バスの待合所には雨に濡れた野良猫が一匹造り付けのコンクリートの椅子の上に正座していた。野良猫は急に来訪者が入ってきたことに最初驚いていた。そしてしばらくの間その来訪者の様子を窺っているようだったが、敵意が無いことを知ると毛繕いを始めた。雨があまりにも大粒だったせいで山瀬の服も濡れていた。デーパックからフェイスタオルを引っ張り出すとさっきまでの気持ちを拭い去るようにごしごしと顔を拭いた。その行為に野良猫が毛繕いを止め、また山瀬の様子を窺い始めた。 「ミャーォ」 山瀬は「お前顔色が悪いぞ」と言われたような気がした。山瀬は顔を拭き終わると肩の濡れた部分を叩くように拭き取った。 「お前だってやつれて元気なさそうじゃないか」 デーパックに入れてあったクラッカーの小袋をひとつ取り出すと封を切って一枚だけ野良猫の前に差し出した。野良猫は最初のうち警戒していたが、やはり山瀬が危険ではない来訪者だと分かるとそれに近寄り、数回匂いを嗅ぐと貪り始めた。 「お前そんなにがっつかなくたって…。別に取り返しゃしないよ」 雨がさっきより弱まっていた。恐らく通り雨なのだろう。遠くの方の空を見ると所々空の青い色が見え隠れしていた。しばらくするとまた風が徐々に強くなり始めた。そして終いにはその風と共に雨はどこへとも無く行ってしまった。その代わりに山瀬を襲ったのは猛烈な湿気を含んだ不快な熱気だった。 学生服を着た男の子が丸めたかさを片手にデーパックを背負って待合所に入ってきた。彼も雨の中を歩いて来たらしく傘の先からは雫がぽたりぽたりと地面に垂れていた。学生は最初山瀬の顔を見ると見慣れない外国人を見たせいか目を丸くしていたが、山瀬が笑顔を作って見せると先に挨拶をしてきた。 「こんにちは」 山瀬もそれに合わせて挨拶をした。 「いやあ、凄い雨だったね」 「ええ…。僕もまさかあんなに強い雨だとは思いませんでした。これからプエルト・プリンセサまで行かれるんですか」 「いや、途中寄ってかなくちゃならないところがあるんだ」 山瀬が住所を学生に言ってみたところどうやら彼も山瀬と同じ目的地のようだ。ちょうどその時遠くの方でバスのものらしいクラクションが鳴り響いた。2人は揃ってクラクションの鳴り響いたた方角に首を捻った。こちらに向かって走ってくるバスが2人の目に入った。学生はそれを見ると待合所を一歩外に出た。日本のバス停と同じ様に停留所に人の気配が無ければ、バスはスピードこそ緩めるがそのまま通り過ぎてしまう。学生はそれを防ぐために待合所の外に出たのだった。山瀬も学生の後に続いた。バスが山瀬たちの目の前までやってくるのに然程時間はかからなかった。野良猫が山瀬たちの動きをじっと見守っていた。 2人は空席の目立つバスの前の方に並んで腰掛けた。バスの大きなフロントガラスから路上の様子を手に取るように見ることが出来る。道の両脇に牛や山羊が縛り付けられているかと思うと鶏が猛烈なスピードで道を横切っていく。日本では考えられないような光景が山瀬の目を楽しませてくれた。バスのドライバーはいちいちそんなことは気にしていないようだった。横切る物体がブレーキをかけなければならない対象物でない限り一切ブレーキを踏む気配を見せなかった。その時一匹の猫が道路を横切った。ドライバーが距離とスピードを瞬時に計算してスピードを緩めるのと同時にブレーキを掛けた。急ブレーキでさえなかったが乗客の上体がほんの少し背もたれから離れた。山瀬はきっと猫好きのドライバーなんだろうと顔に笑みを浮かべていた。学生は今日テストがあるらしく数学の教科書を読み直し始めていた。普段は学校のそばにある寄宿舎で寝泊りしているらしいが、昨日訳があって実家に帰宅したらしかった。言っては悪いが山瀬にとっては好都合だった。未知の目的地で降りるためにいちいち車掌の行動を気にしなくて済む。 2時間程走ったところでバスは大通りから逸れ街中の小さなターミナルのようなところへ入った。来たときと同じ道だったが時間帯によって道筋が違うようだった。 「ここで降りましょう」 学生が立ち上がりながら山瀬にそう言った。山瀬も立ち上がり学生より先にバスを降りた。 ターミナルを囲むようにして何件かの小さな食堂や雑貨屋が並んでいる。バスが停車する場所は泥でタイヤが滑るのを防ぐためか砕石が敷き詰めてあった。バスが走り出すとそのタイヤの重みで石と石が擦れ合う低い音が地面から鳴り響いてきた。 「それではお気をつけて」 学生はバスを降りるとすぐトライシクルに乗って行ってしまった。山瀬もその言葉に合わせて礼をした。 丁度昼食の時間に近かったので山瀬はターミナルで昼食を済ませていこうと思っていた。食堂をゆっくりと物色していると、炭火で焼き鳥のような串に刺した豚肉を焙っている店があった。港のそばのバーベキューは山瀬も今までに何度か食べたことがあったがバスのターミナルでそれを見るのは初めてのことだった。 「お兄さんバーベキュー食べてかない」 その串に刺した豚肉を一生懸命くるくるとひっくり返してはうちわで扇ぎながら中年の女が山瀬に声をかけてきた。山瀬は長年焼き鳥やバーベキューの煙はなぜ人々を引きつけることが出来るのか考えているのだが未だに答えは見つかっていなかった。匂いとその中年の女の言葉につられて山瀬はやはりその店の前で足を止めてしまった。 「1本いくら」 「10ペソだよ」 高くはないと山瀬は思った。 「じゃあ5本ください。ご飯は…」 辺りを見回したがご飯の入っているような釜は見当たらなかった。「これだよこれ。プソっていうんだ」 女は木の棒にぶら下がった何かの葉で編んである三角形の容器を指差した。丁度手の平に乗るサイズだ。女にそれが何なのか尋ねてみると、ココナッツの若葉で編んだ容器にうるち米ともち米を混ぜて入れ蒸したものだと説明してくれた。山瀬はそのプソも2つ頼んだ。焼きあがったバーベキューとそのプソをセルフサービスでテーブルまで運んでペロッと平らげてしまった。 「おばさんちょっと聞きたいことがあるんだけど…。この住所って遠いのかな」 バーベキューを焼く女の手が空くのを見計らって用意しておいたメモ用紙を女に手渡した。 「これならそんなに遠くないからトライシクルのドライバーに言えば連れてってくれるはずだよ。あたしゃ道を説明するのは苦手だからその方が安心だよ」 女は山瀬の気分を壊さないよう注意しているかのように笑顔でそう答えた。根っからの商売人なのだろうと山瀬は思った。 「ありがとうおばさん。そうするよ」 山瀬も笑顔で礼を言った。 バーベキューのおばさんに言われた通り、トライシクルのドライバーに住所を伝えると、いとも簡単にその場所に行き着くことが出来た。大きい街だったのでどの道をどう走ってきたのか覚えることはできなかった。山瀬は帰りもトライシクルを拾わざるを得ないと思っていた。トライシクルを降りた場所が丁度雑貨屋の前だったのでその店で最後の猫、長君の飼い主であるオイェットの家の場所を尋ねた。 「オイェットの家だったらうちの2軒裏手だよ。そこを曲がって2つ目の家がそうだよ」 雑貨屋の女主人は店の隣にあるT字路を指差した。がさつな話し方だったがそれでも丁寧に教えてくれた。山瀬が礼を言っていざそちらの方向に足を一歩踏み出すと言葉を付け足した。 「だけど今留守だよ。一昨日友達の家へ行くって出かけてったよ。確かカミギン島て言ってたよ。私に猫を預かってくれないかって言ってきたんだけど、断ったら猫も一緒に連れてくって…」 山瀬は無意識に左手で頭を掻いていた。やっとの思いでここまで来たというのにオイェットの家を目の前にして引き返さなければならないのかと思うと無性に苛立った。昼の熱気が山瀬の額に玉のような汗を作っていた。汗は重力に任せ止め処もなく顎から地面に落ちていった。風には山瀬の苛立ちを理解できるわけも無く、何処かへ行ったきり戻ってくることを忘れてしまったかのように吹こうとはしなかった。 遣り場の無い苛立ちを土産にホテルの部屋に戻ってきた山瀬は、まずマリーと連絡を取ることを考えた。あいにくマリーの電話番号を控えていなかった。 「そうだ…。ジョイの電話番号は確か控えておいたな。ジョイならマリーの電話番号を知っているはずだ」 山瀬は旅行鞄の中のメモを引っ張り出すとホームズの飼い主であるジョイの電話番号を探し始めた。確かにジョイの電話番号は控えてあった。山瀬はメモ帳を手に受付に出向いた。 「国内に電話を掛けたいんだけど…」 山瀬が受付の男にそう言うと、やはり国際電話のときと同じ様に入り口のそばに置いてある電話機を指定された。 「もしもしジョイさんですか。仕事中すいませんがマリーの電話番号を教えてもらえないでしょうか」 「あら山瀬さんね。ちょっと待って」 番号を調べているらしくほんの少しの間があった。 「0920ーXXXーXXXXよ」 「すみません、ご迷惑おかけしちゃって…」 これから直ぐにマリーに電話をかけなければならないことをジョイに伝えて受話器を置いた。間髪を入れずにマリーの電話番号をダイアルした。 「マリーさんですか。山瀬です」 「あらよかった。今オイェットが長君を連れてうちへ来てるから宜しかったら今こちらへいらっしゃいませんか」 山瀬が今パラワンのホテルから電話をかけていることをマリーが知る由も無かった。 「オイェットさんいつ頃までそちらに滞在するんですか」 山瀬にとってはオイェットのカミギン島でのスケジュールを知ることが大事だった。 「お祭りを見ていくって言ってるから最低でも2週間はここにいると思うわ」 やはりカミギンまで戻らなければならないと山瀬は思った。 「実は私今パラワンにいるんです。オイェットさんを尋ねてきたらマリーさんのところへ行っているというのが分かったのでこうして電話差し上げているんです。2,3日中にそちらへ戻れると思うのでオイェットさんに宜しくお伝えください」 「あらまあ、そうだったんですか。分かりました。山瀬さんが訪ねてくるって伝えておきます」 「よろしくお願いします」 受話器を置いた山瀬は一旦部屋へ戻ると鍵を手に再び部屋を飛び出していった。明日乗る飛行機のチケットを手に入れなければならなかった。今から行けば恐らくチケットオフィスはまだ空いているだろうが明日の便のチケットが買えるかどうか自信は無かった。山瀬は既に明日飛行場でキャンセル待ちしなければならないことを覚悟していた。 チケットオフィスには数える程の客しかいなかった。山瀬は小さな紙くずのような申込用紙に必要事項を書き込むと、カウンターの中でしかめ面をしている男にそれを渡した。男は直ぐにパソコンのキーを叩き始めた。それを見ている山瀬は気が気ではなかった。乗れないかもしれない飛行機を飛行場で待つのは誰にとっても嫌なことだ。出来ることならば確実に飛行機に乗ることのできるチケットが欲しい。男が何かをメモに書き留めている。山瀬はその紙を受け取ると、穴が開いてしまうのではないかと思われる程その紙を凝視した。フライトナンバーと値段が書き込まれている。まだ空席があったようだ。胸を撫で下ろしたくなるくらいの気持ちだった。 「これでお願いします」 山瀬は財布から料金分のお金を引っ張り出すと男に渡した。再び男がパソコンのキーを打ち始めたかと思うととその数秒後男の後ろに設置してあるプリンターがガタガタと音を出し、白い紙を吐き出し始めた。男はカウンターにその紙を置くと山瀬に名前を確かめるよう促した。山瀬が確かに間違いないことを確認すると、その紙を折りたたんで封筒に入れてくれた。山瀬の顔に笑みが浮かびあがっていた。 青い澄んだ海に浮かぶ小さな離れ小島が再び山瀬を迎え入れてくれた。たった数日離れていただけなのに山瀬にはこの小さな離れ小島が懐かしく感じられた。都会の町並みと違い田舎の落ち着いた感じが山瀬は好きだった。山瀬はまずサミス・インにチェックインすることにした。サミス・インではやはりあの懐かしいウェイトレスの顔が山瀬を迎えてくれた。 「あら山瀬さん…。電話頂戴って言っておいたでしょう」 アイリーンは山瀬が戻ってくる日付を電話で知らせてくるものだと思い込んでいたらしい。急に目の前に現れた山瀬を見て少し驚いるようでもあった。 「いやあ、ごめんごめん。ちょっと急いでたから電話するの忘れちゃってさ…」 山瀬もアイリーンに調子を合わせた。 「でも部屋は空いてるわよ。チェックインするんでしょう」 山瀬は頷いて見せた。 「ちょっとお腹もすいてるから何か注文しようかな」 山瀬はカウンターの右端に置いてあったメニューを手に取ると最初いくらか迷ったが、ハンバーガーの文字を指差して見せた。簡単に昼食を済ませたかった。まだ昼を少し回ったばかりだったので、昼食の後マリーの家にいるオイェットに会いに行こうと思っていた。 昼食が済むとアイリーンから鍵を受け取って例の208号室へと階段を登っていった。懐かしい何の変哲もない部屋が山瀬を迎えてくれた。山瀬は旅行鞄からデーパックを取り出して必要なものだけそれに詰め込んだ。旅の途中シャワーを一度も浴びることができなかったので、疲れと垢を流し落とすために暖かいシャワーを浴びた。 階下に戻りテーブルにつくと直ぐにアイリーンが注文のハンバーガーを運んできた。山瀬は半ばそれを口に押し込むようにして食べた。オイェットというよりは長君、長君というよりはその首につけっれている首輪が山瀬には心配でならなかった。一刻も早く首輪からメモリーカードを取り出しその内容を見てみたかった。ハンバーガーを食べ終わった山瀬はアイリーンにその代金を手渡すと釣銭も受け取らずに足早にサミス・インから出てきてしまった。 「あ、お釣り」 アイリーンは慌ててカウンターから飛び出して山瀬のあとを追ったが、彼女が外に出たときには既に山瀬の姿を確認することはできなかった。 路上でトライシクルを拾った。山瀬は既にメモリーカードのことしか考えることができなくなっていた。長君の首輪に埋め込まれているメモリーカードが目に浮かぶようだ。この最後のメモリーカードさえ手に入れば小町の事件は解決する。ただそれだけを山瀬は願っていた。しかしこの時小町の死がもしかすると他殺だったのではないのかという考えが山瀬の頭の半分以上を占めていた。つい先日前までは感じることの出来た海の青さや風の清々しさは今の山瀬には全く関係の無いものになってしまっていた。山瀬は小町の家から大通りへと坂を下ったところにあるT字路でトライシクルを降りた。 坂道を急ぎ足で登るとやはり人気のない寂しそうな小町の家がひっそり佇んでいた。山瀬は小町の家を通り過ぎマリーの家に直接行ってしまうことが小町に対して申し訳ないと思い玄関の前に立ち止まり両手を合わせていた。そうしている間マリーとオイェットが背後に近づいてきたことに全く気づかなかった。マリーとオイェットの2人も山瀬が小町に対して祈っている間声をかけずにただ見守っているだけだった。 「ああ、こんにちは」 祈りを終えてふと後ろを振り向いた山瀬が先に口を開いた。 「いつ戻られたんですか」 「さっき着いたばかりです。オイェットさんですね…。始めまして、山瀬です」 マリーの隣でただ2人の話を聞いているだけのオイェットにも挨拶した。オイェットも山瀬に挨拶をした。3人はマリーの家に向かって歩きながら話を続けた。 「ところで長君は元気ですか」 山瀬はどうしても問題の長君が気になって仕方なかった。当然メモリーカードが心配なだけだったが口から出てきた言葉は自然とそうなっていた。 「元気ですよ。今多分マリーの家で桃ちゃんと隣り合わせで寝てると思います」 オイェットとマリーはふたり笑いながら顔を見合わせていた。 3人が応接間のソファーに腰掛けると出窓で寝ている2匹の猫がそれに気がついたのか頭だけを持ち上げた。しかし直ぐに持ち上げた頭をさっきまでの位置に戻すと「私達には関係ない」と言わんばかりに再び寝てしまった。 「いやあ、参りましたよ…。貴方と長君を訪ねてパラワンまで行ったら肝心の貴方がカミギンに来てしまっているなんて…。もし来るって分かっていたらこちらで待っていればよかったんですものね。ほんと気が抜けちゃいましたよ」 実際にはかなり苛立った出来事だったのだが山瀬はわざと微笑みながら話した。訪ねる前に約束していたわけではないのだから仕方の無いことだと山瀬は思った。 「すみませんでした。私ももし山瀬さんが尋ねてくるって分かってれば向こうでお待ちしていたのに…。たまたまお祭りがあったのがいけなかったんですね」 オイェットもまた微笑んだ。マリーは立ち上がると台所の方へ行ってしまった。コーヒーを入れるためのお湯でも沸かすのだろうと山瀬は思った。 「首輪…。いいですか」 オイェットは山瀬の問いに頷くとソファーから立ち上がり出窓へ近づいた。その気配に気がついたのか再び2匹の猫が首をもたげた。しかし片方の濃い色の虎毛色をした大柄な長君はオイェットではなく山瀬の方を見ながら声を出した。濁黄色とライトグリーンの混じった鋭い瞳が山瀬を睨んでいた。 「ミャーォ」 山瀬は「これで全部揃ったな」と言われたような気がした。山瀬はほんの一瞬だが寒気を感じた。首には白い首輪が付けられていた。オイェットは長君の喉元を2,3回撫でると重いものを持ち上げるように両手で抱き上げた。確かに大きかった。 「長君ちょっとだけいい」 ソファーに腰掛け膝の上に長君を載せた。オイェットがゆっくりと首輪をはずすと長君はむくっと立ち上がり膝から床へ飛び降りた。まず背中を丸めて伸びをしたかと思うと今度は前足を前にぐっと伸ばしまたもとの位置に戻した。今度はその勢いで胴体と後ろ足を一直線に伸ばした。まるでスタート前の陸上選手を見ているようだった。その場にちょこんと正座すると前足で顔を綺麗にし始めた。首輪を受け取るとココと傷つけられた部分の裏側を調べてみた。ポケットのような切込みからそっとメモリーカードを引き抜いた。 「ありがとう」 山瀬はメモリーカードを抜き取ったあとの首輪をオイェットに手渡した。 「これ、私が預かっても構いませんか」 返ってくる返事は分かっていたが、あくまでも今はオイェットが長君の飼い主だということを考がえると許可を得るのが礼儀だということを山瀬はちゃんと心得ていた。 「ええ、どうぞ」 オイェットはそう言うと持っていた首輪を長君に付け戻そうと床に跪いた。長君はまた抱き上げられるのを嫌がったのかオイェットの前からすっと抜け出すとまた桃ちゃんの寝ている出窓へ音も無く飛び乗った。 「分かったわよ。後でいいわ」 オイェットは直ぐに諦めてしまったようだった。そこへコーヒーを持ってマリーが戻ってきた。 「コーヒーでも飲みましょう」 マリーはカップをひとつずつ山瀬とオイェット、そして自分の前に置いた。 「ところで山瀬さん…。メモリーカードから何か分かりましたか」マリーもいったい何が小町に起きたのか未だに納得できない様子だった。山瀬はこれまで調べてきたことをマリーに話して聞かせた。マリーは最初何がなんだか分からず理解できないような顔つきをしていたが、山瀬が話し終えると何か良くないことが起きているのではないかという不安な表情を顔に浮かべていた。 「とにかくこの最後のメモリーカードで全てが分かると思います」山瀬は強気で言ったものの、内心自分自身でもそうあって欲しいと願っていた。しかしそれとは裏腹に全てを知ってしまうことに不安も感じていた。山瀬はコーヒーを飲み終わると何か物足りないような顔をしている2人に別れの挨拶をしてマリーの家を去った。 山瀬はトライシクルに揺られながら5枚のメモリーカードが揃ったことで本当に全て解決できるのであろうかという不安感に襲われていた。トライシクルは昼下がりの熱い熱気を真っ二つに割るように走った。海は相変わらず薄っすら水色と濃い青色のコントラストを山瀬の目に投げかけていた。しかしそのコントラストを綺麗だと感じることの出来る感覚は既に山瀬の心の中から消え去ってしまっていた。地面から立ち上がる熱気でさえも山瀬の感覚を呼び戻すことは不可能のようであった。山瀬はこの最後のメモリーカードを紐解いたとしても何も解決できないのではないかという不安と、全てを知ってしまった時の恐怖で気力を失いかけていた。 サミス・インのカウンターには見慣れたいつもの元気そうなアイリーンの顔があった。3時の休憩の時間帯だったのでレストランには数人の客が各々好きなものを飲んだり食べたりしていた。その光景を眺めていた山瀬は昼食のハンバーガーが物足りなかったせいか空腹感を感じていた。アイリーンに部屋の鍵をもらおうと思っていたがレストランで何か食べていくことに気が変わっていた。山瀬の好物のひとつは肉まんだった。小さい頃からよく母親に買ってもらって食べた。調理場の入り口のあたりに肉まんの蒸し器が見え隠れしていたのが以前から山瀬には気になっていた。実際に肉まんがこのレストランのメニューに存在するのか否かは知らなかったが、とりあえず注文してみた。 「肉まん2つとビールね」 アイリーンが注文表に山瀬のオーダーを書き込み始めた。やっぱり肉まんがメニューに存在するのだと山瀬は思った。 「なんだ肉まんやってるんだ」 「山瀬さん知らなかったの。ここの肉まんって昔から有名なのよ。最初オーナーのお母さんが手作りで作ってたんだけど今はそのお母さんも亡くなってオーナーの妹さんが作ってるのよ。ファンも多いんだから」 アイリーンは山瀬の言葉に少し不満な顔をして見せた。山瀬は他の客のテーブルを見回してみた。確かに数人の客の目の前に肉まんが置かれていた。 「へぇ…、じゃあそのお母さんの肉まんを2つ」 山瀬はわざと注文を繰り返した。 アイリーンが山瀬のテーブルに肉まんとビールを運んできた。肉まんはいつも蒸し器にいれられているので出来立てなのかどうかは判断するのが難しい。ただ他の店で袋に入れられた冷めた肉まんが売られていたのを以前見たことがあった山瀬は運ばれてきた肉まんから立つ湯気を見て出来立てなのではないかと思ったのだった。真っ白な包みの部分を一口大にちぎって食べてみた。ふわっとしていて弾力感がある。紛れも無く出来立てだった。山瀬のビールを飲む速さが心なし加速された。1本目のビールをあっという間に飲み干してしまった。山瀬は肉まんをつまみにビールを飲み続けた。 気が付くと外はとっくに陽が沈んで暗がりが街を包み込んでしまっていた。結局肉まん5つとビール5本を平らげていた。旅の疲れのせいかかなり酔いが回っている。山瀬はふらつきながら代金を支払い部屋へ戻った。チェックインしてから一度も使っていないベッドのシーツは小学校で使った下敷きのように皺が一本もなく平らで真っ白だった。山瀬はそのベッドに倒れこむようにうつ伏せになった。その衝撃を吸収するためにしばらくの間ベッドが上下に揺れ動くのが心地よかった。山瀬はベッドが衝撃を吸収するのと同じ様に吸い込まれるように眠りに就いた。開け放たれた窓から夜の匂いを含んだ風が部屋の中に忍び込み遊び回っているかのようだった。 ドアをゆっくりと優しくノックする音で目を覚ました。どれくらい眠っていたのか山瀬には分からなかった。少し重い頭をゆっくりと持ち上げ、大きくはないがドアの反対側の相手に聞こえるような声で返事をした。両隣の部屋の宿泊客に迷惑がかからないように気を使っていた。 「はい…。誰」 ドア越しに聞きなれた声が聞こえてきた。 「私…、アイリーンよ」 山瀬は急な思いもしなかった訪問者に戸惑った。ドアをゆっくり引き開けるといつもの仕事用の制服を普段着に着替えた姿のアイリーンがそこに立っていた。手にラーメンのどんぶりくらいの大きさのうつわを持っていた。 「さっき酔っ払っちゃったんでしょう。夕飯まだ食べてないと思ったから料理長にこれ作ってもらったの…。よかったら食べて。私のおごりよ」 アイリーンは山瀬に微笑んで見せた。山瀬もそれに合わせて微笑んでまだ温かいその器を受け取った。 「ありがとう。頂くよ」 「じゃあね。もう遅いから私し帰るわね。あまり遅いとお母さん怒るから…」 階段を下りていくアイリーンの足音が聞こえなくなるまで山瀬はドアをそのままにして、そのまだ温かいうつわを眺めていた。気の利くウエイトレスのほんの小さな好意が山瀬には嬉しく感じられた。その温かい料理で山瀬の身体と心は温められていった。さっきまではメモリーカードの内容を見てみようという気力さえなかった山瀬だったが、アイリーンのくれたその料理がその気力を呼び戻してくれたような気がした。 山瀬は疼く重い頭を堪えながらノートパソコンのスイッチを入れた。USBメモリーに長君の首輪から引き抜いてきたメモリーカードを差込みそれをパソコンに繋いだ。小さな間を置いてパソコンの画面にメモリーカードの内容が表示された。『長君』のファイルをクリックすると他のメモリーカードと同様、ウェブサイトのアドレスとパスワードが表示された。 http………………………ph 2227459561 パスワードをパソコンに記憶させサイトを開いた。見慣れたサイトが表示された。『長君』の文字をクリックするとやはりパスワードを入力する画面が現れ、さっき記憶させたパスワードを入力した。ついに『長君』のページが表示された。 長のページ 戸籍謄本 http………………………ph 長56b 幾田小町(長ココフー桃ホームズ) 最初の文章は他の猫のページのそれと同じだったが、やはり他の猫の情報とは違うそれが書き込まれてあった。もうひとつは『幾田小町』のページを開くための15桁の組み合わせパスワードの一部だった。山瀬はウェブページのアドレスをクリックした。やはりパスワードの画面が表示され同じようにパスワードを入力するとページが表示された。紛れもなく古い戸籍謄本をスキャンしたものだった。今中辰雄を筆頭として妻小町の名前とその長男一樹の名前が記載されていた。しかし筆頭者である今中の住所と、どこの県のどの市町村が発行したものか分からないようにその部分は塗りつぶしてあった。 「結婚してたんだな小町さん…。んんん…。待てよ」 山瀬の頭の中で今までは断片的な要素だったものが徐々に繋がり始めていた。 「確かファイブキャッツダイブカンパニーで働いていたのが『カズキ』っていう名前だったよな…。でも『日記の一部』に書いてあったことって同じ会社に息子さんがいたっていうことだったんじゃないのか…。それに…、偶然かな…。確か飛行機とローラ・イタンで会ったあの男の人も確か『イマナカ』って言ってたな…。まああの人は関係ないか…。いったい何が言いたいんだ小町さん…」 山瀬は首を右に傾げていた。とにかくこれで『幾田小町』のページを開くためのパスワードが出揃ったわけだ。 長 56b ココ 41s フー 19w 桃 38k ホームズ 82f この順番で 56b41s19w38k82f というひとつのパスワードができあがった。山瀬は『幾田小町』の文字をクリックした。パスワードの入力画面が再度表示された。山瀬はこれで全てが明らかになると自分に言い聞かせていた。事実山瀬の頭の中で断片化された情報がひとつひとつ繋がり始めていた。この『幾田小町』のページがこの断片化された情報の全てを説明してくれるのだろうと考えていた。しかし未だ全てを知るということの恐怖感も捨てきれてはいなかった。山瀬はパソコンの前で立ち上がりベッドに仰向けに倒れこんだ。小町がいったい何を告げようとしているのかが怖くてページを開くのを拒んでいた。答えは目の前にある。それを知りさえすればあとは日本の自分のアパートに帰ってゆっくりと骨休めが出来るはずなのに、疲れ果てた山瀬の心がそれを許さなかった。外は猫の鳴き声さえも聞こえない程静まり返っていた。いつもなら心地よく感じる窓から吹き込む清々しいはずの風が今の山瀬には不気味に感じられた。 第八章 ー 思惑 ー へ https://ofuse.me/e/16608
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