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2022/07/24 00:19

猫の小町 5. 閲覧

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 サミス・インのカウンターにはもう気の利くウェイトレスの姿は無かった。山瀬がカウンターに近付くとオーナーの髪の長い女性が鍵を手渡してくれた。山瀬は今日の朝サミス・インを出る時まで彼女がオーナーだということを知らなかったが、アイリーンがそのことを山瀬にそれとなく教えてくれたのだった。 「あら…こんばんは。遅かったんですね。お疲れのようですが…」山瀬が今日猫探しをしてきたことなどオーナーには知る由も無かった。 「ええ。ちょっと色々ありまして」 山瀬はオーナーに言われた通り疲れを隠し切れなかった。鍵を受け取ると直ぐにその場を離れた。普通だったらビールの1本くらい飲みながらオーナーと世間話でもするのだが、夕食は既に済ませてあったし今ビールを飲んでしまうとそのまま寝てしまうような気がした。  部屋に入り窓を開けると心地よい夜風が吹き込んできた。 「シャワーでも浴びるか」 山瀬は独り言を言いながら着ているものを全てベッドの上に投げ捨てて浴室に入っていった。温かいお湯が疲れている身体をほぐしていった。シャワーを浴び終わる頃にはかなり気分も身体もほぐれて爽快なものになっていた。  幾分疲れた身体に鞭を打つように両手で頬を叩いた。 「さて、早速見てみるか」 ノートパソコン、USBメモリー、猫達の首輪から引き抜いてきた3枚のメモリーカードをテーブルの上に並べた。メモリーカードの1枚を手に取るとUSBメモリーに入れっぱなしになっている桃ちゃんの首輪に仕込まれていたメモリーカードと差し替え、ノートパソコンに繋いだ。それと同じように『インストーラー』と『フーちゃん』というファイルが表示された。どの猫のメモリーカードが一番最初に発見されるか予想できなかった小町が全てのメモリーカードにワープロのインストーラーを記録したのだろう。読み取るためのソフトは『桃ちゃん』のファイルを開いたときに既にインストールされているので直接フーちゃんのファイルを開いてみた。      http………………………ph    4728719840   やはりパスワードが書かれてあった。ウェブサイトのアドレスは全く同じものだった。同様に他のメモリーカードをひとつずつUSBメモリーに入れ替えながらそれらに書かれているパスワードをパソコンに記憶させた。再びウェブサイトを開いてそれぞれのパスワードを入力し、それぞれの猫のページをひとつずつ開いてみた。      フーのページ      会社の帳簿    http………………………ph      フー19w    幾田小町(長ココフー桃ホームズ)   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    ホームズのページ      日記の一部    http………………………ph      ホームズ82f      幾田小町(長ココフー桃ホームズ)   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー    ココのページ      ロングライフ生命保険    http………………………ph      ココ41s      幾田小町(長ココフー桃ホームズ) 各ページの最初の文章は全て桃のページのそれと同じものであった。その下に続いて、恐らく何かの手掛りになるのであろうそれぞれ違う短く断片化された情報と、最終目的である『幾田小町』のページを開くためのパスワードになるのであろうそれぞれの猫の名前とそれに続く数字とアルファベットが書かれてあるだけだった。山瀬はとりあえず『会社の帳簿』というアドレスの書かれたページを開いてみた。やはり見るためにはパスワードが必要な設定になっていた。当然パスワードであろうその数字の羅列を入力するとすんなりページが開かれた。表示されたのは数ページに渡る何の変哲も無い会社の帳簿をスキャンしたもので、数箇所丸で囲まれた箇所があった。小町の説明もなく只それだけのものだった。山瀬は引き続き『日記の一部』と題されたページを開いた。やはりこちらも小町が直筆で書いた日記をスキャンしたものなのであろうが、他の部分は切り取られていた。     20XX年 X月 XX日       本当に驚いた。まさかあの子が私のそばにいると     は思ってもみなかった。私はあの子の恐ろしい計     画を聞いてしまった。こんなことが起きていいの     だろうか。何か考えなくてはならない。   たったそれだけの日記の一部分だった。 「やっぱり小町さん子供がいたんだな…」 山瀬はジョイの話を思い出していた。もしかするとジョイの言った通り小町は自分の子供について他人には何も話していないのかも知れない。恐ろしい計画とはいったい何なんだろう。山瀬は頭の中で試行錯誤を重ねた。しかしいくら考えてみたところで、情報の欠落のためにその思考が落ち着くべきところに落ち着かない。 「とりあえず優子さんに小町さんに子供がいたのかどうか訊かなければならない。でもドジは踏めない。小町さんは何かを伝えたいんだ。それがはっきりしないのに先走って変なことになってしまうと収拾がつかなくなってしまう。参ったな…」 山瀬は無意識に左手で頭をぽりぽり掻いていた。 「やっぱり長君を探すのとファイブキャッツダイブカンパニーのことを調べるのが先なのか…」 相変わらず窓から心地よい風が断りもなく部屋に入り込んできていた。そして山瀬の左の頬に心地よい感覚を与え続けていた。山瀬は考えるのを諦めてベッドに横たわった。その心地よい風は山瀬がベッドに横たわることなど関係が無いかのように、今度は山瀬の右半身を優しく刺激し続け、終いには山瀬を夢の中へと追いやった。  夜が明けたことにも気づかなかった山瀬は下腹部の痛さのせいで目を覚まさざるを得なかった。 「失敗したなあこりゃあ…」 そう独り言を言いながらトイレに駆け込んだ。山瀬は小さい頃から寝冷えをする癖があった。昨夜はそれを起こす条件で満たされた夜だった。唸りながら用を足すとげっそりとした顔つきでトイレからゆっくりと出てきた。山瀬の場合寝冷えと言っても一過性のもので慢性のものでないことが唯一の救いだった。トイレで力を振り絞ったせいか再びぐったりとベッドに倒れこんだ。起きた時とは違ってうつ伏せの状態だった。 「あああ…。寝てる場合じゃないや」 まずセブ行きの船とセブからパラワンへの飛行機のチケットを予約しなければならない。まずは飛行機だと山瀬は思った。飛行機のチケットが予約できない限りこの島を離れても意味が無い。予約無しにセブへ赴いても宿泊費が高くなるだけだ。田舎の島だからこそ滞在費が安く済むことを山瀬は心得ていた。パソコンのスイッチを入れると国内線を扱っている航空会社のウェブサイトを開いてとりあえず明日の予約状況を調べると、運よく空席を見つけ予約することが出来た。 「あとは船か」 山瀬は未だ退かない下っ腹の痛みを我慢しながら熱めのシャワーを浴びた。昨夜のシャワーとは一味違う味わいだった。頭から足の指先の方へ向かって暖かさがじわじわと染み渡っていく。温かいお湯が下っ腹を通過するとき山瀬の頭に心地よい信号を送ってくる。浴び終わる頃には痛みはどこかへ消え失せ、いつもの山瀬に戻っていた。 「とりあえず朝飯でも食うか…」 さっさと洋服を着ると階下のレストランへと足を運んだ。 朝食と言ってもひとつの皿に目玉焼きと日替わりの簡単な料理が載っているだけだ。ご飯を選択するとその皿にご飯が追加される。パンを選ぶとトーストが追加される。コーヒーが付いていると言っても全くのインスタントコーヒーだ。山瀬はカウンターでアイリーンにご飯の朝食を注文した。 「おはよう。今日の朝ごはんのメニューは何」 「ベーコンよ。それといつもの目玉焼きだけど」 ベーコンは山瀬の好物だった。 「じゃあご飯の方をお願いするよ。ねえアイリーン、できたらオーナーに訊いてもらいたいことがあるんだけど…」 「いいわよ」 「今日多分セブ行きの船に乗らなきゃならないと思うんだ」 山瀬は一週間分の宿泊料を支払っていたことをさっきシャワーを浴びたときに思い出した。飛行機のチケットは予約してしまったし、出来ることならパラワンから戻ってきた場合に、残りの宿泊をすることができるかどうかをオーナーに確かめてもらいたかった。もし不可能であっても文句は言えないことは山瀬も承知していたが、もしかしたら了解してもらえるのではないかという山瀬の希望だった。増してやパラワンから戻って来るという保証も無かった。ただ万が一にでも戻ってくることになるかも知れないという可能性を考えて対処しておきたかった。それをアイリーンに説明した後山瀬は空いているテーブルに座った。  朝食を待つ間、窓の外の路上で行き交う人々の様子を眺めていた。いくら田舎の島だと言っても毎日の生活が当たり前のように営まれている。子供達は鞄を持って登校し、仕事着を着た労働者や制服を着た事務員がいそいそと歩いている。皆の忙しさは都会に住んでいる人たちのそれと全く違わなかった。その風景に見入っていた山瀬は注文した朝食を持ってアイリーンがテーブルに来ていたことに気付かなかった。 「オーケーだって…。別に支払ってもらった宿泊費を返してくれって言ってるわけじゃないって私がそう言ったら直ぐに了解してくれたわ」 そのオーナーからの返事を聞いたせいか山瀬には朝食のベーコンが余計に美味しそうに見えてきた。 「本当にありがとう。助かったよ。オーナーにもありがとうって言っておいてよ」 好物のベーコンの香りが口の中に広がっていく。山瀬は自分の希望が叶った喜びと香りのいいベーコンを腹の底から満喫した。さっきまでの下っ腹の痛みは既にどこかへ消え去っていた。朝食の美味しいとても清々しい朝だった。  港には何艘かの客船が停泊していた。山瀬は田舎の港のその風景がとても好きだった。オイルと燃料の臭いの混ざった吐き気のする都会の港のそれとは全く違うものだった。その風景を見ながら各船会社のチケットオフィスが並ぶ建物へ足を進めた。港には日陰の部分が少ないせいか生温い風が山瀬を襲ってきた。身体中を這う汗が山瀬を不快にさせた。セブ行きの船は数が多い。とにかく明日までに着く船に乗ればよかった。山瀬は明日の早朝にセブに到着する比較的ゆっくり出来る船を選んだ。出発は今日の午後4時だった。出発までまだ時間がある。ひとつやらなければならないことがあった。ファイブキャッツダイブカンパニーのことを調べなければならない。何処にあるのか、増してやフィリピン国内にある会社なのかも全く見当もつかなかった。ただ指を咥えて見ている訳にもいかない。山瀬はフィリピンにだって会社を登記している公の機関があるはずだと考えていた。会社の存在が分かればこの細々とした情報を結びつけることができるかも知れない。会社が登記されていればその閲覧も可能なはずだ。山瀬の心は高鳴っていた。しかしどのように確かめていいのか全く分からなかった。 「まずは役場ってことかな」 好きな港の景色を惜しみながら役場への道を急いだ。  役場で会社を登記しているのはどこなのか訪ねてみたところ役場内には無いもののこの町の中にその事務所が存在することが分かった。DTIと言う機関でフィリピン国内に登録してある会社はすべてそこで知ることができるという情報も有難いことだった。直ぐにトライシクルを拾ってDTIへ向かった。こういう時にトライシクルは本当に便利な乗り物だ。役場からたったの数分でDTIに着くことができた。  予想していたより小さなオフィスだった。山瀬は以前日本の自分の住んでいる町の登記所に行った事があったが、やはり小さい建物だったという記憶があった。どの国でも登記所というものは小さいものなのだろうか。その小さなオフィスを見ていると、本当に情報が得られるのかと不安になった。山瀬は観音開きになっているガラス張りの重いドアの片方を押し開けた。  外見と比べるとオフィスの中はもっと小さく感じられた。足を踏み入れると入ってすぐ左右にテーブルが置かれていた。右側のテーブルに座っている事務員はいなかったが左側のテーブルに小太りの優しそうな女の事務員がデスクトップ型のパソコンの前に座っていた。 「おはようございます」 山瀬は自分でも恥ずかしくなるような下手でぎこちない笑顔を作って見せた。 「おはようございます。何か御用でしょうか」 「ちょっとお訊ねしたいのですが…。会社の名前が分かればその会社があるのかないのかここで訊けば分かるってきいたんですが」 山瀬はファイブキャッツダイブカンパニーの名前しか知らないことであまり自信が持てなかった。 「国内に登録されてある会社ならば全て見ることが出来ますが、会社の登記簿謄本の内容までは見ることはできません。ここで分かるのは会社の名前と登記された期日それと登記番号だけです。もし登記簿謄本の内容を知りたい場合はセブ市のSECという機関に行けば閲覧できますが…。何ていう名前の会社なんでしょうか」 この会社が存在するのか否かくらいはここで確かめておかなければならないと山瀬は思った。 「ファイブ・キャッツ・ダイブ・カンパニーです」 そう言い終るのと同時に女の事務員がメモ用紙を山瀬に手渡した。メモ用紙を2,3度右手の人差し指で突つく事務員の仕草で山瀬は彼女が何を言いたいのかを理解した。山瀬がそのモ用紙に正確なスペルの会社名を書き込んで事務員に返すと、直ぐにそれを基にパソコンで検索し始めた。数秒もたたないうちにプリンターがガタガタと音を出し始め2枚の紙を吐き出すと事務員はそれを山瀬に手渡した。山瀬はその2枚の紙を食い入るように読み始めた。 「あった」 山瀬は心の中でそう叫んでいた。間違い無く会社の名前が二枚目に記載されていた。 「ここに載っているってことはこの会社が国内に存在するってことですよね」 「そうです」 山瀬はまだ手渡された2枚の紙に見入っていた。事務員はその間何もせずに山瀬を観察しているように押し黙っていた。山瀬は何も話そうとしない事務員が手数料の支払いを待っているのかと思った。ポケットに入っている財布に手を掛けながら訊ねてみた。 「手数料はいくらなんでしょうか」 「手数料は要りません」 山瀬はゆっくりと変てこな笑みを浮かべながら立ち上がった。事務員も山瀬に合わせてぎこちない笑みを浮かべていた。  山瀬はDTIを出ると一旦サミス・インへ戻ろうと思った。荷造りのこともあったからだ。それに猫の首輪から引き抜いてきたメモリーカードから得た情報が全くの嘘ではないということがこれで明らかになった。昨夜開いたウェブページの『会社の帳簿』と『日記の一部』については調べようが無いが、保険会社については調べることが可能だ。しかし保険については恐らく遺族以外にはその情報を公開してくれないであろう。やはり母親である幾田優子に連絡を取って調べてもらうしかない。山瀬の瞼に幾田優子のやつれた顔が浮かんだ。  サミス・インへ戻りすばやく荷造りを済ますとそれを階下のカウンターまで運び降ろした。アイリーンがカウンターの中の椅子に座って携帯電話をいじくっていた。 「アイリーン…。荷物ここに置いてもらってもいいかな」 「いいわよ」 アイリーンはカウンター越しに荷物を確かめるとそれを中に引っ張りこんだ。やはり女の腕には少し重かったらしい。 「それと国際電話をかけたいんだけど…」 アイリーンはまた気を利かせてくれた。 「ホテルの電話を使うと通話料の他にチャージがかかっちゃうから私のプリペイドの携帯電話に通話料を入れてくれれば使ってもいいわよ」 さっきまでいじっていた携帯電話は山瀬がカウンターに来たときにポケットにしまったらしい。アイリーンは再びポケットから携帯電話を引っ張り出すとカウンター越しに山瀬に手渡した。  山瀬は早速雑貨屋でプリペイドカードを買い求めアイリーンの携帯電話に入力し幾田優子に電話をかけた。 「もしもし。幾田さんですか」 「はい、そうですが…」 幾田優子は一度しか会ったことのない山瀬の声を識別できないらしかった。 「私です。山瀬です」 「ああ、山瀬さん。それで…、何か分かりましたか」 急に幾田の声の調子が変わり緊張感が走るのが山瀬の耳に伝わってきた。 「済みません。これと言ってまだ何も手がかりは掴めていません。でももしかして保険をかけていたってことはないでしょうか…。実は小町さんの家にロングライフ生命保険のパンフレットがあったので、もしかしたらと…」 山瀬は慣れない嘘をついた。小町の子供のことも今は伏せておこうと思った。小町に子供がいるのかいないのかを確かめるのにはまだ情報が少なすぎる。増してやこの状況でもしも幾田優子が自分の孫の存在を知らなかったとしたら、彼女を混乱に突き落としてしまいかねない。それだけは避けたかった。 「そうですか。でも保険なんて掛けるような子じゃないと思うんですが…」 手掛かりが掴めていないと言う山瀬の答えにさっきまでの緊張感は薄れているようだった。 「でももし出来たら一度確かめてみてはいかがでしょうか。もう一度言いますがロングライフ生命保険です。恐らく家族の人だったら教えてもらえるんじゃないかと思いまして」 「分かりました。調べてみます」 「私はサミス・インというホテルに泊まってます。今手元に書くものはありますか」 ほんの少しの間があった。 「はい」 「電話番号は63ーXXXーXXXーXXXXです。何か分かりましたら連絡ください。それではこれで失礼します」 山瀬も緊張していた。母親の優子だけがこの生命保険の内容を知る鍵を握っている。そう思うと必要以上に彼女を説得しなければならないという気持ちが大きくなっていた。携帯電話をアイリーンに丁寧に返した。 「本当に助かったよ…。もしかすると今の電話の女の人がホテルの電話に連絡してくるかもしれないんだ。日本人だからあんまり英語とか話せないと思うけど、もしかけてきたら俺に繋いでくれないかな。留守のときは只いないと伝えてくれるだけでいいよ」 「分かったわ」  船の出港の時間までまだ時間があった。なるべく早く用事を済ませようと動き回っていたので昼食を取るのを忘れていた。出港前に何か食べておこうと山瀬は思った。サミス・インのレストランで食べるのも幾分飽きがきていた。たまには冒険してみるのも悪くはない。さっき港の入り口で何軒か食堂が並んでいたのを思い出しそこで軽く昼食でも食べようかと思った。 「やっぱり荷物は持っていくことにするよ」 チェックアウトの手続きを済ませ、そう言いながらカウンターの入り口に置いてある旅行鞄を思い切り担ぎ上げた。 「いつごろ戻ってくるの。日付を電話で知らせてくれればまた同じ部屋を出来るだけ空けておくようにするわ」 「まだいつ戻れるか分からないけど用事が済み次第ここに電話するよ。じゃあまた。本当にありがとう」 山瀬は重いバッグを背負うとサミス・インをあとにした。この時このホテルにもう一度帰って来たいという気持ちが空に浮かぶ柔らかい雲のようにふわふわと山瀬の心の片隅を通り過ぎて行った。何故かもう一度来なければならないような気がしていた。  再び熱い昼下がりの太陽の光が山瀬の肌を刺激した。港まではトライシクルを使った。歩けない距離ではなかったのだが、これから一晩船の中で過ごさなければならないことを考え服が汗で濡れてしまうことを避けたかった。港の食堂で昼食を取りながら気の利かないウェイトレスから船の情報を得ることが出来た。どうやら山瀬の乗る船は既に入港しているらしい。今は到着した積荷を降ろすのとセブ行きの荷を積み込むので忙しいだろうということだった。今直ぐに乗船したければそれも可能だともその気の利かないウェイトレスは言っていた。恐らく出港時間に近付くにつれて人ごみができるだろう。然程急ぐ旅ではなかったが山瀬は早めに乗船してしまうことにした。  チケットに記載されているシートの番号は2階の丁度真ん中、船の右側に位置していた。2階と言っても実際にはエンジンを設置してある階層が船底にあるのでその部分を入れると3階ということになる。乗客が乗船する階層は車や積荷などを載せる階層なのでシートは置かれていない。この階層から乗船すると普通の人は今山瀬のいる階を2階だと勘違いしてしまうようだが実際には3階なのだ。しかしそんなことを議論するような山瀬ではなかった。他の乗客と同じようにエンジンのある最下層は数えないようにしている。山瀬のシートのすぐ近くにエンジンから出る排気を船外に逃がすための排気筒が最下層からデッキまでの全ての階層を貫いていた。山瀬は少し嬉しかった。寝冷症の山瀬は、朝腹痛で目が覚めた時この排気筒に寄りかかることが何よりの薬になることを知っていたからである。排気筒は厚い鉄板で出来ていて排気によって温められたその鉄板に寄りかかると、素肌には熱いが服を通してじわりじわりとその熱さが腰から腹を温めてくれるのだ。山瀬はこの排気筒に幾度となく世話になっていた。周りを見回すとまだ数える程しか乗客はいなかった。海から吹いてくる風が船内を吹き抜けていく。とても清々しく感じるひと時だった。ふと眠気に襲われたが、今昼寝をしてしまうと夜眠れなくなってしまう。山瀬は眠気を何処かへ吹き飛ばすために船の中を散策して回った。  小さい子供をつれた母親や、老夫婦、皆それぞれ出港までの時間を楽しんでいるかのようだった。出港の1時間前になると流石に乗客の数も増えてきた。さっきまでとは違って様々な声が交錯しあってやかましくさえ感じられた。出港時には約70パーセントのシートが乗客で埋められていた。シートといっても身体を横に出来るように小さな二段ベッドになっている。ちょっと身体の大きい人だと足がはみ出してしまう程の小さいものだ。それぞれ横になっている者や腰掛けている者、既にトランプで賭け事を始めている輩も見かけられた。山瀬はそんな乗客を観察しながら楽しんでいた。  船は出港するとその進路を北に向けてゆっくりと波を切りながら進み続けた。山瀬は右舷側のシートだったので西日を受けることはなかったが左舷側の乗客はあまりの西日の熱さに日陰の部分へと避難していた。綺麗な夕日に口を閉ざして見とれている乗客も少なくなかった。山瀬もその口を閉ざしている乗客の一人だった。しかしそれも長くは続かず日が沈みかけると幾分気温も下がり、船が前進することで起きる風が乗客の火照った肌の熱を拭い去っていった。陽が完全に沈んでしまうとまるで映画が終わってしまったかのように皆ばらばらと動き始めた。  船の3階には小さな売店があった。山瀬は喉が渇いたのを理由にビールを飲もうと思った。売店は本当に小さかったがそれでも5つのテーブルとそれに合わせた椅子が置かれていた。運よくまだ席が空いていた。  中に入ると強い冷房が効いていた。山瀬は冷房が苦手だったが、テーブルに座るためには仕方なかった。売店のカウンターの外に置いてある冷蔵庫から指先が疼くほどキンキンに冷えた缶ビールを1本取り出すとカウンターで支払いを済ませその空いているテーブルに陣取った。そのテーブルにはまだ山瀬しか座っていなかったが、ビールの中身が半分くらいになった頃山瀬と同じくらいの年齢の真面目そうな顔をした男が合席を願い出てきた。 「ここいいですか」 山瀬は恐らくこうなるだろうと言うことを予想していたので特別戸惑うことはなかった。 「どうぞどうぞ」 男も缶ビールを片手に持って座った。 「日本人ですか」 「そうです」 「セブへ行かれるんですか。いいですね海外を一人で旅できるって羨ましい限りです。私達普通のフィリピン人にはなかなか出来ませんよ」 山瀬も男の話に納得していた。 「いや、旅行じゃなくてちょっとした仕事で来ているんですよ。ですからあまり楽しい旅とは言えませんね」 「そうだったんですか…」 山瀬は本音を言った。男はそれきり黙りこんでしまった。ビールを3本飲んだ後カップヌードルにお湯を注いでもらい自分のシートに戻っていった。  カップヌードルを食べ終わった頃、丁度酔いが回ってきたせいか眠気が順調に山瀬の頭の働きを鈍くした。そのままベッドに横になった。すると眠気とは裏腹に小町の家の本棚に立てかけられた小さな写真立てが脳裏に浮かんだ。いったい何を伝えたいのだろう。単なる遺書だったらあんな手の込んだことをする必要は無いはずだ。「会社…」 あのファイブキャッツダイブカンパニーが実際に存在することは分かった。DTIで手に入れた会社の登録には有限会社のような記載があった。何人かの会社役員がいるのだろうか。山瀬は数回瞬きをした。再び眠気が頭の中に忍び込み山瀬を眠りへと誘惑した。目を静かに閉じるといつの間にか夢の中に引き込まれていた。  冷たい風が山瀬を揺す振り起こした。既に右舷側の空がオレンジ色を呈していた。時計に目をやるとまだ朝の5時を回ったところだった。どうやら寝冷には襲われていないらしい。ベッドの上で上体を持ち上げて辺りを見回すとまだ寝ている人が殆どだった。山瀬はベッドから降りると排気筒へ近づいていった。朝の風は冷たいのでこの後冷えで腹痛に襲われることを避けたかったからだ。海側を前にしてそっと排気筒に寄りかかると心地よい温かさが背中に伝わってきた。  目の前のオレンジ色の空が徐々に白色を帯び始めた。ふと左から近寄ってくる人陰に目をやると昨夜売店で合い席した男が声をかけてきた。 「おはよう。眠れましたか」 「ええ。眠れました。ビールのお陰ですかね」 山瀬は男にぎこちない作り笑顔をして見せた。 「私も…。ところでセブはどちらまで行かれるんですか」 「セブから飛行機でパラワンに行こうと思ってるんですよ。ただフライトの時間まで余裕があるのでSECというところへ行ってみようかと思ってます」 嘘をついても意味が無いので正直に答えた。 「それは偶然ですね。学生の頃SECでコピーをとるアルバイトをしていたことがあります。あそこへ行くんだったら港から少し離れたところでタクシーを拾えばそう遠くないところですよ。港で待機しているタクシーにはぼったくられることがあるから気をつけた方がいいですよ」 山瀬も同感だった。空港や港から乗り物に乗ると経験上ぼったくられる可能性が高い。 「そうでしたか…」 山瀬は男がSECでアルバイトをしていた事を聞いてそのシステムがどういったものなのか訊いてみた。 「かなり前の話しなので今はどういったシステムになっているのか分かりませんが、とにかくこの国に登録されている全ての株式会社や有限会社の登記簿を見ることができます。殆どの人は有名で大きな会社の株券を買うような時にそれを参考にしているみたいです。私はそのコピーをとる仕事をしていた訳です」 山瀬は男に小さく頷いて見せた。しかしSECのシステムについては男が言うように分からずじまいだった。  2人は売店に行ってコーヒーを飲むことにした。売店にはやはり何人かの乗客が熱い紙コップ入りのインスタントコーヒーを啜っていた。その頃には完全に夜が明けていた。運よくテーブルはひとつだけ空いていた。山瀬たちは昨夜とは違ってコーヒーを片手に腰掛けた。温かいコーヒーが山瀬の身体を芯から温めてくれた。2人は船がセブ港に入港するまで当たり障りの無い世間話をし続けた。船が着岸態勢に入ると2人は互いに別れを告げそれぞれのシートに戻って行った。    港から一歩外に出ると思った通りタクシーの呼び込みが山瀬の周りを囲んだ。その呼び込みを振り切るように足早に前へ前へと突き進んでいった。やがて呼び込み達が諦めて山瀬の周りから姿を消した頃歩くスピードを緩めた。後ろを振り返ると呼び込みたちは他の鴨を見つけ出したようで再びその鴨の周りを取り囲んでいた。 「フー…。本当にしつこいなあ」 山瀬はそのしつこい呼び込みのせいで気疲れしてしまっていた。  港から真っ直ぐ大通りまで出た。かなりの量のタクシーが一般の車に混じって走っていた。山瀬はその中の1台を止めて乗り込んだ。 「おじさん。メーター使ってね」 フィリピンのタクシードライバーは殆ど言っていい程メーターを使おうとしない。使うように言わないと降りるときに高い料金を吹っかけられることになる。中にはメーターを使うように言うと乗車拒否するドライバーまでいる。滅多にないことだがメーターを家に忘れてきたなどと言う馬鹿なドライバーもいる。運が良かったのか、タクシーの運転手は笑顔を見せながら料金メーターのボタンを押した。行き先を告げると山瀬はシートに身を任せ一息ついた。  SECへはそこから15分程で着くことができた。ただまだ業務開始時間前だと見えて開いてはいなかった。開いていないと言っても出勤してくる人たちのために門は開かれていた。山瀬はそばにある小さな食堂を見つけ、そこで今日2度目のコーヒーを飲みながらSECが開くのを待つことにした。業務開始時間が近くなるとSECの中へと入っていく人の数が増え始めた。SECの関係者に混じって一般人のような格好をした人の姿も見えた。山瀬もその小さな食堂を出ると次々と入っていく人の群れに混じってSECの中になだれ込んでいった。  中には沢山のデスクトップ型のパソコンが並んでいた。閲覧の仕方の説明文が壁に貼ってあったのでまずそれを読んでみた。 「まずはプリペイドカードを買うのか…」 山瀬は100ペソ分の閲覧のプリペイドカードを買い求めた。手渡されたのはカードではなく薄っぺらなバーコードの記載された紙だった。パソコンの影に隠れるようにバーコードを読み取るセンサーが置いてあり、それにバーコードが記載された紙を押し付けるとパソコンが反応し検索の画面が表示された。会社名を入力すると直ぐにファイブキャッツダイブカンパニーの会社登記簿の表紙が表示された。画面に表示された登記簿を上側にゆっくりとスクロールしていくと会社名、目的、それに会社の住所が記載されたページが表示された。住所がパラワンになっていた。 「偶然だな…」 引き続き順序よく見ていくと出資者の氏名とその出資の比率の記載されたページが表示された。どうやら会社は日本人2人とフィリピン人3人、合計5人で構成されているようだ。日本人の一人は幾田小町だ。もう一人の日本人の方は岡村達也と記載されていた。 「恋人同士だったのかな…。でも失恋で自殺するなんてことは考えにくいよなあ…」 山瀬は頭の中で呟いていた。山瀬は一通り閲覧を終わると、この会社登記簿の複写をもらうことにした。  説明文にあったとおり階下の複写を発行する窓口に行き自分の住所と氏名、会社の登記番号と会社名を申込用紙に書き込んだ。それと手数料を合わせて窓口に座っているまだ眠そうな顔をした受付の男に手渡した。その数分後には複写したての会社登記簿謄本の複写が山瀬の手の中に納まっていた。気のせいかその複写から湯気が立っているような気がした。山瀬の胸に小さな満足感が広がっていった。セブ市での用事がこれで済んだ。   山瀬は混雑し始めたSECをまるで牢獄から逃げ出すかのように抜け出してきた。外の街並みの忙しい雰囲気は既にすっかりと何処かへ消え去り、それと入れ代わりに落ち着きを取り戻した街並みがそこにあった。生温い風が路上の土埃を巻き上げていた。 第六章 ー 不意 ー へ https://ofuse.me/e/16606

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