるしつこい母親の声に香堂は仕方なく立ち上がった。トランクスとTシャツ姿で布団の外に出ると肌が切られるような思いをした。温まった身体の温度を保つために布団の隣に置いてある冷え切った服を素早く着ると、ぶるぶるっと身震いした。これでもかと言わんばかりに両手を高く上げて大きく伸びをした。再び母親の澱んだ声が聞こえてきた。香堂は頭を俯き加減にゆっくりと首を横に振った。 台所に行くと母親が味噌汁に入れるわかめを刻んでいた。香堂は食器棚の前で立ち止まるとコーヒーマグを手に取った。それを持って忙しく動き回る母親の隣に並んで蛇口からマグに水を注いだ。マグに注いでいた水がだらしなく溢れて手にかかった。水は冷たく、香堂の心にまでそれが伝わってきた。一口その冷たい水を口に頬張ると、未だにまともに機能しようとしない頭にその刺激が伝わってきた。 「正明、あんた今日面接なんだろ…、いつまで寝てりゃ気が済むんだい」 水を飲み始めていた香堂は母親に言い訳したかったが、冷た過ぎるその水が喉につかえて声を出すことができなかった。その隙を狙ったように母親が話を続けた。機能し始めた頭がこれから母親の口から発せられる言葉を予測し始めた。「またか…」重い石の塊を載せられたような鈍い感覚を肩に感じた。 「新年から皆忙しく働いているってのに、お前ときたら緊張感がないって言うか、ノー天気って言うか、わたしゃ悲しくって涙が出てくるよ。何とかならないもんかね…」 母親は涙も流さずに必死で手を動かしていた。結局香堂は何も言うことができなかった。産声をあげる前の赤子のように言われるがまま叩かれるがまま言葉を失ってそこに立ち尽くしていた。心の中に固まっているしこりをそのまま口から吐き出したくなった。仕方なく手にしていたマグにインスタントコーヒーの粉を入れて砂糖の載ったスプーンを差し込んだ。食器棚の上に載せられたポットのお湯をどぼどぼと注ぎ入れると、最後の頃ポットが魂の擦り切れるような異様な音を立てた。 「母さん、もうこれお湯入ってないみたいだな」 母親は顔の筋肉をこれでもかと言うほど捻じ曲げて見せた。嫌味が顔からはみ出していた。それ以上愚痴を聞かされるのも耐えがたく思い、仕方なく居間へと退散した。 父親は朝食も摂らずに出勤したようで、その姿を見ることはできなかった。年が明けて両親の家でただごろごろと寝ている訳にもいかず、香堂は再び就職活動を始めていた。香堂自身もなかなか職にありつけない自分に捌け口の無い憤りを感じていた。いくら恋人の家族が自殺したからといっても、それを就職活動が中途半端になってしまっていることの言い訳にする訳にはいかなかった。両親に愚痴られるのは仕方無いことだと分かっているのだが、いざ面と向かってそれを言われるとやりきれない気持ちになった。反省して再び就職のことを考えてみるのだが、いつも頭の中に浮かんでくるのは変わり果ててしまった明日香のことばかりだった。 その日会社の面接に行こうと道を急いでいた。今度こそは勝利を手中に収めようと歩く足取りに力さえ感じられた。前を見据えて足を進めていると明らかに双子だと分かる瓜二つの姉妹とすれ違った。香堂は足を止めてその双子を振り返ってみた。ある不安が香堂の胸を底の方から叙々に圧迫していった。香堂はおかしなことを考え始めていた。 「もしも美咲が明日香を殺して、明日香に成り済ましているとしたら…」 母親が喜びそうなそんなテレビの推理ドラマのような馬鹿げた考えはよそうと小刻みに首を横に振った。しかし背筋に走った冷たさの余韻を拭い去ることはできなかった。遠くなった二つ並んだ双子の背中を再び遠目に眺めた。双子は既に香堂の視界から消えかかっていた。そんなことがあってもいいのだろうか。香堂はその場から動くことができなくなっていた。心臓はいつもより強く速く鼓動していた。歩道の端に作られた丁度腰くらいの高さの植え込みに力なく座った。香堂の脳裏にあの夜のテレビの光に照らし出された白い紐の先端が浮かび上がっていた。香堂はその紐が自分の首に巻きつけられ、力強くそれを引っ張る見分けの付かない双子の顔を想像した。冷やされた一直線の鉄筋の棒を当てられたような硬い緊張感を背筋に感じた。堪え切れずほんの一瞬身震いした。ふと頭を上げて道行く人を見ていると、その全ての顔が明日香のそれに見えてきた。疑心が胸の中を渦巻き、恐怖は頭の芯に絡み付き離れようとはしなかった。出口の無いその渦巻きがその疑心を小さく引き千切り、引き千切られた疑心の破片は胸の隅々にまで積もっていった。恐怖は頭の中をぐるぐる巻きに縛りあげ、その全てを白い紐で埋め尽くしていくような気がした。香堂は居ても立ってもいられなくなり、仕方なく面接会場へ向かって歩き出した。しかしその足取りにさっきまでの力強さを感じ取ることはできなかった。 スーツを着た数人の男達が広く長い廊下の壁に沿って並べられた折り畳み椅子に緊張感を刻んだ顔を俯けながら座っていた。その中の一人は貧乏ゆすりをしていた。どの顔にも自信の微塵も見て取ることはできなかった。 「自分もこんな顔をしているのだろうか…」 ふと鏡で自分の顔を確かめてみたい衝動に駆られた。香堂は空いている席に腰を下ろした。自分の名前が呼ばれるのを待っている間も白い紐の先端のイメージが頭の中から離れることは無かった。面接を終えて部屋から出てくる男達が胸を撫で下ろしながら去っていくのを見て、たかが面接じゃないかとその男達を見下していた。自分は恋人に殺されかけたんだと言ってやりたい気持ちだった。 当然手応えの無い面接を終えた香堂は自宅のそばにある市立図書館への道をとぼとぼと歩いていた。どうしてもさっき考えたことが頭から離れず、以前起きた市居家の事故について調べなければならないと思い込んでしまっていた。香堂は歩きながら明日香自身の口から弟の溺死と父親の溺死について聞かされた時のことを思い出していた。明日香がまるで自分のせいだと言わんばかりの口調で話しているイメージが頭の片隅に残っていた。明日香は母親の京香と双子の姉美咲の自殺についてはあまり触れたくないような態度だった。それが何故なのかは香堂には分からなかったが、死んだ人間のことを思い出したくはないのだろうとだけ思っていた。 「しかし、もし、もし美咲が殺したのだとしたら…」 家族が次から次へと事故死、自殺するなんてあり得る訳がない。ということは母親も明日香も美咲に殺されてしまったのかもしれない。そうでなければあの明日香の変わりようは説明が付かない。それを今まで疑いもせずに信じ込んでいた自分が怖くなった。しかし疑えば疑うほど心の片隅に芽生えた明日香に対する後ろめたさもそれに共鳴するかのように揺れ動いていた。 図書館の中は静まり返っていた。利用者が少ない訳ではなかったが、当たり前のように皆何も話さずに手にした本を貪り読み耽る振りをして、皆声を出すのを躊躇っているように見えた。皆いったい何にそんなに興味を示しているのだろう。香堂はテーブルの上に広げられた様々な本を覗きみようと視線を落とした。歩きながらその小さな文字が見える訳はなかった。時折母親が子供を叱る潜めた声が聞こえてきたが、直ぐにまた偽物の静寂が全てを包み込んだ。図書館の中に嫌味でアンバランスな空気を造りだす利用者のわざとらしい静寂が香堂の胸を搔きむしった。 カウンターでは笑顔を絶やさない中年の女が受付をしていた。女は返却された本を丁寧に確認しながらそれを分類していた。香堂は忙しそうなその女に申し訳無い気持ちを声に漂わせて丁寧に言葉を発した。 「済みません、新聞の閲覧をしたいのですが…」 香堂は小学生の時に度々この図書館を訪れていたが、小学校を卒業して以来今に至るまで一度たりとも利用していなかった。当然のことこの図書館の利用証の有効期限は切れていた。 「図書館利用証はお持ちでしょうか」 「いいえ、家にはあると思うんですが多分期限切れだと思います。できたら新しいのを作って頂けないでしようか」 香堂はポケットに差し込んであった財布に手をかけた。女はカウンターの下に手を差し入れると紙を一枚取り出してカウンターの上に置いた。 「それではこの申込用紙の必要事項に記入していただいて宜しいでしょうか」 香堂は取り出した運転免許証をそっとカウンターの上に置くとその紙に住所、氏名、そして自宅の電話番号を記入した。女はその紙と免許症を手に取ると直ぐに図書館利用証とパソコンを起動させるためのバーコードの記載されたカードを手渡してくれた。運転免許証も複写して直ぐに返してくれた。香堂は女に深くお辞儀をして礼を言うと、静かな図書館内の利用者とそのテーブルの間を縫うようにしてパソコンの置かれた新聞閲覧室へと歩いていった。 部屋には香堂の他に誰もいなかった。閲覧室にはいくつかのデスクトップ型のパソコンが小さな板で仕切られて一列に並べられていた。香堂は窓際の方へ足を進めて行った。窓際の方が幾分暖かそうに見えた。机の下に押し込まれている椅子を引っ張り出すとそれに腰を下ろした。バーコードの記載されたカードをパソコンの隣に置いてある読み取り機に翳すと、パソコンの画面が検索画面に変わった。現在明日香の歳が20なので弟が生まれていたであろう15年くらい前の新聞から調べ始めた。新聞の事件欄を片っ端から読み潰していった。過去のことだとは言っても、やはり気持ちのいいものではなかった。死亡、重体、重傷、殺人、溺死、自殺、どの記事を読んでも香堂の胸を圧迫した。新聞の文字が光となって眼に飛び込みそれを頭脳が解読する。解読された文字は何故か頭の中ではなく、胸で渦巻いていた。何件も読んでいくうちに胸が窮屈になっていくのが分かった。時間が経つに連れ身体が疲れていくのが手に取るように分かった。1年分を読み終えたところで胸に溜まった冷やされて固形化した息を抜き立ち上がった。首を左右に捻り、腕をぶら下げたまま肩を何度も回した。部屋の窓から外を見ると西の空にオレンジ色をした太陽が今にも沈もうとしていた。 再び椅子に腰掛けようとした時「蛍の光」のメロディーに載せて館内放送が流された。香堂は仕方なく椅子を元の場所に押し込むと部屋を出た。館内に残っている利用客は既に数える程しかいなかった。薄暗くなった館内に置かれたテーブルを再び縫うようにカウンターへ行くとバーコードが記載されたカードを返却した。受付の女はにっこりと顔に微笑を浮かべながらそれを受け取った。香堂は何故かその微笑に遣る瀬無い寂しさを感じた。図書館の出口に向かって歩きながら、それが悲しみではなく苛立ちだと分かるまでにしばらく時間がかかった。 暗くなった自宅への帰り道、香堂は今日一日結局意味を成さなかった自分の行動に苛立ちを覚えていた。確信の無い物事に対する自分の疑問が呼び起こした無駄な行動のような気がしてならなかった。それとは裏腹に心の片隅に芽生えた明日香に対する後ろめたさは疑心という肥料を得て密かにそして確実に伸び始めていた。 ふと香堂は今日明日香のアパートへ行く約束をしていたことを思い出した。約束の時間は6時だった。しかし時間と距離からそこに約束通り辿り着くことは到底不可能だと一瞬で悟った。香堂は立ち止まるとポケットに入れてあった携帯電話を取り出した。明日香の番号をその液晶画面に引っ張り出し通話ボタンを押した。呼び出し音が鳴り始めた。香堂は約束の時間に遅れることを伝えたいだけだったが、呼び出し音の鳴る回数が重なっていくにつれて明日香のアパートに向かって急ぎ足で歩き始めた。応答が無い。香堂は一度電話を切った。そしてしばらく歩いてからもう一度かけ直してみた。すると今度は2度目の呼び出し音が鳴り終わらないうちにか細い女の声が聞こえてきた。紛れも無く明日香の声だった。その声色には慌ただしさが漂っていた。 「もしもし、ごめんね、ちょっと手が離せなくて電話に答えられなかったの」 香堂は歩く速さを緩めた。それと同時に心の緊張も緩んだ。そして再び立ち止まった。 「そうだったのか…。電話にでないから心配したよ。面接が長引いちゃったから今日は行くのよすよ。明日の朝行くよ。ごめんな」 「分かった。明日待ってる。じゃあね…」 それで電話は切れた。香堂は携帯電話を折り畳むとそれをポケットに押し込みまた歩き始めた。香堂の心は疲れ切っていた。その疲れた心が歩くことでさえ困難にさせた。明日香をもしかすると美咲ではないのかという疑心と明日香に対する後ろめたさが胸の中で交錯していた。時折乾ききった冷たい風が香堂の顔を掠めていった。頬を切られるような冷たさだった。 白い靄が地表の全てを薄っすらと覆っていた。朝の冷たい清々しい透明な空気を透して朝日がその靄の白さを引き立てていた。凝縮された神秘的なエッセンスが空間に漂っているような気がした。風は殆どと言っていい程無かった。未だ夜の静けさの余韻が残されているかのように何もかもが静まり返っていた。 朝の空気を吸ってみようかと香堂は久しぶりに家の庭へ出てみた。小さい庭の端の方に父親の作った盆栽がいくつか置いてあった。その小さな生命体はそこに溜まった冷たい空気に必死に耐えながら芽吹く機会を窺っているように見えた。香堂は大きく深呼吸をした。冷え切った空気が喉を通り肺と胃を満たした。透明な神秘的エッセンスが全身に流れ出したような気がした。それを思い切り吐き出してみた。白い息が口から尾を引いてゆっくりと消えていった。まるで魂が口から吐き出され空気中にゆっくりと溶け込んでいくかのように見えた。それを何回か繰り返した後新聞受けに入った朝刊を引っこ抜いた。まだ一度も開かれていない折り畳まれた朝刊を手にすると図書館で読んだ過去の事件記事が走馬灯のように脳裏を走り抜けていった。胸が締め付けられるような思いがした。香堂はその場で足を止めた。するとまた明日香が力強く紐を引くイメージが頭に浮かんだ。後ろめたさという木が幾分伸びたような気がした。香堂は頭を小刻みに左右に振った。この程度のことで混乱している自分に嫌気が差した。調べているだけで後ろめたいことをしている訳ではないと何度も自分に言い聞かせた。 「正直に美咲の残した遺書を明日香に見せてもらおう…」 アパートへ行くのは朝という約束だった。特別時間は指定しなかった。なるべく早く明日香のアパートへ行ってそれから再び図書館へ行ってみようと思った。 家に入って朝刊を炬燵布団の上に置いた。炬燵に足を差し込むとじわりじわりと暖かさが伝わってきた。足の指先に腫れ物でもできたかのように膨張感を覚えた。母親の作ってくれたトーストとベーコン、それと目玉焼きをコーヒーで胃に流し込んだ。母親が早朝から何も言わずに朝食を用意してくれることは滅多に無いことだった。その稀有な幸運にほんの少しだけ感謝した。部屋に戻り厚手のジャケットを羽織ると母親に何も言わず玄関から飛び出した。 アパートの階段を音も無く大股で上りきった。まだ外は寒く短い間隔で白い息が口から靡いた。玄関のドアと浴室の窓の間に設置されている瞬間給湯器が低い連続音を立てていた。香堂はその音を聞いて明日香が既に起きていることを察知した。ドアベルを押さずにドアをノックしてみた。 「明日香、俺、俺だよ」 台所で何かを洗っているような明日香の気配がドアの向こう側に立ったのが分かった。鍵の開く音がしてその直後にドアが開くと、そこにはまだパジャマ姿の明日香が立っていた。左手には泡の付いた包丁が握られていた。包丁の先から泡が音も無く床へと落ちていった。香堂は一瞬息を呑んだ。 「何と恐ろしい光景なんだ…」 心の中で呟いていた。給湯器が湯を沸かす低い音と包丁についている泡、そしてさっきの洗い物をしていたような気配が香堂を我に返してくれた。しかし無意識に口が半分開いていたことには気付かなかった。ほんの少しの間だったがぎこちない空白ができた。その間を埋めるように明日香が口を開いた。 「あら、私のパジャマ姿に惚れ直しでもしたの」 明日香は自分の手に握っている包丁のことはすっかり忘れているようだった。目の前にいるこの健気なパジャマ姿の女が自分の首に紐を巻きつけ肩に両足を乗せ力いっぱい引くイメージが一瞬だったが再び脳裏を通り過ぎていった。それが原因で再び小さな間ができてしまった。香堂は言葉を完全に失っていた。 「正明、どうしたの。本当に私のパジャマ姿に見とれてるの…」 明日香が香堂のそんな想像を知る由も無く、その冗談のように笑って包丁を握っている姿が一層不気味に感じられ、再び言葉を失った。どう考えても恐ろしいという表現以外には頭の中に浮かんでこなかった。 「兎に角上がって。寒いでしょ」 香堂は自分の足が小さく震えているのに気が付いた。それが包丁と想像したことから来るものなのか寒さから来るものなのかは自分でもよく分からなかった。 部屋の隅に置かれたストーブの上には薬缶が置かれていた。湯気がゆっくりと部屋の空気に溶け込んでいた。薬缶のお湯が沸騰することことという音を聞くだけで冷め切った心が温まっていくような気がした。香堂はその前に座布団を敷いて胡座を掻いた。ほんのりと赤い炎の前に両手を翳すと指先が疼いた。明日香はコーヒーカップに入れた紅茶ふたつを手に部屋に入ってくるとそれを炬燵の上に載せた。 「ねえ正明、こっちに座りなさいよ」 明日香が炬燵に足を滑り込ませると香堂にも同じようにそれに入るよう促した。香堂は明日香に対する後ろめたさのせいで、明日香の眼を直視することを避けていた。子供の劣等感に似た卑屈な感情が心に歪みを作り出していた。 「ああ、もうちょっと手が温まったらな」 香堂はそう言いながらコーヒーカップを手に取ると一口音を立てて啜った。温かいコーヒーカップのせいなのか、やっと指先が温まってくると、立ち上がり炬燵に座り直した。 「なあ明日香…、もうお前もだいぶ落ち着いてきたことだし訊いてもいいか…。美咲さん遺書残してたんだろ。いったいなんで自殺なんてしたんだ」 香堂は素直に話しを切り出した。明日香はほんの少し戸惑ったような顔を見せたが、ゆっくり立ち上がるとクローゼットの小さな引き出しから真っ白な封筒を取り出して何も言わずに香堂に渡した。香堂はそれを受け取ると鋏で綺麗に開封してある部分から遺書だと思われる便箋を引き抜いた。広げてみるとそれはパソコンで入力したものをプリントアウトしたものだと直ぐに分かった。内容はごく簡単なものだった。父、弟、母の死を自分のせいだと思いつめた上の自殺だということが書かれてあった。香堂は遺書を丁寧に折り畳むと封筒に戻し明日香に返した。 「それパソコンのワープロで書いたんだな…」 明日香は香堂の言葉を全く聞いていないようで、香堂の言葉に対しては答えずに全く違う質問を投げかけてきた。 「ねえ、何で貴方が美咲の遺書を見たがるの…」 香堂は恐らくこういう質問がされるのではないかと思い答えを用意していた。 「当たり前だろ。お前の双子のお姉さんが死んだって言うのに俺はお前に気を使って今まで何も聞かないでいたんだ。今こうやってお前のお姉さんが罪滅ぼしのために死んだって分かっただけでもちょっとは気が晴れるってもんだろ。お前は一切俺に何も言わなかったじゃないか。俺から言わせて貰えば、逆に何で俺に姉さんの遺書を見せてくれなかったんだって言いたいとこだよ」 香堂の幾分強気な言葉に明日香が逆に困って言葉を詰まらせているようだった。 「そうね。私も美咲が死んでしまったことを忘れたかったのかもしれないわね。ごめんね正明。私、貴方がそこまで気を使ってくれていたとは思わなかったわ」 香堂は胸を撫で下ろしたい気分だった。 「そんな謝る程のことじゃないだろ。俺だってお前が寂しくて何も話せなかったことくらい分かってたつもりさ」 実際のところ香堂にとって美咲の遺書の内容など知りたくもないものだった。もしかすると美咲が明日香を殺して自殺に見せかけ明日香の遺書を偽造したのではないかという疑心が先走っていただけのことだった。ただプリントアウトされた真実味の薄い遺書が頭の何処かに記憶されたことは確かだった。香堂は自分の頭の中の機能を低下させようと努力した。何も考えないように努力した。ただどうしてもあの白い紐が香堂の胸と捜し求める何かを一緒に縛り付けて離れようとはしなかった。美咲本人の自筆ではなくパソコンを使っていることも香堂の頭の中にどうしても引っかかってそれを妨げていた。明日香が以前話してくれたように美咲も家族の死に責任を感じて自殺したということで自分を納得させる以外にそれを取り払う術はなかった。結局香堂は午後就職希望先の会社を訪問することを理由にアパートを去った。実際にはそんな予定は無かった。香堂の胸の中を後ろめたさの木が根を張り始めていた。 市立図書館の新聞の閲覧室にはやはり誰もいなかった。まだ午前中だからなのか、図書館全体にもまばらにしか人影は見当たらなかった。香堂は明日香達が5歳から9歳までの5年分の新聞の事件記事を3時間かけて読み終えた。しかし市居家に関する記事は見つからなかった。 壁に掛けられた大きな時計の針は正午を少し回っていた。香堂は座ったまま一度両手を高々と上げて伸びをした。それから椅子を少しだけ後ろにずらして立ち上がった。以前したのと同じように首を左右に捻り肩を回した。昼食を摂りに一旦外に出ようかと思ったが思い留まった。然程空腹感を感じていなかったことと事件記事の読みすぎで胸が締め付けられていたことが香堂をそうさせた。再びパソコンの前に座り直すと事件記事を読み始めた。読み始めて2時間程経った頃ついにひとつの記事に行き着いた。 「あった」 香堂の声が部屋に響いていた。思わず香堂は辺りを見回した。部屋に自分以外の人間がいないということは分かっていたが、まるで条件反射のように身体が勝手に動いていた。 ・父親は溺死、娘2人は軽症 平成X年XX月XX日、XX県XX市XX67ー3在住の市居 隆夫さん(32歳)がXX県XX海岸で溺死した。市居さん一家 は海水浴を楽しむためにXX海岸に訪れていた。海水浴中に双子 の姉妹が溺れているのに気づいた父親の隆夫さんが救助に駆けつ け二人を救出したが、娘二人を浅瀬まで連れてきたところで疲れ 果て溺れてしまった。二人の姉妹は近くを泳いでいた学生達が救 出したが市居さんを救出することはできなかった。その後行方不 明の市居さんの捜索活動が行われたがその日の夕方遺体となて発 見された。 香堂はその記事をメモに写し取った。ただこれだけでは何も分からなかった。何度も読み返してみたがこの記事から分かったことは明日香たちが11歳の時の出来事だということだけだった。明日香の弟の溺死も調べなければと思っていたが、また同じような記事が書かれていることは既に眼に見えていた。香堂は迷っていた。こうして市居家の事故の記事を見ているだけで明日香に対する後ろめたさが道に迷った子供のように心を惑わせた。しかし恋人である明日香の家族に起きた事故を知っておかなければならないという変な義務感のようなものも感じていた。そして今自分の持っている明日香に対する疑問を解消するための術を他に探してみた。そんな物が見つかる筈はなかった。結局弟の溺死した事件記事も見ておかなければならないという結論に行き着いた。 その記事は案外早く見つかった。記事を読むとそれは父親の溺死から一ヶ月後のことだった。明日香が言っていた通り、母親の留守中に起きた事故だと書かれていた。父親の記事と同じように何の変哲も無い事故の記事だったが、香堂はそれを全て写し取った。写し終わるとパソコンの画面を一番最初の画面に戻した。 背中を椅子の背もたれに預けて座ったまま伸びをしたその時、ポケットに押し込んである着信音の消された携帯電話がぶるぶると震えだした。弾かれたように背もたれから上体を離すと、慌ててそれをポケットから取り出し画面を覗いた。案の定明日香からだった。一瞬で自分の置かれている状況を判断し何を訊かれてもいいように答えを用意した。 「もしもし…、ああ、今会社を出るとこだよ…。ああ、もう食べた…。当たり前だろ、会社なんだから静かに決まってんだろ…、分かった。何時頃がいい…。分かった。7時だな…。じゃあ切るぞ」 香堂が電話を切るのと同時に閲覧室のドアが勢いよく開き小さな子供が2人大きな声を出しながら飛び込んできた。香堂はそれを見て胸を撫で下ろした。胸の中の空気が一気に抜けていくような安堵感が押し寄せてきた。その後直ぐに母親らしい女が入ってくると2人の子供の手を引いて部屋から出て行った。新聞閲覧室は再び静寂に包まれた。 香堂が明日香のアパートに着いた時には既に約束の時間を過ぎてしまっていた。もう日が暮れていたこともあって香堂は足音を潜めて鉄製の階段を上がっていった。明日香の部屋の前に着くと部屋側の灯は消されていたが通路側に設置されているユニットバスの、曇りガラスの填め込まれたジャロジー窓からは灯が漏れていた。それと一緒に吹き出てくる湯気が寒い外の空気と触れ合って余計に白く大きく見えた。中から水が勢いよく浴室の合成樹脂の床にぶつかる音が聞こえてきた。 「明日香、俺だよ。風呂に入ってるのか。入るぞ」 香堂は以前から明日香にアパートの合鍵を渡されていた。 「正明、いいわよ」 ユニットバスの窓から明日香の声が聞こえてきた。香堂はポケットからキーホルダーの付いた合鍵を取り出すと鍵を開けた。玄関に入ると最初眼が暗さに慣れずに光を求めていたが、徐々に眼が慣れてくるに連れて目の前にある物がぼんやりと輪郭を見せ始めた。香堂は息を呑んだ。当然風呂に入っているものだとばかり思っていた明日香が服を着てそこに立っていた。ほんの一瞬だが死んだ美咲がそこに立っているのかと思った。全身の筋肉は強張り関節がぎこちなく音を立てた。恐怖という液体が頭から流れ落ち口から這い出してくるような感覚を覚えた。慌てて以前したように手探りでスイッチを見つけるとそれを押した。香堂は恐怖を無理やり押さえつけて口を開いた。 「何だ風呂に入ってたんじゃなかったのか」 靴紐を解く手が震えていた。香堂は靴を脱ぐと床に一歩踏み出した。明日香は香堂の言葉がおかしく感じられたようで不思議そうな表情を顔に浮べた。 「湯船にお湯を溜めてたのよ。なんで」 香堂は返す言葉が見つからなかった。香堂が必死に答えを考えていると、明日香は背を向けて部屋の方へ行ってしまった。ゆっくりと舐めるような自己嫌悪の波が胸を揺れ動かした。香堂は自分の考えの過ぎたことを恥ずかしく思った。幽霊など信じる香堂ではなかったが、そんなことを咄嗟に考えた自分が滑稽にも愚かにも思えた。「何てことだ…。どうかしてる。」 香堂は俯きながら頭を小刻みに左右に小さく振ると明日香のいる部屋の方へ歩いて行った。 座っている明日香に近寄りながら用意しておいた言い訳を頭の中に引っ張り出した。 「ごめん少し遅れちゃったかな。会社の面接の係りの人が急用で遅れたもんだから」 今度は香堂の口から完璧にそれが言葉になって口から出てきた。明日香はその香堂の言葉には全く興味が無いようでテレビの画面に集中していた。言い訳など用意して来たことが無意味なことのような気がした。香堂も仕方なくその隣に座って観たくも無いテレビの画面に視線を向けた。 明日香はそのままずっとテレビを観続けていたが、香堂は観ている振りをするのに飽きて視線を部屋のあちらこちらに移していた。後に両腕を突いて左に頭を逸らした時、部屋の壁に沿って白い紐が横たわっているのが眼に入った。香堂は一瞬息を呑んだ。香堂の脳裏にテレビの光に映し出された白い紐の先端のイメージが再び呼び起こされた。しかしその後直ぐに自分自身の滑稽さと愚かさを感じずにはいられなかった。あの時明日香が隠したと思っていたロープが実はただ単にそこに置かれていただけの物だったことに気付いた時、暗闇を水銀灯で急に照らされたように一瞬で安堵感が胸に押し寄せて来た。今までの自分の行動が全て馬鹿げたことのように感じられ、身体を包み込んでいた重い空気がすっかり取り除かれたような気がした。水を得た魚のごとく心が呪縛から解放され部屋の中の空間を浮遊しているような爽快感を覚えた。当然その感覚を明日香に話すことはできなかった。そんなことをすれば話しがもつれてしまうのは眼に見えていた。 「明日香、俺、先に風呂入っていいか」 明日香は首を小さく縦に振っただけだった。余程その番組が気に入っているのか香堂の方を振り向こうともしなかった。その愛想の欠片も無い態度を見て幾分癪に障った。よくこんな下らない物を飽きもせずに見ることができるものだと関心でさえした。会話に物足りなさを感じたが、仕方なくその場を退散した。 湯船に溜められたお湯に浸かりながら冷えた身体をじっくりと温めた。全てが自分の思い過ごしだったことに気が付いたことの安堵感も合わせて温めていた。今日一日の自分の行動を記憶を辿りながら思い出し、声を立てずに笑っていた。そもそもあの日双子とすれ違ったことが明日香を疑い始めた原因なのだ。 「あいつ等が責任を負うべきだ」 そんな罪も無い双子への憤りでさえも感じていた。香堂は鼻歌でさえ歌いながら身体を洗い流すと、もう一度湯船に浸かった。じっくりと温まった身体をバスタオルで拭き終わるとそれを腰に巻いた。そしてユニットバスの曇ったアクリル板の嵌められた折り畳み式のドアを引き開けた瞬間冷たい息を呑み込んだ。そこにはうつろな眼をして顔に不気味な笑みを浮べている明日香が立っていた。香堂がドアを開けたのと同時にその眼と顔は正常に戻ったが、明日香が瞬時に後に回した両手の片方に黒い何かが握られていたのを香堂の眼は見逃さなかった。香堂の心臓はアドレナリンの体内分泌によって強く速く鼓動していた。恐怖を隠し通せるかどうか不安だった。危険で不透明な殺意が薄暗い空間を漂っているような気がした。 「どうした明日香、お前も入るのか。俺はもう終わったぞ」 香堂はあえて自分の眼に映った明日香が隠した黒い物体が何だったのかを問いたださなかった。臭いもしない嫌な臭いを嗅いだような気がした。 「え、ええ」 明日香は短く答えると、ゆっくりと服を脱ぎ始めた。香堂は自分の服を鷲づかみにするとそれを持って部屋へ戻った。部屋の照明は消されていたがテレビは点けっ放しになっていた。服を着ながらテレビを観ていると、それはさっき明日香が興味津々で見入っていた番組がまだ終了せずに続いているのだと分かった。 「おかしい…」 香堂は服を着終えると部屋を去るべき口実を探した。口実は簡単に見つかった。香堂は玄関まで歩いて行くと浴室に向かって大き目の声を出した。 「明日香、今お袋からメールで従兄弟が急用でうちに来てるって言うんだ。俺ちょっと行ってくるからな」 香堂は明日香の返事も待たずに玄関のドアを開け外に出た。その時ユニットバスの窓から明日香の声が聞こえてきた。 「もう遅いから気をつけてね」 香堂はその答えには返答しなかった。 薬缶に入ったお湯が沸騰して注ぎ口から湯気を吐き出すように、香堂の口からは白い息が短い間隔で次から次へと尾を引いて冷たい風の中に吸い込まれていった。寒く暗い夜道を香堂は俯き加減でひとり歩き続けた。誰もいる訳が無いのに時折後を振り向いた。香堂は必死に頭の中を整理しようと試みたが、最初なかなかうまくいかなかった。どこから考えればいいのか全く見当もつかなかった。しかし駅に向かって歩きながら少しずつイメージが固まり始めた。家族の死に何らかの形で明日香に成りすました美咲が関わっているというものだった。香堂は明日香の父親と弟の事故記事を記憶の引き出しから引っ張り出してみた。そしてその事故の風景を想像してみた。海水浴場で2人の娘が溺れている。それに気付いた父親がいち早く救助に駆けつける。娘2人の溺れるその現場に泳ぎ着いた時には父親は既に疲れ果てていた。2人の娘に身体を掴まれながら必死に岸に向かって泳いだ。父親は既にかなりの塩水を飲んでしまっていた。浅瀬には何人かの学生が遊んでいた。それを見た父親が最後の力を振り絞って声を出した。 「助けてくれ…」 それを聞いた学生達が3人の救助に駆けつける。娘の一人は沈みかけている父親から離れ学生達の方へ必死に泳いだ。もうひとりの娘はまだ父親にしがみついて離れない。父親が沈んでいくのを見届けるとその身体を父親から離し自分は泳ぎ始めた。 「待てよ…」 香堂は頭の中で呟いた。もしこれが事実だとしたら美咲は泳ぎがかなり上手いはずだ。泳げもしないのにそんなことをすれば自分の命だって危うくなる。美咲が明日香に成り済ましているとすれば。それを確かめるために露骨にプールに誘っても断られるのが落ちかもしれない。香堂は声には出さずに唸っていた。そして弟の事故も想像してみた。その日、母親は3人の子供達を家に残して買い物へ出かけた。3人の子供達は最初仲良く遊んでいたが、そのうち眠くなって寝てしまった。すると弟が先に眼を覚まし浴室で遊び始めた。双子の一人は眼を覚ますと弟の遊んでいる浴室へと歩いて行った。後ろから弟の背を押すといとも容易く水の入った浴槽へ落ちた。息ができないように頭を上から押さえ弟の身体が動かなくなるのを待った。動かなくなると部屋へ戻って再び双子の妹の隣に横になり寝たふりをした。母親が帰ると浴槽にうつ伏せになって浮いている息子を発見した。香堂は声にならない唸り声を出した。再び何か違和感を感じた。確か明日香は弟が溺れていた時に自分は寝ていたと言っていた。その時美咲は明日香の隣に寝ていたのだろうか。それについて明日香は何も言っていなかった。香堂は今考えていることが矛盾しているのに気付いた。もう既に双子のいずれかは死んでしまっているのだ。いくらあのうつろな眼をした双子のどちらかに聞きただしたとしても帰ってくる答えは決まっている。確かめようの無いことをいくら考えていても仕方が無い。香堂は気が動転してしまっていることに気付いた。頬を軽く叩いてみた。しかしもし香堂が想像したことの方が事実だとしたら美咲が家族を殺したということになる。それは母親も明日香も同じように殺されたと考えていいのではないだろうか。一瞬だが再び背筋に冷たい氷の塊のような物が這い落ちていくのを感じた。その時香堂は既に駅の構内を歩いていた。駅の構内にも冷たい風は容赦なく吹き込んでいた。 数人の若い利用客が自動券売機の前でポケットの中を弄っていた。切符を買って駅のホームに出ると利用客はまだ少なくはなく、香堂の胸の緊張をほんの少しだが解してくれた。やがて暗闇に溶け込んだ様々な怪しい臭いを纏って連結されたいくつもの冷たい金属の箱がホームに滑り込んでくると皆それに飲み込まれていった。香堂もその流れに乗った。その誰も逆らうことのない自然な流れが不思議に思えた。皆同じ表情を顔に浮べていた。 「いったい皆何を考えているんだ…」 香堂は足を小刻みに進めながら首を傾げていた。やがて長蛇の箱は小美味のいい電気的な音を発しながら暗闇へと吸い込まれていった。 電車のドアに近いシートに腰を下ろすと右手にある直立したステンレスパイプを軽く握った。香堂は何かを掴むことで不安感を和らげていた。そうしていないと手の振るえを止めることができなかった。窓から見える家々の小さな灯が暗闇の中を流れていく。香堂はそれらに視線を向けながら明日香の顔を思い浮かべていた。さっき見せたうつろなあの眼はいったい何だったのだろうと他の乗客に気付かれないようにほんの少し首を傾げた。そしてあの明日香の手に握られていた黒い物体はいったい何だったのであろうと頭の中で想像してみた。ただ黒く小さいだけのそれをイメージして膨らませることはできたが、真実を得られる訳は毛頭無かった。香堂は事故のイメージをもう一度頭に呼び起こすとそれを真実だと仮定してみた。答えは直ぐに見つかった。美咲なのか明日香なのかを知る術は一つもない。いずれにしても病気だということは確かだ。香堂はその結論に達すると同時に精神科の医者に相談してみることを決意していた。もしも明日香の心が病気に侵されているとしてそれを治せるのならばできるだけのことをしてやりたい。そう考えていると安堵感で胸が内側からゆっくりと膨らんでいくような感じがした。さっきまでの恐怖は何処かに消え失せ、いつの間にか使命感のような物が心の大部分を占めていた。 電車が香堂の降りるべき駅に吸い込まれていった。闇の中から急に無数の蛍光灯で照らし出された明るいホームへ入ると、その明るさで何か希望が沸いてきたような気がした。電車を降りる足取りも気のせいか軽くなった。 木々の枝々は相変わらず死んでいるかのように茶色の肌を剥き出しにしていた。その枝の間を冷たい風が吹き抜けていった。濃い灰色の光を放つ雨雲がその風に小さな氷の結晶をちりばめ始めていた。剥き出しの頬が爛れているのかと勘違いしてしまう程疼いていた。冷たく硬い金属の薄い板で挟まれているような感覚が耳を包みこんでいた。 広い敷地内にいくつかの病棟を持つその病院の相談室に精神科医を目の前に緊張している香堂の姿があった。香堂は昨日決意した通り精神科医に明日香の症状が病気なのか否かを確かめに来たのだった。医師の話を聞くだけでも心の中の不安が幾らかでも和らぐことを期待していた。香堂は明日香の以前とは180度変わってしまった態度や日常生活、家族に起きた悲惨な事件などを医師に説明した。その医師はしばらく考えていたがゆっくりと話し始めた。 「んんん…、本人に会ってみないことには何とも言えませんが、話を聞いた限りでは病気の可能性が無いとは言い切れません。心の病気にはいくつか種類があって、それをまた症状によっていくつかに分けています。お聞かせいただいたその方の行動だけではどの病気なのかを判断することはできませんが、幻聴や幻覚、妄想が激しかったり興奮の度合いが過ぎるようであれば一度こちらに連れていらっしゃることをお勧めします」 妄想と興奮、どちらも明日香に当て嵌まっていると香堂は思った。しかし明日香に精神科医に診察してもらえと言うことが果たして自分にできるであろうか。そんなことを言うとまたあのうつろな眼を見せられることになるのではないかと不安になった。香堂は内からこみ上げてくる寒気のようなものを必死に堪えた。 「分かりました。でも先生、もし嫌がった時はどうすればいいでしょう」 香堂は真剣だった。まだ明日香が病気だと決まった訳ではなかったが、美咲の自殺以後のあの変わりようを見ている香堂にとっては藁をも掴みたい心境だった。 「その時はまた相談にいらして下さい。どうしたらいいか考えてみましょう」 医師は忙しいようで、そう言い終わると直ぐに立ち上がった。それに釣られて香堂も立ち上がった。香堂は医師に礼を言うと深々とお辞儀をしたが、頭の中で明日香が診察を受け入れなかった時の行動を想像し不安で仕様が無かった。できることならばこの精神科医にアパートまで出向いてもらい、明日香の様子を見てもらいたいとまで思っていた。医師が部屋から出て行った後も香堂は呆然とそこに立ち尽くしていた。重い空気が再び身体を包み始めたような気がした。灰色の雲はその色の濃さを一段と増したように見えた。窓の外を斜めに降る小さく細かい雪が風の吹く方向を差し示していた。 雪が地表を薄っすらと白く染め始めていた。道行く人々は足元に視線を落とし滑らないように気を配りながら歩いていた。白く染まっていく歩道を見て喜んでいるのは小さな子供達だけだった。 さまざまな大きさの足跡のついた歩道を歩きながら、遣り所の無い自分の疑問に香堂の胸は縛り付けられていた。果たして明日香は診察を受け入れるだろうか。殆どの人が嫌がるように明日香も例外ではないだろう。どうやって説得すればいいのだろうか。そんなことを考えながらいつの間にか駅の構内を歩いていた。携帯電話が振動を身体に伝えながらメロディーを奏で始めた。香堂は立ち止まってそれをポケットから引っ張り出すとカラー液晶の画面に視線を落とした。明日香からだった。 「もしもし…」 香堂の声には張りがなかった。以前ならば明日香から電話が掛かってくると楽しい気分にさせられたが、今となってはそれが懐かしく感じられた。何故こんなことになってしまったのかと理由の知り得ない運命のいたずらに憤りを感じた。 「ああ…。まだ食べてない…。昨日話した従兄弟の家に行ってその帰り道さ…。ああこっちも降ってるよ…。ああ…。ところでお前午後は暇か…。じゃあ今から行ってもいいか。時間掛かるけど…。分かった。じゃあ…」 香堂は電話を切った後もその場を動こうとはしなかった。香堂の眼もじっと動こうとはしなかった。それはまるでバッテリー切れのロボットのように身体を動かすための原動力が寒さで凍りついてしまったかのようにも見えた。いつの間にか自分と明日香の間に入り始めた亀裂は、これから自分のしようとしていることでもっと大きく広がってしまうだろう。そしてその亀裂は2人を引き離し元に戻すことのできない複雑な形になってしまうだろう。しかし明日香をあのままの状態で放置して置く訳にはいかない。明日香本人のためにも精神科医の診察を受けるよう促さなければならない。香堂はそう決意するとゆっくりと歩き始めた。隣をすれ違う利用客の手にした雪混じりの濡れた傘が香堂のジーンズを掠め濡らしていった。 第三章 ー 病 ー へ https://ofuse.me/e/16570
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