香堂はそいつの背後に立っていた。雑草を刈るために病室を訪れていた。幾分の焦りが心に募っていた。 「なあ博隆、お前、ここから出たいんだろ、だったら美咲を俺と合わせない限り無理だぞ」 そいつはいつものようにベッドに座りながら顔に嘲笑を浮かべているだけだった。香堂は何か最後に来た時とは違う雰囲気を感じ取った。手応えがないと香堂は思った。何故なんだろう。全く興味を示さない。 「そうか…、まだ考え中なんだな。分かった。どうせ時間はたっぷりあるんだ。ゆっくり考えてみてくれ」 香堂はそう言うと直ぐに病室を出た。 香堂は全ての病棟を結ぶ芝生に囲まれた歩道を歩きながらあいつが何を考えているのかを頭の中で探ってみた。しかしその答えを見つけ出すことはできなかった。浅はかに行動すると取り返しのつかないことになる。美咲があのままの状態で一生を過ごさなければならなくなる。もう一度よく考え直さなければならない。香堂は少し時間を置いてみようと思った。そうすれば何か糸口が見つかるかもしれないと思った。 香堂は丸一日をただパズルを組み合わせることだけに費やした。『農村の風景』は徐々にその輪郭を現し始めた。そして箱の中に残ったパズルの欠片は数えられるほどになった。香堂は首を傾げた。残った欠片を数える必要もなく明らかにその数が足りないのが見て取れる。香堂は首を傾げながらもそのパズルを完成させた。やはりそれは穴の開いた『農村の風景』だった。香堂は『白黒の薔薇』のパズルの時と同じように穴の数を数えてみた。穴は同じように100個程絵のあちらこちらに点在していた。香堂は再び頭を傾げた。『白黒の薔薇』のパズルの時とは違い苛立ちは感じなかった。ただ何かが香堂の頭の隅の方に引っかかっていた。香堂はその場に寝転んだ。 「待てよ…、おかしくないか」 香堂は以前明日香がアパートへ引っ越した時この絵柄が好きだと言っていたことを思い出した。好きな絵柄のパズルの欠片をなくしたままにしておくだろうか。それ以前の問題で好きなパズルの絵柄の欠片を失くすことがあるだろうか。香堂は首を傾げた。それに2つのパズルの欠片の数が足りないなんてことが有り得るだろうか。それも一つや二つじゃない。 「意図的だ…」 香堂は結論を言葉にして呟いた。 香堂は目の前の炬燵の天板に乗っている中途半端な『農村の風景』を糊付けしてしまおうと思った。箱に入っている白い粉を手に取るとそれを持って台所に向かった。食器棚に並べてあった御椀をひとつ手に取ると白い粉を袋からその御椀に移し入れた。台所の蛇口をほんの少しだけ捻るとストローくらいの太さの細い水が流れ出した。その水を少しずつ御椀に注ぎ入れながら混ぜていった。やがて御椀の中に粘りのある糊が出来上がると炬燵の天板の上に載せられた中途半端な『農村の風景』画にゆっくりと注ぎかけた。糊はゆっくりと表面張力と重力の釣り合いが取れるまで自分で伸びていった。香堂は御椀に入った全ての糊がなくなるとそれを台所に戻した。右手の人差し指を使って糊をゆっくりと満遍なく欠片に浸透させるように塗り込んでいった。香堂は糊を塗り終わると動きを止めた。 香堂は立ち上がってストーブの上に載せられた薬缶に入っているお湯の残量を確かめてみた。薬缶の蓋を開けると中から魂が飛び出すかのように湯気となって香堂の目の前に立ち昇った。その湯気を避けるように眼を細めて薬缶の中を覗くと底のほうにほんの少しだけ残ったお湯が小さい泡を立てているのが見えた。香堂は蓋を戻し薬缶を左手に持つと台所へ行った。さっき糊を混ぜたまだ洗っていない御椀をシンクの端に追いやり、まだ人差し指の先にへばりついている糊を親指と薬指で挟むようにして洗い流し水を止めた。薬缶を蛇口の真下に置きその蓋を取ると再び湯気が立ち昇った。今度は蛇口を思い切り捻り、その手をそのままにして薬缶に水が溜まるのを眺めていた。やがて水が丁度いい高さまで来ると蛇口に乗せてあった手をさっきとは逆に回した。薬缶の蓋を閉め部屋に戻ってくるとそれをストーブの上に置いた。水が弾ける音とストーブの天板の上で急激に沸騰する音が混じり合ってじりじりと音を立てた。香堂は洗い流したばかりの右手の人差し指を糊付けしたパズルに近づけた。そしてそれらが触れ合う寸前に動きを止めた。香堂はそんなに早く乾くはずがはいと瞬時に悟った。しばらくすると薬缶の注ぎ口から湯気が立ち始めた。好きな濃さのコーヒーと砂糖をコーヒーマグに入れて台所から戻ってくると薬缶のお湯をそれに注いで再び座った。香堂は穴の開いた『農村の風景』を見ながらゆっくりとそれを啜った。コーヒーを飲み終わるまでに何度かそれに触れてみようと思ったがやはりその直前で指を止めた。 『農村の風景』画に塗りたくられた糊が乾いたことを指が感知した。香堂は立ち上がり引越しした時に机の引き出しにしまっておいた明日香の過去からの手紙を引っ張り出した。その手紙の隣には美咲の遺書と美咲の過去から来た手紙がそっと佇んでいた。香堂は封筒から厚い紙の束を取り出すと一番最初のページだけをそこから抜き取り、それを目の前の『農村の風景』画の上に載せた。そしてその手紙の秩序の無い文字の一行目の数を数え始めた。数え終わると今度はパズルの縦方向の欠片の数を数えた。思った通りだった。それらの数は一致した。香堂は続けて手紙の行数とパズルの横方向の欠片の数を数え始めた。やはりそれらも一致した。香堂は手紙を目の前に掲げるとそれを凝視した。かなり長い間そうしていたがやはりその中に秩序を見出すことはできなかった。やらなければならないことが二つできてしまった。 歩道の端のあちらこちらに固形化していた雪の塊もすっかり姿を消してしまっていた。急に太陽の下に出て歩いているせいで香堂の目はその光になかなか慣れようとはしなかった。眼に入ってくる光が眼球の奥と網膜の間を何度も跳ね返って痛みを作り出しているかのように思えた。香堂は自宅から一番近いコンビニエンスストアーに向かって歩いていた。手には明日香の過去からの手紙の入った厚い封筒が握られていた。 香堂は数台の車が駐車しているコンビニエンスストアーの駐車場で立ち止まるとポケットから携帯電話を取り出した。アドバイスをしてくれたあの看護婦がいるナースステーションに電話しなければならなかった。三回目の呼び出し音がなり終わるとアナウンスが流れ始めた。その声のガイダンスに従って7番のボタンを押すと再び呼び出し音が鳴り始めた。しかし今度は携帯電話のそれではなく、病院内のインターホンが奏でる呼び出し音に代わっていた。5度目の呼び出し音が鳴り始めた時女の声が香堂の耳に入った。 「はい青葉中央精神科病院第7病棟です」 香堂はその声の持ち主がアドバイスをしてくれたあの看護婦だということを直ぐに察知した。 「もしもし香堂です。市居明日香の友人の香堂正明です」 看護婦は名前の組み合わせで直ぐに話している相手が誰なのかを特定できたようだった。 「ああ、香堂さん…、何か明日香さんに御用でも…」 「いいえ、明日香の様子をお伺いしたかっただけなんですが、その後何か変わったことはありませんか」 香堂は明日香が興奮したあの時から今までの容態に何か変化があったのかどうかを訊きたかった。香堂が見舞いに行かない時はいったいどんな態度を取っているのか知りたかった。 「特別興奮するとか妄想を抱くといったような症状は見受けませんね。徐々によくなってきてるとは思います。小林先生もそう仰ってましたよ。でもよくなってきたとは言ってもまだまだ病気が治るまでには時間がかかると思いますよ」 「はい。分かりました」 香堂は張りの無い声を出した。しかし何故か時間がかかるという看護婦の言葉に幾分安心していた。今の香堂の頭の中ではあいつを見舞いに行くよりも、明日香の過去からの手紙が何を語り始めるかの方が重要だった。香堂は丁寧に礼を言って携帯電話を折り畳んだ。これでやらなければならないことの一つが済んだ。 コンビニエンスストアーの中には昼食時とあって、客がレジに並んでいた。その客達の手にしているものを見ると殆どは弁当や缶ジュース等の食品類だった。香堂はカウンターと並んで置かれた複写機の前で立ち止まった。ポケットから財布を取り出し中身を見るとあいにく小銭は無かった。香堂はレジに並んでいる客の長い列を見てうんざりした。香堂は仕方なく何かを買うことにした。缶のホットコーヒーの置かれたコーナーの前に客が一人立っていた。香堂はその客の後ろからその客の行動を眺めていた。何種類もある缶コーヒーをひとつ手にとっては戻し、他のを取っては戻しどれを買っていいのか迷っているように見えた。 「こんな物どれを買っても同じではないか。」 香堂は頭の中で呟きながらその客の脇から身体を屈み加減に手を伸ばして適当に1本引っこ抜いた。その客は急に背後から手が伸びてきたのに不満だったのか、まだ屈んでいた香堂の頭に視線を落としていた。その視線は明らかに不満の色を呈していた。香堂は実際にその客の視線を見た訳ではなかったが確実にそれを感じ取っていた。香堂は素早くその場を離れると今度は弁当の置かれたコーナーに足を運んだ。弁当のコーナーには客はひとりもいなかった。香堂はやはり瞬時に数多く並んでいる弁当の中からひとつを手に取った。そして中身も値段も確認せずにレジに並んでいる客の最後尾に自分の身体を並べた。香堂は並んでいる間カウンターと反対側に置かれたガム等の置かれた棚に気を取られていた。その間に前に並んでいた客達が一歩前に進んだことに気が付かなかった。ふと前に向き直ると、さっきホットコーヒーのコーナーでどれを買おうか迷っていた客がその隙間に割り込んでいた。香堂は馬鹿馬鹿しくて何も言う気にはならなかった。その客の手にしているものをチラッと覗くとホットコーヒーは握られていなかった。その代わりに厚い漫画の雑誌が脇の下に挟まれていた。香堂は皮肉を言ってやろうと思った。 「あれ、あんなに迷ってたのにコーヒー買わなかったんですか」 その客は振り向いて香堂の顔を見るとこいつ頭がおかしいんじゃないのかと言わんばかりの顔をしていた。そして何も言わずに前に向き直ってしまった。香堂は頭がおかしいのはお前の方だと言ってやりたかったがそれは堪えた。 香堂はレジでもらった釣銭の100円硬貨1枚を複写機のコインの投入口にくぐらせた。デジタルの表示が10という光を放っていた。香堂は封筒から明日香の無秩序な過去からの手紙を引っ張り出すとそれを複写機の上面に挟み、枚数を1枚に設定して複写開始ボタンを押した。それは直ぐに終わった。そして全てのページを1枚ずつ複写し終わった。香堂の胸にレジに並んでまで果たした2つ目のやらなければならないことを終えたことに対する満足感が膨らんでいった。香堂は来た時よりも幾分厚みの増したその紙の束を丸めてコンビ二エンスストアーを出た。 駐車場に止まっている車の中から誰かの視線を感じた。あのコーヒーの客だった。香堂は皮肉を言うようなタイプの人間ではなかったが、さっきそうしてしまった自分の精神状態が不安定な状態に陥っているのかもしれないと不安になった。そう考えている間もそのコーヒーの客に視線を向けていた。それが馬鹿馬鹿しく感じられると自宅への帰り道を歩き出し始めた。その客は車の中から珍しいものでも見ているかのようにいつまでも香堂の背中を眺めていた。香堂はやはりその視線を見えずとも確実に感じ取っていた。 母親が留守の自宅に帰ってきた香堂はひとまず空腹を満たすことにした。ホットの缶コーヒーで電子レンジで温められた中途半端な弁当を胃に流し込んだ。それから点けっ放しにしておいた炬燵の中に足を滑り込ませ、明日香の過去からの手紙の複写を手に取って目の前に翳してみた。いくら眺めてみてもやはりそれは全く意味を成さなかった。香堂は炬燵の天板の上にへばりついている中途半端な『農村の風景』画の上に複写だけを残して手紙の原本複写を自分の背後に置いた。そして座る前に用意しておいた定規を使ってその複写の一枚目に升目を入れ始めた。升目を入れ終わると今度は行番号と列番号を書き加えた。そして絵柄に開いた穴の位置を確認し始めた。ひとつ確認しては複写の文字の位置と穴の位置とを照らし合わせその文字を丸で囲んだ。長い時間を費やして一枚目が終わった。香堂はその紙を目の前に翳した。今までは何の秩序も示さなかった夥しい数の文字は、丸で囲んだ文字だけが秩序のある文章を浮かび上がらせた。それは全て同じ方向から書かれてさえいた。明日香が誰に何を言いたいのかがこれではっきりする。もしかすると病室にいるあの女の形をしたあいつが誰なのか分かるかもしれない。そう思うと香堂の胸は高鳴った。香堂はそれを読んでみた。頭の中で読み上げてもそれは当然棒読みになった。 未来の誰かへこの手紙を書くことが正しいことなのかさえも私には分かりません私の大切な貴方がこの手紙を読んでいるのでしょうかそれとも他の誰かなのかは私には分かりませんこの手紙が届く頃私は死んでいるかもしれません私は自分を守りきることができ そこで一ページ目は終わっていた。香堂は複写の一ページ目と残りを重ね直してそれを段ボールの上に置いた。力を入れて一枚目の丸印を鉛筆でなぞってみた。試しに最後のページを覗いてみると、強くなぞった部分が筆圧で微かに凹んでいた。香堂は再びそれらを綺麗に重ね直すと全ての丸印を力強くなぞった。そして今度はそれを読みやすいように紙に書き写した。 未来の誰かへ この手紙を書くことが正しいことなのかさえも私には分かりません。私の大切な貴方がこの手紙を読んでいるのでしょうか。それとも他の誰かなのかは私には分かりません。この手紙が届く頃私は死んでいるかもしれません。私は自分を守りきることができないと思います。増してや守る価値もない人間なんです。それが誰の手によるものなのかそれは明らかではありません。ただ一つ確実なことがあります。それはもし私が守らなければならない人が私の周りに存在した場合それは深い悲しみを導く火種となるということです。もしこれを読んでいる貴方が私の大切な人なのだとしたら私は貴方の隣にはいないはずです。私達姉妹が存在する限り私の大切な人は皆その存在を否定されてしまうのです。母も恐らくはその存在を否定されるはずでしょう。私に母を守ることはできません。そして私は貴方を守ることもできないだろうと思います。私の未来の夢は幸せな家庭を築くというちっぽけな夢です。小さな家に私と貴方がいて小さな子供がいるただそれだけのちっぽけな夢です。その礎となる貴方の存在を否定されてしまうのは私には耐えられない。だから私は私達の存在を否定しなければならない。私はいつもこの矛盾に悩まされています。私のちっぽけな夢の礎となる貴方を守るために私達の存在を否定しなければならないのです。夢が崩れ去っていくのです。貴方は最初から大切な人を作らなければいいのではないかと思うのかもしれません。私には愛する人が必要なんです。ただ他の者がそれを奪っていってしまうのです。私達のそばにいる限り貴方には確実に死が迫っていくのです。私はできる限り貴方の存在が否定されないよう努力するつもりです。私の言うその努力とは貴方を守るということではなく、私達自身の存在を否定するということです。それが成功するか否かは私には分かりません。もし貴方のそばに美咲がいるのならば早く逃げてください。貴方は恐らく命を否定されてしまう。そうなる前にどうか逃げてください。私の愛する貴方。 市居明日香 香堂はその手紙の内容自体に驚きはしなかった。しかし明日香の貴方を守るという言葉に心が締め付けられる思いだった。この手紙を書いた時明日香は貴方と呼ぶべき誰かを知らないのにも拘らず必死に自分の思いを伝えようとしていたのだ。香堂はその未知の「貴方」というのが自分自身なのだと思うと何もできない自分に対して遣り場の無い憤りを感じた。そしてその手紙の内容は全ては既に香堂の目の前で現実に起きてしまっていることだった。香堂はもう一度手紙を読み直してみた。香堂の胸の中のわだかまりを取り除いてくれるだろうと思ったこの手紙が、そのきっかけでさえ示していないということに空虚感を感じていた。この手紙から香堂が知り得たことは明日香が中学生の時に既に自殺のようなものを仄めかしていたということだけだった。香堂はやり切れなくなってその場に寝転んだ。下敷きになった手紙の原本が低く鈍い音を立てた。香堂は何かが頭に引っかかっていた。香堂はそれが何なのかしばらくの間考えていた。突然香堂は飛び出す絵本の絵が急に開かれたかのように上体を起こした。香堂は明日香がアパートに引っ越してきた時に見せてくれた段ボールの中の一番上に載っていたパズルの絵柄が『農村の風景』の絵柄だったことを思い出した。そして明日香が入院した後に開いた時には『白黒の薔薇』の絵柄がその上に載っていたことも思い出した。その薔薇のパズルの欠片の数が足らなかったということは母親が自殺してから美咲の自殺までの間に明日香は何らかのメッセージを誰か宛に書いたということになる。香堂は『白黒の薔薇』のパズルを崩してしまったことを後悔していた。香堂は立ち上がるとパズルの入った段ボールに近寄った。 段ボールの蓋を開け中を覗くと、そこに一度は完成させた『白黒の薔薇』のパズルの絵が描かれた箱があった。香堂はその箱をゆっくりと取り出すと再び炬燵に足を忍び込ませた。その箱を膝の上に載せ、ゆっくりと蓋を開くと中の白いパズルの欠片を右手ですくってほんの少しの間それを眺めていた。手の平から水をこぼすようにそれを箱に戻してみた。欠片はぶつかり合いながら小さな心地のいい音を立ててなだらかな山を作った。香堂はそれを何度か繰り返すと急にその欠片を数え始めた。香堂は欠片の数を数えることでその足りない数を知ろうと思った。もしその数が『農村の風景』の絵柄の穴の数と一致するのならば、それは恐らく同じ手紙の輪郭を浮かび上がらせるための鍵だと考えることができる。もしそれらの数が一致しなかった場合は明日香が何らかのメッセージを誰か宛に送った可能性が高い。欠片は88個足りなかった。香堂は目の前の『農村の風景』の絵柄に開いた小さな穴の数を数えた。その穴の数は117個だった。香堂は明日香が誰か宛のメッセージを残したことをほぼ確信した。数え終わった欠片を箱に戻すと立ち上がった。炬燵の天板の上に載せられた穴の開いた『農村の風景』画をゆっくりと持ち上げるとそっと床に下ろした。再び元の位置に座るとパズルの縁になるべき欠片を探し始めた。既に一度組み立てたことのあるそのパズルの四辺は直ぐに輪郭を現した。香堂は一つ一つの欠片に触れながらメッセージが自分宛であることを祈っていた。 いつもと変わらない窓の外の風景をそいつは飽きもせずに眺め続けていた。香堂もそいつに向かって話そうとはしなかった。いつまでも静寂が病室を包み込んでいた。こいつはいったい何がそんなにおかしくて嘲り笑っているのだろう。香堂はふと以前うつろな眼をした明日香が握っていた黒い物体のことを思い出した。こいつは明日香の手紙が語るように自分を殺そうとしたに違いない。瞬時に後に回した手に握られていたあの黒い物体はいったいなんだったのであろうと香堂は首を傾げた。つい数日前に引越しのために明日香の持ち物を纏めた時にはそんな物は見当たらなかった。こいつが博隆だとして、こいつはもしかすると自分を殺そうとした弘美を傍観していたのではないだろうかと考えてみた。 「おい、お前弘美が持っているあの黒い物の置き場所を知っているんじゃないのか」 そいつは一瞬顔に浮かべていた嘲笑を何処かに追いやると、真面目な顔をして何かを考えている様子だったが、直ぐにまた不気味な嘲笑を呼び戻した。香堂はその黒い物という言葉に反応したそいつそのの表情を見逃さなかった。こいつはあの黒い物のことを知っている。もしかするとその在り処も知っているはずだと香堂は思った。しかしそんなことを素直にこいつに訊いてみても答えが返ってこないことは眼に見えていた。香堂は仕方なくそのまま黙っていた。再び静寂が病室を包み込んだ。 不動産屋の事務員はやはり定位置に座っていた。香堂が入り口のドアを押し開けようと手をかけた時には事務員の視線は香堂の身体の動きに注がれていた。香堂はそれに気付かずに事務所へと足を踏み入れた。既にアパートから引越しを済ませたはずの香堂の顔を見て事務員は少し驚いているような顔を見せた。香堂の深刻そうな顔を見てまた何か問題でもあったのかと勘違いしたらしい。 「あら香堂さんこんにちは」 事務員は平静を装っているようだったが、香堂の眼には事務員が香堂の提示するであろう問題に対して不安を隠しきれないでいることが手に取るように分かった。香堂は不動産業というのはそういった問題を解決すれためにあるものなのだろうと思った。香堂はそれ以上事務員の不安を掻き立てないように早めに自分の用件を伝えることにした。 「済みません、連絡も無しに来ちゃって。大したことじゃないんですが…」 香堂は以前市居美咲が自殺した時に住んでいたアパートの部屋を見せてもらおうと事務所に立ち寄ったことを事務員に説明した。香堂が思っていた通り事務員の表情はさっきよりも柔らかくなった。 「確かコスモハイツでしたよね」 香堂は小さく頷いて見せた。事務員は未だ借り手の見つからないそのアパートの鍵を探し始めた。それを手渡された香堂はあまりにもことが簡単に運んだことに驚きを隠せなかった。 「いいんですか。借りようとも思ってもいないのに部屋の中に入っちゃって…」 「大丈夫ですよ。大家さんだって誰も興味を示さないよりはたまに誰か借主みたいな人が部屋を下見に来れば安心するでしょう」 香堂はその事務員の訳の分からない言い訳に納得したような顔をして見せ事務所を出た。 自殺があったような部屋を借りる物好きはそうはいないようで、美咲の後に誰も借主の見つからないその部屋はひっそりと静まり返っていた。下見に来る人もいないようで部屋の中はカビの臭いで充満していた。部屋には何も置かれていなかった。家具類は病室にいるあいつが処分してしまっていたし、小物は香堂の自宅の押入れの中の段ボールに入っているはずだった。香堂は中に何か残されてはいないものかと、部屋の隅々まで見て回ったが、特別目に付くものは何一つ無かった。香堂は一旦部屋を出るとアパートの周りを一周してみた。回っている途中住人の1人が洗濯物を干しながら香堂を不審者を見るような目つきで見ていたが、香堂が丁寧にお辞儀をすると直ぐにテラスから部屋へと引っ込んだ。香堂は何か隠し場所があるのではないのか、不振な物は見つからないものかと眼を見張って歩いたが、やはりそんな物は見つからなかった。増してや香堂が最後に見たあの黒い物は明日香のアパートで見た物で、美咲が自殺した後なのだということに気付いた。香堂は探し疲れると不動産屋への道を戻り始めた。いくら病院からの帰り道についでに調べてみたのだと自分に言い聞かせてみても、無駄な時間を費やしてしまったということが香堂を後悔させていた。 パズル、食事、睡眠、コーヒー、これらを順不同で繰り返し二日間かけて『白黒の薔薇』の絵をほぼ半分組み合わせることができた。香堂は炬燵に足を差し込んだままそこに寝そべっていた。すると自宅の前にある小さな庭の方から父親が何かを叫んでいるような声が聞こえた。香堂はその父親の声を聞いて日曜日なのだということに気付いた。父親の声が止むと、続いて台所の方から母親の声が聞こえてきた。 「正明…、正明、寝てんのかい」 母親の甲高い声があまりにも耳障りに聞こえ、香堂は返事はせずに部屋を出て台所へ向かった。ひょっこり顔を出した香堂の顔を見た母親は何か胡散臭い物でも見ているような表情を香堂の眼に投げかけた。 「さっきから父さんが庭で呼んでるよ」 香堂は返事をせずに居間を通って縁側に出た。父親が白いビニール袋を手にぶら下げて庭に立っていた。父親は香堂が縁側に現れると直ぐに話し始めた。 「正明…、何だこれ」 そう言うと、縁側に立っている香堂に2,3歩歩み寄ってその袋を香堂に手渡した。香堂は直ぐにその中身を覗いてみた。香堂にはすぐ分かったが父親にはそれが何なのか分からなかったらしい。 「さっきな、お前の持ってきた植木鉢を移動しようと思ってその木の根元を持って持ち上げたら土ごと持ち上がってな、そしたらそれが鉢の中に入ってたんだ。何か大事なものなのか」 香堂は返事に詰まったが何とか答えようとした。 「あ、これ…、壊れた携帯電話さ。前からそこに入れといたの忘れてただけさ」 香堂は言ってしまってからそんなところに携帯電話を入れて置く馬鹿がいる訳が無いではないかと後悔した。父親はそれを疑いもせずに再び自分の盆栽をいじくり始めた。それを見た香堂は胸を撫で下ろしたい気持ちだったが、直ぐに後へ振り返ると急ぎ足で部屋へと引き返した。 その黒い物は香堂の手にすっぽりと納まった。香堂の同年代の人が見ればそれが直ぐに何なのか分かるものだった。初めて手にするその黒いものを隅から隅まで嘗め回すように見入っていた。香堂はその黒い物についている突起物を注意深く軽く押してみた。しかしそれは長い間使われることが無かったのか魂が抜けてしまったたかのように動作しなかった。香堂はその黒いショックガンを炬燵の天板の上にそっと置いた。足を炬燵に差し込みながら、眼はその殺気を臭わす黒い物から逸らそうとはしなかった。香堂の背筋に沿って生える小さな体毛が逆撫でされたように弥立っていた。 「あいつは本当に俺を殺そうとしたんだ」 香堂の頭の中に自分の首に巻きつけられた白い紐をあいつが力強く引くイメージが通り過ぎ、このショックガンを持ったあのうつろな眼をしたあいつの顔が浮かんで消えていった。自分は二度も殺されかけたんだ。香堂は身震いした。恐らくあの病室にいるあいつは美咲だ。何故自分を殺そうとした奴を助けなければならないのだと自問自答していた。香堂は明日香の母親が自殺をした時の事件を頭に呼び起こしてみた。寝ている母親は美咲が旅行先から家に帰ってきたことに気付かない。美咲は静かに母親の皮膚にショックガンを当て痺れているとことを風呂に運んでいく。浴槽にその身体を入れてしまうともう一度ショックガンを当てた。そして浴槽の蛇口を勢いよく捻った。母親の左腕を取り持ち上げる。浴槽の縁に母親を背にして座ると家に置いてあったカッターを右手に持ち持ち上げた母親の左手首を持ち深く抉るように切った。浴槽の水が赤くなっていく。その水が母親の首まで来たときに水を止めた。母親の顔から徐徐に血の気が引いていくのを美咲は不気味な笑みを浮べながら眺めていた。そして母親が息をしなくなったのを見計らって再び蛇口をほんの少しだけ捻った。細い透明な氷柱のような水が流れ出した。香堂は単なる自分の頭の中で描きあげた美咲の殺人のイメージに憤りを感じた。いくら美咲に罪は無いと言っても所詮は同じ体に宿った一つの人格に過ぎない。殺人鬼と一緒に同居している美咲を助けて何の意味があるのだろうと香堂は思った。そして香堂はついに美咲を回復させたいという気持ちを心の片隅に追いやって蓋をしてしまった。隣の家の庭に植えてある梅の木の枝に小さな蕾が見え隠れしていた。 第八章 ー 遺 ー へ https://ofuse.me/e/16575
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