「ただいまー……ってうおっ……」
弟だ。
リビングのソファに突っ伏して気絶してしまっていたらしいことと、エプロンを着けたままだったことに気がつく。らしくない、よなあ……。
いや、もしかしたら本来の俺はもっとこういう、ダメな人間なのかもしれない。気が弱くて、だらしなくて、物覚えも悪いし、いつまでも昔のことを引き摺っていて……。
少なくとも、もう怒ったって仕方がないこと──完全に終わってしまった話、にこんなにも心身を影響されてしまうような脆い、情けない人間であるということは、今の惨状を見せれば誰でも分かってくれるだろう。
腕に力を込めて起きあがろうとしても、異常に重たい自分の身体にうんざりする。こんなに大きくなるんじゃなかった。
えっと。何をしてたんだっけ。
「……あれっ、もしかしてみんないないの、今?」
声の大きさには定評がある弟——ケルの声がキッチンへ向かって移動している。
帰ってすぐ手を洗ってくれるようになったのは何歳の頃だったかな。何度注意しても屁理屈を捻り出して言い返してくるところには、本当に苦労したなあ……。
イライラすることだって数え切れないほどあった。
俺がどう窘めるか悩んでいる間に、あいつはどんどん新しい言い訳を思い付いては投げつけてきた。その頭の回転の速さを恨めしいと思ったことも、一度や二度じゃない。
他の家族は──父さんはまだ仕事中で、母さんは妹のサリーが発熱したので病院に連れて行っている。いまだに自室で伸びている時間が長い俺にそれだけ伝えてくれて、出かけていった。
確か午後になってすぐくらいだった……はずだ。乳幼児には付き物のハプニングだし、大ごとにはならないだろう。多分。
とりあえず伝えないと。いまだに冬眠から覚めることができていないような、硬く縮こまった肺に息を吸い込んだその時だった。
「うわーーーっ‼」
「どうした‼」
近所迷惑レベルの悲鳴が響き渡り、俺のセリフの内容も変わってしまった。
一瞬で怠さが吹き飛び、勝手に足が走る。簾に激突しながらキッチンを覗くと、水道が流しっぱなしで、ケルが後ろを振り返った姿勢で立ち尽くしていた。咄嗟に叫ぶ。
「水、水!」
「えっ、あっ、やべ‼」
舞台の上にでもいるのかと思うほどに大袈裟な動きで水を止めると反省もそこそこに、ケルは大真面目な顔に切り替わる。
「いや、そんなことよりさ、これ」
「ふぇ?」
こいつが生まれてからこっち、相手をしていると息をつく暇がない。それは多分、俺が少し鈍いせいもあるんだけど。追いつくので精一杯だ。
ケルの指差す先はキッチンカウンターだった。状況を確認して、
「あああ〜っ……ごめん」
そう言って頭を抱えることになってしまった。
大量のクッキーがある。
材料があるだけ作り続けた、そういう感じの……。
「……発作だな……」
遠い目をしたケルに肩を叩かれた。またやってしまった。
「いやまあ、俺としてはなーんにもダメージないし? むしろお前のクッキー売ってるやつより美味いからさ、全然いいんだけど」
「……俺は、お前が弟で本当に良かったって思ってるよ」
卵と薄力粉は買ってこないとマズい気がする。よく見たらシンクの中も大変だ。どこで力尽きたのかが全く思い出せない。
嫌な予感がしてオーブンを開けると、焼かれっぱなしのクッキーがさらに現れた。勘弁してほしいと思うのだけど、全部俺の仕業であることは明白な訳で……。はあ。
前に鬱になった時も——というか、俺は落ち込んだ時にひたすら料理をする癖がある。特に製菓は、分量と手順を間違わなければ再現性が高いのが好きだ。これは公式さえ覚えればいい数学に近いって思ってる。
何も考えたくない時に手を動かすのにちょうど良い……とはいえ、俺の場合は作ること自体が目的になってしまいがちで、誰かが止めてくれないと少々……だいぶ、やりすぎてしまう。
ウチの教育方針は褒めて伸ばすだったから、俺が家事を手伝うといちいちお祭り騒ぎになるわ、好物のヒーローサンドを買ってもらえるわで上手く乗せられてしまった結果がこれだ。そのうち料理が手伝いを越えて趣味になり始めると、内緒で少しレシピを変えたりして、誰かが気が付いてくれるかどうかで翌日の運勢を占っていたりした。
俺の習作に関してはケルが処理係として大活躍してくれたものの、昔は隣にお裾分けに行ったりなんかもしていたな。ご両親が家に居ない時間が長いからほとんどトーストとかインスタント麺で済ませてるって言って、手料理はすごく喜ばれたんだ。
最初のうちは俺だって子供だったから、包丁を持てるのは大人が側にいる時だけだったし、作れたのも全然凝ったメニューなんかじゃなかった。
それでも、マリが何度もありがとうと繰り返して、本当に美味しそうに頬張ってくれる姿を見ていたら、簡単なレシピであっても下手なものはもう作れないぞって……。
ああ、そうだ、マリ——
「うーん、まだ本調子じゃねえな、兄貴。切らした材料分かる? 俺買ってくるよ」
ケルに心配されてしまうと、自分の存在がとても虚しいものに思えてしまう。
俺がしっかりして、こいつには自分自身の夢を叶えさせてやらなきゃ……とは思っているんだけどな。
「でもお前、今帰ってきたばっかりじゃないか」
「まあ大して違わねーだろ、散歩の一回や二回くらい」
じゃあ頼むと言おうとして、足取りを目で追うと——一通りふざけて玄関へ向かうケルの歩き方に、違和感があった。
僅かだが、片足を引き摺っている……。
——そろそろ、確かめるべきなのかな。
「まあ、待てって! 久しぶりに兄ちゃんに頑張らせてくれよ」
まずはケルを捕まえ、ソファに誘導して座らせる。
「え、何? 喋り方どうした?」
「はい、行ってらっしゃいのチューは?」
「だから急にどうしたんだよ! キモいって‼」
笑いながら仰け反る上体をそのまま押し倒し、くすぐるフリをしてうつ伏せに。あ、こいつ、また重たくなったなあ。
「ほーら! 言うこと聞かない子はこうだぞ!」
「やめて兄貴、なんかめちゃくちゃ怖いんだけど!」
足を引っ張って伸ばし、ジャイアントスイングみたいな姿勢から膝を曲げさせて……。
ケルのケツが、上がった。
……やっぱりな。
「ケル。膝、痛いだろ」
「……へ?」
「いつからだ? 答えによっちゃ、お前のコーチと相談しなきゃだ」
尻上がり反応だ。
うつ伏せになって膝を曲げた時、前腿にかかる負担を減らそうとして臀部が持ち上がる……オーバーユーズが原因の痛みに典型的な反応である。
バスケに対する思いが本物らしいということは両親から聞かされていた。少し休めと言おうか迷うくらいには頑張っている、って。
それに、離れているうちに大人びてきているとはいえ、いつも俺の前では子犬みたいだったケルの挙動がいやに大人しくなった気がしていて、なんとなくどこか悪いんじゃないかとは思っていた。
まだ十六なのに、この後の人生のことまでせっかちに棒に振ることはないだろう。
ブレーキを忘れた加速の先にあるのは、破滅だ。
ソフトボールを諦める、と告げてきたマリの表情と声色こそ、忘れてしまえたらいいのに。
「……」
ケルは俺と目を合わせないように下を見ている。こいつが身内にしか見せない〝本当にヤバいと思ってる時〟の顔だ。
「お前が黙るってことは図星だな。とりあえず俺がスーパー行ってくるからさ、後でまた話そう」
「……うい」
動物病院に連れて行かれる犬そっくりに気力が抜けたケルをそのまま転がして、自分の財布を持って家の外へ出る……あ、エプロンのこと忘れてた。何度か付けっぱなしで飛び出して笑われたっけな……。
*
帰ってみると、かなりの量のクッキーが駆除されていた。
「おお、ヒロ! また腕上げたなあ!」
父さんは豪快に笑いながら、髭に絡んだ破片を払った。
「……そろそろ糖尿病になるぞって言ってんのに……たく……」
「ケルだってたくさん食べてただろう? ま、世界中探したってヒロの味に逆らえる胃袋なんて無いだろうけどな!」
「それはそうでしょうけど、あなた、夕飯が入るくらいでやめておいてね。子供達に呆れられちゃうでしょ」
そう大声でぼやきながらキッチンから出てきた母さんは俺を責めたりはせず、真っ直ぐ目の前まで歩いてくる。そして思春期の頃に軽く喧嘩した時を思い出させるような、なんていうか……悟ったような顔付きをして、優しい声で、
「お帰りなさい」
とだけ言った。「弁償」した食材を差し出しても、何も言わなくていい、というジェスチャーで誤魔化される。そのあとは、いつも通りに時間が進む。
俺の家族は、誰も俺の失敗を責めない。
理由のひとつは、俺が一人目で、よく言うことを聴く子供だったから。ふたつには、そいつが壊れた時の地獄を知っているから。
夕食の席でも、俺が今日何をしていたのかは聞かれない。サリーの熱は大したことがなかったこととか、父さんの職場の近くでワニが出たとか、そういうことで盛り上がった。
どこからどう見ても、暖かな、なんの問題もない幸せな家族によるディナータイムだった。
ただし、今日は口から先に生まれてきたような男——ケルが静かだった、という異常な点はある。
*
「……あのさ、兄貴」
先に話し出したのは、ケルだった。俺たちで共有の部屋の真ん中、ちょうどお互いの領土の境界線上で顔を突き合わせて、すぐのことだった。
「俺ってさ、バカじゃん。もしもスポーツ推薦とか取れなくなって、学歴も特技も頑張ったこともありませんってなって、それでもやれることって世の中にあると思う?」
ものすごく真剣な顔だった。冗談などは求めていない、ふざけているわけでもない。
「あるよ」
なるべくこちらも真摯に、慎重に言葉を選んでの返答だ。
「それにさ、何度も言うけど——お前はバカじゃないし。頭の使い方が人とちょっと違うだけだよ」
「でも、それってみんなが求めてる頭の良さじゃない、ってことだろ。それだとバカと同じじゃないのかって思う」
禅問答のようだ、といつも思う。
この通りケルは賢い。ただ、それを自分の興味とか価値観にしか注げないから、学校での成績には反映されていない。それどころか、先生たちにわけのわからない質問——本人の中では考え抜いて出した筋の通った質問なのだが——をたくさんして、評定を下げてしまったこともある。先生たちだって暇じゃないから仕方ないんだろうけど……。
俺が社会復帰してからは、〝ケル語〟は落ち着いてきていると思う。こいつなりにコミュニケーションの努力はしているのだ。それでもまだ、自分の思考の速さに語彙が追いついていないのだろうな。
「ええと。じゃあ、仮に……仮にだからな。お前が本当にバカだったとして、小学生の頃と比べたらさ、今は随分成長したなと思うんだけど」
「……どーだか?」
拗ね方はちっとも変わってないんだよな。
「俺はそう思うってことだよ。お前自身が考えてるよりは、全然進歩してるんじゃないかな。必要に応じて自分を変えていけるって本当にすごいことだぞ」
「……じゃあさ、俺が、もし、」
そこで詰まったケルは、大きなバケツの中から特定の形のレゴブロックを探している最中のように顔を顰め、頭を掻きむしった。
昔の俺なら、さっさと代わりに言語化しておせっかいを焼いていただろう。
「ここまで親にも兄貴にも応援してもらってたのに、バスケできなくなって……、それで……」
「選手じゃなくたって、競技に関わる方法はあるよ」
「そうじゃなくて。俺、バスケやる以外の自分が想像できない。だから今考えようとしてるんだけど、できないんだ。兄貴はコックじゃない自分のことって想像できた?」
やっと言えた、みたいな感じだった。
ケルは何かにビビっている時、目をまん丸にして相手を見続ける癖がある。今、この瞬間も俺の目に映った自分に向かって同じことをしている。
料理人になる夢。
諦めたのは、未来のイメージの中で最も重要だったピースが欠けた、その瞬間だった。
一箇所に空いた穴がみるみる拡がって、全部が崩れ落ちてバラバラに砕け散った。あの穴はどうやっても塞げないのだと思うと、組み直す気にもなれなくなってしまった。
自分が積み上げてきたものの残骸の下には、「この子なら医者に」と、大昔に掘り込まれたメッセージが埋まっていた。這いつくばることしかできなかった俺は、唯一目に入ってきたものに縋っただけに過ぎない。
トロフィーや賞状が部屋に増えたところで、それ自体に価値は感じていなかった。
やってみたら、と言われて参加して、求められたことの解を示せばもらえるもの、くらいの認識でいた。そこには、積めるものがない。ほとんどのことは料理とは違っていた。
だから似たものがいつか見つかればと思っていたけれど、結局のところ、俺を乗せたトロッコは順調に医学の道へ向かって進み続けている。例えその先にあるのが世界が驚くような財宝だろうが二度と出てこれない奈落だろうが関係なく、レールの上を定速で進んでいるだけだった。大義を抱いて医者を志してきたのに、俺のせいで席を失う誰かが居るのであれば土下座して謝りたいくらいだ。
でも、お前よりも人生を三年だけ長く生きていて良かったと思うこともあるんだ。ひとつ目が潰えたところで、人間がもう夢を見なくなるなんてことはないって知っているからな。
「俺さ、スポーツドクター目指そうと思ってるんだ」
切羽詰まっていたケルの顔が、想定外の言葉を聞いた時に見せる間の抜けたものに変わる。
「……へっ?」
「できればアスレチックトレーナーの経験もしたいな。ただ病院の中でふんぞり返って手術して高い給料貰うだけの方が求められてるのかもしれないけど、それじゃ俺の中では負けなんだ。俺の運命ってやつに対してさ」
スポーツ医学において重要なのは治療だけじゃない。負傷の予防、それから患者とのコミュニケーション。
俺が過去に置き忘れてきた事柄への償いがこれからできるとしたら、もうあんな思いを誰にもさせない、ということになると思っている。
さて、改めて目の前の男に問うことにしよう。
「ケル、お前、バスケットボールで食っていきたいんだな?」
「うーん……そういうことになる……よな。うん。俺、一生バスケやりたい」
なんでもすぐ飽きたと言う弟のことを、俺はずっと仕方のないやつだと舐めていたのかもしれない。見当違いも甚だしいよな。
「それなら俺も決めたよ。まずはお前をプロリーグの選手にしてさ……できれば、代表まで選ばれたら……帯同ドクターとして、そこで待ってるからさ」
俺のこと、格好つけだって思ってるだろ? その通りだよ、ケル。
お前が生まれてきてくれてからずっと、お手本でいるための努力ならなんでもしてきた。頼ってきてくれるのが嬉しくて、いい兄貴でいることが俺の目標だったんだ。
「……いや、その……それでいいのかよ、兄貴は」
「なんだそりゃ。そこは自信満々に返事するところだろ!」
随分と手応えのない応答に、ついツッコんでしまった。それに反撃しようと何かを言い淀んで膨れたケルのことをいまだに可愛いと思ってしまう——こいつがどこまで大きくなったとしても、俺の立場は多分、ずっとこのままだ。
心配すんな。選ばされたんじゃなくて、自分で決めたんだから。
元から全部思い通りになる人生なんてあり得ないって、やっと実感持てるようになってきたところだ。つまり、ケルの質問に対する俺の回答はこうなる。
「今イメージできる将来の夢。お前が世界一になるところを一番近くで見る。この答えじゃダメか?」
「…………そしたら俺、めちゃくちゃ頑張らなきゃいけなくなるじゃん……」
「今やってることを続けるだけじゃないか。そうだろ?」
「続けられるかな……」
ケルがそう呟いて、伸びをするついでに後ろへひっくり返った。天井を突き抜けて、遥か空の彼方を見ている。
お前が宇宙海賊に憧れてた頃、いつか銀河を制覇してやるって夜中に吠えてたことなんか、きっと忘れちゃってるよな。
「続けさせるよ」
俺が宇宙船の役で肩車をしながら走り回ってたこと、いつか一瞬でも、思い出してくれたらいいな。
「お前が俺の最初の患者だ。診断結果は膝関節と——自尊心のオーバーユーズ。まずは治すのが最優先」
「……やっぱし……」
「せっかくの努力をつまらない言い訳なんかで無駄遣いするなよ。それって、理想に近付くためにするものだと思うからさ」
「……難しくてよく分かんねーや」
ケルが立ち上がった。こっちに背を向けてよろよろと危なっかしい足取りで何歩か進み、ぐちゃぐちゃに散らかっているベッドに倒れ込む。俺も欠伸を堪えきれなくなっていた。
夜がかなり深い。窓から見える空は青く染まっている——もう日の出も近いな。
「兄貴さあ、」
自分のベッドに向かおうとすると、やや抑えた、それでも充分な大声が背中に投げつけられた。
振り返ると、すでに半分ほど意識がないケルが頑張っていた。
「着いてきてよ、病院……それで…………晩……飯は……元気、出るやつ……なんか……作って…………」
相変わらずの入眠の速さ。アスリートとしてはいい素質だよな。
過去に失ったものも、時間も、今更取り戻すことはできない。
今手元にあるものを最大限に使って、一番マシだと思う場所へ向かっていくんだ。みんな同じなんだろうな、多分。
まずは夢を見なきゃ、どこへ行けばいいのかも分からないだろう。きっと未来のことだったら、夢を追う者の前では無限大なんだって言える。
「お前が弟で本当に良かったよ」
明日からは、なんとか少しだけ、前を向けそうだ。
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