セブ・マクタン空港は国際線と国内線の両方を抱え込んだ大きな空港だ。地方の小さい空港とは一味違う趣がある。地方の空港もそれはそれでまた違った趣があるのだが、山瀬の持つ先入観念のせいか空港というものは大きく利用客の数が多く混雑している方が居心地が良かった。待合ロビーはフィリピン各地へ移動するフィリピン人や外国人が渦巻いていた。山瀬の乗るセブからパラワン島のプエルト・プリンセサへ行く便は午後1時だった。まだ搭乗まで1時間あった。山瀬はサンドイッチとコーヒーで昼食を済ませてしまおうと思っていた。普段は空港内で高い昼食を取るような山瀬ではなかったが、今回は時間に追い回され、そうも言っていられなかった。時間の調整のために已むを得ないことだった。ただコーヒーはインスタントではない。値段に合わせた味と香りのするまともな挽き立てのコーヒーが飲める。サンドイッチの方はどこで買って食べても同じ様なものだ。パックに詰められていて何時誰に料理されたのかも分からないような出来合いのサンドイッチが山瀬には納得できなかった。コーヒーとサンドイッチで差し引きゼロといったところだ。 食べ終わるとお土産を売っているショップを何軒か回ってみたがこれといって良さそうな物も見当たらなかった。 男の声のアナウンスが山瀬の乗る飛行機の搭乗を告げたが、列に並ぶのが嫌だったのでそれを遠めに眺めながら再び待合ロビーの椅子に腰掛けていた。搭乗客の列がほぼ完全に飛行機に吸い込まれるのを見計らって椅子から立ちあがりゆっくりと搭乗口に向かって歩き始めた。急いだところで飛行機のいい座席に座れるわけでも、何か景品がもらえるわけでもない。全ての乗客がそれぞれのシートに落ち着くと飛行機はパラワンに向けてセブ・マクタン空港を飛び立っていった。 パラワン島最大の玄関口であるプエルト・プリンセサ空港は、昼下がりのまだ熱い陽の光を直接受けながらその光を物ともせずパラワンの大地にへばり付いているかのようだった。山瀬は乗ってきた飛行機からターミナルに向かって炎天下の中を歩きながらその細長い建物を端から端まで眺めた。 「久しぶりだなぁ…」 山瀬にとってこれが2度目のパラワンへの来訪だった。預けた荷物をターミナルで受け取ると早速その懐かしいパラワンの街並みへ溶け込んでいった。 山瀬は以前泊まったことのあるローラ・イタンというホテルに泊まることにした。ホテルの名前を日本語に直訳すると「イタンばあちゃん」という意味になる。古いホテルでフィリピン人の常連客が多く、予約無しで行くとチェックインできない場合もある。山瀬は空港のそばを走る大通りで一台のトライシクルを止めた。若いまだ独身のようなドライバーがハンドルを握っていた。 「ローラ・イタンまでいくら」 「10ペソだよ」 そのドライバーは迷いもせずに答えた。山瀬はその答えを聞くとすぐさま旅行鞄を抱え揚げて乗り込んだ。いくら空港の外だといってもまだそれが目に入る距離である。何の前置きもなく乗ってしまって高い運賃を吹っかけられたことを幾度となく経験していた。それを避けるために山瀬はいつも料金を確かめてから乗ることにしていた。トライシクルが便利なことは承知しているのだが、乗りなれない外国人にとって料金メーターのないこの乗り物が怪しく見えるのは山瀬にとっても同じことだった。 ローラ・イタンの面影は殆どと言っていい程以前のものと変わらなかった。山瀬はセブで手に入れたファイブキャッツダイブカンパニーの登記簿と最後の1匹である猫、長君の飼い主の住所が書かれてあるメモ、それとさっきホテルの受け付けカウンターでもらったプエルト・プリンセサ近郊の地図をベッドの上に置いて自分もベッドの上に胡座を掻いた。飼い主の住所はプエルト・プリンセサ市から約1時間程離れたところらしい。山瀬はメモをそっとベッドの上に置きなおすと、今度は登記簿謄本を取り上げた。会社住所の記載を見直してみるとどうやらこちらの方は市内にあるようだ。 「まず会社の方へ行ってみるか」 そう考えながら謄本のページを次から次へとめくっていった。やはりこれといって必要な情報は得られなかった。何の変哲も無いただの会社登記簿だった。 「やっぱり自分で調べるしかないか…」 山瀬はそのままベッドに倒れ込んだ。数分間目をじっと閉じていたが急に上体を持ち上げるとまた胡座を掻いた。 「寝ててもしょうがないな。夕食がてらちょっと調べてみるか」 ベッドから降りてそれらの書類を小さめのデーパックに詰め込むと部屋を出ていった。 カウンターで受付の若い男が忙しそうに何か書類のようなものを纏め上げていた。 「国際電話をかけたいんだけど…。それとここの電話番号を教えてもらえるかな」 山瀬は幾田優子に現在の自分の居場所を知らせておこうと思った。 「あちらの電話から出来ますが」 受付の若い男はまずホテルの電話番号の書かれたパンフレットを山瀬に手渡すと入り口のそばに置いてある電話を指差した。 「ありがとう」 幾田優子へホテルの電話番号を知らせた。まだ昨日のこととあって生命保険についてはまだ答えが返ってこなかった。簡単に電話を済ましカウンターへ戻ると国際電話の使用料の記載された紙にサインをした。 「ところでファイブキャッツダイブカンパニーって名前の会社聞いたことあるかな」 「いいえ…、存じませんが。住所はご存知なんでしょうか」 山瀬は登記簿謄本をデーパックから引っ張り出し住所の記載のあるページを開いて見せた。受付の若い男はそれを山瀬から受け取ると住所の書かれた部分を凝視した。 「ああ、この住所だったらここからそんなに遠くありませんね。多分トライシクルで10分くらいだと思います」 山瀬は男に礼を言うと再びプエルト・プリンセサの街並みに溶け込んでいった。 外に出ると太陽は肌を針で刺すような刺激のある光を山瀬に投げかけてきた。山瀬は夕食前までににこの会社を探し出しその所在を確かめてみたかった。トライシクルを拾い行き先の住所を告げた。 受付の男が言っていた通り10分程でその場所に着いた。大通りから少し離れた場所だったが幅の広い道路が走っていた。気のせいかセメントで舗装されているその道路はアスファルトのそれよりも埃っぽく感じられた。昼下がりの陽の光で温められた路面から発ちこむ不快な熱さの熱気が山瀬の顔を包んでいた。 山瀬はその不快な熱気の中を当てもなく歩き始めた。右手の大きなアカシアの木の下に置かれたベンチで世間話をしている老人がいる。その隣にアカシアの木に守られるかのように一軒の雑貨屋があった。山瀬はそこで情報を集めることにした。中を覗くと60歳前後の初老の女とコーラの冷蔵庫が眼に入った。その他シャンプー、インスタントコーヒーなどの小袋が丁度目の高さくらいの位置にぶら下げられている。 「おばさん、コーラください」 「1・5リットルかい。それとも小瓶かい」 山瀬は本の少し面食らった。一人で1・5リットルも飲める訳が無い。それを平気で訪ねてくる女の顔をしばらく眺めていたが、それを買って持ち帰る客もいることを思いついて納得した。 「小瓶の方」 山瀬はコーラ入りの小瓶を受け取ると一気に飲み干した。ビンを床に置いてあるケースに差込むと早速初老の女に尋ねてみた。 「おばさん。この辺にファイブキャッツダイブカンパニーっていう会社ないかな」 女は目を左上の方へ向けると記憶を辿りながら何かを思い出そうとしているようだった。ふと女の目が元の位置に戻った。 「ああ、あるよ、この先に。確かついこの前社長さんが死んで今は閉まってると思うよ」 山瀬は不意を突かれたような気持ちだった。まさかこんなことが起きようとは思ってもみなかった。山瀬の心臓の鼓動が普段より幾分速くなった。山瀬の頭にはファイブキャッツダイブカンパニーのもう1人の日本人出資者岡村達也のことが浮かびあがっていた。 「死んだって…、もしかして殺されたんですか」 それを聞いて今度は女の方が目を大きくした。 「やだねぇあんた。事故だよ事故。トライシクルに乗ってて事故に遭ったんだってさ」 それを聞いて胸に乗せられていた重いものが取り除かれたような安堵感が山瀬の心の中を走り過ぎていった。 「そうだったんですか。可哀相に…。でもその人日本人ですよね」 山瀬は女と話しながらもしかすると人違いではないのかと思い質問を付け加えた。 「そうさ。死んじまうなんて可愛そうにねぇ…。でも会社の方は一緒に働いてた日本人の若い男と女が戻ってきて営業を再開するんだって噂だよ。でもまだまだ先の話みたいだけどね…。男の方はうちに飲み物なんか買いに来てたよ。確か「カズキ」って名前で皆に呼ばれてたような気がするね」 名前さえ女の口から出てこなかったが山瀬は女の言っている事故で死んだ社長というのは岡村達也のことだろうと思った。 「ところでその会社ってこの近くなの」 「この道を真っ直ぐ行ったとこさ…」 山瀬は女の説明の不足に苛立ちを覚えたが、とにかくこの道沿いにあるということが分かり、それ以上女に質問するのを諦めた。 雑貨屋を出ると再び不快な熱気の中を歩き始めた。さっきこの道を歩き出した時とは違い今度は行き先がはっきりとしていた。その建物は思ったより遠くなかった。辿り着く前にもう一度すれ違った男に尋ねてみたが、男は全く知らないようだった。結局山瀬が注意しながら一つ一つの家々を覗いてそれらしいものを探すしかなかった。そうしていくうちに一軒のひと気の無い白いコンクリート造りの建物が目に入った。よく見ると誰も気が付かないような小さな看板が玄関のドアの左側の壁に掛けられてあった。目を凝らして見ると確かにローマ字でファイブキャッツダイブカンパニーと書かれていた。山瀬は雑貨屋の女の話を思い出していた。恐らく彼女が言っていた社長というのは岡村達也のことであろう。登記簿に記載されている出資の比率が他の出資者と比べて岡村の方が多いということは彼の方が社長と呼ばれるのがもっともなことだ。その岡村が事故死したことで会社が一時休業しているということなのだろうか。普通ならこの会社に出資している小町が営業を引き継いでもいいのであろうが、その小町も今は亡き人になってしまっている。山瀬は誰もいないその死んでしまったような静かな白い建物を背にまた歩き出した。何の情報も得られない無念さに山瀬の心は沈んでいた。さっきまでは薄い水色をしていた空もオレンジ色に変わり山瀬の沈んだ心に哀愁を流し込んで更に寂しいものにしていた。 「小町さん…。いったい何なんですかこれは…」 山瀬の口からは小町に届きもしない言葉が漏れ出していた。不快な熱気は太陽が傾いて空がオレンジ色に変わってもまだ山瀬の顔に覆いかぶさっていた。 大通りでトライシクルを拾った山瀬は沈んだ気持ちを浮かび上がらせるために気分転換をしようと気の利いたレストランを探していた。山瀬は以前一度しか訪れたことのないこのパラワンのプエルト ・プリンセサについて全くと言っていい程無知だった。トライシクルのドライバーに行き先を「何か美味しいものが食べられるところ」と言っただけだったが、ドライバーは心当たりがあるらしく何も言わずにハンドルを握りただひたすらトライシクルを走らせていた。5分くらい走ったであろうか目の前を流れていくプエルト・プリンセサの町並みをぼんやりと眺めていた山瀬はドライバーの言葉で我に返った。 「着いたぜ」 山瀬は最初何を言われているのか分からなかった。それくらい放心状態で町並みを眺めていた。 「あ、ああ」 ドライバーは料金を受け取ると責任は取らないぞと言わんばかりにその場を一目散に去っていった。 小さい門構えのレストランだった。『カルイ』と書かれた看板が掛けられた門をくぐると中は和風の庭になっていて山瀬の沈んだ心を少しだけ引っ張り揚げてくれた。その和風の庭を見ながら『カルイ』というのはもしかして軽井沢の『軽井』なのではないのかなどと勝手に考えていた。 初老のウェイターがテーブルまで山瀬を案内してくれた。落ち着いた雰囲気とライティングが心地良かった。一部天上が高くなっていて大小の民芸品が飾られていた。山瀬は鮪の刺身とビールを注文するとまた登記簿をデーパックから引っ張り出して見直してみた。やはり出資の比率の書かれたページで手を止めた。 「全く情報が無いわけじゃないのか…。フィリピン人の出資者を探し出せばもしかして何か分かるかもしれないな」 名前にばかり気を取られて気が付かなかったがよく見ると登記簿にはそれぞれの出資者の住所も書かれてあった。その住所の記載が山瀬にまた気力を与えてくれた。冷えたビールが心地よく喉を通り越し、鮪の刺身が口の中の苦味を拭い去っていく。それと同時に心地よい酔いが山瀬の思考能力を抑えるかのように回り始めた。山瀬の顔をさっきまで覆っていた不快な熱気とコンクリート舗装の道路から舞い上がる土埃は既にどこかに消え去っていた。それと入れ代わりにビールの酔いがもたらす火照りが山瀬の顔を包んでいた。しかしいくらほろ酔い気分になっても心の奥底にあるしこりのようなものは依然として消えることはなかった。 目を覚ますと既に8時を回っていた。いつも早起きの山瀬ではあったが、昨夜のビールが余程効いたのか珍しく寝坊してしまった。シャワーを浴びるとすぐ受付に行って朝食を注文した。受付のカウンターの中で背の低い若い女が何か書き物をしていた。山瀬が近寄るのに気づくと顔を持ち上げて笑顔で迎えてくれた。笑顔が気持ちよかった。 「ブレックファストを注文したいんだけど…」 「こちらからお選びください」 スクランブルエッグとベーコンの朝食をご飯つきで注文した。そして昨夜登記簿から出資者の名前と住所を書き写しておいたメモを財布から引っ張り出すと女に手渡した。 「ちょっと訊きたいんだけど、この住所ってここから遠いのかな」 女は手渡されたメモを見てまた笑顔で答えた。 「これとこれははかなり遠い場所ですが、これはそんなに遠い場所じゃないですね」 女は手に持ったメモをカウンターに置くとひとつひとつの住所を指差しながら説明してくれた。山瀬はファイブキャッツダイブカンパニーの3人のフィリピン人出資者のうち1人とだけ話せば情報が得られるのではないかと考えていた。その中で一番近い場所に住んでいる出資者の名前が登記簿にロサリー・デ・ラ・パスと記載されていた。ホテルから車で1時間くらいの距離らしい。市内からバスが出ているらしく便数も少なくはないらしかった。朝食を10分程で済ますと山瀬はカウンターの女に鍵を預け礼を言った。女は相変わらず笑顔を山瀬に投げかけていた。 山瀬はホテルを出るとすぐトライシクルを拾った。バスターミナルまでは歩いて行ける距離だったが、寝坊したこともあってなるべく先を急ぐことにした。バスターミナルにはかなりの数のバスが停車していた。既に乗客を乗せているバスもあればそうでないものもあった。山瀬はまずチケットカウンターと書かれた看板が掛けられたカウンターに足を運んだ。行き先を告げチケットを買った。 「このバスってどこに停車しているんですか」 「12番ホーム…」 受付の男はぶっきら棒に答えた。こういう態度はいつものことなので山瀬にとっては然程気にならなかった。山瀬も当然礼など言わない。こういうときはチケットを売った方が礼をするものだ。しかしいくらそんなものを期待しても受付の男の口からそれが出てくるわけも無かった。 山瀬は12番ホームに停車している窓にガラスのないバスに乗り込んだ。かなり使い込んであるバスで以前は窓ガラスが嵌められていたのであろうが、既にその面影だけしか残されていなかった。当然冷房は効かない。しかし冷房が好きでない山瀬にとっては好都合だった。バスにはまだ数人の乗客しか乗っていなかった。前の方で車掌らしい男と運転手らしい男が話をしている。乗客と同じように普段着を着ているのであまり見分けがつかないが、車掌らしい男の方がチケットに穴を開けるための鋏型のパンチを左手に持っているのが乗客と違うところだった。乗客が増え始まると流石に2人は話を切り上げ各自の仕事をし始めた。思ったとおり運転手らしい男は運転席に腰を据えた。 結局空席を残したままバスはターミナルを出発した。市内を走る間路面の埃や車の排気ガス、路面から立ち上がる熱気が混ざり合ってバスの開きっぱなしの窓から入り込んできた。バスは路上で手を挙げている客を拾いながら走り続けた。走っている間は風が体温を奪っていくのでそれ程熱さを感じないが、客を乗せるたびに停車すると止め処も無い熱さが全身を襲ってきた。バスは15分程市内を走り、その後郊外を走り始めると停車する数も少なくなり不快感を感じることはなくなった。 郊外を走り始めた頃から車掌がほぼ満員になった乗客のチケットをチェックし始めた。揺れるバスの中で車掌は上手に乗客のチケットをチェックし、途中で乗った客にはにチケットを売っていた。やっとのこと車掌は山瀬の前までやってきた。 「降りる場所に着いたら教えて貰えませんか」 山瀬はバスターミナルで買ったチケットを車掌に手渡しながらそう願い出た。 「オーケー」 車掌はチケットを山瀬に返すとそう言いながら今度は山瀬の隣に座っていた男のチケットへ手を伸ばした。山瀬はこの車掌が本当に目的地への到着を知らせてくれるのかどうか不安になった。しかしこれ以上執拗に願っても結局のところ結果は同じことだろうと自分に言い聞かせていた。 バスは海を左手に見ながら状態の悪い路面を走っていった。約10分間隔で降りていく乗客、乗り込んでくる客のためにバスは動きを止めた。山瀬はその都度車掌の行動を確かめざるを得なかった。車で約1時間の距離というのは山瀬にとって曖昧なものだった。車というものはあくまでも目的地に直行する乗り物であり、バスは客を昇降させるために頻繁に停車する乗り物である。当然時間の感覚と距離の感覚が麻痺してしまう。山瀬は車掌がもしここだよと叫んだとしたら急ぎ足でバスの出口へ向かう準備までしていた。バスが郊外に出て何度目の停車になるだろう。まだ車掌は何も言わない。山瀬はもしかするともう既に目的地を通り過ぎてしまったのかもしれないと思っていた。 その物言わぬ車掌が空席の目立つようになった頃山瀬の座っているシートに近寄ってきた。 「次だよ」 それだけ言うと車掌は後部座席の方へ行ってしまった。山瀬の身体に急に安堵感と憤慨感が走った。 「何なんだ…。最初からそう知らせるからって言ってくれたらこんな思いすること無かったのに…」 山瀬は無意識に心の中でそう愚痴っていた。 デーパックを膝の上に置き降りる準備をした。バスのスピードがほぼなくなった頃そっと立ち上がって忍び足で出口まで近寄っていった。そしてバスが完全に動かなくなるのと同時に出口に辿り着き文字通り飛び降りた。山瀬の後を追うように2人の乗客が降りてきた。これは好都合と山瀬はそのうちの一人に近寄った。 「すいませんちょっとお訊ねしたいのですが…」 山瀬は財布からメモを引っ張り出してそれを手渡した。 「ああ…。サリーの家ならここからちょっと戻ったところに小さな交差点があるからそれを海側の方へ下りて行くといくつか家が建っているからそこでまた訊いてみるといいよ」 男はさっきバスで通ってきた方角を指差しながらそう言った。 「ありがとう。助かりました」 山瀬は早速今来た方角へ戻り始めた。 バスの中では降りることばかりを気にし過ぎて気づかなかったが、道路の両脇には野菜畑が多く作られていた。畑の境界線なのだろうか、ココナッツの木が一直線に並んでいるのが見える。200メートル程歩いたであろうか、小さな道と大通りが交わる交差点があった。小さな道の方は舗装されてはいなかった。海は見えなかったが、男が教えてくれたように山瀬は海側に道を折れた。砂利道はほんの少しだけ海に向かって下っているようだ。3分程歩くと急に目の前が開けた。坂の勾配が急になったために海が大きく開けて見えたのだった。気のせいか風もさっきより強くなったようだった。山瀬は立ち止まってしばらくの間海を眺めていた。遥か遠くの水平線が微妙にカーブしているのが見て取れた。坂を下りきった頃10軒程の小さな木造の家が立ち並ぶ小さな集落が見えてきた。山瀬はとぼとぼとゆっくり歩きそしてついには吸い込まれるようにその集落の中に入っていった。 集落の中に入ると一軒雑貨屋を営んでいる家の前に白髪の老婆が竹で出来た簡易の腰掛に座っているのが見えた。山瀬は喉が渇いていたのでそこで何か飲み物を買おうと思った。 「こんにちは…」 その白髪の老婆には声を掛けず、雑貨屋の窓越しに中に向かって声を出した。 「何だい」 山瀬の背後で白髪の老婆が口を開いた。座っているだけの只の老婆のように見えたが、どうやら彼女が経営者のようだった。山瀬は不意をつかれ最初答えに詰まっていたが何とか答えることが出来た。 「ミネラルウォーターありますか」 「ああ、あるよ。でも冷えてないよ」 小さい集落だから恐らくまだ電気を引いていないのであろう。当然冷蔵庫など置いてある訳が無い。 「1本ください」 老婆はゆっくりと立ち上がりそしてゆっくりと家の中に入って行った。料金と引き換えに手渡されたミネラルウォーターの青色の蓋の上には薄っすらと埃が被っていた。山瀬は埃の厚さを調べるように右手の人差し指でその蓋の上にノの字を書いてみた。かなりの厚さだった。山瀬は青色の蓋をひねり開けると幾分の不安はあったが一気に飲み干した。 「おばさん、サリーの家はどれなんですか」 「この集落の最後の家だよ。家の前に大きなマンゴの木が立ってるから分かるはずだよ」 老婆はかれた声を絞り出すように答えた。山瀬は老婆に礼を言うと先を急いだ。 ほんの少しだけ先に歩いていくと大きなマンゴの木が見えてきた。その隣にやはり小さな木造の家が建っている。家の前には洗濯物が干されていた。近付くに連れて赤ん坊の泣き声が山瀬の耳に入ってきた。 「こんにちは」 山瀬が声を出すのとほぼ同時に赤ん坊を抱いた20代中ごろの女が玄関から現れた。赤ん坊は泣き疲れしたのか既に泣き止んでいた。女は陽の光が眩しいようで右手を目の上に翳していた。赤ん坊に当たる直射日光が山瀬には気にかかった。 「サリーさんですか」 「ええ、そうですが何か…」 赤ん坊に当たる直射日光に気が付いたのか、サリーはマンゴの木が造ってくれる大きな陰の部分に避難した。山瀬もそれに合わせて陰に入った。 「ファイブキャッツダイブカンパニーってご存知でしょうか」 サリーは赤ん坊をあやすように自分の身体を左右に振っていたが、一瞬それを止めた。 「ああ、知ってます。どうしても名前を貸してくれって岡村さんに頼まれて、断りきれなくて貸しましたが何か…」 赤ん坊を抱いたサリーの顔が不安を隠しきれずに硬くなっていた。 「特別問題は無いんですが、岡村さんと幾田さんが亡くなって会社が休業しているのでこのあとどうなるのかと思いまして…」 山瀬はどうにかしてサリーから情報を引き出そうと必死だった。 「え…、小町も死んだんですか」 どうやらサリーは小町のことも知っているようである。しかし自殺したことまでは知らなかったようだ。 「ええ…。自殺してしまったんです。私は小町さんのお母さんから彼女の自殺について調査を依頼されてこうして調べているんです」 サリーは山瀬がここに来た目的が小町の死について調べているのだということを知って幾分安心したような表情を顔に浮かべた。 「そうでしたか。私が知っているのは、あの会社は小町が全額出資して岡村さんが社長を勤めていたということくらいでしょうか。その後何人か日本人のスタッフが加わて小町が仕事から身を引いたという噂は聞きましたけど…」 山瀬はサリーがファイブキャッツダイブカンパニーについて話し始めたのを機に自分の考えを確かめようと思った。 「岡村さんと小町さんは恋人同士だったんでしょうか」 「いいえ…、詳しくは知りませんが、ただ2人が恋人だったというような印象は受けませんでしたが…」 サリーは首を傾げながら話した。女の勘は鋭いものだ。十中八九小町と岡村は恋人同士ではなかったのだろうと山瀬は思った。 「そうですか…」 やはり失恋が理由で自殺したわけではなさそうだと山瀬は思った。それに後から2人の日本人が会社に加わっていたということも事実らしい。山瀬はこれ以上サリーから情報を得るのは難しそうだと思った。 「ありがとう。急に訪ねてきてしまって本当に申し訳ありませんでした」 山瀬はサリーに小さく頭を下げてそこを去った。 小さい漁村のような集落を海からの強い風が吹き抜けていった。それはまるで山瀬のようなよそ者を拒み押し返すかのようだった。山瀬はその風に押されながら来た道をひとり戻っていった。風は容赦なく吹き続けていた。 ホテルに戻った山瀬は情報の少なさにもどかしさを感じていた。ベッドに横になりながら少ない情報を纏め上げたが結局結論には至らなかった。 「小町さんにいったい何があったんだろう…」 その時部屋に置かれてある電話が急に鳴り始めた。山瀬は慌てて受話器を取った。 「もしもし山瀬さんでしょうか。国際電話が入っておりますがお繋ぎ致しましょうか…」 受付の男の声が山瀬の耳に響いた。 「お願いします」 山瀬は恐らく幾田優子からの電話であろうと思った。 「もしもし」 山瀬が先に声を出した。聞き慣れた声が電話口から聞こえてきた。紛れも無く幾田優子だった。 「もしもし山瀬さんですか…。ありました。山瀬さんのおっしゃったとおり私を受取人にして保険を掛けていたみたいです」 山瀬の耳が幾田優子の声に緊張感が含まれていることをいとも簡単に察知した。 「いつ頃保険を掛けたんでしょう。自殺する人間が受け取れるわけも無い保険なんか掛けるわけないから恐らく1年以上前のことだと思うんですが…」 山瀬はそう言いながら変な矛盾に気が付いた。殆どの自殺者は保険を掛けない。しかし小町は保険を掛けた。ということは殺されたということになってしまう。山瀬は受話器を耳に当てながら自分の考えを打ち消すように首を左右に振っていた。山瀬は無意識に小町の死が自殺であってほしいと考えていたことに気づいた。 「ええ。一昨年の夏に加入しているみたいなんです。山瀬さん…。やはりうちの娘は自殺したんでしょうか」 幾田優子の質問に山瀬は一瞬答えが見つからなかった。 「まだ何とも言えません。とにかく今調べているところなのでもうちょっとだけ時間を頂けませんか」 「分かりました。宜しくお願いします」 2人はほぼ同時に受話器を下ろした。 山瀬は再びベッドに横になるとさっきまでのもどかしさが再び頭の中を埋めていく事に苛立ちを感じた。 「こんなことしててもしょうがないや。飯でも食うぞ」 ベッドから飛ぶようにして降りるとTシャツを着て部屋を出た。ホテルにあるレストランには既に昼食を目当てにテーブルについている客が何人かいた。山瀬が空いている窓際の席に座ると直ぐにウェイトレスがメニューをもって近寄ってきた。とにかく空腹を早めに満たしたかった。なるべく早く調理できるものを訊いて注文した。当然苛立ちを少しでも紛らわしたかったのでビールを合わせて注文した。注文し終わって窓越しに路上に行き交う人の流れを眺めていると急に左後ろから久しぶりに聞く日本語が聞こえてきた。 「いやあ、またお会いしましたね」 その声にふと振り向くと先日フィリピンに渡航した時の飛行機で隣の席に座った白髪交じりの男の顔がそこにあった。 「ああ…、偶然ですね。こんなところでお会いできるとは思いもしませんでしたよ」 山瀬は微妙に驚いていた。 「一緒に座っても構いませんかね…」 「どうぞどうぞ。ここでまたお会いできたのも何かの縁でしょう」 男は自己紹介しながら山瀬の反対側に腰を掛けた。今中というのが彼の名前だった。山瀬もそれに答えるように自分の名前を今中に伝えた。 「飛行機でお会いしたときパラワンに行かれると言われてましたがまさかまたお目にかかれるなんて…」 山瀬は自分の驚きを再び言葉にした。 「そうですね。私も驚きましたよ。まさか貴方が同じホテルに泊まってるなんて…」 今中も山瀬に共鳴したように驚きを隠せないようだった。 「ところで今中さん、用事は片付いたんですか」 山瀬は実の従兄弟が死んだという今中の話を覚えていた。 「ええ何とか片付きました。従兄弟の後始末をしにきたようなものですよ。疲れましたよ。でもあと2,3日で帰れそうです」 今中は胸を撫で下ろすように話した。慣れない外国に来て死んだ従兄弟の後片付けをするのは並大抵でないことは山瀬にも理解することが出来た。 「それは良かったですね」 山瀬の注文した料理とビールがテーブルに運ばれてくると、それに合わせて今中もビールを注文した。2人は冷えたビールを飲みながら当たり障りのない世間話で熱い昼下がりのひと時を過ごした。 部屋に戻った山瀬はベッドに倒れ込むように横になった。心地よい酒の酔いがさっきまでの苛立ちをどこかへ追いやってしまっていた。 「明日もう一人のフィリピン人出資者の話を聞いてみよう」 そう思いながら山瀬は深い眠りに引き込まれていった。開けっ放しの窓から心地よい風が吹き込んでいた。 やかまし過ぎる鶏の鳴き声で目を覚ますと、時計はまだ4時を少し回ったところだった。早起きの山瀬でも流石にこの時間は早すぎる。ただ山瀬が立てた今日の予定をこなすのには丁度良かったし、昨日早く寝すぎてしまったせいか再び寝続けることもできそうになかった。とりあえず冷たいシャワーを浴び受付のカウンターに行ってみた。男の受付がカウンターの中に眠そうな顔をしながら座っていた。 「おはよう」 「おはようございます」 男は早起きの山瀬に驚いたらしく、喉に何かを詰まらせたような声を出した。顔の表情にも苦しさが浮かび上がっていた。山瀬は住所を書き写したメモをその眠そうな男に手渡した。 「ここに行きたいんだけど…。朝一番早いバスの便は何時頃出るのかな」 男は渡されたメモを顔に近づけて穴が開いてしまうのではないかと思うくらい目を鋭くさせ凝視した。 「ここに行くバスなら恐らく5時過ぎには出ていると思いますが。バス会社に確かめてみましょうか」 「いや…。いいよ。直接行ってみるよ」 山瀬は男に礼を言うと部屋に戻り身支度をした。 外はまだ薄暗かったが、それでも早朝に出勤しなければならない人たちを乗せるトライシクルがヘッドライトを照らしながら走っていた。山瀬はその中のひとつを拾ってバスターミナルに向かった。いくら熱帯の国だといっても日の出前のこの時間帯はやはり風が冷たい。山瀬は身震いした。腹が冷えないように左手を下っ腹の辺りに当てていた。 バスターミナルでは思ったより数の多い乗客に驚かされた。昨日来た時間帯よりも多いのではないのかと山瀬は思った。昨日と同様カウンターでチケットを買い、既にエンジンの温まったバスに乗り込んだ。やはりバスは満員を待たずしてターミナルを出発した。しかし昨日と違って路上で手を挙げる客は少なく、あっという間に市内を通り抜け郊外に出た。約3時間の旅程だったので2時間程経った頃車掌に目的地に着いたことを知らせてもらえるよう願い出ようと思っていた。昨日とは違い山瀬は落ち着いた気持ちでバスに揺られていた。朝日が空を薄オレンジ色に染めていく。そのオレンジ色の空を背景にしてブリと呼ばれる巨大な椰子の木の黒い陰が山瀬の目に不思議な異国の情緒を流し込んでいた。日本では見ることの出来ない風景だったが、ただこれと似た風景を子供の頃見た覚えがあった。それは学校帰りのバスの中、オレンジ色の夕日の中の地平線にちょこんと乗っている小さな富士山だった。山瀬は異国のバスの車窓から見えるオレンジ色の風景を心に焼き付けていた。どれくらい走ったのだろう、山瀬は距離の感覚をなくした頃車掌に降りる場所を教えてくれるよう願い出た。 「そこだったらあと10分くらいだな。近くなったら知らせてやるよ」 それを聞いた山瀬は安心したのと同時に降りる準備を整えた。準備といってもなんと言うことはない、座席の下に無理やり押し込んでおいたデーパックを膝の上に乗せただけだった。たださっきまでバスの窓の外の風景にあった山瀬の興味はバスの速度の変化と車掌の動きへと移されていた。2度目にバスのスピードが緩められたとき車掌が山瀬に近寄ってきた。 「ここだよ」 山瀬は急いで立ち上がり昨日と同じ様に忍び足でじわりじわりとバスの出口に近寄って行った。山瀬は昨日と同じ自分の行動の滑稽さを感じずにはいられなかった。やはり昨日と同じ様にバスを飛び降りた。昨日と違ったのは山瀬を追って降りた乗客がいなかったことだった。 山瀬は無意識に左手で頭を掻いていた。周りを見渡したが民家は見当たらなかった。あるのは文字通りバス停だけだった。 「まいったなこりゃあ…。どっちに行ったらいいのやら…」 山瀬は仕方なくバスが去っていったのと同じ方向へ歩き始めた。 5分程歩くと交差点に差し掛かった。運よく角に一軒の雑貨屋が店を構えていた。 「おはようございます」 叫んでみたが一向に返事がない。少し間をおいて再度叫んでみた。やはり返事がない。店の中を覗いてみたがやはり誰もいなかった。山瀬が諦めて歩き始めようとした時、やっと男が店の中から山瀬を呼び止めた。 「悪ぃい悪ぃい…。ちょっと用を足してたもんで」 山瀬は堪え切れず思わず笑い声を零してしまった。 「すいません邪魔しちゃって。コーヒーでも飲めればと思ったんですが…」 フィリピンの雑貨屋は朝方インスタントコーヒーを買うとお湯が付いてくる時がある。山瀬はそれを期待した。 「おうおう。ちょっと待ってな」 男はそう言って奥へ戻って行ったかと思うと、直ぐに注ぎ口から湯気を吐き出している薬缶と茶色のコーヒーカップを手に戻ってきた。男はコーヒーカップ注いだお湯と砂糖、粉ミルク、コーヒーの粉が混ぜられたまさしくインスタントコーヒーを山瀬に手渡した。 「こんな朝早くから外国人たぁ驚いたねぇ。どっから来たんだい」 「すいません朝から驚かせちゃって…。日本から来たんです」 山瀬も男に調子を合わせた。 「何でこんな辺鄙なところまで出向いて来たんだい」 「ブライアンっていう人を訪ねてきたんですが、初めてなんで道がよく分からなくて…。こちらで教えてもらえるんじゃないかって思いまして…」 男はさっきまでの明るい笑顔をほんの少しだけ歪めて見せた。 「そりゃあもしかして俺のことかな」 「へ…」 山瀬もその答えに対する言葉を用意していなかったのでしばらく2人の間にぎこちない間が出来てしまった。山瀬はまた堪え切れず笑い声を零した。これから探し出さなければならないと思っていた人物が目の前にいる陽気な男だったということを知って安堵感が山瀬の心の中を埋めていった。 「良かった。探す手間が省けましたよ」 ブライアンも山瀬のその態度を見て敵意のある訪問者でないことを悟ったのか笑顔を浮かべた。男は山瀬を家の中に招き入れた。 店の中は薄暗く感じられた。急に外から入ってきたせいだろうと山瀬は思った。 「それで…、俺に用事っていったい何なんだい」 山瀬は自殺した小町、ファイブキャッツダイブカンパニー、猫を探してパラワンまでやって来たことをブライアンに説明した。 「そりゃあご苦労なこったぁ。だけどよお、俺が知ってるのは小町とタツのことぐらいなもんだよ。まあ付け加えるならカズキとエリコのことくらいかな」 タツというのは恐らく岡村達也のこと、カズキとエリコというのは後から加わった2人の日本人スタッフだろうと山瀬は思った。ブライアンは話を続けた。 「タツに会社設立のために名前を貸してくれって言われてな。まあ長い付き合いだからひとつ返事で構わねぇよって言ったんだ。それでもって書類の件で何度かタツに呼ばれてやつの会社に行ったら小町がいてな、それで知り合った訳さ。最初は2人でやってたから大変そうだったぜ。けど、一昨年の4月に訊ねてったら4人になってたんだよ。その加わった2人って言うのがカズキとエリコさ。ほんとタツが死ぬなんて思っても見なかったけどな…。そうか…、小町も死んじまったのか…」 ブライアンの顔にはさっきまでの陽気さはひとかけらも残っていなかった。山瀬もブライアンになんと言っていいか分からず言葉を捜していたが、それをブライアンの言葉が遮った。 「俺はさぁ、鈍い人間だけどよ、あの小町は何か普通の女じゃなかったなぁ。いや…、綺麗だとかそんなんじゃぁないんだぜ。何か雰囲気が違うんだよなぁ…。何か考えてるっていうか何て言うか…。とにかく普通じゃねぇんだ」 山瀬は最初ブライアンが何を言っているのか分からなかった。山瀬はそれ以上何を言っていいか分からず、とにかく礼だけを言ってその場を離れた。 濃い灰色の雲が空を覆い始めていた。雨の前兆である湿気の匂いを含んだ風が路上の埃と混ざり合って独特の匂いを発していた。雨が来る。山瀬の足が知らず知らずのうちに速くなっていた。この場所から一刻も早く離れたい。その気持ちが余計に山瀬を後押ししていた。ブライアンが発した彼にとっては何の悪気もない言葉が、山瀬にとっては薄気味悪く感じられたのだった。そしてまた小町の死は自殺ではなかったのではないかと考え始まっている矢先のそのブライアンの言葉が山瀬を混乱させた。ましてやファイブキャッツダイブカンパニーというひとつの会社の中で既に2人の人間が死んでいるのだ。その上死んだ人間が普通じゃないと言われれば殆どの人は尋常でない何かを感じるはずだ。山瀬だって例外ではない。そして小町の日記にあった一樹の恐ろしい計画で味付けをすれば、おのずと山瀬の脳裏に2つの文字が浮かんだことは確かだった。ついさっきまで吹いていた強めの風が弱まり、その代わりに大粒の雨がぽつぽつと山瀬の頬を打ち始めた。山瀬の進む方向にバスの待合所が見えてきた。山瀬にはそれがまるで自分の帰るべき家のように見えていた。 第七章 ー 苛立 ー へ https://ofuse.me/e/16607
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