路上の雪は徐々に溶かされ、そして陽が昇る前の冷気に冷やされ再び固まり硬く閉ざされた心のように溶かすことのできない複雑な形の物体に変化していった。それはまるで物事を最後まで見届けるべく如何なる衝撃にも耐えうる強靭な魂のようにも見えた。 香堂は所々積雪が固まり氷の板になり始めた歩道を注意しながら歩いていた。明日香の入院する病院までの道の両脇には高い民家の塀や高い木々が数多く存在していた。それらの作り出す陰の下に溜まった、もはや純白の光を失った雪が固形化していた。香堂はいくら考えても理解できない自分の心の置き場所がいったい何時如何なる場所へ落ち着くのかと苛立ちを抑えることができなかった。 病室のドアの前で立ち止まった。いつもこのドアの前に来るとノックをしようかしまいか迷った。返事をしない相手のために丁寧にドアをノックをするのは糠床に釘を打っているようで馬鹿げていることように思えた。しばらくの間考えていたが、結局ノックしないことにした。香堂はゆっくりとドアを押し開けた。部屋の中の様子が左の方から徐々にに眼の中に入ってきた。まるで他人の心の中を覗き見ているような小さな罪悪感に駆られた。半分くらい開いて病室の中に一歩足を踏み入れたその時、突如ドアに隠れたおぞましい獣のような顔をした明日香が目の前に現れた。香堂は瞬時に息を呑み後に飛び退いていて身を構えた。しばらくの間二人はじっと睨み合っていたが、明日香の方が先に後ろを振り返るとベッドの方へ歩き始めた。香堂はそれを見て胸を撫で下ろした。明日香がベッドのいつもの位置に座ると香堂はゆっくりと病室の中へ入っていった。ベッドの右側から明日香の横顔を確認すると、その獣の顔は何処かへ消え去りその代わりいつものように何かを嘲り笑う横顔が香堂の目に映った。心臓の鼓動音が強く耳に響いていた。「こいつはいったい何を考えているのだろう」香堂は頭を傾げながらそのまま足を止めずに明日香の斜め前に置いてある折り畳み椅子を広げてゆっくりと腰を下ろした。 「明日香あんまり脅かすなよ。あんな顔して急に出てこられたら心臓が止まるだろ」 明日香はやはり返事をしない。香堂はふと右の方へ視線を向けた。明日香の成人のお祝いのつもりであげたキャビネットの上のパズルの箱の蓋がはずされていた。香堂は嬉しくなった。しかしあえてそのことを口にしなかった。 「明日香…、お前少しずつ良くなってるのかもしれないな…」 香堂がそう言った瞬間明日香がいきなりさっきの獣のような顔を剥き出しにして香堂に襲い掛かってきた。 「明日香じゃない」 明日香の手が瞬時に香堂の首をきつく締め付けていた。香堂は座っている膝の上に明日香に急に乗られて全くと言っていい程動きが取れなくなってしまった。明日香の腕を払い除けようと、思い切りそれを引っ張ってみたがびくともしない。遠退いていく意識の中で自分が座っている椅子を倒そうと考えた。香堂が上体を右に傾けると椅子は倒れずに明日香を膝の上に乗せたまま音も無く床に倒れ込んだ。それでも明日香の手は香堂の首を握り潰すように強く掴んで離れようとはしなかった。その時病室のドアが勢いよく開いて二人の看護婦が中に飛び込んできた。その後に続いてもう2人の看護婦が飛び込んできた。香堂の耳はそれらの音、看護婦の声に一切反応しようとしなかった。看護婦の口が動いているのが香堂の目に映った。二人の看護婦は片方ずつ明日香の脇の下に腕を回すと無理やり香堂から引き離そうと明日香の身体を引っ張り上げた。しかし一瞬香堂の身体が浮いただけで執拗な明日香の手は香堂の首から離れようとはしなかった。後から病室に入ってきた看護婦の一人が明日香の腕に素早く注射を打つと、明日香の手の力が少しずつ抜けていくのが分かった。やがてその力が完全に無くなると明日香の手は滑るように香堂の首から離れていった。明日香はそのままベッドに寝かされた。香堂は床で自分の首を押さえながら咽いでいた。ゆっくりと眼を開くと、目の前に看護婦の顔が見えた。以前香堂にアドバイスしてくれた看護婦だった。ゆっくりと耳の機能が元に戻ってきた。 「香堂さん…、大丈夫ですか」 香堂は看護婦に分かるようにゆっくりと頷いた。それを見て看護婦が香堂の腕を取ってその場に座らせた。香堂は両膝を両手で抱えて蹲った。看護婦は屈んで香堂の咽びが止むのを待っているようだった。しばらくの間そのままの状態が続いた。香堂は咽びがある程度治まってくると立ち上がり再び椅子に座った。明日香の顔を見るとそのうつろな眼が空間に浮いている何かをぼんやりと見つめているように見えた。その瞳は痙攣しているかのように小刻みに上下左右に移動していた。「こいつはいったい誰なんだ…」いつ飛びかかり仕返ししてやろうかととぐろを巻き首をもたげて機会を窺う蛇のような疚しい怒りの感情が胸の闇の中に渦巻きいつまでもうごめき続け落ち着こうとしなかった。 香堂は一旦ナースステーションに連れていかれた。首についた明日香の爪が食い込んだ傷跡から血が滲み出ていた。看護婦はその傷を消毒し、その後赤チンのようなものを塗ってくれた。 「香堂さん…、少し明日香さんをお見舞いするの休んだ方がいいかもしれないですね。私達が看護している時はあんなことありませんでしたもの。もしかすると明日香さん貴方に対して何か怒っていることがあるんじゃないでしょうか。見舞ってあげたい気持ちはよく分かりますが少し休むのも貴方のためにも明日香さんのためにもいいのかもしれませんね」 香堂は看護婦の言葉を聴いて、明日香の自分に対する怒りの原因が何なのか考えてみた。以前弘美という名前を口にしたのが悪かったのだろうか。しかしたったそれだけであんなに怒ることができるだろうか。さっき明日香の叫んだ言葉が香堂の頭の中を横切っていった。まるで男のような雰囲気だった。そして明日香ではないと叫んでいた。香堂の脳裏に再び美咲の名前が見え隠れした。あれはもしかすると博隆なのではないだろうか。博隆だったとしたらあれは美咲だ。美咲が明日香を殺して明日香に成り済ましているのだ。そう思うと全身の力が一気に抜けていった。双子の通学した小学校、中学校にまで足を運んで得たこの患者が明日香なのだという思いはは音も無く崩れ去っていった。 看護婦達が正常な仕事に戻った後も、香堂はナースステーションの椅子に座り続けていた。立ち上がることでさえ難しく感じられた。心は膨らませ過ぎて破裂しただらしない劣化したゴム風船のようにずたずたに引き裂かれ疲れ果てていた。 香堂の手に一片のパズルの欠片が載せられていた。香堂はそれを裏返してみたり摘んでみたりした。そして気が向くとそれを炬燵の上に載せられた中途半端な絵柄に嵌め込んでみた。それがぴったりとそこに納まる時もあればそうでない時もあった。そんなことを繰り返しながら頭の中で自分の身に起きていることを始めから振り返ってみた。明日香と付き合い始めて数え切れない楽しい出来事があった。明日香の母親が死んで一生懸命明日香を慰めた。アパートへの引越しも手伝った。そして明日香は自分の目の前から姿を消してしまったのだ。もう明日香はいないのだ。明日香という自分が愛した女はもうこの世界には存在しないのだ。香堂の眼から大粒の涙が頬を伝って白く滑らかなパズルの絵柄を濡らしていった。それでも香堂はパズルを組み立てる手を休ませようとはしなかった。そしてついに箱に入ったパズルの欠片は数えることができる程になっていた。 銀行の預金の窓口は二つあった。広い銀行内は暖房が行き届いていないせいか幾分寒さを感じた。香堂は手に持っている薄っぺらな番号札を確認してみた。真っ白な紙に23という数字が印字されてあった。カウンターに置かれた電光掲示板の数字は15だった。二つある窓口の片方には女の銀行員が座っているのが見えたがもう片方には誰も座っていなかった。もう既に長く待たされている香堂は幾分の苛立ちを感じていた。昼どきなのだから仕方ないと自分に言い聞かせながらその苛立ちを抑えていた。香堂は明日香の借りているアパートとその光熱費の振込みに来ていた。全てを合計するとかなりの額になった。香堂は電光掲示板の番号が一つ一つ上がっていく間に考え事をしていた。自分がうるさい母親のいる自宅に戻ればこの金額を払わなくて済む。明日香の入院している間明日香の持ち物を一旦預かっておけばいいのではないかと考えていた。香堂はやっと電光掲示板に表示された自分の番号を見て急ぎ足で窓口に歩いて行った。香堂が窓口の前に立ったのと同時にさっきまで誰も座っていない方の窓口に女の銀行員が戻ってきた。香堂は少し顔をしかめてみたが、女子行員は全くそれに気付かなかった。女子行員が手元のボタンを押すとポーンという音と同時に電光掲示板の数字が24になった。そのとき既に順番待ちをしている客は数えるほどしか残っていなかった。香堂は馬鹿馬鹿しさを感じ首を少し傾げた。香堂は振込みの証明証を受け取ると足早に銀行を出た。 小さな不動産屋の事務所には若い女の事務員がいた。香堂は双子と一緒に契約のために一度だけこの事務所を訪れていた。その事務員は香堂のことを覚えていたようで、直ぐにカウンターの外に置いてある応接セットまで湯気の立ったお茶を入れて持ってきた。 「アパート、何か問題ありましたか」 事務員は香堂がアパートのことで何か文句を言いに来たのかと思ったらしかった。香堂は右手を顔の前に持ってきて左右に振った。 「いえ、問題があるのはアパートじゃなくて私達の方なんです」 香堂は明日香の自殺未遂を正直に話し、現在入院中だということを打ち明けた。そして一旦アパートを出ることを話した。今月分の家賃はこの事務所に来る前に支払ってきたことを告げると事務員はカウンターの中へ戻って電話を掛け始めた。話し方からしてこの不動産屋の社長と話しているようだった。話は1分とかからなかった。戻ってきた事務員の顔には笑みが浮かんでいた。 「社長も事情を知ってらっしゃるようで直ぐに承知しました。今月中にゆっくりと引越ししてくだされば構わないと言ってましたよ。まあ、退院してきたらもう一度違うアパートでも探しましょう」 香堂は事務員の温かい言葉に胸の中の不安が洗い流されていくような気持ちだった。香堂は事務員に深くお辞儀をし、社長に宜しく伝えてもらえるよう願い出た。事務員はそれを気持ちよく受け入れてくれた。 眼が何かを探し求めている。頭を左に向けて視線を床に落とし、それを左右に移動させた。そこに目当てのものが無いと分かると首を傾げた。今度は頭を右に向けやはり視線を落とし同様にそれを左右させた。しかしそこにも目当てのものは見つからなかった。香堂は残り少なくなったパズルの欠片の入った箱を手に取ると膝の上に置いた。そしてひとつずつ数え始めた。数え終わると再び首を傾げた。香堂のようなジグソーパズルに興味を持っていなかった人間がそれを組み合わせ終わる前に気付くほど欠片の数は足りなかった。香堂は仕方なくパズルを組み合わせ続けた。そしてそれはついに完全な絵柄にはなることなく終了した。香堂は絵柄に開いた穴を数えてみた。その穴は3000個の欠片が作り出す筈の絵柄の中に約100個点在していた。香堂はそれを見て苛立った。今までやってきたことが水の泡となって消えていくような気がした。香堂はその苛立ちを抑えることができず組みあがったそのパズルを両手でかき混ぜるようにばらばらに崩した。そしてそのばらばらになったパズルの欠片を手ですくうようにして箱に戻した。香堂はその場で寝転んだ。しばらくすると何か物足りなさを感じ始めた。香堂は弾かれたように立ち上がると押入れを開け他のパズルの入った段ボールを引っ張り出した。その中の一番上に載せられた見覚えのある絵柄の箱を取り出し、その代わりに今まで組み合わせていたパズルの箱を元にしまった。しばらくそれを眺めていたが再びその箱を段ボールに戻した。そして押入れの上の段に置いてあったガムテープを取り出すと段ボールの蓋をきっちりと貼り付けた。香堂はそれからゆっくりと引越しの準備をし始めた。 引越しについてはまだ一ヶ月の余裕があったのでそれ程力を入れて体を動かそうとはしなかった。ゆっくりと手を動かしながら明日香の少ない持ち物を段ボールに入れていった。ひとつひとつ手に取っては明日香のことを思い出していた。そして最後の段ボールの蓋をガムテープで硬く閉じた。香堂はカーテンの取り払われた窓に歩み寄って外の寒く冷たい風景を眺めてみた。ふと目の前のテラスの隅の方に植木鉢に植えられた針葉樹の小さな盆栽のようなものが置かれているのが眼に入った。香堂は窓を開けそれを両手に取ると最後の段ボール箱の上に置いた。 自宅の居間に座ってテレビを観ていた母親が眼を丸くして香堂の担いでいる段ボールを見つめていた。口がほんの少しだけ開いていた。 「正明…、何なんだいその箱は」 香堂は母親の言葉に答えもせずにその箱を自分の部屋へと運んでいった。それを何回か繰り返していくうちに母親は何も言わなくなった。香堂は友人に借りた車に明日香の持ち物の入った段ボールを載せ何回かに分けてアパートから自宅へと運んだ。結局4回も往復した。不動産屋に引越しを告げてからまだ一週間しか立っていなかったが、光熱費のことを考え早目に引越しを済ますことにした。押入れに入るだけの段ボールを押し込んで、入らないものはそのまま部屋の片隅に積み上げた。パズルの入った段ボールが一番上に載っていた。最後に車の助手席の床に載せた植木鉢を父親の数少ない盆栽の隣に置いた。 「終わった」 香堂は無意識に呟いていた。退院が何時になるか分からない患者の後始末が大変だということを身をもって感じていた。大きな溜息をついた。ふと振り返ると庭の日陰に溜まった冷たく動くことを知らない空気の中でその小さな植物達が静かに息をしているように感じられた。眼の無いそれらの生命体がこちらをじっと睨んでいるような気がした。 積み上げられた段ボールの一番上のそれをゆっくりと床の上に降ろした。いくら紙でできているとは言え、幾重にもジグソーパズルの箱が入れられたその段ボールは男の香堂にとっても軽いものではなかった。段ボールの蓋を閉じているガムテープを思い切り引き剥がすと蓋がその勢いで開いた。中から一番上に載っている箱を取り出すと、それを炬燵の上に置いた。箱蓋には見慣れない外国の『農村の風景』が描かれていた。香堂はその蓋を下の箱が一緒に持ち上がらないように手の力を加減して上に持ち上げた。箱は密着性がいいようで下の箱も浮いてしまうほど開きづらかった。しかし箱がほんの少し空気を吸い込むと、それを機に下の箱は次から次へとずれ落ちていった。香堂は骨でできたパズルを組み合わせた時と同じように、最初角の四片とパズルの縁を形作るための欠片を探し始めた。二つ目のパズルとあって幾分慣れてきたせいか組み合わせる速度はかなり速くなっていた。香堂は無心にその欠片をひとつずつ組み合わせていった。『農村の風景』は『白黒の薔薇』の絵と違って色、描かれている建物の輪郭、植物、空などが簡単に識別することができ一つ一つの欠片がどのへんに納まるのかも簡単に分かった。 気が付くとカーテンを透して外の光が部屋の中に忍び込んできていた。香堂は立ち上がると部屋を照らしている灯のスイッチを切った。そして炬燵の隣に布団を敷くとその冷たい布団の中へ身体を埋めた。炬燵の熱で既に温められていた身体はその布団の冷たさを物ともしなかった。今の香堂にとって就職活動など意味の無いものになってしまっていた。香堂は疲れ果てた心を何とかして癒そうと努力していた。どんな時でも無心でいられるよう努めようと思った。 香堂が部屋に篭り始まってから既に二日が経過していた。看護婦に見舞いを休んだ方がいいと言われたことを気にしている訳ではなかったが、あの首を絞められた日以降病室の患者から幾分気持ちが遠ざかっていた。長時間座りっぱなしの作業と、酸素不足で香堂の目には欠片の絵柄が全て同じように見えていた。香堂は首を何度も左右に捻った。顔に両手を宛ててみると火照っているのに気が付いた。完成に近づいた『農村の風景』を目の前にして立ち上がると窓の前に立った。香堂がカーテンを手繰り寄せると朝日が部屋の中に矢のように入り込んできた。思い切りそれを開ききると目の前の窓を大きく開き放った。温まっただらしの無い部屋の空気が、緊張感を含んだ冷たい外の空気と入れ替わっていく。その入れ替わった空気が香堂の鈍くなった意識を正常にしてくれた。篭り始まってから5度目の換気だった。香堂は開け放った窓をそのままにして、台所へ行くとコーヒーマグにインスタントコーヒーの粉と砂糖を入れ箸を一本だけ逆さまに差し込んだ。素足に台所の板張りの床の冷たさが伝わってきた。マグにお湯を注ぐと粉は吸い込まれるように消えていった。それを逆さまに差し込んであった箸で何度も何度もぐるぐると搔き回した。立ったままそれを一口飲むとマグを手にしたまま再び窓の前に立った。マグから立ち昇る湯気がほんの少し勢いを増したように見えた。香堂は開け放たれた窓を元に戻すとマグを炬燵の天板の上に置いた。マグにはまだコーヒーが半分以上残っていた。香堂はストーブを消し、炬燵のコンセントを引き抜いた。ジャンバーを羽織った香堂は女の形をした塊のいる病室へと冷たいアスファルトの歩道を力強く踏み締めていた。 見慣れた病室のドアをノックすると初めて中から応答があった。「はい、どうぞ…」 明るい声だった。香堂は何か嫌な空気を吸ったような気がした。ゆっくりとドアを開けると明日香の皮を被った美咲だと思われるそいつがベッドに座りながら香堂に振り向いていた。そいつはドアを開いたのが香堂だと分かると直ぐに窓の方に向き直ってしまった。香堂の心は既にその程度のことでは動かなくなっていた。 「なあ…、俺にはお前が誰か分からないけどお前は俺のことよく知ってるんだろ。じゃあ自己紹介くらいしてくれたっていいんじゃないのか。別に損はないだろ」 香堂はそいつに向かってやりきれない思いをぶつけたかった。しかし病院内と言うこともあってできるだけ自分を抑えていた。そいつはやはり何も話そうとしない。香堂はそいつの返事を待っていた。小さな間ができた。 「じゃあ俺が話すよ。俺はな、お前は本当は美咲じゃないかって思ってるんだ。でももしお前が美咲だとしたら同時に博隆、弘美も一緒にそこにいるってことだろ。さっき俺がドアをノックした時声を出したのは弘美じゃないのか。病気が治っていくような振りしてここから出て行くつもりじゃないのか」 そこまで言うとそいつは大声を出して笑い始めた。その笑い声が部屋中に反響した。香堂は一瞬熱い血が頭の中に流れ込んでいくのを感じた。目の前にある全ての物を蹴り飛ばす破壊者的な衝動に駆られた。それでも自分を無理やり押さえつけた。無理やりに抑えた怒りの変わりに髪の毛に覆われた頭皮が不快な動きをしていた。髪の毛を両手で引っ掴んでその不快感を取り除きたかったがそれさえも堪えようとする意識が働いた。 「何がそんなにおかしいんだ。お前俺の身にもなってみろ。こうしてお前が誰かも分からないのに見舞いにまで来てるんだぞ」 そいつは再び笑い始めたがさっきほど大声ではなかった。そしてその笑い声が止むと再び口を閉ざした。香堂はふとこいつの明るく振舞う猿芝居に医師が騙されるようなことがあるのだろうかと不安に思った。さっきのような明るい声で看護婦や医師に対応しているのだとしたら、真実を知らない彼等はこいつの狡猾な猿芝居を信用してしまうのではないだろうか。しかし香堂はその考えを直ぐに打ち消した。恐らく医師はこいつの真実の姿を知らないからこそ病気がよくなっているという判断は下さないのではないだろうか。真実を知っている家族若しくは患者を取り巻いていた人たちにしか判断を下せないことを医者は知っているはずだ。香堂は逆に大声で笑い返してやった。するとそいつはゆっくりと嘲笑を浮かべた顔を香堂に向けた。しかし口を開こうとはしなかった。 「お前にいつまで笑うことができるやら…、お前が正常だと判断できるのは誰だ。医者か…、それとも看護婦か…。まあ頑張ってみることだな。俺は別にお前をこの病院に押し込んでおくつもりは毛頭ない。俺が知りたいのは真実だけさ。お前がいったい誰なのか、そして明日香はいったいどうなったのか。それだけさ」 香堂が話し終わるとそいつはそのまま香堂の顔を眺めているだけだった。そいつは何かに気付いたような表情を顔に浮べていた。香堂の胸から寂しさが消え去った訳ではなかったが、ほんの少し手応えがあったことには満足感を得ることができた。香堂が病室のドアを閉めるまでそいつは香堂の背中から視線を逸らさなかった。背を向けていた香堂に見えるはずは無かったが確実にその視線を感じていた。 電車に急ブレーキが掛けられた。満員ではなかったが、立っている多数の乗客のあちらこちらから短い女の悲鳴が聞こえてきた。その後電車は暗闇の中に停車した。人々のざわめく声が普段ホーム以外では停車しない電車の中の空気に充満していった。しばらくするといつもの機械の声ではなく緊張感を含む男の声がどこに設置されているのか分からないスピーカーから流れ出した。事故があったらしかった。香堂の頭の中に二つの文字が瞬時に浮かんで消えていった。前方の車両の方から噂が伝わってくるのにそう長くはかからなかった。人々はその噂を聞いて空騒ぎしているように感じられた。やはり自殺だった。若い女が反対側の車線を走る電車に飛び込んだらしかった。すれ違いざまに起きた事故だったらしく香堂の乗っていた電車も急停車したらしかった。 「またか…」 香堂は頭の中でそう呟いていた。香堂には何が人々を自殺にまで追い込むのかこれっぽっちも理解できなかった。香堂は病室にいるあいつのことを思い出していた。あいつにだって俺や友達が回りにいたはずだ。何で自殺までしなければならなかったのか。友達だってたまには助けてくれることもある。香堂は久しぶりに友達という言葉を思い出したような気がした。最後に聞いたのはいつだったろう。香堂は記憶を辿ってみた。それはあの海岸のそばの食堂で聞いた友達という言葉だった。香堂は浩二の話を思い出していた。浩二の友達に助けられた美咲と明日香はあの時何を話そうとしたのだろう。 「友達か…」 香堂は再び頭の中でそう呟いた。何故あの時自分は浩二の友達に話を聞こうと思わなかったのだろうと後悔し始めていた。もしかすると浩二の友達が何か他の事を幼い双子の口から聞いているかもしれない。そんなことを考えていると、こちら側の路線の点検が終わったのか、さっきの男の声のアナウンスが車内に流れたかと思うと電車はゆっくりと走り出した。そうして血生臭い臭いを纏った電車は不気味な暗闇の中に吸い込まれていった。 送電線が海の匂いを含んだ冷たい潮風を真っ二つに切りながら音を立てていた。港のそばにある市場にはもう数えるほどのトラックしか止まっていなかった。カーテンの引かれた食堂の入り口の開き戸の内側には本日休業日と書かれた白い札が掛けられていた。香堂は仕方なく今来た道を戻ろうとした。しかしせっかくここまで来たのだからノックぐらいはしていこうと思い直し再びドアへ向き直った。短く3回ノックしてみた。中から女将であろう聞き覚えのある女の声が聞こえてきた。香堂は無意識に胸を撫で下ろしていた。香堂が開き戸の向こう側に人の気配を感じるのと同時にカーテンがふわりと揺れた。カーテンを手繰り寄せる、まだ記憶に新しい疲れた顔の女将がそこに立っていた。女将は香堂の顔を見ると笑顔を作ってくれた。ガチャガチャと鍵を開ける音が聞こえた。ガラガラという音をたてながらゆっくり開き戸を開くと、女将が先にその口を開いた。 「あら、お客さんどうしたんだい。今日はあいにくうち休みだよ」女将は香堂が何か食べに来たものだと勘違いしているようだった。 「いえ、今日は食べに来た訳じゃなくて、息子さんの浩二さんにもう一度お話をお伺いしたくて出向いてきたんですが…。いらっしゃいますかね」 女将は再びその疲れた顔に笑みを浮べた。 「なんだそうだったのかい。ちょっと待っててくださいな」 女将はそう言うと店の中へ入っていった。中から独り言を言っているような女将の声が聞こえてきたが、直ぐに電話をしているのだということが分かった。しばらくして戻ってくると香堂を薄暗い店の中に招き入れた。食堂の中には冷め切った多種多様な食べ物の匂いが入り混じっていた。 「今家にいるみたいだからここでちょっと待っててくださいな」 そう言い残すと女将は明日の仕込があるのか、何やら厨房で忙しそうに動き回っていた。しばらくするとお茶を持って戻ってきたが直ぐにまた厨房へ戻って行った。香堂がそのお茶を飲み終わる頃店の開き戸が勢いよく開いた。そしてやはり勢いよく浩二が入ってきた。香堂が走っている浩二を想像してしまうほど勢いがよかった。 「ああ、お客さんか、私はまたうちのお得意さんが腹でも壊したのかと思って慌てましたよ」 浩二はそこまで言うと香堂の反対側の椅子を引っ張り出して壊れてしまうのではないかと思うほど勢いよく座った。 「ところで私に用事っていったい何でしょう」 香堂は話をとんとん拍子で進める浩二に幾分戸惑った。 「あ、はい、えーと、この前お話しいただいた双子の件なんですが…。以前話した時友達っておっしゃられてましたよね。その友達とお話ができないかと思いまして」 浩二は立ち上がった。 「何だそんなことですか。じゃあ早いとこそいつの家に行きましょう。そいつの家も自営業だから今店にいるはずですよ」 浩二は口を動かしながら勢いよく立ち上がった。香堂はやはりテンポの速い浩二についていけなかった。2人が店を出ようとした時、女将が急須と浩二の湯飲み茶碗を持って厨房から出てきた。 「浩二、あんたいったいどこ行くんだい」 浩二はそんな女将の言葉に構いもせずすたすたと早足で歩いて行ってしまった。何というテンポの速さだ。浩二の代わりに香堂が答える羽目になった。 「女将さん、ちょっとそこまで行ってきます」 香堂はそれだけ言い残すと浩二の後を追った。香堂の眼には既に浩二の姿は無かったが、車のエンジンの始動音に香堂の耳が敏感に反応した。その音の発信源に向かって足を速めた。歩いている間自分のテンポが遅いのかそれとも浩二のテンポが恐ろしく速いのかと不思議な疑問に苛まれた。香堂は浩二の乗ったワゴン車を確認すると足早に駆け寄って助手席に座った。浩二はまだ助手席のドアが閉まってもいないのに車を走らせ始めた。何というテンポの速さだ。香堂は浩二のテンポが速過ぎるだけなのだと気付いた。 その食料品店は浩二の働く食堂からそう遠くは無かった。浩二の友達も彼と同じように父親の仕事を手伝っているらしかった。浩二は車から降りると一人ですたすたと店に入っていってしまった。香堂がどうしていいか分らずに店先で立っていると、浩二がその友達らしい男を連れて出てきた。 「健太、お前んところくな応接セット置いてねえから俺の車で話そう」 「何言ってんだ。お前んとこのおんぼろ食堂だってろくなもん置いてねえじゃねえか」 健太は言い返した。香堂は健太のその言葉には同感したい気持ちだった。確かに浩二の働く食堂にはろくなテーブルも椅子も置かれてはいなかった。2人の話が幾分滑稽さを交えた温かみとなって香堂の心を和らげた。健太が愛嬌を込めて話しているので浩二は話を受け流しているように香堂の眼には映った。浩二と健太は挨拶も、増してや自己紹介も無しに車に向かって歩いて行った。仕方なく香堂も後に続いた。 ワンボックスの車の後部座席はかなり豪華なものだった。香堂は浩二が車で話そうと言った訳が分かった。浩二はエンジンをかけるとやはり後部座席に勢いよく入ってきた。 「健太、お前覚えてんだろ…。溺れてる双子の女の子を助けた時のこと。この人その双子の友人らしいんだ。その時の話を聞かせてやってくれねえか」 浩二がそう言って黙ると、健太はしばらくの間記憶を辿るように俯いていた。そして記憶が完全に頭の中に蘇ったような顔を持ち上げて見せた。香堂は息を呑んだ。 「あの時俺達浅瀬で遊んでたんです。浅瀬って言ったってその時俺達高校生でしたからね、回りには小さい子共は一人も遊んでませんでしたよ。急に助けてくれって声がしたんで後を振り向くと子供を乗せた男が溺れてるじゃないですか。それも2人も乗せてね。慌てて俺と浩二は泳ぎ始めたんです。でもね、こう言っちゃ悪いんですがね、俺達だって溺れてる奴を助けられる程泳ぎが上手い訳じゃ無い。足の届くとこまで泳いでいってそこでその男がこっちに向かって泳いでくるのを待ってたんです。でも疲れてるらしくてなかなか近付いてこなかった。俺も浩二もしがみ付いている子供達にこっちに泳いでこいって叫んだんですよ。そしたら1人がしがみ付くのを止めて浩二のほうへ必死に泳ぎ始めた。浩二ができるだけその子に近付いてやっと1人救出できたんです。でももう1人の子は怖いのか離れようとしなかった。結局父親は疲れ果てて沈んでしまいましたよ。そしたらそのもう1人の子も私に向かって泳ぎ始めた。私もなるべく近付いて女の子が泳ぎ着くのを待ったんです。でもね…」 そこで健太は話を切った。健太は息継ぎをするように息を大きく吸った。香堂は浩二の話よりも明らかにリアルな健太の話に引き込まれていた。 「でもね…、これはあくまでも俺の目で見て感じたことですよ。俺に向かって泳いできた子は泳ぎが上手かった。もしかしたら俺よりも上手いんじゃないかって思った程でしたよ。でもあんな小さい子がわざと父親を溺れさせるなんて考えられないでしょう。多分怖くて父親にしがみ付いていたんだろうって思いましたよ。それで双子のもう一人も救出できたんです。他の友達が父親を救助するのに必死に潜ったりしましたが結局父親だけは助けられなかった。 浩二と俺が2人の子供を浅瀬まで連れてきたところで、俺が手を引いて歩いている子がちょっと離れて浩二に手を引かれて歩いているもうひとりの女の子に向かって大声を出して訊いたんです「健司は大丈夫だった」てね。俺の名前は健太だからその子の言った名前が今でも頭に残ってますよ。私はちょっと驚きましたよ。だって貴方、普通娘が父親を呼び捨てにするなんてことしないでしょう。俺はもう一人溺れてる子供がいるのかもしれないって思いましたよ。もう一人の子はそれを聞いて大丈夫よ弘美って答えました。その名前も確かです。その時俺付き合っている彼女がいたんです。ひろみって名前のね…。うちの女房には内緒なんですがね…」 健太は少しおどけたような表情を顔に浮かべて、直ぐに話を元に戻した。 「その後砂浜まで2人を連れてくると心配そうな顔をした母親が小さな男の子の手を引いて俺達の方へ向かって歩いてくるじゃないですか。俺はほっとしましたよ。健司っていうのは弟のことなんだって思いました。その晩のニュースを見て俺は変だなあって思いましたよ。だって双子の1人は弘美っていう名前だとばかり思ってたのが全く違うんですよ。俺はいったい誰を助けたんだって不思議な感覚にさせられましたよ。こんな風にね」 健太はその不思議な感覚にさせられた時の顔を再現して見せた。香堂は以前浩二のしてくれた話と健太の話を比べてみて、浩二の早合点を感じずにはいられなかった。健太の話の方が余程素直に受け入れることができた。香堂は言おうか言うまいか迷ったが何も知らない健太をこのままにしておくのは憐れだと思い一つだけ話すことにした。 「健太さん…、実は双子の弟の名前、一隆っていうんです。その弟も父親が溺死した一ヵ月後にお風呂で溺死してしまったんです」 「え…」 健太はそれ以上話すのをやめてしまった。浩二は香堂の話を聞いて何度も首を縦に振っていた。やっぱりそうかと言いたそうな顔をしていた。香堂は2人に厚く礼を言うと駅まで送ると言ってくれている浩二の申し出を断って車を降りた。 香堂は潮風を背中に受けながら駅への道をひとり歩いて行った。健司というのはいったい誰何だろう。恐らく海岸でたまたま会った同級生がいたのかもしれない。同級生も沖まで一緒に行ったのかもしれない。しかしその同級生は一早く難を逃れたのかもしれない。あの小学校の長谷川教頭に一度確かめてみることもできると香堂は思った。薄い灰色の雲の間に青い空が見え隠れしていた。 電車のシートに身を任せながら窓の外のホームを歩く様々な人格を持つ人々が渦巻いているのを眺めていた。その中には普通の会社員、普通の主婦、普通の学生、普通の駅員、そして普通の殺人鬼が他の人とはコミュニケーションを持たずにただ犇めいているだけなのだ。たまたま殺人鬼と交流を持つことになってしまった人たちだけが命を奪われてしまうような悲愴な運命を辿ることになる。美咲の場合はその殺人鬼が心の中に同居してしまっているのだ。美咲は既に弘美に殺されてしまったのだろうか。どうにかして美咲と話をすることはできないのだろうかと香堂は思った。しかし美咲と話ができたからといって自分の心の中に巣食っている明日香を失ったことの寂寥感がなくなる訳でもない。香堂は何かにしがみ付きたい気持ちだった。このままでいると自分がどこまでも底のない沼に沈んでいくような気がした。香堂は自分をその沼から救ってくれるはずの何かを探し求めていた。それが藁であろうと瓶であろうと何でもよかった。沼の水を浮かび上がっていく小さな泡でも構わない。この寂しく冷たい沼から浮かび上がるための手段を探し出さなければならない。しかし明日香を失ってしまったことは今となってはほぼ確実なことだ。だからといってあの病室にいる明日香に成り済ました美咲の他の人格が引き起こした罪を暴いて真実を知り得たとしてとして、果たしてそれが沼から浮上するための手段と成り得るのだろうか。恐らくそれは香堂を救う何かではなかった。ただもし明日香の姉である美咲を他の人格から救ってあげることができたとすればそれは意義のあることなのではないだろうか。もし美咲の多重人格を直すことができた日には自分も救われるのではないだろうか。香堂はそう思うともう一度振り出しに戻って美咲を治してみようという気持ちになった。いつの間にか電車は田園の中を走っていた。土色のひび割れたその田畑に今は雑草でさえ一本も生えてはいない。しかし種次第でそれは水田にもなり野菜畑にもなり、またただ雑草の生える荒地にもなる。香堂はその田畑を美咲の複雑な多重人格に重ねて考えてみた。美咲がもし本当の自分を取り戻すためには品質のいい種が必要だ。種と手入れの仕方を間違えたせいで弘美のような殺人を犯す人格ができてしまったのではないのだろうか。美咲という良質な種が芽を伸ばしそれが実るのを見守る農夫が必要だ。自分はその農夫になればいいのだ。まずは荒地に生える雑草を刈らなければならない。弘美と博隆という雑草が蔓延るかぎり、美咲という芽が伸びるための障害となる。香堂の瞳には次から次へと流れていく眠っているような田畑が延々と流れ映っていた。 第七章 ー 解 ー へ https://ofuse.me/e/16574
コメントするにはログインが必要です