ホテルに着く頃には陽は既に遥かかなたに見える水平線の向こう側に沈んでしまっていた。さっきまでそよそよと吹いていた風もどこかへ行ってしまったようだった。サミス・インの外に設置してある街頭がぼんやりと柔らかい光を路面に落としていた。山瀬はその光に誘われる虫のようにサミス・インに入っていった。アイリーンがまだカウンターの中でいそいそと動き回っていた。 「あらお帰りなさい」 山瀬がカウンターに近付くまで気が付かなかったようで顔に少し驚いたような表情を覗かせていた。 「案外用事が早く済んだからトライシクルを拾えたよ。ちょっと疲れたよ。部屋の鍵もらえるかな」 「ちょっと待ってね」 アイリーンが後ろを振り向いて鍵を取り出している間、山瀬も財布の中に入れてあったメモリーカードを取り出した。 「それと、このメモリーカードの中身をパソコンで見れるようにする何か簡単な方法はないかな」 差し出された鍵と引き換えに山瀬が差し出したメモリーカードを見たアイリーンは直ぐに答えを見つけたようだった。 「あら…。これなら携帯電話を扱っているお店かインターネットカフェなんかでUSBメモリーを売ってるから、そのUSBメモリーに入っているメモリーカードと差し替えてパソコンに繋げば直ぐにでも使えるはずよ。今ならまだインターネットカフェは開いていると思わ」 アイリーンはメモ用紙に下手な地図を描いて山瀬に手渡した。描いている途中ほんの少し覗いてみたが直ぐに使い物にならないことが分かった山瀬は、見もせずにそれをポケットに押し込んだ。 「歩いてすぐよ。夕飯ここで食べるんだったら、そこに行く前に注文しておけば帰ってくる頃には丁度料理も出来上がってるはずよ」この国でここまで気が利いたウェイトレスに山瀬は出会ったことがなかった。今までの経験上ウェイトレスというものは愛想を振りまくことや客に対して気を利かせることはこの国の法律で禁止されているのではないかと思ってしまう程、その態度は全くと言ってよい程不親切なものだった。 「アイリーン…、仕事中は喉が沸いたらジュースとかカウンターの中で飲んでもオーナーに叱られたりしないのかい。もし叱られないんだったら何か好きな物飲んでよ。俺がおごるからさ」 アイリーンは薄っすらと笑みをその顔に浮かべた。 「飲み物くらいだったら叱られたりしないわよ。じゃあコーラでも飲んじゃおうかな。でも本当にいいの」 まだ山瀬の言葉を冗談半分に聞いているようだ。 「当たり前だよ。こんなに気の利いたウェイトレスに会えたんだからそれくらい当たり前のことだよ。それと今日昼に食べた焼き魚をまた料理してもらおうかな。それとビールも1本お願いしとくよ」一日のうちにそう何度も起きることのないちょっとした何ということもない嬉しい出来事が山瀬の疲れを洗い流してくれる。こういう何でもないことを楽しむところが山瀬の長所だった。 買ってきたUSBメモリーを手にサミス・インに戻るとレストランでは何人かの食事客が寛いでいた。キッチンからアイリーンと料理人が話す声が微かに聞こえてきた。山瀬は適当に空いている席に腰を下ろし誰かが自分が戻ってきたことに気が付いてくれることを待ってみようと思った。何分くらい経っただろうか、料理人がカウンターに顔を出したかと思うと直ぐに引っ込めた。その後直ぐにアイリーンが山瀬のテーブルにビールを持ってきた。 「あら…。結構早かったのね。呼んでくれればいいのに。料理もうすぐ出来上がるから先にこれ飲んでもうちょっと待っててね」 そう言うとまたキッチンへ入って行った。山瀬は冷えたビールを口の中に頬張った。飲み込むと胃の中にビールが染み込んで行くのが手に取るように分かった。 買ってきたUSBメモリーを早速袋から取り出して開いてみた。どのような構造をしているのかよく確かめてカバーを取り外すと、中に猫の首輪から出てきたメモリーカードと同じものが差し込んであった。 「これを交換すればいいのか…」 そう頭の中で呟きながらすでに入っているメモリーカードを引っ張り抜いた。その代わりに猫の首輪から取り出してきたメモリーカードの薄いラップのようなものを剥がしそこに差し込んだ。それはぴったりそこに収まった。何の問題もなくメモリーカードの交換が終わったところでアイリーンが料理を運んできた。 「お待ちどう様。交換できたかしら。良かった。もしかしたらサイズなんかが違っていたらどうしようって心配しちゃった」 料理をテーブルの上に並べながら、視線はUSBメモリーの方へ注がれていた。 「俺ももしかしたらサイズが違ってたりしたら…と思ってちゃんとカフェの店員にカードを見てもらったら大丈夫だって言ってたよ」 アイリーンはそれを聞くと小さな笑みだけを残してキッチンへ入っていった。 周りを見回してみると、まだ食事客が食事のあとのひと時を楽しむためにそれぞれタバコを吸ったりビールを飲んだりしていた。皆今日一日無事に仕事を終え疲れを癒しているかのように山瀬の目に映った。そういう山瀬も小町の事件の解決に一歩近づけたことの納得感と冷えたビールのおかげで疲れを癒されているような感覚を覚えていた。 山瀬は早めに食事を済ませ自分の部屋に戻ってくると、早速持ってきたノートパソコンのスイッチを入れUSBメモリーをそれに差し込んでみた。USBメモリーのドライバーのインストールが終わると、メモリーカードの中身が表示された。ファイルが2つ記録してある。ひとつは『桃ちゃん』というファイル。もうひとつは「インストーラー」と題された恐らく『桃ちゃん』のファイルを読むためのソフトのインストーラーだろう。山瀬はまず『インストーラー』をクリックしてみた。思った通りワープロのようなソフトのインストールが始まった。それが順調に終わると、今度は『桃ちゃん』のファイルを開いてみた。 http………………………ph 5847390281 ウェブサイトのアドレスと何かのパスワードであろうことはすぐ理解できた。山瀬は最近のフィリピンの田舎の島にあるホテルでもWiFiの設備があることを喜ばしく思った。早速アドレスをクリックしてそのサイトを開いてみた。真っ白な壁紙を背景にして5匹の猫の名前が書いてある。それぞれの名前が他のページにリンクしているようだ。『桃ちゃん』の文字をクリックすると、リンクされているページを開くためにパスワードを入力する画面が現れた。当然さっき『桃ちゃん』のファイルにあった数字の羅列を入力してみた。山瀬の考えていた通り無難にページが開かれた。 桃のページ これを読んでくれている貴方に私、幾田小町の希望をお伝えし ます。でもこのことは私の母である幾田優子にだけ伝えていただ けないでしょうか。まず最初に貴方にやっていただきたいことが あります。全ての猫達の首輪にメモリーカードを埋め込んであり ます。まずはその全てを揃えていただきたいのです。他人に知ら れたくないことでしたのでこのような複雑な謎解きのようなもの になってしまいましたが、その点はお許しください。 ファイブ・キャッツ・ダイブ・カンパニー 桃38k 幾田小町(長ココフー桃ホームズ) 文章は日本語で書かれていて、理由を知らずにただ単にこのページだけを開いた者には理解できないようになっていた。増してや殆どの外国人には読めないだろう。小町は猫が新しい飼い主に貰われていくことを想定していたのかもしれないと山瀬は思った。そして山瀬は小町の母、幾田優子からの手紙の内容を思い出していた。小町は最初から自分に依頼をするように母親を仕向けたのではないのだろうかと考えていた。日本人の山瀬が『ココ』と書かれた文字をごく自然に「ここ」と読んでくれることを小町は願っていたのかもしれない。ただいつもの自分の早とちりで『CC』と読んでしまったことを山瀬は恥ずかしく感じた。山瀬は左手で無意識に頭を掻いていた。山瀬はとりあえずリンクしている「幾田小町」の文字をクリックしてみた。やはりパスワードを入力する画面が現れた。文章の流れから括弧の中身がパスワードになるのであろうと山瀬は思った。 「小町さん…。やっぱり何か思いつめていたのかな…」 山瀬の緊張感がいつとなく高まっていた。残りの猫達を一刻も早く探し出して「幾田小町」のページを開いて小町の母、幾田優子に知らせてあげたいという気持ちが山瀬の心の中で次第に大きくなっていった。自殺するはずがないと言っていた母親の勘がもしかすると当たっているのかもしれない。ただこの文章を読んだだけでは自殺ではなかったと言い切ることはできない。幾田小町のページには遺書が書かれているかもしれないと山瀬は思った。開け放った窓から吹き込む風がカーテンを揺らしていた。山瀬は長い間パソコンの画面に見入っていた。 熱く憂鬱な夜が明けた。猫達を探すためにはオートバイをレンタルする必要があった。昨夜地図を調べてみたところ、マリーの教えてくれた猫達の新しい飼い主達の住所はトライシクルでは行けそうにない場所もあったからだ。幸い観光客の多い島だったのでオートバイやマウンテンバイクをレンタルしている店が何軒かあった。ホテルで借りても良かったのだが、料金を見ると幾分高めに設定されていたのでまずは他の店をあたってみることにした。 まだ朝の8時前とあって学生やトライシクルで路上はかなり混雑していた。朝だというのに身体が汗ばんでいくのは気持ちのいいものではなかった。その混雑の中を縫うようにして抜け出し、目当てのオートバイレンタルの看板の掲げられた店にやっとの思いで辿り着くことができた。外にスクーターやオフロードバイク、マウンテンバイクが何台か並べてある。山瀬が品定めをするように並べてあるそれらのオートバイを見ていると中からオーナーらしい頭を剃った中年の男が顔を出した。 「おはよう。オートバイかい」 「ええ。山に行くからこのオフロードバイクを借りようかと思ってるんだけど…。これ1日いくらで貸してもらえるのかな」 ちょうど山瀬にも乗りこなせそうな大きさのバイクだったのも理由となったが、山道で舗装されていない道もあるだろうと予想してオフロードバイクを借りることにした。 「300ペソだよ。でもガソリンは満タン返しでお願いするよ」 山瀬が考えていたよりも安かったのでディスカウントは要求しなかった。パスポートと国際運転免許証を提示して必要な書類にサインをすると、男が早速エンジンを試しにかけて見せてくれた。エンジンの調子は悪そうではなかったので山瀬は男に小さく頷いて見せた。 「それじゃ気をつけて…」 エンジンを切らずに男がそう言ったので、山瀬は早速その小さめのオフロードバイクに跨ってその場を走り去った。 さっきまでの汗が嘘だったように退いていった。汗が退くのと同時に体温を奪われるせいか寒気さえ感じてきた。 「こりゃあ山に行くともっと寒くなるかもしれないな」 暖かい国だが夜は稀に寒い時がある。山間部は尚更だ。数は多くないが、洋品店に厚手の洋服が置かれているのを山瀬は知っていた。山瀬は道端にある小さい洋品店でちょっと厚手の長袖の上着を調達した。それをデーパックに押し込むと再びバイクを目的地に向けて走らせた。まずはこの先の海沿いの村に住んでいるオディールの家に行ってみようと思った。右手には青い海が見えている。潮の香りがヘルメットの中にまで入り込んできた。風の中を空間を切るようにして走っていく山瀬のオフロードバイクが朝の情景に色を付け加えているかのようだった。 道の両側に何軒かの家が軒を並べていた。山瀬はオディールの住んでいる村がだいたいこの辺りであろうという予想をしてみた。路上を子供の手を引いて歩いている主婦らしい女がいた。山瀬は道を尋ねてみることにした。 「おはよう。ちょっといいですか」 外国人をあまり見慣れていないのか子供が山瀬の顔にじっと見入っていた。山瀬が母親の方に名前と住所の書いてある紙を手渡すと母親はオディールを知っているらしく、にっこりしながら教えてくれた。 「オディールの家だったらこの先にT字路があるからそこを左に曲がってちょっと奥に入ったところよ。材木屋をやっているからすぐ分かると思うわ」 「ありがとう」 山瀬はポケットに入れてあったキャンディーを子供に手渡すと先を急いだ。 教えてもらった通り、500メートル程進むとT字路が見えてきた。そこを左に折れゆっくりとバイクを走らせていくとウイーンという恐らくは木材を切る機械音が耳に入ってきた。右側におが屑を山のように積み上げた家が見える。 「ここだ…、間違いない」 山瀬はゆっくりとオートバイを道の傍らに止めた。 バイクのエンジンを止めヘルメットを脱ぐと機械音は一層大きさを増した。何か挨拶らしい言葉を叫んでも良かったが、騒々しい機械音に声がかき消されてしまうことは明らかだった。急に他人の家を訪れたこともあって挨拶もせずにいきなり他人の土地の中に入っていくのは気が引けたがこの際仕方ないことだった。その機械音の発信源に向かって足を進ませることにした。家の裏手が作業場になっているようである。家に向かって右側に人が通れるくらいの道がある。そこをゆっくりと進んでいった。家の裏側の角を右に折れると作業場の中で山瀬と同じくらいの年齢の口髭を生やし頭にタオルを巻いた優しそうな男がバンドソーに木を差し込んで真っ二つに切断しているのが見えた。山瀬はそこで一旦足を止めた。男はかなり機械の操作に集中している様子で山瀬がそこにいることに一向に気付かなかった。 「おはようございます」 山瀬はその男に向かって絶叫に近い声で挨拶をしたが、やはり機械音に邪魔されて男の耳には届かなかった。 「おはようございます」 今度はタイミングよく機械音が少し弱まったところで叫んでみた。ついに男の耳に山瀬の声が響いたらしく、男はチラッと顔をこちらに向けた。男が腰を屈めたかと思うと、いままで騒音をあげていた手造りのバンドソーは徐々に周波数の低い音を発するようになり、終いには全く音を発しないただの大きな木製の機械の塊となった。 男は頭に巻いてあったタオルを脱いで額の汗を拭き取りながら山瀬に近寄ってきた。 「ああ…。もしかして山瀬さんかな」 男のその言葉にほんの少し呆気に取られて山瀬の答えが遅れた。その遅れに間髪を入れずに男が話しを続けた。 「いやね、昨日マリーから電話があってもしかしたら山瀬という名前の日本人が訪ねてくるかも知れないって言われてね」 山瀬はそれを聞いてほんの少し安心した。余計な話をする手間が省ける。 「そうだったんですか。オディールさんですよね。じゃあ猫のこともマリーさんからお話があったんですか」 「聞いてるよ。フーだったらもうそろそろ戻ってくると思うよ。どうです。コーヒーでも飲みながらちょっと待ってみませんか。探すのは大変だろうからね」 オディールは周りを見回しながらそう答えた。 二人は家の中で猫を待つことにした。オディールが台所でお湯を沸かすために動き回っているとその音に魅かれて白、黒、茶色の三毛猫が玄関に現れた。玄関から台所の方へ山瀬の目の前をゆっくりと歩いて行った。 「よお、フー帰ってきたか。今日はお前にお客さんが来てるぜ」 台所のある方からオディールの声が聞こえてきた。山瀬はひとまずほっとした。猫を待つのはいいがあくまでも猫と時間の約束をしてあるわけではないので、長く待たされるとこの後の予定が全て狂ってしまうことを懸念していたからだ。お湯が沸いたらしくオディールがコーヒーカップとインスタントコーヒーを持ってきた。その後ろからオディールの尻尾のようにさっきの三毛猫が主人に歩調を合わせてついて来た。 「やっぱり帰ってきたよ。フー。まさかこんなに早く戻ってくるとは思わなかったぜ」 山瀬はオディールが誰に話しかけているのかよく分からず返事をすることができなかった。オディールはポケットから袋に入ったドライフードを引っ張り出すと、それを床に置いてある猫用の食器に入れた。猫はそっとその食器に近寄って一度匂いを嗅いでからゆっくりと食べ始めた。やはり青い首輪が付けられていた。 「とりあえずコーヒーでも飲んでフーが飯を食い終わったら首輪をはずしてみましょうや」 オディールはコーヒーカップにお湯を注ぎ、自分のコーヒーは自分で作れと言わんばかりにそれを山瀬に差し出した。コーヒーカップに既に注がれているお湯にインスタントコーヒーの粉末を入れるというのがフィリピンの風習だと承知している山瀬だったがやはり納得できる風習ではなかった。山瀬はお湯が溢れないようにゆっくりとコーヒーの粉末を入れると、やはり溢れないようにゆっくりとスプーンでかき混ぜた。ふと猫の様子を見てみると、すでに食事に満足したらしく前足で顔をきれいにしているところだった。2人はゆっくりとコーヒーを啜りながら猫の様子を覗っていた。2人はコーヒーを飲んでいる間殆ど会話を交わさなかった。 「フー、ちょっと首輪見せてくれ」 オディールが先にコーヒーを飲み終え立ち上がって猫に近寄った。抱き上げてテーブルに戻り腰掛け直すと猫を膝の上に乗せた。首輪の留め金部分を探し当てるとゆっくりと首輪をはずし始めた。 「これでいいのかい」 ほんの少しだけ腰を椅子から浮かせてテーブル越しに山瀬に首輪を手渡した。膝に乗っていた猫はオディールが腰を浮かせたのと同時に膝から飛び下りるとさっきまで食べていた餌のところへ行ってまた食べ始めた。 「どうもすいません」 山瀬は手に取った首輪を調べ始めた。思った通り「ココ」という傷が付けてあった。その字の書いてある裏の部分にやはりポケットのような仕掛けがしてあり何かが仕込まれている。引っ張り出すとマリーの家に居た猫の首輪に埋め込まれていたのと同じメモリーカードだった。 「これ、私が預かってもいいでしょうか」 山瀬はオディールにメモリーカードを見せながらそう尋ねてみた。「別に俺が持っていても何の意味もないんだから持って行っても構いやしねぇよ」 オディールはあっさりとした性格のようだった。 「ありがとう、オディールさん。今度何かご馳走させてください。先を急がなくちゃならないので私はこれで失礼します。コーヒーご馳走様でした。フーちゃんも元気でね」 猫は相変わらず餌をゆっくりと食べていたが山瀬が立ち上がると同時にこちらを向いた。 「ミャーォ」 山瀬は「せいぜい急ぐこったな」と言われたような気がした。外はまだ朝の雰囲気が漂っていた。朝寝坊でもしたのかひとりの小学生が鞄を抱えて早足で大通りの方へ向かって歩いていた。山瀬はふと小さい頃の自分を思い出していた。風がほんのりと懐かしい朝の匂いを山瀬の心に運んできているかのようだった。 海沿いの大通りから左に折れた。山瀬は運よく設置されていた目的地への標識を見て、ただそれに従っただけだった。交差点から山の方へ登っていく道が続いていた。山瀬は標識を見逃さなかったことに感謝した。山瀬は小さな島が好きだった。海からほんの少し小高い山へ登ると直ぐに海が大きく開けて見えるからだ。海岸から見る海もいいのだが上から眺める海の方が山瀬は好きだった。この道も同じ様に少し登っただけで直ぐに大きく開けて見える海が山瀬の目を楽しませてくれた。思ったより道は急勾配でオフロードバイクのエンジンが悲鳴をあげているようだった。道の両端にココナッツの木が多いことが日本の道と違うところだ。そのココナッツの木が南国の雰囲気を醸し出している。5分くらい走ったところでさっきまでの急勾配が緩くなった。その代わりにカーブが増え、気のせいか森も深くなったような気がした。またいくつかのカーブを曲がると道が急に砂利道になった。やはりオフロードバイクにして良かったと山瀬は思った。その砂利道がまた舗装された道になった頃民家がやっと姿を見せ始めた。 道の左側の一軒の民家の庭先で若い女の子が植木を手入れしているが見えた。山瀬はバイクのスピードを落としその民家の前で止まった。 「こんにちは。ちょっと道をお訊ねしたいのですが…」 女の子は急に訪れた外国人に幾分驚いた様子だったが直ぐに痩せこけた顔に優しい笑顔を浮かべた。山瀬は名前と住所が書かれた紙を女の子に手渡した。恐らく両親の農業を手伝っているのであろうその女の子の手は硬く少し汚れていた。 「あら…。すぐそこよ。ただオートバイは置いていかないとだめだと思うわ。この先に雑貨屋さんがあるの。そこに人が一人通れるくらいの山道があるからそこから歩いて20分くらいかな」 山に住んでいる人たちの「すぐそこ」は山瀬にとっては遠いと言う意味だった。以前同じように道を尋ねた時すぐそこだと言われたが実際に歩くと山をひとつ越えてしまっていたという経験があった。山瀬はあまり歩くのが好きではなかった。覚悟はしていたが普段歩くことが殆どなかったので自分の体力が心配だった。女の子にお礼を言って再びバイクに跨った。またカーブをいくつか通り過ぎた。 女の子が教えてくれた雑貨屋は直ぐに分かった。軒先に看板の掛けられたコンクリート造りの小さな店だった。バイクを止めて店に近付くと鉄格子が店の正面にかかっている。その鉄格子越しに、ぶら下げられた小分けのシャンプーやインスタントコーヒー、埃の被った棚には小さな容器に入った醤油や塩、袋詰めになったパン、やはり小さい袋のビスケットなどが置かれていた。人々の収入が安定していないために全ての商品を値段の安い小分けにして売っているのだ。本当なら多量に買ったほうが安くあがるのだが皆それが出来ないのだった。それで結局は高い買い物をしてしまっているのだ。「こんにちは…」 小奇麗な格好をした老婆が姿を見せるまでにほんの少し時間がかかった。昼が近かったので山瀬はここでなにか食べ物を買っていこうと考えていた。目的のドーミンと会う約束をしてある訳でもなく、増してや直ぐに猫に会えるとも限らない。初めて訪ねていく人の家でいきなり昼食をご馳走になるわけにもいかない。 「そのパンとビスケットをください」 パンとビスケットならドーミンへのお土産にもなると思った。地方の、それも山間部に住んでいる人たちがどんな小さなことでも喜んでくれることを山瀬は知っていた。料金を支払いながら山道とドーミンの事を訊ねてみると老婆はその山道を指差しただけだった。バイクを道端に置いて行くのも心配だったので老婆にお願いしてお店の傍らに駐車せてもらうことにした。 山道は思ったよりも人の通りが多いらしく、地面が硬く踏み固まっていて草が一本も生えていなかった。その部分を除けば道の周りには膝くらいの高さの草が生えていて、更にそれに覆いかぶさるように高い木々の枝が折り重なって鬱そうとした森を作っていた。道がなければ不安になるような暗さだった。それ程急な坂道ではなかったがやはり普段歩いていないせいか息が切れる。 どれくらい歩いたであろうか森が途切れて正面に小高い丘が見えた。その丘の上に小さな木造の家がイチゴショートのイチゴのように載せられそこから煙が立ち昇っていた。さっきまで歩いて来た道とは違い、明るく視界も開けて山瀬はハイキングをしているような気持ちになった。道がその丘に登っていく道と丘を迂回していく道に分かれていた。丘の家をドーミンの家だと願ってその家へと続いている道を選んだ。道をゆっくりと登っていくと小さな鉢植えになった花が数多く並べてある小さな庭に出た。山瀬はあまり花の知識はなかったが、ブーゲンビリア、ハイビスカスくらいは分かる。それらの色鮮やかな花々が小さく可愛いその木造の家を更に心の和む風景にしているようだった。山瀬はまるで自分が絵の中に入ってしまったような不思議な感覚に捉われていた。 「こんにちは」 さっき見えた立ち昇る煙から、山瀬は恐らく誰か家にいるのだろうと予想していた。家の裏の方から返事があった。女の声だった。 「ハーイ。ちょっと待って」 しばらくして家に向かって左側の角から中年の小太りの女が顔を出した。少し驚いたのだろうか、山瀬を見るなり足を止めてしまった。山瀬はドーミンという名前は知っていたものの、それが男の名前なのか女の名前なのかはあまり考えていなかった。 「こんにちは。ドーミンさんのお宅ですよね」 「主人に何か御用でしょうか」 女は亭主の名前が見ず知らずの外国人の口から出てきたことで余計に驚いたようだった。山瀬が小町の事や猫の首輪のことを説明すると、その強ばっていた表情は徐々に柔らかいものになっていった。 「そうだったんですか。てっきりうちの主人が何かしでかしたのかと思いましたよ。主人だったら今畑に行っているところです。ココちゃんだったら多分その辺にいると思いますが…。もうすぐお昼だから多分主人も戻ってくると思います」 先を急いでいる山瀬だったが飼い主の了解もなく勝手に首輪だけ調べていくのも失礼だと思いドーミンの帰りを待つことにした。 「ちょっと待たせていただいても構いませんか」 「じゃあこちらへいらして下さい」 ドーミンの妻が家の裏手の方に山瀬を手招きした。 家の裏に回ると釜戸のような小さな建物が建っていて、どうやらそこで料理をしているようであった。白い煙はそこから立ち昇っていた。隣に屋根付きの壁のない小さな小屋が建っていた。小屋といっても真ん中にテーブルがひとつ置いてあり、それをコの字型に造り付けの竹の椅子が囲んでいるだけの簡単なものだった。屋根はコゴンという細い草を束ねた素材で葺いてあって静かな片田舎の趣のある建物だった。 「私はまだご飯を炊いているところなんでここで待っていてください。多分そのうち主人が帰ってくると思います」 小屋の方を指差したと思うと急ぎ足で釜戸のある建物へ入っていった。山瀬は竹の椅子に腰掛けると思ったより座り心地がいいのに驚いた。背もたれが丁度よく傾いているせいであろうか、それとも久しぶりに歩いたせいだろうか、背もたれに身を任せると急に眠気に襲われた。その眠気を振り払うために首を左右に振ってみた。首を右の方へ振った瞬間家の中から小ぶりの三毛猫がこちらに向かってゆっくりと歩いてくるのが見えた。三毛猫はよそ見もせずに一直線にこちらへ歩いてきた。山瀬の座っている椅子の向かい側の椅子にひらりと飛び乗ってそのまま正座した。 「ミャーォ」 山瀬は「やっと来たか」と言われたような気がした。多分これがココなのであろうと思った。やはり黒い首輪を付けていた。何かを食べた後なのであろうか前足で顔を掃除し始めた。 「お前何か食べてきたのかい」 山瀬は猫に聞いたつもりだったが自分が空腹なことに気がついた。山道を登る前に買ってきたパンを今食べてしまおうかと思ったが、まだ昼食を食べていない空腹な夫婦の家にいきなり訪ねてきてそのような大胆なことはできない。山瀬は腹に左手を当ててみた。鳴りはしなかったが明らかに胃は食べ物を要求していた。目の前にいる三毛猫だけが昼食を済ませたのだろうかなどと考えていると余計に空腹感が膨らんできた。 三毛猫は相変わらず顔を掃除していたが、急にその動きを止め身体を硬直させた。視線が山瀬の後ろの方へ向けられている。山瀬が後ろを振り返ると大きな鉈を腰に縛り付けた中年の痩せこけた男がこちらに向かって歩いてくるところだった。それを見た山瀬も背もたれから上半身を浮かせ全身を硬直させた。日本なら確実に銃刀法違反で捕まるだろうそれくらい大きな鉈だった。腰にぶら下がっているその鉈のせいか男が山賊のように見えた。 「こんにちは」 山瀬は敵意のないことを男に示すために自分から先に挨拶をした。男も振り向いた山瀬が外国人だったことに少し驚いている様子だった。 「こんちは」 男は目の前にいる外国人に敵意がないことを直ぐに悟ったのか、山瀬の挨拶に間髪入れずに答えた。2人の挨拶の声が釜戸にいる妻に聞こえたのか釜戸で声を出した。 「あんた帰ってきたのかい…。悪いんだけど薪を持ってきてくんないかい」 ドーミンはそれには一言も答えなかった。釜戸の外側に積んであった薪を一束抱えるとそれを釜戸にいる妻へ持っていった。ドーミンは直ぐに外に出てきたが、妻はまだ何か料理しているようだった。「あんたもう昼飯食ったのかい」 ドーミンの質問に山瀬は首を振った。 「じゃあ一緒に食おう」 「いや、そんな…、急に来たのに失礼になっちゃいますよ」 山瀬はまた首を振った。 「そんな事ねえよ。食っていきな。この辺りじゃそんなこたあ当たり前のことだ」 山瀬はこれ以上断るのも失礼に当たると思い今度は首をゆっくり縦に振った。山瀬の視線は無意識に大きな鉈に注がれていた。 「じゃあ、昼食をご馳走になる代わりと言っては何なんですが、これ食べてください」 デーパックからさっき買ってきたパンとビスケットを引っ張り出すとドーミンに手渡した。 「こりゃあありがてえ…」 「あんた出来たよ。持ってって頂戴」 釜戸からタイミングよく妻が声をかけた。 三毛猫はドーミン夫婦が食器や料理をテーブルに準備しているのを覗き見るように首を長く伸ばしていた。3人が全てテーブルに着くと妻が食事前のお祈りを始めた。山瀬もそれに合わせて目を閉じた。お祈りが終わると妻がご飯をよそったお櫃のようなものを真っ先に山瀬に手渡した。不意に来た来客でもこのような接待でもてなしてくれることを山瀬はありがたく思った。おかずは豆のスープだった。恐らく小豆の一種なのであろうが、小粒で緑色をしている。スープが白く濁っているのでシチュウのような見かけだった。山瀬は自分のスープ皿に盛られたスープを一口飲んでみた。口いっぱいにほんのりと甘味が広がった。 「美味い…。これ何が入っているんですか」 山瀬は初めて飲んだスープの旨さに驚いていた。 「ムンゴっていう豆を煮てココナッツミルクを混ぜてあるだけさ」ドーミンの簡単な答えに山瀬はまた驚かされた。たったそれだけでこんなスープが出来るなんて信じがたかった。おかずはもう一品あって魚の干物だった。山瀬はそれをひとつ手にとって齧ってみた。こちらはかなりしょっぱくてお世辞にも旨いとは言えなかった。山瀬は塩気に耐え切れず直ぐにもう一口スープを飲んだ。山瀬の目が大きくなった。ドーミンは山瀬が食べるのを顔に笑みを浮かべながら観察していた。「旨いだろ」 妻の方は何も言わずに食事を口に運んでいた。 「スープはあまりしょっぱくしてねえんだ。その魚の干物の塩気がスープの旨みを増すってわけだ」 山瀬はもう話すのをやめて食事に没頭していた。 3人が食事を終えると山瀬は何故自分がここまで訪ねて来たのかをドーミンに話し始めた。 「なんだ、そんなことだったのか。いいよ、首輪はずして持ってきな」 ドーミンは立ち上がって三毛猫を抱き上げるとまた自分の席に戻った。そして猫を膝の上に乗せると首輪をはずし始めた。その間妻の方はテーブルの上の食器を重ねていた。山瀬ははずされた首輪を受け取るとやはり「ココ」の文字を探し出し、その裏側のポケットからメモリーカードを引き抜いた。山瀬が首輪を返そうとするとドーミンは首を横に振った。 「そんな厄介なもの付けてちゃココが迷惑がらぁな。持ってってもいいし捨ててもいいしあんたの好きにしてくんな」 山瀬はほんの少し困惑した。持っていてもしょうがない物だし、かと言って死んだ小町が可愛がっていた猫につけたものをそう簡単に捨てることにも気が引ける。 「あんた、私が首輪を預かっておくよ。今度子猫を飼ったときに付けてやるんだ」 その妻の言葉に山瀬はほっとして肩の力が抜けていくような気がした。山瀬は首輪を丁寧に妻に手渡した。猫は喉の辺りを後ろ足で掻いていた。 「ムンゴのスープ本当に美味しかったです。ご馳走様でした。今日中にもう一匹猫に会わなくちゃならないのでこれで失礼します」 「もう行っちまうのか。まあ急いでるんじゃ仕様がねえか」 ドーミンは普段話し相手が少ないのか、山瀬ともう少しの間話したかったようだ。 山瀬はドーミン夫婦に厚く礼をしてその御伽噺のような家をあとにした。小高い丘を今度は下りながらドーミンの家を振り返るとさっきまで立ち上っていた煙はなくなっていたが、やはりイチゴのようにのせられた小さな家がそこに佇んでいた。森を吹き抜けてくる風が山瀬の身体を掠めて行った。温かいスープで温められた山瀬の身体を涼しい風が冷ましてくれた。いくら身体が冷まされても心はいつまでも温かいままだった。 山を登り切るとそこから島の反対側へと続く下り坂になった。4匹目の猫に会うためには島の反対側の海沿いの村まで行かなければならない。道はカーブの多い比較的傾斜の緩い道だった。バイクを走らせながら遠くを眺めると大きく開けた海、それに浮かぶ島、客船などが遠目に見える。山瀬は坂の勾配に任せてゆっくりとバイクを走らせながらその景色を楽しんでいた。山を下るに連れて気温が上がっていくのが肌で感じられる。山を下り切り大通りに出た頃には風が生温く感じられた。大通りに出る時に右に曲がったので朝とは違って海を左手にしながらバイクを走らせた。この辺りも漁師が多いのであろうか、海岸沿いに魚網が干されている。目当ての村はこの大通り沿いにあるはずだった。 海の青さを楽しみながらバイクを走らせていると左側の小さい掘っ建て小屋のようなところに人が集まっているのが見えた。スピードを緩めて確かめてみると、主婦のような中年の女達が魚を売っている初老の漁師を囲んでいた。山瀬はいったいどのような魚を売っているのか興味があったのと、もしかするとこれから行くジョイの家のことも訊けるのではないかと思いバイクを止めた。集団の中の何人かがバイクを止めた山瀬に気づきこちらを振り向いた。 「バンスィだよ兄ちゃん。買ってくかい」 魚売りの漁師も山瀬に気づいて早速商売を始めた。近づいて発泡スチロールの箱の中を見ると、かなりの量の飛魚が氷水に漬けられていた。 「今日は大漁だったから安くしとくよ」 買わずに道だけ尋ねることもできたが、もしかしたらサミス・インで料理してくれるかもしれないと思いほんの少し買っていくことにした。 「おじさん、いくらなんだい。本当に安かったら1キロだけ買っていくよ」 「たったの40ペソさ。普通はこの魚最低でも100ペソはするんだぜ、兄ちゃん。本当に今日は大漁だったから大サービスさ」 山瀬は猫探しも順調だしこんな安い魚を買う機会があるなんて今日は運がいいのだろうと思った。 「じゃあ1キロもらってくよ」 漁師が1キロ分の飛魚を袋に入れて手渡してくれた。 「この辺にジョイっていう人の家はないかな」 この質問をするためにわざわざバイクを止めて魚まで買ったのだから、そのタイミングを逃すような山瀬ではない。漁師の男は最初考えているようだったが、何人か心当たりがあるらしく提示された名前だけでは分からないというような顔をしていた。 「苗字は何て言うんだい」 山瀬は財布の中から名前と住所の書かれた紙を取り出すと漁師に手渡した。 「ああ、ジョイか。でも今行っても留守だと思うぜ。役場で働いてるから夕方にならないと帰ってこないと思うぜ」 時計を見るとジョイが帰ってくる時間までまだ2時間程ある。山瀬は魚の入った袋をオートバイのハンドルに結び付けながらこれからどうやって時間を潰すか考えていた。 再びバイクを走らせると漁師が教えてくれた通り左手に錆び付いた大きなビールの看板が見えてきた。そこから100メートルくらい先に行くと海と大通りに挟まれた砂浜にコンクリート造りの小さいが洒落た家が建っている。確かに中に人はいないようである。その証拠に玄関のドアと全ての窓は閉め切られそれらにはカーテンが引かれていた。 「ここだな」 山瀬はとりあえずジョイの家の場所を確かめ、その後どこかの砂浜で昼寝でもしようかと考えていた。 ジョイの家を通り越してほんの少し先に進んだところにドーミンの家にあった小屋と同じ様な少し大きめの乗り合いジープの待合コテージが建っていた。この待合コテージは道路沿いに多く建てられていて、バスやトライシクルを待つだけの目的だけではなく急に雨が降ってきた時の雨宿りや近所の人たちの井戸端会議の場所として使われている。山瀬はその傍らにバイクを止めると中に入ってさっさと昼寝を始めた。乗り慣れないバイクを乗り回しているせいかかなり身体が疲れているようだ。いくら暑いとはってもバイクで風を切って走っているので体温が奪われ余計に疲れるのが早くなるのだろう。山瀬はいつの間にか夢に吸い込まれていた。 気が付くと待合コテージの中に2人の小学生くらいの女の子が山瀬の寝ていた椅子の反対側に座って話をしていた。 「こんばんは」 山瀬が起き上がったのを見て女の子の一人が山瀬に挨拶をした。山瀬は女の子の言葉に慌てて時計を見ると既に6時を回っていた。太陽はほんの少しのオレンジ色の光を空に残し地平線の向こう側へ沈んでいた。暗くなった空には小さく光る無数の星々がその存在を訴え始めていた。 「こんばんは」 小さい女の子から挨拶されて答えないような山瀬ではない。いつもならちょっと冗談でも言って子供を笑わせる山瀬だが、女の子達を置き去りにして直ぐにそこを立ち去った。 ジョイの家の前にバイクを止めるとさっきまでは点いていなかった家の中の灯りが薄いカーテンから零れていた。もう既に役場での仕事を終えて帰ってきているのであろう。山瀬はまた食事の時間に急に訪問することに気が乗らなかった。しかしそうも言っていられない。山瀬は瞬時に役立つ手土産を思いついた。もうすぐ夕飯時だからさっき漁師から買った魚を土産代わりにしてこの場をしのごうと思った。 玄関の前に立つと家の中で誰かが動いている気配が漂ってきた。「こんばんは」 「はーい、誰…」 玄関のドアから20代後半の女の子が顔を覗かせた。山瀬の顔を見ると顔に笑顔を作ってくれた。 「あら山瀬さんね。恐らく今日中に山瀬という名前の日本人が猫の首輪を調べに来るってさっきオディールから電話があったのよ」 山瀬の緊張感がすうっと解れていった。 「どうも済みません。こんな夕食時に来るはずじゃなかったんですけど…。ついこの先のコテージで寝過ごしてしまって…。これもしよろしかったら食べてください」 袋入りの飛魚を手渡すとジョイは中身を見てまた笑顔を浮かべた。「丁度良かった。じゃこれ料理して食べましょうよ」 ふとジョイの足元を見ると白黒の毛色をしたオス猫ががジョイの足元に絡み付いていた。鼻のところに丁度口髭のように黒い毛が配置されている。これがホームズなのだろうと直ぐに分かった。探偵のような顔つきをしていた。 「ミャーォ」 山瀬は「寝てる場合じゃないぞ」と言われれたような気がした。黄色い首輪が似合っていた。魚の匂いを嗅ぎつけて上機嫌のようだった。 飛魚に塩を振って少し長めに炒めただけの簡単な料理だった。山瀬は以前土産でもらった飛魚のくさやを食べたことがあったが、干物と違うその新鮮な味に驚いていた。小骨の多いのが気になったが意外にもほくほくとしていて脂がのっていた。結局3尾の飛魚が山瀬の胃に収まるのに然程時間はかからなかった。ホームズも今日の夜のおかずに納得しているようで、前足で顔についた食べかすを綺麗にしているその仕草がまるで取った獲物を食べ終えた虎のそれのように見えた。 短めの食事を終えるとジョイがホームズの首輪をはずして山瀬に手渡してくれた。 「私も何度か小町と会って食事をしたりしたからやっぱり寂しかったわ。だからせめて残された猫の世話くらいはしてあげようと思ってホームズを引き取ったのよ。でも猫だけじゃなくて残された息子さんもかわいそうよね」 山瀬は俯けていた顔をほんの少しだけ上げて見せた。 「小町さん息子さんがいたんですか。今まで息子さんのことはひと言も聞いてないですけど」 ジョイのひと言は山瀬にとってちょっと意外だった。確かに母親の幾田優子からの依頼であって、別に小町に息子がいようがいまいが山瀬には関係のないことだった。渡された首輪から同じ様にメモリーカードを引き抜くと、なくさないように財布の中に大事にしまい込んだ。首輪をジョイに返すと彼女はその首輪を気に入っているようでまた優しくホームズの首につけ戻してやった。 「多分息子さんのことは私にしか話していないような気がするわ。だって息子さんの話をしたとき小町ちょっと悲しそうだったもの。悲しいことってあまり他の人には話さないでしょう」 「そうかもしれないですね」 山瀬はジョイに話を合わせた。小町の子供のことをジョイと話してもあまり意味のないことのような気がしていた。とにかくこれでこの島に存在する4枚のメモリーカードが自分の手元にあることに満足していた。山瀬はジョイに礼を言うとホテルへの帰りを急いだ。 大通りはぐるっと一周島を取り囲むように海沿いを走っていた。帰りは来た道を戻る必要はない。このまま大通りを走り続ければサミス・インに辿り着ける。陽はもうとっぷり暮れて辺りはひっそりとしていた。ギーギーという聞き慣れない鳥のような鳴き声が山瀬の耳に響いた。山瀬は以前その鳴き声を一度聞いたことがあった。大蝙蝠のものだと直ぐに分かった。歩いていれば風は然程冷たく感じないが、長時間強い風にあたっていると否も応も無く身体が冷え切ってしまう。山瀬は山で使うはずだった長袖の上着をデーパックから引っ張り出すとそれを羽織った。走り出すと案の定身体にぶつかる風と上着が保ってくれる体温の暑さが丁度いい暖かさに混ざり合い心地よかった。山瀬は馬が帰り道を急ぐように暗闇の中をよそ見もせずにバイクを走らせた。暗闇の中をバイクを走らせながら山瀬は残されたもう1枚のメモリーカードのことを考えていた。山瀬の脳裏にメモリーカードの埋め込まれた首輪をつけて動き回る最後の猫、長君のイメージが浮かび上がっていた。この一日でメモリーカードを3枚手に入れることができたことに満足はしていたが、だからと言って小町が何を伝えようとしているのか山瀬には全く見当もつかなかった。山瀬は一刻も早く最後のメモリーカードを手に入れて、小町にいったい何が起きたのかを日本で連絡をひとり待ち続けている幾田優子に伝えてあげたかった。それだけが山瀬を前進させる原動力になっていた。さっきまで山瀬の脳裏に浮かび上がっていた猫のイメージが消え去り、その代わりに静かな部屋の片隅でひとり佇む幾田優子のイメージが浮かび上がっていた。暗闇の中をバイクがヘッドライトを頼りながら走っていくように、山瀬もまた幾田優子への責任感を全うするために暗闇の中を走っていた。 第五章 ー 閲覧 ー へ https://ofuse.me/e/16605
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