小町の答えが目の前にあるにも拘わらず山瀬はいつまでもそれを紐解こうとはしなかった。心の奥底に蠢いている形を持たない圧迫感が思考を妨げているような気がした。その圧迫感の正体が何なのかがいつまでも掴めそうで掴めない苛立ちも山瀬の頭を朦朧とさせていた。山瀬なりに嫌な臭いを嗅ぎつけていたのだった。しかし幾田優子に依頼されている以上、前に進まないわけには行かない。今ここで「幾田小町」のページを開きさえすれば全ては終わるのだと何度も自分に言い聞かせた。ベッドの上で上体を持ち上げるとまるで顔を洗うように顔を両手で上下に擦った。 「いったい俺は何をしてるんだ…。せっかくここまで辿り着いたっていうのに」 そう呟くとパソコンの前に座り直した。パソコンの画面にはまだパスワードの入力画面が表示されていた。山瀬はパスワードを入力し力強くキーを叩いた。そして数秒後、ついに『幾田小町』のページが表示された。書かれた文章を読み始めるのとほぼ同時に小町のものであろう声がパソコンの小さいスピーカーから流れてきた。初めて聞く小町の声だった。音声と文章は同じ内容だった。山瀬は一瞬その声に息を呑んだ。既に死んでいる人間が自分に語りかけているのだと思うと背筋に冷たい何かが走っていくのを感じた。 ――― 幾田小町 ――― まずこのウェブページを開いてくれた貴方と、私の大切な可愛い5匹の猫達にお礼を言わなければなりません。それぞれの猫たちのページは読んでくれた貴方の興味を引くように作ったつもりです。途中で貴方に諦めて欲しくなかったからです。結局貴方は5つのメモリーカードを探し出し私の願いを叶えてくれました。そうでなければこのページを開くことはできなかったはずです。本当にありがとう。これでやっと私の復習の幕が開きました。まずは貴方にことの始まりからお話ししなければならないと思います。 あれは私が21の時でした。私は短大を卒業してすぐ親元を離れとある印刷会社に就職をしました。そしてそこで働く今中辰雄という男と恋に落ちその子供を生みました。それが今中一樹です。私の母である幾田優子はそのことを知りません。あれは私達が全て勝手にしたことでした。 今中の母親は最初私と辰雄の仲を身分が違い過ぎると言って認めようとはしませんでした。しかし私が辰雄の子供を身ごもったことを知ると手の平を返したようにすぐ結婚を認めてくれました。目的は私達の息子一樹です。私達がもし結婚をしなかったとしたら一樹の戸籍上の問題が発生すると彼女は考えたのでしょう。私から息子を奪い取るのはその後でもよかったのです。全ては私から一樹を奪い取るための今中の母親の策略でした。私が一樹を生むとすぐ私達夫婦の仲を裂くためのその汚い策略が始まりました。最終的には今中自体も母親の味方につくようになってしまいました。結局私は一樹を奪い取られた形で今中と離婚せざるを得ませんでした。一樹は恐らく私の顔でさえ知らなかったでしょう。私自身も一樹のことは忘れようと努力しました。しかし私の心の中にある今中とその母親に対する怒りは消えることはありませんでした。 そして長い月日が流れ私はフィリピンで知り合った岡本達也という男とスキューバダイビングの会社を設立するためにお金を出資しました。これは私がフィリピンでビザを得るための投資で岡村と特別な関係があった訳ではありません。しかし全く架空の会社ではなく私と岡村のフィリピンでの滞在費を補うという目的で実際に運営もしていくというのが当初の計画でした。その計画通り会社が順調に利益を生み始めたのが会社が始まって1年くらいのことです。私と岡村だけでは手が足りず人手を雇うことになりました。それで雇われたのが驚いたことに一樹だったのです。世の中というものはやはり奇遇なことが多いのかもしれません。今中辰雄と岡村達也が従兄弟同士だと分かったのもこの時でした。 私は一樹に自分が母親だということを伝えることができませんでした。一樹に嫌われるということがとても怖かったのです。そのことを岡村に打ち明けると、もともと優しい性格の彼はひとつ返事で今中と一樹に私のことを内緒にしてくれることを約束してくれました。そうは言っても私にとってみれば秘密を抱えながら一樹と毎日顔を合わせるのは辛いことでした。結局私は会社の仕事から手を引くことにしました。そのことを岡村に告げると、彼は従兄弟である今中辰雄が私にしたことの罪滅ぼしのためなのか、利益は今まで通り私に分配してくれるとまで言ってくれました。そうして私はカミギン島へと身を移したのです。 それから半年程経った頃私は岡村から送られてくる会社の帳簿におかしなところがあることに気が付きました。私がそのことを確かめに会社を訪れた時のことです。私は一樹の恐ろしい計画を聞いてしまったのです。一樹は叔父である岡村を殺す計画を練っていたのです。恐らく私が母親だということにも気付いていたのかもしれません。当然帳簿の狂いは一樹が会社のお金を横領していたからでしょう。私は怖くなって直ぐにその場を去りました。 私は考えました。叔父である岡村を殺すということは単に横領がばれてしまったことが理由ではなく、会社を乗っ取る計画なのだろうという結論に私は行き着いたのです。ということは会社の登記簿に記載されている私のことも殺すはずです。私は息子に殺されるくらいなら自分で死のうと思いました。今明らかにしましょう。私の死は他殺ではなく自殺です。私はただ母親を殺してしまうという罪を息子に犯させたくなかった。ただそれだけです。でも私には何も出来ない。それでも私は準備を始めました。まず母を受取人として保険をかけました。警察が私の死を自殺だと判断しても今現在この文章を書いている時点でもう既に1年を経過しているので、母幾田優子は保険金を受け取ることができるはずです。母には迷惑をかけました。これは私の母へのせめてもの償いです。母は恐らく私が自殺したということを信じないと思います。このページを開いた貴方だけが母に真実を伝えることができる唯一の人物です。どうか母に上手に説明してあげてください。 ところで私が準備したのはこれだけではありません。猫達に首輪を付けたのは私が岡村の事故死を聞いた直後です。事故死と警察が発表しただけで恐らくは一樹が岡村を殺したのでしょう。私は遺書を残しませんでした。当然皆不審に思うことでしょう。私は自分の死に他殺の匂いをつけておいたのです。猫の首輪の秘密を知ったものだけがこのページを開くことが出来る仕組みにしました。私は今中にだけは私の死を他殺だったと思わせたかったのです。そのためには遺書を残すことはできません。私は今中が私が書いたものだと分かるもうひとつのメールを作っておきました。貴方がこのページを開いたのと同時にそのメールが今中の元に届くような仕組みにしてあります。私が生きている間には届けられる文章ではありません。私が生きていては今中に信用してもらえない内容なのです。このウェブページを開いた貴方によって初めて送られたメールです。許してください。 私は今中の性格をよく心得ています。自分の息子が実の従兄弟と別れた妻を殺したと知れば今中は一樹を殺してしまうでしょう。いや確実に殺すと言い切ってもいいでしょう。一樹は叔父を殺した罪滅ぼしをしなければなりません。実の父親に殺されるのは仕方ないことでしょう。そしてかつて今中とその母親が私から一樹を奪ったように今中は自分の手で自分自身から一樹を奪うのです。それが今中の私に対する罪滅ぼしです。 恐らくこれを読んでいる貴方は今フィリピンにいるはずです。そして私の作ったメールは日本にいる今中のもとに届いているはずです。貴方には今中を止めることはできないはずです。そしてもうひとつ貴方に話しておかなければならないことがあります。それは貴方が自ら紐解いてください。私達親子はあの写真のあの日のように一緒に仲良く暮らせるはずです。本当にありがとう。どうか母に宜しくお伝えください。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 追憶 山瀬は愕然とした。背筋を貫く戦慄を感じた。マウスの上に置かれた右手が震えていた。パソコンの時計を見ると丁度深夜の12時を指していた。パソコンの時計は日本時間に設定してあるのでフィリピンでは夜の11時ということになる。動きが取れない。この時間帯では何も出来ない。山瀬の心臓は今まで経験したことの無いような速さで鼓動していた。このままでは小町の思い通りにことが進んでしまうかもしれない。何とかしなければと考えれば考える程頭が混乱していた。一番下の行に『追憶』と書かれた文字があるのが気になった。山瀬は他のページにリンクしているその文字をクリックしてみた。またパスワードの入力画面が表示された。もう入力すべきパスワードは何もなかった。山瀬はテーブルに肘をつき両手で頭を抱えていた。もう止められないかもしれないと山瀬は思った。ふと思い付き、インターネットのタウンページで今中の電話番号を検索してはみたが結局それを見つけ出すことはできなかった。 「待てよ…。そういえばローラ・イタンで一緒に飲んだ今中っていう男も確か従兄弟の後始末でフィリピンに来たって言ってたな。もしかするとあの男が今中辰雄なのかもしれない」 山瀬は何かに取り憑かれたかのように急に椅子から立ち上がるとホテルローラ・イタンのパンフレットを鞄から取り出し部屋の鍵もかけずに階下の受付へと階段を駆け下りていった。 まだカウンターの中で仕事をしていたオーナーが階段を駆け下りる山瀬の足音を聞いて何事が起きたのかと言わんばかりの顔をして山瀬を迎えた。 「電話いいですか」 山瀬の形相にオーナーは何も言葉にすることが出来なかった。オーナーはただ頷いただけだった。山瀬はそのオーナーの仕草を確認する前に既に電話の受話器を取っていた。山瀬の耳には電話の呼び出し音があまりにも遅く感じられた。自然と山瀬の握った拳がカウンターを速いリズムで叩いていた。とにかく遅い。 「いったい何してるんだ」 山瀬は思わず呟いた。その時受付だと思われる男の眠そうな声が受話器から聞こえてきた。 「はい、ローラ・イタンです」 「すいません。日本人の今中さんをお願いします」 「少々お待ちください」 受付の男は部屋の番号を確認しているのか、短い空白ができた。その間やはり握られた山瀬の右の拳がカウンターをコツコツと速いリズムで叩いていた。 「お待たせしました。イマナカ様でしたら一昨日チェックアウトされましたが…。領収証の控えに空港送迎とありますので恐らく帰国されたのではないかと思われますが」 山瀬はまた愕然とした。しかしこの今中が小町の夫だった今中辰雄とは限らない。気を取り直して質問を続けた。 「今中さんのファーストネームなんですが…。タツオで間違いありませんか」 「少々お待ちください」 受付の男がホテルの記録を見直し終わり受話器を持ち上げるカタカタという音が聞こえた。山瀬は男が質問を否定してくれることを期待していた。 「タツオ・イマナカと記入されております」 山瀬は礼も言わずに受話器を下ろしていた。 「あの人が今中辰雄だったんだ…」 山瀬はもう誰もいない明かりの消えた薄暗いレストランのテーブルに崩れるように腰掛けた。それを見ていたオーナーは山瀬の尋常でない様子にどうしていいか分からず、カウンターの中でただ立ち尽くしているだけだった。 同じ頃、フィリピンでの用事を終え帰国した今中辰雄は疲れを癒すために残った有給休暇を自宅で過ごしていた。毎日の日課である友人からのメールの確認をしようとデスクトップ型パソコンを前に腰を据えていた。夜の12時を回っていたこともあって傍らに厚手の益子焼きのコーヒーカップに入れた濃い目のコーヒーを用意していた。最初の一口をほんの少しだけ啜りメールボックスを開いた。3件の新しいメールが届いていた。件名を読むとどうやら友人から送られてきたメールは1通だけである。残りの2つは何かの広告のようだ。まずその2つの広告を読みもせずにゴミ箱へ移してしまった。迷惑メールではないことを今中は知っているのだがあまりにも興味を持てない広告が多いので読むことでさえ面倒になってしまっているのだった。続いて友人からのメールを開くと画面に食い入るように読み始めた。たまに笑顔が今中の顔に浮かんだりした。全て読み終わってしまうとそれを「友人」と名前を付けたフォルダーに移動した。友人からのメールは大切にとっておくようにしている。そして返信メールを書き始めた。今中はゆっくりとキーを打った。まるで自分の書いていることを噛み締めているかのようだった。送信し終わりパソコンの画面を見直すとさっきまではなかったはずのもう1件のメールが届いていた。件名が広告のメールのそれとはかけ離れていたので今中はそれがすぐ広告メールではないことを判断できた。ただ友人からのものでもない。今中は早速そのメールを開いて読み始めた。今中のさっきまでの顔が徐々に恐ろしい形相へと変化していった。両の目は血走り額の血管が浮き出している。肩が小刻みに震えている。今中は涙でさえ流し始め、頬を伝わるその涙を拭おうとさえもしなかった。両の手は硬く閉ざされテーブルの上に載せられていた。急にその両手の拳でコーヒーカップが床に落ちてしまう程テーブルを強打したかと思うと跳ね飛ばされたように立ち上がりそのまま階下へと下りていった。今中は自宅の外に建ててある物置小屋に入っていった。ほんの少しの時間を置いてそこから出てきた今中の手にはぐるぐる巻きになった白く細いロープがしっかりと握られていた。東北の秋の冷たい夜風が今中の顔を更に硬くさせているようだった。今中は暗い夜道をひとり、しかし力強く歩いていた。 アパートの外はひっそりと静まり返っていた。今中は一樹の部屋のドアを静かに叩いた。何の反応もない。今度はさっきより強めに叩いてみた。ほんの少しの間があって中で人が動くような気配がした。その気配が玄関のドアに近づいてくるのが今中には手に取るように分かった。誰なのか確認する言葉も無くドアが開くと、そこに眠そうな目をした一樹の顔があった。 「なんだ親父か…。どうしたんだよこんな時間に」 「ちょっと入っていいか」 今中はあくまでも冷静を保っていた。部屋の中に入ると前を歩く一樹の後姿が今中の目の前にある。玄関のドアが閉まるガチャッという音と同時にジャンバーのポケットの中に入れてあった白いロープを取り出すと手際よく一樹の首に巻きつけた。一樹の身体がピクリとも動かなくなるとロープをそのままにしてその隣に座った。ズボンのポケットから取り出した財布が今中の手の平に広げられていた。今中は財布の中の古い写真に見入っていた。今中は夜が開けるまでその場を動こうとはしなかった。 翌朝今中一樹の住むアパート若葉荘の前には人だかりができていた。まだ完全に夜が明けぬうちに自首してきた今中をつれて警察が現場検証をしているのだった。部屋の台所の床には首に白いロープを巻きつけられたままの今中一樹の遺体が横たわっていた。手錠を掛けられた今中辰雄の顔には悲しみの欠片も無かった。実の従兄弟岡村達也と別れた妻幾田小町を実の息子一樹が殺してしまったと知った今中は激怒のあまり一樹を絞め殺してしまったのだった。ただ今中はこのことを警察には一言も口にしてはいなかった。息子一樹がしたことを隠したかったからだった。岡村は事故死、小町は自殺と報道されたことが今中の頭の中にはあった。そのままにしておけば死んだ一樹の恥が世間に知られることはないだろうと考えていた。警察が現場検証を行っている間アパートの外で野次馬がひそひそと話をしていた。遺体を検死解剖のため病院に運ぶための車が到着すると警察が道を開けるように野次馬達に促した。警察も野次馬も何一つ事実を知らなかった。彼らが知っているのは親子喧嘩の終いに父親が息子を殺してしまったということだけだった。厚いビニールシートで覆われた一樹の遺体が担架に載せられまさに運び出されようとしていた。今中はその光景を見ながら自分のしたことに満足さえしているような表情を浮かべていた。 「これでよかったんだ。何もかもこれでよかったんだ」 今中は心の中で呟いていた。今中は事実満足していたのだった。しかし実の息子を殺した今中がこれが小町の悲しい計画だということを知る由も無かった。そして今中にメールを送る手助けをしてしまった山瀬でさえも小町の意図することを読み取れてはいなかった。 結局その夜山瀬は一睡も出来ずに夜明けを迎えた。考えに考え抜いたが今中と連絡を取る方法は見つからなかった。一晩考えた挙句出てきた結論は、結局日本へ帰国するということだけだった。とにかく今中に再び会って小町の考えたこの企みを伝えなければならないという気持ちが膨らんでいた。今中と連絡を取るためには日本に帰国するしかない。山瀬はベッドの端に座りながらぼんやりと窓の外を眺めていた。オレンジ色の空が徐々に水色に変化していった。もうそろそろ町が動き出す時間帯だ。 サミス・インに着いた時そのままの状態の旅行鞄を持って階下に下りた。優しく清々しい笑顔のアイリーンがカウンターの中で迎えてくれた。しかしその表情は山瀬の旅行鞄を見るとどこかへ消え去ってしまった。 「またチェックアウト」 アイリーンの声は低く沈んでいた。山瀬は小さく頷いて見せた。 「急な用事が出来ちゃって…」 もうそれ以上話す気力が山瀬には残っていなかった。サミス・インをチェックアウトするための必要な手続きを済ませると寂しそうな顔をした気の利くウェイトレスにさよならの挨拶も言わずに港へ向かった。 まだ朝だというのに少し歩いただけで山瀬の身体は汗ばんだ。歩きながら山瀬はこの後のことを考えていた。まずはセブへ行かなくてはならない。セブで日本へのチケットを手に入れて一刻も早く帰らなくてはならない。日本へ帰ったら今中辰雄の居所をつきとめて話をしなければならない。やらなければならないことが山積みになっていた。 青い海の上に浮かぶ港の岸壁に小さな音を立てながら波がぶつかり砕けていった。山瀬はスピードの速いジェット型のエンジンを積んだ船のチケットを買った。あいにくその船はまだ到着していなかったのでターミナルで待つことになった。ターミナルには30人程のそれぞれ違った行き先の船を待つ乗客が各々の暇つぶしを楽しんでいた。山瀬はそれらの乗客になるべく話しかけられないように彼らから離れた席を見つけそこに腰を下ろした。壁を見るとフィリピンの地図やこの島の地図が張ってあった。その横にWiFiエリアと書かれている張り紙もあった。山瀬はこれから日本への帰路での天気が心配になっていた。台風で飛行機が欠航になっては困る。旅行鞄からノートパソコンを取り出すとインターネットで天気予報を調べてみた。どうやら台風が接近してきているようだった。山瀬は顔をしかめていた。せっかく引っ張り出したパソコンをすぐしまってしまうのが惜しくてそのまま日本のニュースの見出しを読み始めた。その中で気になる見出しがひとつだけ山瀬の目に留まった。 ・親子喧嘩の末父が息子を絞殺 一瞬息が止まる思いだった。 「そんなことあり得るはずない」 山瀬はこんなに早くことが進むわけが無いと自分に言い聞かせていた。恐る恐るその見出しをクリックし画面にその記事が表示されるまで山瀬はまた拳で自分の膝の辺りを速いリズムで叩いていた。 ・親子喧嘩の末父親が息子を絞殺 10月 XX日未明、秋田県XX市XX町若葉荘203号室 に住む今中一樹さん(29歳)が実の父親である今中辰雄 (56歳)住所秋田県XX市XX町27ー3、職業会社員、 に親子喧嘩の末絞殺れた。今中容疑者は今日の午前6時頃警 察に自首してきたところを地元警察によって逮捕された。警 察の発表によると今中容疑者は今日の午前1時頃長男である 一樹さんの住むアパートに訪れると仕事のことで口論ににな り部屋にあったロープで一樹さんを絞殺したとのことである。 尚、一樹さんの遺体は司法解剖のためXX市立XX病院に運 ばれた。 表示された記事を読んだ山瀬は思わず叫んでしまった。 「嘘だ。こんなことあるわけが無い。馬鹿げてる」 ターミナルにいた全ての人が山瀬の方を振り向いた。小さな子供でさえ話すのを止め山瀬を見ていた。山瀬は全てを否定したい気持ちだった。自分がしてしまったことの愚かさに怒りさえ感じていた。しばらくの間放心状態で座り続けていた。二人の小さな子供がそばにやってきて山瀬の顔を下から覗き込んでいた。目を丸くして無邪気に山瀬の様子を窺っていた。山瀬が子供達に気付いて目をそちらに向けると子供達は怖がって親のところへ戻っていってしまった。目は子供達に向けたものの山瀬の心は何もしてあげることが出来なかった今中親子に向けられていた。 「俺はこれからどうすりゃいいんだ…。このまま全て放り投げてしまえばいいのか。いや、そんなことはできない」 山瀬は自問自答していた。自分が小町の計画の手助けをして一人の人間が既に命を奪われてしまったということに対する責任感と、知らせを待つ幾田優子への使命感が山瀬の心の中で渦巻いていた。 「どちらにしても幾田優子と今中辰雄に真実を知らせなければならない」 慌てなければならない理由は既に無くなっていた。小町の思惑通りにことが運ばれているのだ。一樹を殺してしまった今中辰雄を探す手間は省けてしまった。残っているのは真実を伝えるということだけだ。恐らく今中は一樹が小町を殺したと思っているに違いない。山瀬は深い溜息をついた。大きなガラス張りの窓から見える海の青さが目に染みた。締め切りのターミナルの中までは入ってこれない風の強さを停泊している船の揺れを通して知ることができた。台風が近付いてきていた。 警察の留置所に拘束された今中は我が子の犯した罪を覆い隠せたことに満足していた。留置所の端の方でじっと目を据えて何かを見つめているその顔は実の息子を殺した父親の顔には見えない程満足感で満たされていた。留置所のドアが開いても今中は動こうともしなかった。 「こちらへ来なさい」 今中は担当の刑事に事情聴取のため刑事課のある警察署の2階の片隅にある小さな取調室へと連れて行かれた。狭く小さな部屋の割にはそれに似合わない大きな机がその部屋の奥の方に置いてある。その大きな机の向こう側に人がひとり入れるくらいのスペースが作られ椅子が置かれている。そのスペースに入り込むためには机と壁の間を蟹のように身体を横にして入っていくしかない。机はわざと大きいものを部屋に入れてあるのだった。事情聴取の間もしも容疑者が逆上しても簡単には動きを取れないようにしてあるのだ。もちろんそのスペースの反対側、取調室のドアに近い方には刑事用の椅子が置かれている。聴取する刑事に容疑者の手が届かないように机の奥行きでさえも計算して作 ってあるのだった。今中は蟹のような横歩きで壁と机に挟まれたその狭い通路をすり抜けその小さなスペースに置かれた椅子に腰を下ろした。今中はこの雰囲気を味わうのは初めてではなかった。若い頃乱暴者として町中に知れ渡っていた今中は何度かこの事情聴取というものを受けたことがあった。しかし歳を取るにつれ性格も落ち着き、今ではごく普通の中年の男になっていた。まさかこの歳でまた再びこの雰囲気を味わうとは思ってもいなかった。今中よりも若い担当の刑事は聴取したことを書き留めるための紙をテーブルの上に置いた。 「もう一度最初から聞かせてもらえますか」 今中にはその言葉が冷たくはなかったがしかし優しさなどこれっぽっちも無い言葉に聞こえた。 「分かりました。昨夜12時頃急に用事を思い出して息子の一樹のアパートへ出かけていったんです。一樹はもう寝てましたが大事な用事だったのでしつこくドアをノックして起こしました。部屋に入って話しているうちに話しが息子の仕事の話になってしまって…。あいつ怠け者だから私が何度も叱っていたんです。叱っているうちに口論になってしまって結局私が一樹の首を絞めてしまったんです」 今中は実際に起きたことに嘘を交えて話した。引き続き刑事が質問した。 「その急な用事っていうのはどういう用事だったんでしょう」 今中は答えを用意していなかったのかほんの僅かの間考えるような素振りを見せた。少しの間があったがそれでも直ぐに答えた。 「わたしが海外に行って留守の間友人が訪ねてこなかったかどうかを聞きたくて…」 刑事はその一瞬の間を見逃さない。 「そうですか…。今中さん、アパートの他の住民は言い争っているような声は聞こえなかったって言っているんですが…」 「刑事さん…。夜だったんですよ。言い争ったって言ったって私だ って他の人に迷惑掛けちゃいけないと思って小声で話しましたよ。一樹にだって大きい声出すなって言いましたよ」 刑事は首を傾げた。 「今中さん…。いったい何を隠しているんですか。貴方は嘘をついてる」 今中は冷静だった。刑事の言葉に驚きもしなかった。父が実の息子を殺したのだ。今中は自分が加害者であり被害者でもあるのだということを自分に言い聞かせていた。自分さえ嘘を突き通せば反論してくる人間は誰一人いないということを今中は知っていた。今中は息子の犯した罪を世間に知られたくないという一身で嘘を突き通そうと決心していた。 「兎に角さっき私が話したことが事実です。他に何もありません」今中は刑事の言葉を跳ね除けるように強く言った。 「そうですか…。まあ今日はこの辺でやめときましょう。気が変わったら私を呼んでください」 ひっそりと静まり返った留置所の窓ガラスに降り落ちた冷たい秋の雨の雫がひとつにまとまっては下に流れ落ち透明なガラスに跡を残していった。まるで涙を流しているかのようであった。今中はその流れ落ちる雫を冷たい鉄格子を挟んで眺めていた。 「これでいいんだ…」 今中は自分に言い聞かせるようにそう呟いていた。秋のどんよりと曇った空が街の全てを包み込むように今中は一樹の犯した罪を包み隠していた。 第九章 ー 確信 ー へ https://ofuse.me/e/16609
コメントするにはログインが必要です