世間を行き交う人々の未だ正常に機能していない頭の中には七草粥の残像が映ってでもいるのか、その顔には幾分真剣さが足りないように見えた。冷たく乾き切った風がだらしなく衰えた心を切り刻むように街を吹き荒んでいた。 引っ越したばかりの明日香のアパートには数えられる程の年賀状しか届かなかった。その届いた少ない年賀状を見て、まるで明日香が世間から切り離され、忘れ去られてしまったように思えた。小さな泡をたてながら水に沈んでいくひとつの石ころのように心が落ち込んでいくような気がした。届くべき年賀状の代わりに、郵便受けに明日香たちが以前住んでいた家の売買を委託してある不動産会社から送られてきた大きめの封筒が差し込まれていた。開封するのは気が引けたが、今の自分達の置かれている状況を考慮してその封筒を開いてみることにした。中には数十枚の葉書きと白い紙が入っていた。その白い紙には委託されている家に届いた葉書きを転送した旨が書かれてあった。葉書きの殆どは年賀状だった。香堂はそれを見てほんの少しだが心の病に冒されている明日香の世間に対する面目が立ったような気がした。葉書きの宛名を見るとそれぞれ明日香と美咲のものになっていた。裏返して読んでみると年賀状の他に成人式の招待状が含まれていた。何かの手違いで美咲への招待状も送られてきてしまったのだろう。香堂はその葉書きを手にしながら何か記念になるものを明日香に送ろうと思った。かといって職の見つからない香堂に高価な物が買えるはずもなく、考えた挙句ジグソーパズルを贈ることにした。それならきっと明日香も喜んでくれるだろうと思った。香堂は大きな封筒から明日香宛の葉書きだけを引き抜くとそれを持ってアパートを出た。 トイショップでは大勢の子供達が声を上げて騒いでいた。お年玉を貯めたお金で何か好きなものを買おうとそれぞれ興味のあるコーナーでそれらを手に取っては戻し、また違うものを取っては眺め回していた。香堂は小さかった頃の自分を思い出して懐かしさが胸に込み上がってきた。しばらくその光景を眺めていたが、前を通りかかった店員に気付くとそれを引き止めた。 「あっ、済みません。ジグソーパズルのコーナーってどの辺にありますか」 店員はその方向を指差しながら殆ど考えずに即答した。 「お店の一番奥の角です。15番と書かれている札がありますので直ぐに分かると思いますよ」 香堂が軽く礼を言うと店員は今度は子供に呼び止められて、やはりその子供が探している品物のコーナーを指差しながら説明していた。香堂には交番にいる警察官より余程この店員の方が忙しそうに見えた。子供に対しても大人と同じ態度で対処するその店員が道案内ロボットのようにも見えた。香堂は店員が指し示した方へ歩き出した。 パズルのコーナーにはひとりの影も見当たらなかった。恐らく子供達にはあまり人気が無いのだろう。香堂は立てて置かれた大小のパズルの箱を端からゆっくりと物色していった。明日香の部屋にあるパズルと同じ大きさの花の絵が描かれているものを探していた。それは簡単に見つけることができた。様々な色のチューリップの絵柄だった。香堂はそれを棚から引っ張り出すと両手に取って眺めてみた。これならきっと喜んでくれる。それを手にしたままレジに向かい直ぐに支払いを済ませた。 店を出る時に振り返るとまだ子供達は手に取った好きな物に食い入るように視線を落としていた。再び子供の頃の記憶が蘇ってきた。ほんの一瞬だったが、その懐かしい光景が長い間忘れてしまっていた情熱を思い出させてくれたような気がした。 病室のドアを2度ノックした。香堂は明日香の返事を少しの間待ってみた。その間じっとそこに立っていたが、結局明日香からの返事は無かった。胸の中で再び寂寥感が凍結した。仕方なくドアを押し開けると、昨日来た時と同じように窓の方に向かってベッドの上に座っている明日香の背中が見えた。その後姿だけを見ていると、昨日病室を去った時からこの時まで全く動かなかったのではないかと思える程同じ位置に同じ格好で座っていた。その姿を見ているだけで悲痛という名の杭で胸を突き刺されたような思いがした。 「明日香、元気か。これ持ってきた」 買ってきた小さなジグソーパズルを棚に置いた。香堂は成人式の招待状を渡すのを躊躇った。出席できない成人式の招待状を見せて明日香が興奮状態になることを恐れていた。黙って嘲笑する明日香を目の前にしてしばらく考えて見たが、結局招待状は渡さないことにした。 「明日香、お前もう20歳なんだな」 香堂が何を話しても何の反応も無かった。買ってきたジグソーパズルに少しでも喜びの反応してくれるのかと期待していたが、どうやらそれも間違っていたらしい。大きく的を外し、闇夜に光る満月のような丸い穴がぽっかりと胸に開いたような気がした。香堂は耐え切れなくなって病室を出た。 病室の外に置いてある長椅子に腰掛けて平静を取り戻そうと努力してみた。しかし一向に胸の中の寂寥感を拭い去ることはできなかった。身体が暗く空虚な穴の中に引きずり込まれていくような気がした。何故ひと言も話さないのだろう…。 「当たり前だ、怒ってるに決まってる…」 香堂はがっくりと項垂れた。明日香に対して何をしてあげればいいのか全く分からなくなった。砂漠で迷った旅人のように方向を見失ってしまったような途方もない諦めの念が胸を突いた。 寒い病棟の廊下を看護婦がひとり小さな足音をたてながらこちらに向かって歩いてくるのが眼に入った。香堂はその看護婦が自分の前を通り過ぎていくものだとばかり思っていた。看護婦は香堂の隣に距離を置いてそっと座った。香堂はほんの少し面食らってその看護婦に不思議そうな顔をして見せた。 「香堂さんですよね…。小林先生からお聞きしました。そんなに気を張ってお見舞いなさったら貴方の方が病気になってしまいますよ。まだ治療は始められたばかりなんですから、そんなに早く治る訳ありませんよ。変な言い方ですけど明日香さんをお友達だと思って見舞ってあげるともっと気分が楽になるかもしれませんよ。何があったのかは私には分かりませんけど、あまり自分を責めない方がいいと思いますよ。兎に角急ぐことありませんよ」 そう言うと香堂の返事も待たずに行ってしまった。しかし香堂は少なくともこの看護婦の言葉で自分の胸の中の寂寥感が少しでも和らいだことに感謝していた。 香堂は再び部屋の中に入った。今度は笑顔で入っていった。明日香は相変わらず動こうとはしなかった。 「明日香お前パズル好きだったろ。今度それ組み合わせて俺に見せてくれよ。今日は俺帰るよ。明日会社の面接があるんだ。約束だぞ。組み合わせてくれよ」 香堂はそう言い終わってから明日香の返事を期待していない自分に気付いた。こうしてゆっくり付き合っていけばいつかは答えてくれるようになるような気がした。ふと明日香の顔がほんのり夕日に照らされているのに気付いた。窓の外には夕日に照らし出されたオレンジ色に光る松の木が魂を得たかのように光り輝いていた。 長い灰色の砂浜に降りたって海を眺めると波が幾重にも重なって見えた。灰色の空と海を隔てているはずの水平線はぼんやりとしか見えなかった。引き潮のせいか砂浜から生臭い臭いが立ち込めていた。香堂は自分のせいで明日香が自殺を謀ったことを思い詰め過ぎて、自分の精神状態が均衡を保っていないような錯覚に陥いっていた。このままではいけないと思った香堂は、ひとまずパズルの組み合わせを中断して、気分転換も兼ねて明日香の父親の溺死した海岸を訪れていた。もしかすると明日香の治療に役立つかもしれない双子の幼少期の環境を感じ取ることができるかもしれないという思いがその場所へ香堂を後押しした。 砂浜をゆっくりと歩きながら明日香と美咲が遊ぶ風景を頭の中でイメージしてみた。最初のうちは遊んでいる2人のイメージが、次第に真剣に何かを話し合う2人のそれに変わっていった。2人は沖に出てみることを話し合っていた。2人は沖に出ると溺れてしまった。父親が2人の救助に駆けつけた。そして美咲に掴まれ疲れ果てた父親が沈んでいくイメージが最後を締めくくった。 「これじゃあ気分転換にもならない」 香堂は頭を小刻みに左右に振った。冷たい潮風とその仕草で香堂の髪の毛が不規則に靡いた。香堂は波打ち際で立ち止まった。海に視線を向けながらも心の中で見ているのは明日香の顔だった。明日香の病気の原因がいったい何なのかは全く見当も付かなかったが、その原因を突き止めたかった。何とか明日香を治療することはできないものだろうか…。いくら考えてもそのきっかけでさえ自分の頭の中には見出すことはできなかった。底知れない寂寥感が胸を襲った。波が砕け香堂の足元まで押し寄せてきた。香堂はそれを素早くよけると防波堤の方へ向かって戻り始めた。 古い看板の掛けられた食堂の貧相なテーブルを前に腰を掛けた香堂は、いつ注文を訊きに来るものかと初老の女将の動きを眺めていた。昼食時とあって古い食堂の中には大勢の客が入っていた。女将は気の毒なくらい急がしそうに店の中を行ったり来たりしていた。香堂は一度その食堂を出てしまおうかと思ったが、その近辺の地理に詳しい訳でもなく仕方なくその女将が注文を訊きに来るのを待ち続けることにした。 ついに女将は香堂のテーブルの前で足を止めた。疲れ果てたような表情が顔に滲み出ていた。香堂はそれを見て幾分気の毒に思った。家で毎日家事をこなす母親の顔が一瞬脳裏を横切っていった。 「済みませんでしたね、遅くなっちゃって」 香堂は顔にぎこちない笑みを浮かべながら首を横に振った。仕方ないことなのだと諦めていた。 「何にいたしましょう」 「ラーメンとカツ丼をください」 香堂がそう答えると女将は厨房に向かってそれを繰り返した。厨房の中から返事が返ってきた。女将は直ぐに行ってしまったが、直ぐに水の入った小さなグラスを持って戻ってきた。それを香堂の眼の前に置くと今度は厨房へ入っていった。 香堂の注文の品がテーブルに届いた頃には、他の殆どの客は食べ終わって支払いをし始まっていた。香堂はそんなことには構いもせずに目の前にある食事に没頭していた。食べ終わって水の入ったグラスの縁を口に押し付け顔を上げると食堂の中には殆ど客は残っていなかった。女将もほとほと疲れ果てたのか動くスピードが半分以下になっていた。しばらくすると女将は香堂の目の前に置かれた空の食器をさげにテーブルまでやってきた。 「お客さん、この辺の人じゃないでしょ」 女将は話しながら手を休めようとはしなかった。あっという間に香堂の目の前にあった空の食器が盆に移され、テーブルは綺麗に拭き取られていた。 「ええ」 香堂は食べ過ぎでげっぷを堪えながら返事をした。 「やっぱり…。何でまたこんな寒い時期に来たんですか。こんな寒い時期滅多にこんなとこに来る人なんていないのに」 香堂は幾分返事に詰まった。 「ちょっと複雑なんです…、十年くらい前この海岸で友人のお父さんが溺れて死んだんです。一度でいいからその海岸を見てみたいと思ってこうして来てみたんですが、やっぱり寒いですね」 別に隠しても意味が無いので本当のことを言った。香堂は軽い口調で言ったつもりだったが女将は真面目な顔をして首を傾げた。 「お客さんのそのお友達って言うのはもしかして双子じゃないですかね…」 香堂は眉間に皺を寄せながらほんの少し頭を後に仰け反らせた。女のその言葉に興味をそそられた。 「そうですが…」 「あの時は波が高くってねえ…、多分疲れ切っちゃったんじゃないかってうちの息子が言ってましたよ。たまたまうちの息子が同級生と遊んでましてね、親子三人が浅瀬にやっと泳ぎ着いた時に気が付いたらしいんです。娘さんたちは助けることができたんですがお父さんの方は助けられなくて行方不明になってしまいましてねえ。可哀想に…」 香堂は女将が恐怖感を抱いてしまうくらい自分の形相が変わってしまっていたことに気付いていなかった。驚いたような顔をしている女将に気付いて、その原因が自分の形相にあるということを知った。無意識のうちにできていた深い皺を眉間に感じ取った。瞬時に皺を伸ばすように額の筋肉を動かしてみた。女将は最初何事が起きたのかとしばらくの間口を閉じるのを忘れている様子だったが、香堂の額から皺が消えてなくなるのと同時に表情を和らげた。香堂にはその強張った顔の肉が蕩けていくように見えた。 「女将さん…、できたら息子さんと話をさせてもらえないでしょうか」 女将はそれを聞くと顔だけでなく心も和らいだようで、顔を厨房に向けると張りのある声でその旨を息子に伝えた。 「浩二、前に溺れて死んだ双子の父親がいたろう…、その時のこと詳しく聞きたいってお客さんが言ってるよ。手が空いたら話し聞かせてやんなさいな」 再び厨房の中から返事が聞こえてきた。 浩二という名のその息子はこの食堂の跡を継ぐらしく父親のような男と厨房の中で料理をしていた。丁度タイミングよく手が空いたらしく、香堂のテーブルにやってくると反対側に腰を下ろした。香堂は小さくお辞儀をして見せた。浩二もそれに合わせてお辞儀をした。 「双子と父親三人が溺れた時の話しですよね」 浩二は自分が今から何を話すべきかを香堂に確認した。 「ええ」 香堂は小さく頷いた。この海岸に来てまさか双子を救助した人間と話ができるとは思ってもみなかった。香堂は息を呑んだ。 「私と高校の友達とでたまたま遊んでいたんです。後から助けてっていう声がしたんで振り向くと10メートルほど離れたところで双子を乗せた父親が溺れかけているのが目に入ったんです。慌てて駆けつけると双子のうちひとりは私達に気付いて父親から離れて自力で泳いで私のところまで来ました。その時にはもう父親の方は双子のもう一人の方を背中に乗せながら沈みかけてました。沈んだかと思うともう一人の双子がやはり自力でこちらに向かって泳ぎ始めたのでそれを私の友達が救助に行きました。他の友達も父親を救助しに行ったんですが結局見つかりませんでした」 見ている視点が違うだけで浩二の見た光景も自分の想像とほぼ変わりはないと香堂は思った。 「その時の双子に何か変わった点はありませんでしたか」 香堂の質問に浩二はほんの少し身を乗り出した。 「ええ、私もちょっとおかしいなって思ったことが幾つかありました」 浩二の言葉に香堂は身を乗り出した。浩二はそれを眼で確認すると再び話を続けた。 「私の友達に助けられた女の子が、私の腕を掴んでいる女の子に向かって叫んだんです。男の名前を…。私は多分女の子の気が動転して父親の名前を叫んでるんだろうと思いました。娘が父親の名前を呼び捨てにするなんておかしい話ですがね。弟は砂浜にいたようだし、他に男と言ったら父親しかいませんからね」 香堂は再び息を呑んだ。香堂は頷く以外に何もできなかった。 「そしたら私の腕を掴んでいる女の子がそれに答えたんです。大丈夫よ何とかって…。名前は忘れちゃいましたけど…。その時は不思議に思わなかったんですけどね、その晩テレビでその事故のニュースを見ていたら私の腕にしがみ付いていた女の子の叫んだ名前と友達の助けた女の子が叫んだ父親の名前が私が聞いたのと全く違うんです。変だなあって思いましたよ」 香堂の心臓は普段よりも速く鼓動していた。しかし浩二の話からすると双子のどちらが最後まで父親の背中に乗っていたのか分からなかった。 「男の名前を叫んだっておっしゃいましたがその名前は覚えてませんか」 浩二はその質問には直ぐに答えることができないようだった。何か重要なことを浩二が知っているのではないかという思いが香堂の心を幾分焦らせていた。首を傾げている間小さな間ができた。 「かなり前の話ですから私もそこまでは覚えてませんね」 その言葉に香堂の肩がぐったりと力無く沈んだ。香堂は浩二に礼を言うと支払いを済ませ食堂を出た。香堂には激しく鼓動する心臓のせいで頬を刺す冷たい風を感じ取ることができなかった。 香堂は再び砂浜を歩いていた。いつも自分がイメージする親子3人の事故を思い出し浩二の話と照らし合わせてみた。浩二の話では彼の腕にしがみ付いていたのは恐らく明日香だろう。もし明日香が父親から離れて自力で泳ぎだした時、美咲も明日香と同じように父親から離れていれば父親は溺れずに済んだかもしれない。しかし11歳の小さな子供が父親を殺すようなことをするだろうか。考えている全てが推測の域を超えることはなかった。もどかしいその推測が再び病院にいるあの患者が誰なのかという疑問を蘇らせた。 「待てよ…」 香堂は小さく呟いた。それと同時に濃縮されたたった一滴の不安という液体が胸の中に滴り落ち、じわりじわりと広がっていくよう感覚に身を捉われた。香堂は立ち止まった。 「もし父親の事故を皮切りに全て美咲が手を下したことだとすると病室にいるのは美咲なのか…」 美咲は母親と明日香までも殺してしまったのだろうか。そうでなければあの明日香の豹変してしまった態度をどうしても説明することができない。香堂は頭を小刻みに左右に振った。再び明日香に対する疑心が蘇ろうとしていた。潮風が香堂の髪を揺らしていた。その時後から波の音に混じって叫ぶ声が聞こえた。 「お客さん」 香堂が後を振り向くと、さっき話をした浩二が鞄を手にぶら下げて勢いよく走って来るのが目に入った。その鞄を見て恥ずかしさが柔らかい綿飴のように胸に広がった。浩二の話が興味深いものだったので持ち慣れない鞄を置き忘れてきてしまったのだ。浩二は香堂の目の前に来る直前に走るのを止め、勢い余って数歩だけ歩み寄って止まった。 「お客さん、これ…忘れ物」 浩二は持ってきた鞄を香堂に手渡した。浩二の肩が激しく上下していた。 「いやあ、わざわざどうも済みませんでした」 香堂は丁寧にお辞儀した。浩二は口から言葉を出すのが辛いようで右手を顔の前で左右に振った。香堂はその浩二の仕草を見て大したことないと言っているのだろうと勝手に解釈した。それでも深刻な顔をしている香堂に向かって無理やり口を開いた。 「お客さん…、そんなに深刻な顔して…どうしたんですか…。あんまり深く考えない方が…いいですよ」 香堂はその浩二の言葉に造り笑顔をして見せた。浩二もそれに合わせて笑顔を浮かべたが荒い息に邪魔されて直ぐに掻き消されてしまった。浩二は息を整えるために3度深呼吸をした。香堂はそれを眺めていた。浩二の息に釣られて自分の呼吸も荒くなったような気がした。幾分楽になったのか再び浩二が口を開いた。 「こんなこと言うと怒られるかもしれませんがね、私も客商売やってるからいろんな人の顔を見てますけど、あの時の双子の目を私はどうも好きになれない。実を言うと私は今まであの双子はわざと父親の背中に乗ったんじゃないかって思っているんです。お客さん、怒らないでくださいね。あれは尋常じゃありませんよ。お客さんもあまり近寄らない方がいいと思います。余計なお世話ですがね…、触らぬ神に祟り無しって言うやつですか。お客さん気をつけて帰ってくださいよ。ありがとうございました」 そう一気に言葉を吐くと後を振り向いて再び勢いよく駆け足で帰っていった。香堂は浩二の言っている双子というのは美咲のことを言っているのだろうと思った。浩二の勘の鋭さに幾分驚かされた。香堂の背筋に冷たいものが足跡を残して通り過ぎていった。浩二は溺れていた双子を助けたその短い間に美咲の何かを感じ取っていたのだ。香堂はもしかすると浩二の好きになれない美咲の眼というのはあのうつろな眼のことを言っているのではないだろうかと思った。香堂は今歩いてきた砂浜を戻り始めた。今まで左側に靡いていた香堂の髪が右側に靡き始めた。 電車の車輪が鉄の線路の繋ぎ目を通過する度に発する心地よいリズミカルな音が耳にこだましていた。香堂がその電車のシートに腰を据えた時目の前のそれには誰も座っていなかった。途中電車が停車すると双子の女の子とその弟だと思われる男の子、そしてその母親なのであろう女がそれを占領した。男の子は香堂の隣に腰掛けた。香堂はその4人連れの親子と窓の外の流れる風景を交互に眺めた。香堂の頭の中には海水浴帰りの5人であるべきはずの4人家族のイメージが浮かんでいた。夫を亡くした妻は悲しい顔をして黙って俯いている。弟は何も知らずに買ってもらった安物の玩具を手に遊んでいる。双子の1人は窓の外を眺めている。母親の隣に座る双子の1人は笑みにならない不気味な笑みを顔に浮かべている。4人のうち3人はこれがこれから起きる全ての不幸のプロローグだということを全く知らずにいる。それを知っているのは美咲ただ1人なのだ。そんな醜い思惑を載せた電車が走り続けている。香堂はそんなことを想像しながらひたすら電車の揺れに身を任せていた。 4人連れの親子は電車が停車するとそそくさと荷物を持って降りていった。香堂はその後姿を見ながら首を激しく横に振った。窓の外にはホームの端に立って携帯電話を耳に当てながら不安そうな顔を覗かせている男が見えた。香堂は明日香から双子の姉の美咲が自殺したことを知らされている自分のイメージをその男に重ねていた。電話を掛けてきたのは明日香ではなく美咲だったんだ。美咲が明日香を殺して自殺に見せかけたんだ。そうに違いないと香堂は思った。それは病室にいる明日香が実は美咲だということを意味している。そう思うと憤りが胸に押し寄せてきた。しかし香堂は再び過ちを犯してしまうことを恐れていた。その過ちが再びあの病室のベッドに座るあの患者を死へと追い込んでしまうのではないかと不安になった。香堂は首を縦に振ってみた。そしてあのベッドに座っている患者は明日香なのだと何度も何度も自分に言い聞かせた。そうしているうちに再び香堂の心の中に蘇ってしまっていた疑問がゆっくりと薄れていった。香堂は再び流れ始めた窓の外の風景に視線を向けていた。しかしその視線の先には寒く寂しく佇む街並みではなく優しい明日香の微笑む顔があった。 香堂の生活はいつしか自宅、アパート、就職活動、病院の4つを行ったり来たりするだけの単調でくだらないものになっていた。その上いつも手応えを感じることのできない長引く就職活動を馬鹿馬鹿しく感じ始めていた。 その日香堂は明日香のアパートで朝からパズルを組み合わせていた。組み合わせ始めてから数日が過ぎていたがまだ5分の1程しか組みあがっていなかった。毎日の明日香への見舞いと会社訪問で疲労が溜まり思考がほぼ停滞してしまっていた。炬燵に足を入れながらその場に寝そべっていると誰かが階段を登って来る振動が身体に伝わってきた。その振動は今香堂がいるまさにその部屋の玄関のドアの前で止まった。止まったかと思うとガチャガチャとドアに取り付けられた新聞受けに何かを押し込んでいる音がした。その音がしなくなると今度はさっきと逆のパターンで振動は遠退いていき、終いには香堂の身体は全く振動を感じなくなった。香堂は郵便配達が電気の請求書でも持ってきたのだろうと思いそのまま放っておくことにした。 再び上体を起こすとパズルの欠片をひとつ摘んでじっくりと絵柄を眺めてみた。それをぽとりと落とすと今度は違うのをひとつ摘んでまたじっくりとその絵柄を眺めた。そうこうしているうちに10個程の欠片が納まるべきところに納まった。香堂は立ち上がって伸びをした。伸びをしながら明日香は今頃何をしているのだろうかと考えていた。看護婦からのアドバイス以来香堂はなるべく楽しかった頃の明日香の顔をイメージするよう心がけていた。その明るい明日香の顔を思い浮かべると、自然と力が沸いてくるような気がした。看護婦に言われた通り気長に付き合っていくしかない。慌てれば慌てる程明日香を思う心が逸り胸を締め付けてしまう。 「俺が余裕を無くしているようじゃ明日香を治すことなんてできる訳ないじゃないか」 香堂はそう何度も自分に言い聞かせた。 コーヒーを飲もうと台所に行くと玄関のドアの郵便受けに差し込まれた厚く膨れ上がった茶色い封筒が目に入った。玄関に近づくと、それがこの前届いた不動産会社からの封筒と同じ物だということが直ぐに分かった。香堂はその封筒を郵便受けから引き抜いた。もうその大きな封筒を開封するのに気が引けるということは無かった。その場で直ぐに大きな封筒の端を摘むと少しずつ千切っていった。中を覗くとそこには2つの封筒とやはり白い紙が入っていた。その白い紙には以前と同じように明日香たちの以前住んでた家に届いた手紙を転送した旨が書かれてあった。香堂はその白い紙を封筒に戻し一旦部屋に戻った。炬燵の天板がジグソーパズルの欠片でほぼ完全に埋まってしまっていたので、それを炬燵布団の上に置いて自分は炬燵に足を滑り込ませた。左手を伸ばし封筒の中に入っている2通の封筒を取り出し膝の上に乗せた。一通は薄かったがもう一通の方は逆に厚すぎるくらいだった。薄い方の封筒を手にすると宛名を確かめてみた。市居美咲と書かれていた。書かれた文字はまるで子供の書いたぎこちなく不揃いの字だった。裏返して差出人を見た香堂は首を傾げた。そこには同じぎこちない文字で市居美咲と書かれていた。住所を確認してもう一度表側を見ると住所も全く同じだった。香堂はしばらくの間考えていた。そして直ぐにその結論が出た。香堂は小学校などの行事によくある、未来の自分に手紙を書いてカプセルに入れ地中に埋めておき、その時が来たら誰かが掘り起こし投函するそれだと思った。香堂は「その時」というのが恐らく成人を迎えた時なのだろうと思った。恐らくもう一通の方は明日香の物だろう。もう一通の厚い封筒を手に取ると宛名と差出人を確かめてみた。やはり明日香のものだった。香堂はその2通の過去から来た手紙をどうしても読んでみたい衝動に駆られた。しかしいくら病気の明日香がそれを読もうとしないことが分かりきっていても、せめて本人に話してから開封しようと思った。香堂は2通の封筒を不動産会社の大きな封筒に差し戻すと再びパズルの欠片を摘み始めた。しばらくしていくつかの欠片がパズルの絵柄に吸い込まれていった。香堂は手を止めた。再び手紙を読んでみたいという衝動が香堂の心を捉えていた。香堂はゆっくりと立ち上がるとジャンバーを羽織った。そして茶色い大きな封筒を手に部屋を出て行った。 病院に着く頃には幾分陽は西に傾き始めていた。傾いた西日が病棟の反対側の空間に寂しく暗い陰を凝縮させていた。冷たい風が手を悴ませた。 相変わらず座りながら顔に嘲笑を浮かべる明日香の眼の前にそっと立った。明日香はその小さな身体を動かそうとはしなかった。眼球の表面についた網膜だけが微かに震えるように上下左右に動いていた。 「明日香…これ届いたんだけど」 返事を期待してはいなかったが、少しでも反応を示してくれるのではないかという気持ちが心のどこかに見え隠れしていた。大きな封筒から二通の過去から来た手紙を引っ張り出し明日香の隣に置いた。明日香は嘲笑を浮かべたままやはり何の反応も示さなかった。 「多分これお前達が小さい頃に書いた自分宛の手紙なんだろ…。お前が治るまで俺待ちきれそうにないよ。美咲さんの手紙も届いてるけど、これはお前が読まない方がいいんじゃないかと思うんだ。俺お前のも読んでみたいんだ。もしかするとお前の治療に役立つかもしれないだろ。な、いいだろ…」 明日香の眼が中空に浮かぶ何かを追いかけているように見えた。香堂は俯いていた。できることならば明日香が自分でその手紙を開封して手渡してくれることを期待した。しばらくの間ふたりは静寂で包まれた病室の中で凍りついた人形のようにそれぞれの場所で動こうとはしなかった。やがて香堂は自分の期待が叶わないことを知ると、硬く閉ざしていた口を開いた。 「お前の前で開けるのはやっぱり俺気が引けるよ。お前の部屋で開けることにする。いいだろ明日香」 香堂がいくら話し掛けても明日香はそのままの姿勢でそのままの視線を保っていた。香堂は仕方なくその二通の過去からの手紙を大きな封筒に戻した。 「なあ明日香。俺お前のお父さんが亡くなった海岸へ行ってみたんだ。お前に何があったのかは俺にはちっとも分からないけど、あんまり深く考えるなよ。な…」 香堂は明日香の肩にそっと手を当てた。明日香の体温が手に伝わってきた。香堂は眼に溜まっていく涙を拭かずにはいられなかった。香堂の頬の真下には明日香の膝があったからだ。香堂は右側に視線を移しながらゆっくり後ずさった。その時成人のお祝いにと送ったジグソーパズルの箱が眼に入った。その箱は香堂がそこに置いた時のままの状態で棚の上で佇んでいた。香堂はゆっくりと深い溜息を一つついた。悲しみが口から這い出てくるような気がした。 「明日香…、お前パズル嫌いになったのか…」 香堂は話すのが辛くなって、黙り込んでしまった。溶かした鉛を流し込んで固めたような苦しさが胸に残った。そして再び静寂が二つの凍った人形を包み込んでいった。 幾重にも重なるパズルの欠片が炬燵の天板の上に小さくなだらかな山を作っていた。香堂はその上に大きな封筒を置いた。炬燵に足を差し込んだまま両手を後についた。そしてしばらくの間二通の手紙を開封すべきか否かを考えていた。やはり明日香の回復を待った方がいいのだろうか。明日香に開封させた方がいいのだろうかと迷っていた。香堂は後ろについていた両腕で上体を弾くように前に乗り出した。そして大きな封筒を手に取ると、その中から二通の過去からの手紙を取り出し膝の上に置いた。大きな封筒は炬燵の左側の布団の上に投げ置いた。膝の上に置いたその二通の手紙を眺めていると、再びどうしても読んでみたいという衝動が香堂の心を縛り付けた。心の奥底から突き上げてくるようなその衝動をとうとう抑え切ることができなかった。心の中で美咲と明日香に謝罪した。それからゆっくりと美咲宛ての過去からの封筒の端を摘むとそれを千切り始めた。手紙を読み始めた時点で衝撃を受け、そして驚愕した。背筋を凍りついた戦慄が走り抜けた。 未来のお前へ お前は自分の父親を殺したんだ。俺は知っている。お前があの時あの海岸で父親に何をしたか…。近付いてくる父親を見てお前は言われた通り溺れている振りをしたんだ。お前は父親が嫌いだった。いつもお前達に悪さをする父親をな。しかし父親にしがみ付くあいつを見てお前は怒ったじゃないか。父親にじゃない。あいつを怒ったんだろ。「私が殺すんだ」ってな。そしてお前も父親にしがみ付いたんだ。俺は知っている。お前は泳げたはずだ。なのにお前はわざと泳ごうとしなかった。泳げもしないあいつが助けに来た餓鬼どもの方に向かって必死に泳ぐのをお前は笑いながら見ていたんだ。父親の背中に乗ってな…。そして父親が沈んでいくのを最後まで見ていたんだ。父親の背中に乗ってな…。あの時最後に父親が叫んだじゃないか。離せってな。お前は大した奴だ。俺もあそこまでお前がやれるとは思ってなかった。 待てよ…。もうひとつあったじゃないか…。俺もあいつが嫌いだったよ。あの忌々しい糞餓鬼めが…。俺は知っている。あの日馬鹿な母親がいなかった時だったよな。お前は一隆が風呂場で遊んでいるのを注意してやったんだろ。でもあの糞餓鬼はお前の言うことを聞かなかったんだ。お前は言われたとおりあの糞餓鬼が湯船に近づいた時少しだけ押してやったんだ。まだ2歳そこそこの餓鬼さ。腕を捻るよりも簡単だっただろ。頭まで押さえつけるなんてこと俺にも考えつかなかったぜ。お前は仰向けに沈んでいるあの糞餓鬼の頭を何度も何度も指で突いていたじゃないか。お前は流石だ。この調子でいけばこの手紙が届く頃にはあの馬鹿な母親もうるさい明日香でさえもお前に沈められているだろうな。おい、もし今お前がこの手紙を読んでいる隣に明日香がいるのか。それともあの馬鹿母がいるのか。早く沈めちまえ。お前と俺だけで十分じゃないか。俺は知っている。お前がもう奴等を沈めたってことをな。また合おうぜ弘美…。 博隆 香堂は慌てて封筒の宛名を確かめた。間違いなく市居美咲と書いてある。香堂の全身を冷たい何かが覆い尽くした。全身の毛穴から冷たい何かが入り込んでくるような気がした。掴み所のない異様な恐怖が頭の中を駆けずり回った。香堂は手紙を放り捨てた。 「何なんだこれは…」 香堂の口が無意識に言葉を発していた。どうしていいのか居ても立ってもいられずその場で立ち上がった。香堂は自分を取り戻そうと必死に何か違うことを考えようとした。しかし無駄なことだった。どうすればいいのか必死に考えた。香堂は自分の頬を叩いた。何をしてるんだお前はと心の中で叫びながら叩いた。するとその痛みが効いたのか気分がほんの少し楽になった。香堂は再び座り直すと考え始めた。父親と弟を殺したのは美咲だったんだ。ということは母親も殺してしまったのだろうか。まさか…。博隆、弘美、美咲…。美咲は多重人格だったのだ。そうとしか考えられない。家族の死には必ず水が付き纏っている。家族の死に共通する水と手紙に書かれている「沈める」という言葉が香堂の頭にしこりとなって残った。弘美は本当に母親と明日香を沈めてしまったのだろうか。 「待てよ…、まさか…」 やはり病室にいるのは明日香に成り済ました美咲なのか。そんな馬鹿な…。香堂は混乱していた。香堂は何かを思い出したように突然背筋を伸ばした。美咲の手紙に気を取られていて明日香の手紙があることを忘れてしまっていた。すばやく明日香の手紙を手に取ると封を無理やり破った。そして中に入っている厚い紙の束を引き抜いた。それをジグソーパズルの載った天板の上に広げた。香堂はまたしても衝撃を受けた。美咲の手紙を先に読んだのがよくなっかったのか、明日香の過去から来た手紙に更に混乱した。上下左右の秩序を全く持たない夥しい数の文字が一枚目の紙を埋め尽くしていたのだ。文字は漢字、ひらがな、カタカナ、数字、様々な文字がちりばめてあった。香堂は仕方なくその紙を右に回したり、左に回したり、上下を逆さまにしてみたり、裏返してみたりしてみた。しかしそれは全く意味を成さなかった。混乱した思考能力が頭の中で使い古したずたずたの雑巾のようにぐったりと横たわっているような感覚を覚えた。一枚目を手に取ったせいで二枚目が眼に入った。二枚目も同じだった。香堂は次から次へとページを捲った。全てのページが秩序の無い文字で埋め尽くされれていた。香堂はその紙を丁寧に揃えてもう一度上からゆっくりと眺めていった。するとひとつだけ秩序のある文字に気付いた。それは全ての紙に振ってあるページ番号だった。1から始まるそのページ番号が最後のページまで振られていた。手紙は7枚もあった。それまで香堂は最初ただの落書きなのかと思っていたが、その数字に気付くと、他に何か秩序のあるものが書かれてあるのではないかと考え、もう一度最初から眺め始めた。封筒に入れられて届いた手紙なのだ。絶対に理解することのできる何かが書かれているはずだ。しかし香堂にはそれを見つけることはできなかった。香堂は再び考え始めた。まずページ番号があるということは読むことができる物なのだろうと仮定してみた。自分宛に送る手紙を暗号化するのは誰が考えても馬鹿げたことだ。しかし誰かに読まれてしまうのを恐れたのかもしれない。若しくはこの手紙が着く頃には自分の身に何かが起こっているだろうと想定して誰かにメッセージを送ったのかもしれない。もし誰かに読まれるのを恐れていたとしたら…、ただそれだけだとしたら話が矛盾してしまう。何故ならこの手紙の内容を違うものにするか、若しくは書かなければ他人に読まれても問題はないはずだ。例えばこの暗号文が他人の手には渡らず、直接自分の手元に届いてそれを読んだとしてもそんなものが楽しいと言えるだろうか。それにもし誰かにメッセージを送るだけだったらその誰か宛に手紙を送ればよかっただけの話だ。ということは明日香は誰に宛てていいか分からない暗号文を作ったことになる。香堂はひとつの結論に至った。それは明日香は誰かに読まれるということ、更に自分の身に何かが起こるということを恐れ、且つそれを想定して自分も知らない誰か宛てにこの暗号文を作ったという結論だった。香堂は身震いした。もし自分が仮定したことが正しいとしたら明日香が恐れていたのは誰なのだろう…。香堂の頭にさっき読んだ美咲の手紙の輪郭が浮かび上がった。 「美咲だ…。いや弘美なのか…」 明日香は弘美が手紙を読んでしまうのを恐れていたに違いない。だから暗号化したんだ。恐らく明日香はこの手紙が自分の手元には届かないと思ったのだろう。受け取ったのはどんな形にしろ香堂自身だった。問題はこの暗号文の内容だ。香堂はあの精神科医に入院している嘲笑を浮かべるあの可哀想な患者が明日香なのかそれとも多重人格の美咲なのかも分からなくなっていた。どちらにしてもこの暗号文を解読するためにその患者の力を借りることができる可能性はゼロに近い。それにしてもいったいどっちなのだろうと香堂は頭を項垂れた。美咲がもし母親と明日香を殺して明日香に成り済ましているとしたら…。香堂はそこで考えるのを諦めてしまった。あまり急激に緊張したせいで精神が疲労してしまっていた。香堂は後ろに上体を倒すとそのまま深く静かな眠りに引き込まれていった。 大きく砕け散る波を見て俺は膝まで水に入ったんだ。その大きな波がひとつ砕けるとその遥か向こうにお前達が見えたんだ。明日香…、お前とお前の姉さんの美咲だよ…。一目見てお前が溺れているのが俺には分かったんだ。「今行く、助けに行く」俺はそう呟きながら水に飛び込んだんだ。いくつ波を超えたかなんて覚えてないさ。でもかなりの水を飲んでしまっていたんだ。助けてって叫ぶお前の声が俺の耳に響いたよ。でも波が高くて何度も押し戻された。「くそっ…」俺は何度もそう叫んだんだ。でもそんなこと叫んでも前に進む訳がないだろ。また必死に泳いだんだ。腹はもう水で膨れ上がっていたんだ。あいつが必死に泳いでくるのが眼に入った時、私はもっと溺れた振りをして笑っていたのよ。「引っ掛かった」ってね。でもまさかあいつがこんなに簡単に引っ掛かるとは思いもしなかったのよ。だってあいつったら私達をいつもいたずらして楽しんでいたんだから。多分私達が死んだらもういたずらすることができなくなってしまうって思ったに違いないのよ。だから助けに来たのよ。馬鹿じゃないの。「絶対に沈めてやる」って私は呟いたのよ。お前達が目の前に見えた時俺の意識はもう既に朦朧としていたのを美咲は知っていたんだ。俺はあいつの眼を見てそれが分かった。お前が俺に抱きついた後美咲まで抱きついてきた。「やめてくれ、離してくれ」俺は叫んだつもりだった。でもその声は水の中で泡になって水面に向かって浮き上がっていったんだ。俺はお前を助けるために最後の力を振り絞ったんだ。「助けてやる」また水の中で叫ぶと身体の芯から力が沸いてきたんだ。顔が水面に出た時お前の身体が俺の腕に乗っているのが分かったんだ。でも同時に明日香の腕が俺の首に巻きついているのも分かったんだ。私は私より先にあいつにしがみ付いた明日香を気に食わなく思ったのよ。だって当たり前でしょう。私が沈めなきゃ意味が無いのよ。私は思いっきりあいつに飛びついてやったのよ。もっと疲れさせるためだったのよ。一瞬あいつの体は水中に沈んで行ったのよ。それなのにまた浮き上がってきたのよ。馬鹿みたいに。私はあいつの首に腕を巻きつけてやったのよ。でもあいつ明日香を助けるために必死だったみたいなのよ。俺はその腕を引き千切りたかったんだ。だけどそんな無駄な力を使ったらお前を助けるための力が減ってしまうと思ったんだ。俺は必死に泳いだんだ。そして浅瀬で遊ぶ学生達の近くまで泳ぎ着いた時「助けてくれ」って叫んだんだ。お前が俺の腕から離れて学生達に助けだされるのを見届けたんだ。美咲を背中に乗せながら…。馬鹿な明日香…。私は笑ってやったのよ。だってそうでしょう、泳げもしないのに必死に泳いでたのよ。私はもっと力を入れたのよ。明日香が離れて行ってしまったから軽くなったと思ったのよ。でもあいつが沈みかけたから言ってやったのよ。「死ね」ってね。凄く胸がどきどきしたのよ。私の初めての経験だったんだもの。俺はお前が俺から離れていくのを見て寂しかったんだ。もう力なんてこれっぽっちも残っていなかったんだ。俺はとうとう諦めてしまったんだ。もうこれでいいんだ。明日香を助けることができたんだって思ったんだ。そしたら美咲が腕の力を入れたんだ。あいつが「死ね」って俺の耳元で囁いたんだ。悪魔の囁きみたいだった。俺にはもうどうすることもできなかった。波打つ海面が頭の上に見えたんだ。波が太陽の光を反射して凄く綺麗なんだ。頭の上の方にそれが見えたんだ…。綺麗だ…。凄く綺麗だ。こんなの見るのは初めてだ…… 香堂は飛び起きた。自分が明日香の父親の立場になり美咲に溺れさせられる夢を見た。肩が上下するほど息は荒かった。体中に不快な汗がミミズのように這い回り、それがコットンのTシャツをぴったり肌に密着させていた。顔中に夥しい数の汗の粒が浮き上がっていた。それが少しずつ合わさり大粒の汗となって頬を伝い炬燵布団に落ちていった。香堂は息が整うのを待って立ち上がった。浴室に向かって歩きながら着ているものを剥ぎ取るように一枚ずつ脱いでいった。ぬる目のシャワーで汗を流し落とすと石鹸の泡で身体を覆いつくした。再びそれを流し落とすとほんの少しだが気分が優れてきた。バスタオルで身体についた水を拭い去ると、それをゆっくりと腰に巻いた。香堂は小刻みに頭を左右に振った。 「お前はどうかしちまったのか」 香堂は小さく呟いた。自分自身をコントロールできなくなっている自分に自ら話しかけることで我を取り戻そうとしていた。新しい服を着て窓から外を覗くと朝靄が地表を覆いつくしていた。時計に視線を向けると7時を少し回っていた。香堂は何もかもを考えないように努力していた。病室のベッドの上に座っているのが明日香であろうが美咲であろうが双子のどちらかであることだけは事実だとだけ思った。そして病気なのだ。精神病院に入院している患者なのだ。香堂はできることならばその病気を治して真実を突き止めたいと思った。そう思うと前進する気力が沸いてくるような気がした。香堂は汗で濡れた服を洗濯機に放り入れると部屋を足早に飛び出していった。 昇り切らない朝日がうねった松の枝を通して奇妙なその影を乳白色の病棟の硬い壁に投げかけていた。香堂は今のところどちらなのか確証の持てない見舞いの相手が明日香なのだと考えるように自分に言い聞かせていた。その方が足が前に進んで行くような気がした。当然香堂が未だに愛しているのは明日香なのは事実だったし、そうすることで自分を納得させることができるような気がしていた。香堂は最初病室へ直接明日香を見舞いに行くつもりだったが、明日香の担当医の小林医師に話を訊いてみたくなり急に歩く方向を変えた。 いつもの見慣れた相談室でじっと壁の一点に視線の先を集中させていると、ノックもなくドアが開いた。小林医師が忙しそうな雰囲気を身に纏って香堂の目の前に腰を下ろした。 「先生、ちょっと変なこと訊いても構いませんか…」 小林医師は小さく頷いて見せた。香堂はそれを確認すると話を続けた。 「多重人格っていうのは本当に存在するのでしょうか」 小林医師は香堂の顔を不思議そうに眺めた。そしてひとつ咳払いをするとゆっくりと話し始めた。 「私達医師の間では離人症性障害、解離性障害、転換性障害と呼ばれています。明日香さんのような病状の人にもそういった傾向があるのは確かです。それぞれの人格が交流を持つことは殆どないので患者本人は多重人格だという意識はありません。殆どの場合幼児期にその人が置かれていた環境が原因だと言われています。しかし明日香さんが多重人格のようには思えませんが…」 香堂は小林医師の話を聞きながら違和感を感じた。美咲の過去から来た手紙の内容では美咲ではない2つの人格がはっきりとコミュニケーションしている。それなのに医師は交流を持つことは殆ど無いという言い方をした。美咲は自覚していないが別の二つの人格はそれぞれ自分達がひとつの身体に宿る多重人格のひとりだということを自覚しているのかもしれない。香堂は頭を傾げた。いや、もしかすると美咲は自分が多重人格だということを知っているのかもしれない。明日香に成り済ましてそれを隠しているのだろうか。香堂は小さく首を傾げた。 「先生、もうひとつだけお訊きしても宜しいですか」 小林医師は本当に忙しいようでほんの一瞬不満を顔に浮かべたが小さく頷いて見せた。香堂はそれを見て済まないという顔を浮かべて見せ、話を続けた。 「人格同士が交流を持つことは有り得ることなんでしょうか」 小林医師は困った顔をして見せた。 「んんんんん…、私はまだそういった患者を受け持ったことが無いので何とも言えませんが、まったく無いとは言い切れないと思います」 小林医師は言い終わるのと同時に立ち上がった。 「申し訳ありません。もうそろそろ回診の時間なんでこれで失礼します」 香堂も立ち上がると深くお辞儀をした。忙々と部屋を出て行く医師の背中が閉じていくドアの向こう側に消えるまでそれを見守っていた。香堂はさっきまで集中していた一点に再び視線を移すとしばらくの間立ったまま動かなかった。美咲がどのようにして自分自身を多重人格だと自覚したのかという新しい疑問が生じていた。 香堂はノックをせずにドアを開いた。その音が病室の中に響いたはずだが、明日香はいつものようにベッドに座って窓の方を向いたまま振り向こうとはしなかった。香堂は少し不安だったがあることを試してみようと思っていた。病室に足を踏み入れるとゆっくりと足を進めていき、明日香の斜め後ろでそれを止めた。 「弘美、元気だったか」 香堂は振り向いた明日香の目にその場で釘付けになった。眼は剥き出し、鼻の両穴は大きく広がっていた。その目の白い部分はいくつもの毛細血管の充血のせいで真っ赤になっていた。眉間に深く抉られたような皺を寄せ、横に伸び切った唇からは食い縛った歯が見えている。香堂がいつ飛び掛られてもいいように身構えるほど恐ろしい形相をその顔に作り上げていたいた。獣の顔だ…。一瞬香堂は息を呑んだ。咄嗟に香堂の口が動いた。 「明日香何そんなに怒ってるんだ。俺何か言ったか」 香堂は以前小林医師から患者の症状に幻聴があることを聞かされていた。それを思い出し逆手に使ったみたのだ。それを聞いた明日香は顔を元の位置に戻した。香堂は心の中で胸を撫で下ろした。そして明日香の前を距離を一定に保ちながら足を運んでその視線の前を通り過ぎた。その顔を恐る恐る確認するといつもの嘲笑を浮かべたそれに戻っていた。香堂はやはり目の前にいる女は美咲なのかもしれない。そうでなければ弘美の名前を聞いてあんな恐ろしい顔をする訳が無い。しかし振り向いてその形相を香堂に投げかけただけでは目の前に居る女が美咲だという確信は持てなかった。DNA検査でもすれば簡単に判るのだろうが、明日香、美咲のそれを知るための術は一つも残されていなかった。いくらそれを確かめてみたところで自分の気持ちを満足させることができないことを香堂は既に悟っていた。結局のところ自分が満足感を得ることのできる最終の目的は、目の前にいるのが双子のどちらなのかを知ることではなく、優しい明日香を自分の腕の中に取り戻すことだった。香堂は以前持ってきた時のままのジグソーパズルの箱にそっと視線を落とした。様々な色チューリップの花の絵が放つ明るい光が香堂の目を刺激した。再び香堂の胸の中に寂寥感が広がっていった。 第五章 ー 捜 ー へ https://ofuse.me/e/16572
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